エピローグ ヒースの丘、湖畔の夢- A Fisherman's Dream
ああ、やっとつながったね。
頬に感じた暖かさに、ケイは瞼を上げた。
西に傾いた陽射しが眩しい。目を細めながら体を起こすと、橙色の陽の光のもとに、小さな紫の花々が視界いっぱいに咲き誇っていた。
どこだろう、ここは。周囲を見渡しても誰もいない。たまに思い出したように茂る木が見つかるだけで、紫の花々の丘がいくつもなだらかに続いている。
高いところに行けば、誰か見つかるかもしれない。そう思うとケイは歩き出した。風は冷たいけれど、不思議と心地よい。花々の丘を二つ越え、三つ目の丘の頂に着くと、大きな湖が見下ろせた。そして湖の縁に小さく一人ぽつねんと、帽子をかぶった釣り人の姿が見える。
ようやく見つけた人の姿に、ケイは小走りで丘を下りた。近づくにつれて、その人の姿が露わになってくる。頭にあるのは、つばの広い緑の漁夫帽で、はみ出した赤い髪には白いものが混じって見える。服装は簡素で、肩幅ひろく、背も高い。男の人だ。漫然と外国の人だなあと思う。言葉、通じるだろうか不安だ。
近くまで行くと、漁夫帽の人は竿を上げた。
糸の先には何もかかっていなかった。
肩を落とし、露骨にしょんぼりする後姿を見て、ケイは何だか他人に思えなくなった。僕も下手なんだよな、釣り。すぐに根掛かりとかするし。
「あの、すみません」少し悪い気がしたけれど、ケイは話しかけた。「ここがどこだか教えてくれませんか?」
漁夫帽の人が振り返る。やや褐色の肌に、猛獣を思わせる彫深く精悍な顔つき。深い緑の瞳が、おだやかにケイを見返してくる。ケイは何となく似た人を知っている気がした。けれどそれが誰なのか、どうしてか頭に浮かんでこない。
「ここは、そうだね。夢のなかだ。君と私の」言って漁夫帽の人は、その形の良い眉を下げて釣り糸を眺めた。「せっかくだから釣果をディナーにでもと思ったのだけれど、ね」
ニホン語が通じてよかったと思ったものの、ケイは戸惑う。夢のなかだって、ここが?
「そう、夢のなかだ」ケイの心の声に、漁夫帽の人は答えた。「こうでもしないと、会って話すことができなかった。私と、君とあの子のいる場所は、それほどまでに離れている」
そして漁夫帽の人が帽子を取った。くせの強い赤く長い髪がこぼれ落ちる。
「まずは君に感謝を。君の運んだその器が、世界を破滅の淵からすくい上げた」
漁夫帽の人が、ケイの手元を指し示す。
器? 何のことだろうか。ケイは自分の左手を見た。
そこにあるのは、小さな小さなテイクアウトのスープカップ。くしゃくしゃに潰れていて、世界なんて大きなものを、とても容れられそうにはない。
これでできたことは、そう。お腹を空かせた子に、ほんの少し食べものをあげたことだけ。
できたことも、見つけて。それがどんなに小さくても。耳元に、聞き慣れた声が聞こえた気がした。
「僕は、ただ」だからケイは胸を張って、言った。それがどんなにかちっぽけで、他人が見たらお粗末なことであっても。「あの子に、あの子たちに、お腹いっぱいになってほしかった。それだけです」
すると漁夫帽の人は、とてもとても嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ああ、君は見出したのだ。我らが探索の果てに、ついぞ見出せなかった大いなる器を」そしてほんの少し悲し気に目を伏せる。「それはどこにでもあり、またどこにもない。あの頃の私は気づくことができなかった……」
その濃い緑色の瞳に、浮かんで消えたのは後悔か。
「君は自身の成し遂げた冒険を、小さなものと言うだろう。しかし世の因果とはわからないもの。君が子らをあたためねば、この世は夢と消え去っていたのだ」
そんなことがあるのだろうか? 言われていることがいちいち大仰で、ケイにはどうにも居心地が悪い。けれど少し心が沸き立つ。こんなに褒められるのはいつぶりだろうか。
あの時だ、とケイは思い出す。あの台風の日の後、頭の傷の糸を抜いた日だ。お見舞いに行った病室で、母さんにたっぷり叱られてから、褒められた。あなたはとても良いこともしたのよ、と。
「ここで私は、君に言葉しか贈れない。でも覚えていてほしい。ここに君の勇気と冒険を、誰よりも讃える者がいることを」
漁夫帽の人はそこで言葉を切ると、西の空を仰ぎ見た。
ケイもつられて見上げてみると、空の端が赤く染まり始めている。
「もう少しもつと思ったのだが……魔法が切れる。こうしていられるのもあと僅かだ。ああ、肝心なことを言い忘れていたよ」漁夫帽の人は歩み寄ってくると、ケイの両肩に手を置いて言った。「ついでで申し訳ないのだが、あの子のことをよろしく頼むよ、Sir Cai。我が友と同じ名を持つ君よ。誰に似たのか、ずいぶんとやんちゃに育ってしまった」
あの子? 誰のことだろうか。漁夫帽の人から誰かを思い出しそうになるのに、なかなか出てこない。名前を訊けばわかるだろうか。
「あの、貴方の名前は?」
「私かい?」答える漁夫帽の人が、ケイからどんどん遠ざかる。聞こえるのは、かすかな声だけで。「申し遅れてすまない。私は〈大熊〉の……」
どんなに耳をすませても、ケイは彼の言葉を最後まで聞き取ることができなかった。世界が暗転し、真っ逆さまに落ちてゆく。
「!?」暗黒が明け、ケイは自分が大の字に横たわっていることに気づいた。「ここは……」
動かせるのは口だけで、手も足も首も動かせない。視線の先は雲一つない青空だ。ここは何処で、なんで動けないのか。ケイが考えを巡らせていると、突然、頭上からにゅっと逆さまの仔熊が顔を覗かせた。
逃げなきゃ! と思うも体は動かせない。仔熊はにぃと牙を剥くと、ケイの頭を天辺からもりもり食べ始めた。痛くない。痛くないけど、齧られ貪られる感覚だけが伝わってきてケイにはたいそう気色悪い。
「ちょ、やめ……」
言って通じるはずもないのに、ケイは言葉で制止を試みる。動かせるのは口しかないから。
そうこうしていると、今度は右から狼の仔が現れた。狼の仔もその大きな顎を目いっぱい開けると、ケイの右腕を食べ始めた。瞬く間に手が、腕がなくなり、もう脈打つ心臓にまで牙が刺ささって血が噴き出している。更には足先がぬめる何かに呑まれる感覚が。ケイがなんとか視線だけ足元に送ると、足から仔蛇に呑み込まれ始めていた。
どんどん自分が食べられて消えてゆく奇怪な感覚に心が身もだえる。うわああと悲鳴を上げたくとも、もう舌はおろか喉もない。
体が消えてゆく。
あ、速波が出始めた。そろそろ目を覚ますよ。本当に大丈夫なんだろうな。兄さん、何だかひどく焦った心音出してますけど。
ケイが騒がしい声に目を開けると、上に逆さまのウルスラの顔と、右から覗き込んでくるメイハの顔と、足元から見下ろすアヤハの顔が見えた。
「なんてひどい顔をしてるのさ、我が騎士」ケイを一瞥したウルスラは不満げで。「まるで猛獣か怪物にでも出くわしたみたいな顔じゃないか」
その猛獣に食べられる夢を見ていたんだ。と言ったところで機嫌は直りそうにもなく。ケイが何と言ったものかと考えていると、メイハがフンと鼻を鳴らして、ベッド脇のパイプ椅子に腰かけた。
見覚えのある白い風景に、ケイはやっと気づく。ここは海浜警備隊ネリマ保安部の病室だ。
「大した違いはなかろう? 若作り」メイハは小ばかにした目でウルスラを見ながら、手にした袋から煮干しを出して口に放り込む。「ん、知っているぞ。オマエは見た目どおりの年齢じゃないとな」
「そうとも。ボクは不老の妖精だからね」ウルスラは得意げに胸を張った。「ずっと老いない。いつまでも若く美しい貴婦人のままさ。誰かと違って」
「キフジン? 笑わせるな。チンチクリンの間違いだろ?」
「キミこそ何だあのバカ力。実は巨人種の類じゃないのか?」
ついこの間まで言葉もろくに交わさなかった二人が、あーだこーだと言い争っている。これはいいこと……いいことなのか?
頭に響いた声とともに、あの〈落とし仔〉を握りつぶした後からケイには記憶がなかった。まだ右手に感触が生々しく残っている。六本目の指の感覚も。ケイは慌てて自分の右手を出して見た。
指の数は、五本だった。
ケイはほっと安堵の息をついた。六本になっていたらどうしようかと思った。しかしあれからどうなったのか。〈落とし仔〉は、不可触領域はどうなったのか。
「兄さんはあれから丸一日、眠っていたんですよ」もの問いたげなケイの視線に気づいたように、アヤハが言った。「起源体、と呼ぶそうですが、あの〈大きなモノ〉は消えました」
「ボクが言おうと思ってたのに」ウルスラがちょっと口をとがらせる。「クトゥルーの〈落とし仔〉は、この次元世界から完全に消滅。永久に放逐された。在り方がボクらや人間と異なるから、厳密な死とは言えないけれど、あの個体は"死んだ"と呼んでいい」
「そういうことだ」メイハが煮干しを食べる手を止めて、ケイの頭の左を撫でさする。「だから今はもうしばらく寝ていろ」
その手がこそばゆくて、くすぐったくて。ほどよい冷たさが心地いい。そしてケイは思い出す。メイハに言わなきゃならないことがある。
「メイハ」
「なんだ?」
「あの日、あの時、あの場所に」あたためられたのは、きっと彼女たちだけじゃない。「いてくれて、ありがとう」
「ん……」
メイハが木漏れ日のような笑みを浮かべるので、ケイは顔が熱くなった。美人がそんな笑みを浮かべるのは反則じゃないかな、と胸の内でぼやいていると。
「うぐぁ」
背中から首に手を回されて、上体を上げられ軽く締められた。
「なーに雰囲気作って浸ってるかな我が騎士は」早々にウルスラは腕を解くと、ケイが伸ばした足の上に乗って向き合った。「騎士に色恋はつきものだけどさ。それより、これから忙しくなるよ」
「どういうことさ? 」ケイは問うた。横で睨んでくるメイハから努めて目を逸らしながら。「〈落とし仔〉を倒したのなら、新トウキョウ湾は元に戻ったんじゃないの?」
ウルスラは言っていた。〈落とし仔〉を殺せば界獣の顕現は止まると。
「新トウキョウ湾は、ね」ウルスラは意味深に言った。「海浜警備隊の報告だと、今の新トウキョウ湾には回遊する〈深きもの〉個体もいなくなったらしい。長期的にどうなるかはわからないけれど。これは確かに一つの成果だ。でもこの星には、現在観測されているものだけでも110箇所以上の不可触領域が存在する」
「110箇所、以上!?」
聞いただけでケイは眩暈がした。あの、苦戦に苦戦を重ねて、偶然にも助けられてやっとのことで殲滅した存在と同じものが、まだ110以上もこの星にいるというのか。
「その内の一つ、南太平洋にある最大の不可触領域には、あの〈落とし仔〉の最上位存在〈大いなるクトゥルー〉が眠る都市、ルルイエがあると言われている。そして最近、アルビオンの星見(Star Gazers)、ブリタニアの占星学者、魔女たちがこぞって予言した。ルルイエが浮上し〈大いなるクトゥルー〉が目を覚ます。〈大いなるクトゥルー〉の目覚めとともに、世界は狂気の淵に沈む、と」
ウルスラはそこでいったん言葉を切ると、ひと呼吸を置いて言った。
「残された時間は、4年」強く、この場に刻みつけるように。「4年以内に、ボクらはルルイエに眠る〈大いなるクトゥルー〉を何とかしなきゃならない。さもなきゃこの世の生きものは皆、狂気に陥るかヤツに永久に奉仕を続けるモノになり果てる。人間も、妖精だって例外じゃない」
あの〈落とし仔〉の更なる上位の存在が、4年後に目を覚ます。立ち向かったからこそケイにはわかる。そんな存在を僕らでどうこうするなんて、不可能だ。
「そんなの無理だ。って顔してるね?」絶望的な状況であることを誰よりも理解した上で、それでもウルスラは不敵に笑む。「確かにそうさ。"ボクらだけ"では到底無理だ。だからボクらはこの国に来た。国家の、種族の垣根を超えて協力し合うために。まあ、ニホンとの交渉はほとんどフィオナに丸投げなんだけどさ。ボクが前に出るとどうしてもケンカになっちゃうし。状況は芳しくないってことだったけど」
「そこから先は、俺が話そう」
唐突に、男の野太い声がかかった。
扉の方から黒いスーツの、右の目元に傷痕のある男がやって来る。ケイはその顔と声に覚えがあった。あれは不可触領域に突入する前日のこと。状況をあれこれ説明してくれた人だ。護国庁の人で、名前は確か
「波瀬さん、でしたっけ?」
「覚えててくれたんだな」波瀬は嬉しそうな笑みを浮かべると、続けた。「で、だ。ルルイエ浮上への対応。ブリタニアの提案した言わば国連軍構想だが、今回の件を踏まえてニホン政府と護国庁は協力する方向で再検討に入った。あまり詳しく言えないが、新トウキョウ湾の起源体の復活には、明らかに人の手が関与している痕跡があった。〈大いなるクトゥルー〉の覚醒に先駆けて、今後は狂信者も呼応者も桁違いに増大する可能性が高い。ルルイエ浮上の真偽を置いておいても、今のまま一国だけでの対処には限界がある。ってな」
国と国、人と妖精、ミスティックレイスが協力して脅威に立ち向かう。このニホンの人と人ですらまだできているとは言えない困難なことを、国家と種族の単位で成し遂げる。途方もないことだ、とケイは思う。でももし、もし成し遂げられたなら、あるいは……
「他人事のような顔して考え込んでるけどさ、ケイ」ウルスラはむにっとケイの左頬を摘まんで離す。「キミ、今、超有名人だからね。少なくともボク並みには」
「は?」ケイは驚愕に目を丸くした。「僕が? なんで?」
この十日余り、おっかなびっくり戦ってきただけだ。星辰装甲を開発したミスティックレイスと同じくらい有名とか。冗談にもほどがある。
「残念なのか喜ぶべきなのか大変微妙だが、ウルスラ嬢の言うとおりだ」ケイの希望的観測を、波瀬が溜息混じりに打ち砕く。「御幡ケイ君。記録上、君は恐らくは人類史上初の起源体討伐者だ。もちろんあの戦いに関する情報は秘匿されるが、人の口に戸は立てられないのが世界共通の真理。今頃は世界中の界獣研究機関や特種生物災害防衛組織、魔術結社、宗教団体が君の情報を探し求めているだろう。君の処遇は、そこのお嬢さんがたも含めて、護国庁で悩みの種になっているよ。君たちのやった個々のことは法に触れるが、成し遂げた成果が大きすぎる」
なんだかとんでもないことになってきた。具体的にどうとはまだわからないけれど、これまでどおりの生活にはもう戻れない。それだけはケイにも理解できた。
「ま、だから俺がここに来たんだがね」言って波瀬は右手を差し出した。「改めて、波瀬ヨシカズだ。今後ともよろしく。当面は監視兼護衛として君の周りをうろうろするが、気にしないで生活してくれ」
「あ、はい」呆然とケイも右手を出して、波瀬と握手を交わした。色々あり過ぎて頭の許容量を超えている。「こんごともよろしく」
流されてるなあ、僕。とケイが考えていると、ウルスラが両手で見えない何かを差し出した。初めて遇ったあの日のように。
ウルスラの手は空で、何もない。けれど、ケイには見える。いつ、いかなる時、いかなる場所でも、選択は常にそこにある。それはきっと、彼女が教えてくれたこと。
「摂理の光は西の端に沈み、何人も見通せない狂気と混沌の闇が降り来たる。長い長い夜はまだ、始まったばかり」湖の貴婦人は剣を差し伸べて「でも夜を斬り拓く力はキミの手に。ともに戦う同胞もまた傍らにある。選んで Sir Cai! 我が騎士、我が半身、その心のままに!」
選べと謳う。意気揚々と。
これは他の誰のものでもない、僕の選択。そして彼女の選択。選び取る答えは、ただ心のままに。
僕は、真っすぐ手を伸ばす。
混沌戦線 Episode1『紙杯の騎士』これにて幕。
Episode2『一角獣の幻像』に続きます。
SPECIAL THANKS!!
豚蛇さん、下読み、校正、感想いつもありがとうございます!
このあと少しだけ、マーベル映画のエンドロール後のおまけ的小エピソードが、3つほど続きます。
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