最終話 テイクアウトのスープカップ(後編)
雨の中で、ウルスラは現状を確認する。カレドヴール隊とクレイノンがダゴン級と交戦中。ダゴン級の足止め、クリア。ケイは〈
アメノハバキリと徹界弾。ウルスラが海浜警備隊から提供された資料と仕様を見る限りでは、起源体に通用しうる代物だった。不満な点があるとすれば、肝心要の徹界弾の材質が機密で黒塗りだったことだろうか。同盟国でも明かせない情報なんて、ボク自身山盛りで持ってるから、文句が言えたもんじゃないけどさ。
今回の作戦。プランAは星辰コード"ALDEBARAN"をセットした〈
現在はプランBを遂行中。ウルスラは各騎体の現在位置を改めて確認する。全て異常なし。〈夜明けの風〉も、徹界弾の効果範囲外にある。〈夜明けの風〉での撃破に未練はあれど、拘り過ぎはきっと自身も騎士も滅ぼしてしまう。まあボクの指揮で撃破するんだから良しとしないと。
ウルスラはコンゴウ改甲に合図する。
「イセ、撃って!」
* * * * *
『イセ、撃って!』
ウルスラ嬢の合図に、ソウリはコンゴウ改甲の繰傀系を
ソウリは照準をいま一度確認する。クロスの中心は起源体頭部のほぼ中央、巨大な眼の上に合っている。後は引き金を引くだけ。迷わず引き金を引
目が、巨大な眼と合った。
すでに引き金は引かれた後。唐突な浮遊感の中で、ソウリは暗い曇天を見上げていた。落下の感覚が冷たく背筋を駆け上る。落ちている。それだけしかわからない。砕けた瓦礫が視界を覆ってゆく。その中に。
瓦礫をかき分けるように砕き散らす、超大な触手を見た。
* * * * *
コンゴウ改甲が撃つまさにその瞬間、その足場となった廃ビルが内側から砕け散った。射ち放たれた徹界弾は〈落とし仔〉を逸れ、遥か上空に消え去った。
「なっ!?」驚愕するウルスラが見たものは、廃ビルのあった海面から暗雲に向かって生え伸びる、一本の超大な触手だった。「イセ! 状況は!?」
呼びかけても反応がない。騎手のバイタルを確認。生命維持に異常はないものの、意識が失われている。
まんまとしてやられたのだと、すぐにウルスラは理解した。触手に海中を、否、海底を進ませてあの廃ビルを破壊したのだ。あの〈落とし仔〉は。
観測に飛ばしたのがエイリイたち翅翔妖精だったなら、その優れた感知能力で何らかの兆候を感じ取れたはず。能力に劣る使鬼を使ったのが裏目に出たか。永きに渡る友だちを、死ぬことを前提に使い潰すことなどできようもないけれど。
廃ビルを破壊した触手は、人類と妖精たちを嘲るように宙を一巡りすると、海中に消えていった。
その様を見て、ウルスラは直観する。アレは、クトゥルーの〈落とし仔〉は理解していた。アメノハバキリと徹界弾を。
しかしどうやって? ケイと〈夜明けの風〉について警戒するのはわかる。何せ一度やりあって傷を負わせている。しかしアメノハバキリと徹界弾については、先の特務部隊は〈落とし仔〉に向けることもできず瓦解したはずだ。警戒などしようもないはず。
ボクは何を見落としている? ウルスラは自問する。考えろボク。あれは見目は醜悪でも神とも呼べる存在の眷属。ボクらの安易な想像など遥かに超えた力を持ちうる……まさか!?
「吸い出したのか……? MIAとなった特務部隊員の、脳から」
イセの報告にあった、破壊された方術甲冑の、頭のない騎手の肉体。ダゴン級か〈落とし仔〉の攻撃で、損壊しただけと思っていたけれど。
全ては想像に過ぎない。過去のアメノハバキリ試射が〈深きもの〉を通じて伝わった可能性、あるいは海浜警備隊に内通者がいた可能性もある。いずれにせよ〈落とし仔〉を打倒するには、一度でも認識された手段は使えないのかもしれない。
と、なれば
「ケイ、今の見てた?」
* * * * *
〈深きものども〉が謳う奇声の只中にあっても、そのビルの倒壊音は聞こえてきた。
次々に迫る〈落とし仔〉の触手を黄衣の柱で斬り払いながら、ケイは騎内モニタで僚騎の状況を確認する。伊勢警士のコンゴウ改甲のみが騎体と騎手ともにイエロー。それはコンゴウ改甲本体と伊勢警士が中度の損傷を負ったことを示していた。
何か、良くないことが起きている。
『ケイ、今の見てた?』
「見えては、ない」黄炎が衣のように踊る柱を振るいながら、ケイはウルスラの問いに答える。「何が、あったの?」
『イセが狙撃ポイントを奇襲された。コンゴウ改甲は行動不能。グリフを救援に行かせたいけど、ダゴン級周りの掃討で動かせない』
ウルスラの言葉は、プランABともに破綻したことを告げていた。
と、なれば
『やれる?』
それだけで、彼女が何を問うているのかケイにはわかる。だから。
「ああ、やる」
ただそれだけ答えて、黄衣の柱となった剣を右肩に担ぐと、後ろに跳んで〈落とし仔〉から距離を取った。触手がこちらに届くまでの間の、ほんの少しの時間を稼ぐ。
『頼んだよケイ!』〈夜明けの風〉にウルスラの声が響いた『深淵発動機潜行、深度限界到達。セット、星辰コード"UNCHARTED STARS"!』
刹那、ケイは両肩に走った激痛に咆え、背を仰け反らせて、みた。
どことも知れぬ光の世界の中心に、あらゆる形に変幻する奇怪ないきものたちを。走るもの、羽ばたくもの、吼えるもの、牙を剥くもの、剣を振るうもの、うねるもの、炎を吐くもの、踊るもの、這うもの……そして僕は高らかに歌いながら、四本の腕をもって空中から無数の刃の剣を引き出し、振るってはそのいきものたちを斬り、刺し、貫いて放り投げて、宇宙のすべてに響き渡るような笑い声を上げて……
瞬きの間にその光景は消えた。替わりに〈夜明けの風〉の剣の鍔元から、暗く輝く宝石のような結晶が顕われた。結晶は成長を始め、急速に黄衣の柱を喰らい呑み込んでゆく。
――――――――――!!
〈夜明けの風〉の暗く輝く宝石の大剣を前にして、クトゥルーの〈落とし仔〉が一際大きな咆哮を上げた。その超大な触手をすべて振り上げて。蛸めいた頭部が上へと持ち上がり、鉤爪を備えた両腕が顕わになる。
クトゥルーの〈落とし仔〉の、海中にあった上体が現れ出た。
* * * * *
あと一撃。とキースは見積もった。渾身の力で
ダゴン級の背に乗ったクレイノンのコリネウス。その
『しぶてぇが、これで終わりだ!』
コリネウスが止めとばかりに穿撃戦鎚を振りかぶった。まさにその時
――――――――――!!
クトゥルーの〈落とし仔〉の、これまでにない大きさの咆哮が轟いた。
同時に、ほんの一瞬、鈍く青く粘るような光がダゴン級の巨体を包んで消える。
PpPppPpHHhHHHHHHHHh'nNnNNnNNnnNNnnnnnn!!
〈落とし仔〉に呼応するようにダゴン級が咆え、これまでにない力でその身をうねらせ大きく仰け反らせた。
『どわぁっ!』
脚部でダゴン級の背を挟み、クレイノンは落ちまいと足掻く。ダゴン級の両腕を封じるキースとセドリックも無事ではなく、急に増大したその膂力に、自身の肉体と騎体が限界に近付きつつあった。
『隊長、こいつ急に力が……ぐぁあっ!?』
「セドリック!」
セドリック騎がダゴン級の左手に錨鎖ごと引き上げられ、競技のハンマーのように振り回され、飛ばされた。
あの咆哮か。キースは理解した。あの咆哮が轟いた瞬間、ダゴン級は青い光とともに力を増した。ダゴン級の〈深きもの〉は
このままでは危険だ。即、キースは
「っ!?」
背後からの重い一撃に騎体ごと飛ばされ、倒壊したビルの壁に突っ込んだ。
くらくらする頭を振って眩暈を払い除けながら、キースはすぐに騎体を起こす。何をされた? グリフの奮戦で〈深きもの〉個体の接近はなかったのは、直前の騎内モニタで確認している。
そして唐突な浮遊感。急上昇した視界に、キースは見た。自身の騎体に巻き付いた触手が、自分を空中へと持ち上げているのを。
『隊長! コイツは……』
『蛸が混ざったか! このクソがっ』
グリフ騎とクレイノンのコリネウスもまた、キース騎同様に触手に巻かれて空中に在る。
触手の強力な力に締め上げられ、軋む騎体内に緊急除装アラートが鳴り響く。しかし除装はできない。した途端に生身が触手に巻かれて挽き肉だ。
最新鋭騎体ハイランダーとほぼ同等の機関出力を持つウォードレイダーMkIII。そのフルパワーでもがいても、巻き付く触手を振りほどけない。
「く……」
それでも空中でもがきながら、キースは見た。
クトゥルーの〈落とし仔〉同様の長大な触手が無数に、海中にあるダゴン級の下半身から生え伸びているのを。
* * * * *
腕なんかあったのか。上体を現したクトゥルーの〈落とし仔〉を見てそんなこと思いつつ、ケイは大きく寄せてくる波を蹴り、暗い宝石の大剣を振るおうとして
剣の重量に耐え切れず、膝を着いた。
何が起きた? ずっと手ごろな重量に感じられていた剣が、今は電柱か何かを背負わされているかのように重い。
「うぁっ!」
更に急激に重さは増し、〈夜明けの風〉の肩から背へと圧し掛かかってくる。ケイはやむなく柄から左手を離して海面に着く。しかしそれでも重さに耐え切れず、海面に縫い留められたようにその場から動けなくなった。
「ウルスラ! どうなって……!?」
『柄から手を離して離脱! 急いで!』
彼女は言うが、無理だ。今、手を離せばそれこそこの剣は〈夜明けの風〉もろとも僕の身体を圧し潰す。
――――――!
高く、大きく〈落とし仔〉が咆える。
嗤っている。その咆哮を聞いてケイは直観する。僕の有様を見て、ほんの少しだけ、あの異形の神の仔は悦んでいる。
大きな、何も掴めそうにないほど大きな鉤爪の付いた左手が暗天へと持ち上がる。
その様を、ケイは見ていることしかできなかった。
* * * * *
クトゥルーの〈落とし仔〉の左手は、落ちる巨岩のように上から〈夜明けの風〉を一撃して海面に叩き伏せた。更にそのまま、鉤爪に引っ掛けるように〈夜明けの風〉の騎体を持ち上げると、幼児が気に入らないおもちゃを放るように投げ捨てる。
「ケイ!」
その名を叫び、ウルスラは翅持つ脚で廃ビルの間を翔けた。自律モードで傍らに浮くタブレットが、部隊各騎の状況を吐き出してくる。コンゴウ改甲、中破。騎手はたった今、覚醒。セドリック騎、大破。騎手は意識を喪失。ダゴン級の触手に捕らわれたグリフ騎、キース騎、クレイノンのコリネウスは圧壊まで推定60秒を切っている。
そしてケイと〈夜明けの風〉は、ダゴン級にほど近い廃ビルに激突。老朽化した壁面を破壊しつつ落下し、海面に着水した。取り分け頑丈に造った騎体は、損壊率7パーセント程度で機能に問題はない。既に装甲機能の修復も始まっている。かろうじて騎手の意識もある。しかし〈
敗けたのか、ボクらは。
苦い現状認識がウルスラを苛む。深淵発動機の限界深度を更に上げたのに、〈夜明けの風〉の剣は〈落とし仔〉の外殻を僅かに削るに留まった。アメノハバキリと徹界弾は外された。元々額面どおりの効果があるか疑問ではあったものの、惜しいことに変わりはない。最大の誤算はあの星図"UNCHARTED STARS"の座標が、想定以下の星辰の力(Agathoster)しか伝えてこなかったことだ。
星辰の力(Agathoster)が伝達されている以上、星図に問題はないはず。なのに出力が上がらない。
遠いというのか。この神の座が。この神はこの星この次元世界から、それほどまでに遠く彼方に去ったのか。
か細い導線で僅かな力を汲むようなこの状態では、〈落とし仔〉を放逐するまでの出力は得られない。これを解決する手段は二つ。一つ目は、騎体の星辰伝導率を何らかの手段で上げること。これは現状では不可能だ。〈夜明けの風〉には、既にブリタニア最高位のノッカーが鍛えた呪鍛鋼をふんだんに使っている。これ以上の伝導率を有する星辰伝導金属は望むべくもない。
もう一つは深淵発動機を、星辰の力の源たる〈
手詰まりか。思い至るとウルスラの決断は早かった。残存戦力を可能な限りこの空間から離脱させる。今やそれすら可能か怪しいが、やらねばならない。この無駄に長い命を使い果たしてでも。そう思うと、ウルスラの内に恐怖とない合わせの、不思議な高揚感が湧き上がってきた。
人が生きるとは、こういうことか。ウルスラはわかったような気がした。生まれ落ちて千と幾百年、今の今までこんな気持ちになったことはなかった。ボクにも人の血が流れている。ずっと厄介にしか思えなかったけれど、今はそれが嬉しい。
壁面を翔け、ウルスラは〈夜明けの風〉とダゴン級を視界に入れる。その向こうで、クトゥルーの〈落とし仔〉が哄笑するかのように頭部の触手を持ち上げた。
今回はボクらの敗けだ。でも待っていろ。いつか必ず、人とボクらはオマエたちを踏み越えてその先へ進む。
瓦礫に埋もれながら、起き上がろうとする〈夜明けの風〉が、ケイが見える。ウルスラは翔けながら転移の呪文を開始した。しばしのお別れかもしれない。我が騎士、我が半身。〈誓約〉のままに。いつかまた別のサイクルで……
その時、突如として自律タブレットが警告音を発し、高速で接近する物体があることをウルスラに告げた。
「なんだよもうっ!」
悪態をつきながら、ウルスラはやむなく呪文を中断してタブレットを見た。時間がないのに今度は何だ? 一瞬、神蝕空間を示す反応が出てすぐに消える。D類亜種か? ヤツがまたぞろダゴン級でも呼び出したか? 反応の方角に目を向けると
暗天を裂くように、赤紫の雷光が閃いた。
* * * * *
全身が痛い。身体のどこにも痛まない場所がない。ケイは痛みに顔を顰めながら、〈夜明けの風〉の上体を起こした。被っていた瓦礫が雪崩落ち、雨の廃ビル街を背に立つ巨影が見える。ダゴン級だ。最初に見た時よりも一回り大きくなったように見える。その足元の海面から生え伸びる触手が、部隊の仲間の騎体を巻いて締め上げていた。
助けなきゃ、と思うも、頼みにしていた剣はない。残っている武装は予備の
「あがっ!」
激痛に右腕が垂れ下がった。鉤爪の手の最初の一撃を受けた時に、〈夜明けの風〉の右腕ごと変な方向に曲がったような覚えがある。あの時、折れたのか。
新たな触手を海面から出しながら、ダゴン級が近づいてくる。あまりの巨体に、その接近がゆっくりに感じられる。もちろんそれは錯覚で、鱗に覆われ、魚類様の頭を持つ巨人はもう目の前にいる。
腹の底から這い上る冷たさに、ケイは全身の肌が粟立った。苦痛とともにこの世界から消える。僕という存在が消える。身も凍る恐怖とはこのことか。そして身を震わせながら思う。
結局、理不尽には抗いきれないのか。
自分に、家族に、メイハとアヤハに、友だちに、不条理に襲い来る狂気に、どれだけ抗っても僕は結局、負けるのか。
あるいはこれは報いなのか。身の程を知らずに、大それた戦いに身を投じたことへの。
触手が、その槍先のように尖った先端がこちらを向く。刺さるのか。それとも巻き付くのか。いずれにしても、数舜後に訪れるのは確実な死だ。
悔しいな。どうしていつも……這い上る冷たさに蝕まれ、ケイは諦めの果てに身を横たえようとした。その時
真夏の神鳴りの先触れのように、巨影の暗がりの中を赤紫の光が閃き落ちた。
魚類様の巨大な頭が音もなくずれ落ち、ばしゃんと水音を立てて海面に砕けた。続けてばしゃ…ばしゃんと、ダゴン級の上体が、触手が海にずれ落ち砕け散る。
ものの数秒でダゴン級〈深きもの〉が消えると、その場に黒いヨロイの姿があった。その身の丈の倍以上はある、緋色の巨剣を振り抜いた姿勢で。
何? あまりに突然のことに恐怖も忘れ、ケイの頭を疑問が群れなし渦を巻く。再突入部隊の編成に、あんなヨロイはなかった。見た目は伊勢さんのコンゴウ改甲に似てるけど、もっとスリムで元のコンゴウ改のようで。いや、あれはその前世代傀体のコンゴウそのものだ。何でそんな傀体がここにいて、そして恐らくだけれど、あのダゴン級を呆気なく、あっさりと解体したんだ?
コンゴウらしきヨロイはゆっくりと屈んだ身を起こすと、巨剣を右手に、〈夜明けの風〉を、ケイを真っすぐに見据えて歩き出す。一歩、また一歩と踏み出すたびに、各所の装甲が剥がれ、左腕部がもげ落ち、上体の左半身が頭部とともに崩落した。
そして顕わになったその繰傀者に、ケイは目を瞠る。きっと誰よりも、彼女の妹の次くらいには彼女のことを、知っていたから。
「メイハ……」呆然と、ケイはその名を口にした。「どうして?」
騎内で発した音声は、僚騎か通信機がなければ聞こえない。なのにメイハは聞こえてるかのように、ケイを見て言った。
「さっさと帰るぞ。ケイ」それはまるで、いつもの学校帰りのように。「オマエは今、悪い女に騙されてる。いいか」
メイハはコンゴウに残る右手で、巨剣の先端を背後の〈落とし仔〉に向ける。
「あんなモノはだな。オマエにしか殺せないとか、そういうのじゃないんだ。見ているがいい。これからワタシが……」
言葉の途中で、コンゴウの右手が巨剣とともに下がった。次に膝が落ち、メイハは糸が切れたようにがっくりと頭を落とす。
身体の痛みを右腕の痛みを瓦礫とともに踏み越えて、ケイはコンゴウに向けて〈夜明けの風〉を駆った。前のめりに倒れゆくコンゴウを、間一髪で抱き留める。視界の左端で何かが蠢く。触手か、鉤爪の手か。とにかく今はメイハを。〈夜明けの風〉は左腕でコンゴウを抱えて転げて距離を取る。転げる渦中、暗い空を背景に巨大な鉤爪の手が垣間見える。ぃいん…りぃん……と、この場に似つかわしくない涼やかで透明な音が、何処からか聞こえた。
――――――!!
心なしか苦鳴のような〈落とし仔〉の咆哮が轟く。
その瞬間、雨音を裂くように重く乾いた破裂音が響き渡った。
* * * * *
二発目の徹界弾は、C類起源体の右眼やや上に当たった。弾体はフェートン効果によって命中部位の周辺組織、この場合は頭部の中枢系を巻きこんで空間ごと消失する、はずだった。
「なんだよ、あれ」
顔を濡らす血と汗に邪魔されながら、ソウリは見た。C類起源体が、命中部位を残して餅が膨らむように分離。球形に消失したのは分離した部分だけだった。
「あんなの、インチキだろ……」
半壊したコンゴウ改甲をビルの瓦礫の中に据え、射線が通るのを待ち続け、南無八幡大菩薩と胸の内で祈り放った弾体は、C類起源体の頭部四分の一程度を削るに留まった。
コンゴウ改甲の傀内を警告音と赤い警告文が埋め尽くす。搭載された二つの宿曜炉が平衡状態を失い、天羽々斬ではなく、傀体内でフェートン効果を引き起こそうとしている。
クソ。最後まで締まらないな、俺。ソウリが緊急離脱トリガーを引くのとほぼ同時に、コンゴウ改甲は爆散した。
* * * * *
旧世代の方術甲冑が、ダゴン級を刻んで殲滅した。
「なにあれ?」
ウルスラは語彙も失い、それしか言えなかった。開いた口が塞がらないとはこのことか。あの方術甲冑、コンゴウのことは良く知っている。20年前にニホンがクトゥルーの〈落とし仔〉を殲滅したとの報が入った時に調べまくった。ウルスラが最初に開発した星辰装甲ウォードレイダーの、ニホンローカライズ版。スペックは基となったウォードレイダーとほぼ同じ。だからわかる。あんな動きはできるはずがない。在り得ない。
オーバースペックを騎体に要求していたのは明らかで、今まさに騎体が崩壊し始めている。当たり前だ。最新鋭騎だってあんな動きをすれば、3分ももたずに壊れる。それ以前に、あんな動きができる人間がいるはずない。乗り込む騎手はニホンのミスティックレイスだろうか。
そして顕わになった騎手、繰傀者は
「神性移植者の小娘!?」
ケイと一緒にいた姉妹。その姉のほうだ。妹と違って少々能力が高いだけだと思っていたら、まさかこんなことをやらかせるとは。ユピテル計画の目指す理想の具現者か。はたまた想定外規格外の怪物なのか。
しかしこれで、流れが変わった。
――――――!!
クトゥルーの〈落とし仔〉が咆哮を上げ、ケイと小娘に向かって蠢きだす。今ならまだこちらの方が早い。ウルスラはビル壁面を蹴って飛ぶ。〈夜明けの風〉とケイを、非常に不本意だが小娘も回収する。後、離脱して再起を図る。キース、グリフ、クレイノンも今は何とか行動可能だ。
「キースはセドリックを、クレイノンはイセを回収。グリフは接近する〈深きもの〉を掃討しつつ二人の援護を。退却だ! 急いで!」
『『Yn eich ewyllys!!』』
キースとグリフからは承諾の返答が。クレイノンからは
『おう仔熊の。あいつ、まだ諦めちゃいねえぞ』
何を? とウルスラが思った瞬間、重く乾いた破裂音が雨の廃ビルの狭間を響き渡る。
次の瞬間〈落とし仔〉が右頭部をにゅるりと押し出し分離。分離した部分が爆散すると、周囲の空間を球形に削り取って消失した。
コンゴウ改甲が撃った徹界弾は、命中したものの〈落とし仔〉を仕留めるまではいかなかった。いかなかったが。
――――――!!!!
右眼付近から顎に類する触手の束を、大きく抉り取っていた。すぐにボコボコと組織が盛り上がり再生が始まるが、ほんの僅かな時が稼ぎ出された。
そしてまた唐突に、自律タブレットが、〈夜明けの風〉のセンサーが検出した希少物質の情報を報せてくる。
こんな時に今度は何が。ウルスラはチラとメッセージを見て息を呑む。星辰伝導率99・9999999998パーセント。形状は巨大な緋色の直剣。出力された分析結果は
「んなっ!? "Oreikhalkos"!」
目と鼻の先に転がり込んできたのは、未踏の星々に届く緋色の鍵。
* * * * *
〈夜明けの風〉とコンゴウは海面を折り重なって転がり、止まった。
〈夜明けの風〉の上に、コンゴウが圧し掛かる。今にもコンゴウからこぼれ落ちそうなメイハを抱き留めるため、ケイは〈夜明けの風〉の頭部から胸までを除装した。
脱臼か、それとも折れているのか。メイハの左腕が、だらりと力なく垂れ下がってくる。とにかくこの壊れたコンゴウから引っ張り出して、すぐに安全な場所に運ばなければ。ケイは横たわる〈夜明けの風〉から上体を起こし、左手を上のメイハに伸ばす。
「メイハ、聞こえる?」
話しかけると、メイハはうっすらと目を開けた。意識が朦朧としているのか。半眼で視線が覚束ない。
「そこから出るか、除装できる? 右腕を痛めちゃって、出るのを手伝うのが難しいんだ。だから……」
話している間にも、〈落とし仔〉が近づいているのが騎内モニタで確認できる。大きな破裂音の後に、その速度が少し落ちたように見えたけれど、それでも依然としてこちらに向かっているのは変わらない。
どうしてここに? 何故コンゴウを駆ってこんな所まで? ケイが訊きたいことはいくつもあった。けれど今は、一秒でも早く退避をと、話し続ける。
しかし返事はない。時間もない。諦めたケイは「痛かったらごめん」と謝りながら、無事な左手でメイハの垂れた左手を掴もうとした。その時に
「……た」
いぃん、という鈴に似た小さな音に合わせて、メイハが何か言葉を口にした。
「なに? メイハ」
よく聞こうとケイは耳に集中する。雨が海面を打つ音が煩くて邪魔で苛立っていると、またりぃん、と鈴に似た音が鳴る。
「知っていた。ワタシは」するとメイハの言葉が、ちゃんと聞こえた。「ケイが、ケイを責めてるのを、ずっと……」
心臓が、強い力で掴まれた。そんな気がしたケイは何かをメイハに言おうとしたけれど、ただ口がぱくぱくと空を噛むだけだった。
「一緒にいると、あたたかいんだ」定まらない視線のまま、メイハはなおも言葉を続ける。「だから、言わなかった。言ったら、ケイがどこかへ、行ってしまいそうだったから」
メイハは何を言ってるんだ? 僕が僕を責めてるって? そんなわけないだろう。否定の言葉が幾つも、ケイの中に浮かんで消える。消えてしまう。
「辛いことに抗って、できなかったことばかりを見つめていて、それでもケイは、あたたかくて」メイハはそこで言葉を切ると、少しだけ声を大きくした。「だからいつも、思ってた。どうしたら、できたことも見つけてくれるのか、って」
メイハのジャージの懐から、カサリと何か小さなものが落ちてくる。
ケイは反射的に、左手でそれを受け留めた。小さくくしゃくしゃになったそれは、紙製の、みはた食堂でテイクアウトに使っているお馴染みのスープカップだ。オープンから今まで、同じメーカーのものを使っているから見間違えようもない。
何でこんなものを? これはただのゴミでしかない。戸惑うケイを余所に、メイハは言葉を紡ぐ。
「あの日、あの時、あの場所に、来たのがケイだったから」メイハの青い瞳がケイを捉えた。強く、強く、このことばが届いてくれと。「ワタシは今、ここにいる」
コンゴウからメイハの身体がずり落ちてくる。ケイは左腕で何とか受け留めるも、支えきれずに背から倒れた。華奢だな、と思う。僕よりも背が高いのに。出会った時は、僕よりも小さかったっけ。そんなことを思い出して、ケイは気づいた。この紙カップが何なのか。
打ち棄てられた遊園地。瓦礫の小山のモップびと。このカップを持つ手を、掴み返してきた彼女の手。持っていたのか。あの日から、今この瞬間まで。
理不尽なことはいつだって唐突で、ただ奪っていくだけなのだと思ってた。ずっと。だから少しでも奪われないように、失くさないようにともがいていた。それでようやく、失うものを僅かにでも減らせるのだと信じていた。
なのに、触れ合った彼女の頬のあたたかさが告げてくる。生きることは、決して失っていくだけではないのだと。
「ケイ?」メイハがやさしい声音で訊いてくる。「なんで、泣いてる?」
「泣いてる? 僕が? そんなわけ」
ない、と言おうとしてケイは、自分の頬に左手の指で触れてみた。
濡れていた。どうしてだろう。母さんを看取った時でさえ、涙なんて流れなかったというのに。
「ケイが戦うときは、ワタシも、ワタシたちも戦うから」メイハは右腕でケイをかき抱いた。「ワタシの名を、呼べ」
涙とともに、長い長い間、胸のずっと奥のほうで冷たく固まっていた何かが、流れていく。このまま、その感覚に身を委ねていたかった。けれど、とケイは思う。今はまだ、その時じゃない。
「ちょっとごめん」ケイはメイハの体をやさしく押しのけ、〈夜明けの風〉の装甲を展開した。外部通話をオンにして。「つかまってて」
「ケイ……」
どこか不満げなメイハを左腕に抱えて、ケイは〈夜明けの風〉を起動する。立ちあがりながら〈落とし仔〉の位置を確認し、視界に入れた。
何があったのか。〈落とし仔〉はこちらに這い寄る速度を落としていた。見れば〈落とし仔〉の右眼周辺と頭部から生え伸びていた触手がなく、ぼこぼこと肉腫のような組織が泡立つように盛り上がっている。組織の幾つかは既に未熟な触手となって、徐々に成長を開始していた。
何にせよ〈落とし仔〉は今、動きを鈍らせている。これはチャンスだ。ケイはウルスラに離脱のルートを訊こうとした。その時
『ケイ! その剣だ!』
叫ぶような彼女の声が、ケイの耳を貫いた。
「ウルスラ声が大き……って、え? 剣?」
〈夜明けの風〉の剣は、〈落とし仔〉に一撃された際に取り落して手元にない。ケイが思わず訊き返すと、ウルスラはもっと大きな声で怒鳴ってきた。
「いいからそのコンゴウの」彼女は〈夜明けの風〉の右肩に降り立って。「でっかい剣を掴むんだ!」
言われて見れば、海面に倒れたコンゴウの右手はいまだに、刃渡り十メートルはあろうかという巨大な緋色の剣を握っている。
左腕はメイハで塞がっている。ケイはやむなく騎体の膝と腰を屈めて、折れ垂れた右手で巨剣の長い柄を掴んだ。それと同時に
「深淵発動機潜行。星辰伝導媒体をOreikhalkosに置換」ウルスラはタブレットから光の文字を呼び出し操って、〈
「がっ……!」
刹那。緋色の巨剣を持つ右手が、腕ごと蒸発するような痛みをケイにもたらした。視界が白熱に塗り換えられ、激痛にただ叫ぶことしかできない。しかしそれはほんの一瞬のこと。痛みは止み、ケイの頭の中に彼方よりの言葉が降り刻まれる。その言葉は生まれて初めて聞く音で成り立っていた。にもかかわらず、意味だけは伝わってくる。
余の剣、余の力。手に五本の指だけでは重いであろう。
あなたは誰だ? ケイが問う間もなく視界が戻る。〈夜明けの風〉の肩の上でメイハとウルスラが何やら言い争っているけれど、よく聞こえない。頭の中に、残響のように彼方からの声が残っている。声は力の使い方を教えてくれるとともに、もう一つ言っていた。
馬鹿げた神々などいらぬのだ。
ああ、そうだ。僕もそう思う。ただでさえこの世界は理不尽と不条理に満ちているのに、そこに余計な神々まで加わったのではたまらない。ケイは視界にクトゥルーの〈落とし仔〉を捉えた。
ウルスラが瞳を閉じて謳う。
其はくべられた小さな火の燃やし手
其は炉辺をあたためる柔らかな息吹
其は長城を越えて頬を撫ぜるはじまりのしらせ
湖の貴婦人は瞼を上げる。彼方よりほんの一瞬、示された星々の座の名は"LOST GODS LAND"。
「Now is the time, my knight, stand up again and again with DAWN WIND!」
(今こそその時。立って、我が騎士。夜明けの風とともに。そう、何度でも!)
その声に応えるようにケイは、〈夜明けの風〉は立ち上がる。右手の緋色の巨剣の先を、クトゥルーの〈落とし仔〉に向けて。〈夜明けの風〉の右手がギシリと音を立て、六本目の指を生やした。折れた腕が治り、片手に余る長い柄は程よい重さを伝えてくる。
そう、何度でも立ち上がろう。ケイは心に決める。この馬鹿げた神々の戯れが終わるその時まで、彼女とこのごっこ遊びを続けよう。だから言うべき応えはきっと。騎士なんて柄じゃないかなと、ちょっと思うけれど。
「Yes, my lady.」
(そうだね。我がとうときひと)
暗い輝きを放つ宝石が、巨剣の刃に顕れた。宝石は結晶が成長するように緋色の刃を包んで伸ばし、無数の刃を分離してなお伸びて
―!――!!
無数の結晶刃をともがらに、宝石の巨剣はクトゥルーの〈落とし仔〉の巨体に突き刺さった。
突き刺さった刃の群れを振り払おうと、〈落とし仔〉が咆哮し、もがき、巨体をうねらせる。
刺さった剣と刃群は、その様を嘲笑うように巨体の内外に向かって急成長する。結晶は互いに強固につながり同化し、やがてクトゥルーの〈落とし仔〉を掴む巨大な六本指の右手となって
ぐちゃりと握りつぶした。
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