小枝 伊勢ソウリの受難
海浜警備隊ネリマ保安部棟五階の空中廊下から眺めた新トウキョウ湾の空は、あの日の暗雲が嘘のように晴れ渡っていた。ソウリは松葉杖でよちよち歩いて窓に寄ると、改めて海を、行き交う船と人々を見る。起源体が消滅して既に3日。トウキョウ圏は日常を取り戻しつつある。聞いたところによれば、今はD類の回遊個体一匹さえも観測されていないらしい。決して長期に渡る現象ではない、というのが研究者や専門家の見方だったが、大海嘯が起きて以来の初の快挙に、巷の人々は湧いている。
怪我した甲斐が、あったってものか。ソウリは改めて自身の身体の各部を見直した。右足首に重度捻挫でギプス。左手首が亀裂骨折でまたギプス。頸椎捻挫で首にコルセット。頭の裂傷は大したことはなく、湿潤絆創膏を貼るだけで済んだ。打ち身擦り傷は数知れず。割と満身創痍だとソウリは思うのだが、外科の嶋岡医官に言わせれば「フェートン効果で爆散する傀体から脱出できて、その上で五体が揃ってること自体が奇跡を通り越して異次元の事態」だとか。緊急離脱のタイミングと傀体爆散時の衝撃波が、よほど奇跡的にかみ合ったのだろう。そんなことも言っていた。
実のところ天羽々斬二射目の後のことについては、ソウリ自身、鮮明には覚えていなかった。ただ何となく、左手を強く後ろに引っ張られたような感触だけは覚えている。その後の記憶はなく、意識を取り戻して目を開けたのは病室のベッドの上だった。聞いた話では、爆散した傀体から相当離れた鉄骨に引っかかっていたらしい。それをクレイノンが回収、搬送してくれたそうな。
帰国前に間に合えば、ちょっと高めの酒でも買って渡すかな。ブリタニアのノッカーは酒好きらしいし。そんなことを考えながら、ソウリは空中廊下を警備部フロアに向かって歩き出す。覚束ない足取りで。瑞元隊長から勤務は明日からでいいと言われているが、記憶が鮮明なうちにあの戦いの報告をまとめておきたかった。おおよその事は既に口頭で済ませているが、書きながら改めて思い出すこともあるだろう。果たしてあの戦いで、俺は何某かの役割を果たすことができたのだろうか。
慣れない松葉杖歩行に苦労しながら進む。ギプスが取れるまで約2週間。これが続くのかと思うと憂鬱になる。ソウリが溜息をついたその時、警備部側を行く女性隊員のグループから
「あ、センパイ!」
聞き慣れた元気な声で、田和良トウカ二等警士が勢いよく駆け寄ってきた。大きくゆれるたわわなそれが目の毒だ。いやそうじゃなく、とソウリは自身につっこんだ。C目標駆除作戦以来、自室に帰れていないことが悔やまれる。
「トウカちゃん、これからお昼かい?」
時刻はちょうど12時を回ったところ。警備部側のこの階には、海に面して見晴らしの良い食堂があった。
「はい。でもキャンセルするっす」トウカは振り返ると、一緒にいた女性隊員グループに先に行くようジェスチャーで促した。「水臭いっすよセンパイ。退院の時はメールくださいって言いましたよね」
「あー、そうだったっけ」
ソウリは思い出す。一昨日、見舞いに来てくれた際に、トウカがそんなことを言っていたような気がしなくもない。
トウカを始めとした、真科田医官の言うところの"防御反応"を示していた隊員たちは、彼の予想どおりC類起源体の消失とタイミングを同じくして目を覚ました。皆、何の後遺症もなく元気なもので。トウカなどは再突入作戦とその顛末を知るなり、一直線にソウリの病室まで駆けてきたらしい。本人曰く「目の前が真っ暗になって、センパイに強制除装されたところまでは憶えてるんすけどねー。気づいたら病室のベッドだったっす」とのこと。
不可触領域内での活動は、脳に入力される情報をいかに選択的に制限するかにかかっている。真科田医官はそんなことを言っていた。
「で、これからどうするんすか?」
「待機室で報告書を書くよ。いつまでも寝てたら納税者の国民の皆様に申し訳がたたない」
「じゃあ」
トウカは松葉杖をさっと奪うと、ソウリがよろける間もなくその右脇に左手を入れて肩を組んだ。
「これで行きましょうか」トウカはソウリの右手を掴んで自身の首に巻きつける。「支持搬送の訓練にもなるっす」
言うが早いか、トウカはソウリを運んでどんどん先へ進んでゆく。
流石は遺伝子調整者。センスも筋力も大したものだ、と思う間もなくソウリは軽々運ばれるように歩かされる。置き去りになった松葉杖をどうしたものかと振り返ると、通りがかった第三小隊の剣持が持っていて「がんばれよー」とか言ってこちらに手を振っていた。医務フロアに持って行ってくれるのはありがたいが、あいつ何か勘違いしてないか?
「センパイ、お昼どうするんすか?」
「ああ、下のコンビニで……」
諦念のもと、運ばれることを受け入れたソウリはそこで言葉を切った。
フィオナ・マッカラム大尉がこちらに向かって歩いてくる。あの夜にはなかったリムレスの眼鏡が、実に似合って知的に見える。彼女はソウリを認めると立ち止まり、目元を僅かにゆるめて言った。
「サージェント・イセ、退院できたのですね。大事なさそうで何よりです」
「こんな格好で失礼します。でもこうして再びお会いできて嬉しいです。マッカラム大尉」言い回しはこれでいいのかなおい、とソウリは内心で汗をかく。「てっきり、もう帰国されたものだとばかり」
「それなんですけど、もうしばらくこちらに留まることになりそうです」フィオナは小さく溜息をついた。「明日からキョウトで。これから今後のことをセドリックに伝えに行くんですが……彼、迷惑をかけてませんか? 初の国外で、相当はしゃいでましたから」
セドリック・パリーはアルビオン戦士団カレドヴール隊の若き騎手だ。彼は先の戦いで負傷し、つい今朝までソウリと一緒に治療と検査を受けていた。その間、お互い不慣れなブリタニア語とニホン語だったが、同じ戦場をくぐり抜けた者同士、妙に話が弾んだ。彼はニホンのサムライ・フィクションが大好きらしい。まだ二〇歳と聞いた時にはソウリも驚いた。
「迷惑なんてとんでもない。私もいい気晴らしになりました」ソウリはセドリックの様子を思い出す。少なからず肋骨を折った彼は息をするのも辛いだろうに、ミフネの殺陣について熱く語っていた。彼の剣はSo fast! とかなんとか。「セディ…セドリック士長は良い戦士ですね。彼のような若者がいれば、ブリタニアの海も未来も安泰でしょう」
「あらお上手ですね、イセ」フィオナが笑みを深くする。「でももう
彼女の虹色の瞳が悪戯っぽく見つめてくる。きっと彼女なりの冗談だろう。冗談だよな? セドリック曰く、ブリタニアでは組織内でもファーストネームで呼び合うのが普通だとのことで、ソウリはそうしていたのだが。さすがに女性、しかもミスティックレイスなVIPを、相手の許諾もなくファーストネームで呼べる度胸はなかった。
「センパイ」呼びかけとともに、ソウリの右手がトウカに強く握られた。「この方は、どちら様っすか?」
ああ、そうか知らないのか。ソウリもフィオナの、アルビオン勢の作戦参加を知ったのは、初戦、C目標駆除作戦から帰還した後だった。後で剣持に言われて気づいたことだが、以前、自室で観たアルビオン使節団の報道映像にも彼女はしっかり映っていた。映像の中の彼女と、ネリマ保安部に来た彼女が一致しなかったのはその雰囲気の違いのせいか。代表然とした映像とは違って、言葉を交わしてからのフィオナはずいぶんと親しみやすい。何か勘違いしそうになるくらいに。
こちらは、とソウリが紹介しようと口を開く前に
「Senpai……」ぽつりと言うと、フィオナはソウリに微笑んだ。「そちらの女性、私にも紹介いただけませんか? "ソウ"」
「え?」
ソウリともソルともつかない、けれど間違いなく自分を呼ぶ名を口にされ、ソウリは戸惑う。更にはトウカに掴まれた右手が強く押し付けられた。そのたわわな胸に。
「ちょ、田和良警……」
何だ。何が起きている? マッカラム大尉は穏やかな笑みを向けてくるのに、こちらを見るその虹色の視線だけが笑っていない。ように見える。すぐ横のトウカの顔は、見たら色々お終いだとソウリの中に何かが告げてくる。右手の感触は男なら嬉しいもののはずが、今はまったく嬉しくない。
ソウリは助けを求めて視線をずらす。すると健診を終えて食堂に向かうのか、御幡君とウルスラ嬢が、並んで警備部フロアに向かって横を歩き過ぎていくところだった。ウルスラ嬢がこちらを振り返り、「へぇー」とでも言うようにニヤニヤ笑いを浮かべている。視線で助けを求めても、邪魔しちゃ悪いし、と言いたげな琥珀色の視線で返された。
助けはない。孤立無援。
「センパイ?」「ソウ?」
同時に問われ、ソウリはどんな言葉を発するかたっぷり考えることになった。どちらにどう答えても、この場を無事にやり過ごせる気がしない……
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