第6話 不可触領域(後編)

 上司の波瀬ヨシカズが、ピッと音を鳴らして携帯電話を切った。

「波瀬さん、本部は何と?」

「議員と護国庁の官僚がミスティックレイスたちを巻き込んで、喧々諤々収集が付かない状態だとさ」問うタマミの前で、ヨシカズは椅子に座ると深く溜息をついた。「大きく二派に割れてるそうだ。一方はこのままブリタニア勢に任せて、殲滅に失敗すればあちらの責。成功すれば共同戦果ってことで収めようって派閥。まあ時間がない現状では現実的か。もう一方はC類起源体を刺激せず、できるだけ民間人を退避させて、有効な対策が決まるまでの時間を稼ぐって派閥。これもまあ、理解はできる。虎の子の特務部隊が壊滅した以上、ニホン側の認識では起源体相手に有効な手段がない。その状況下で、更に起源体に手を出して藪蛇になったら、な。現状維持で、不可触領域の拡大がどこかで止まる可能性だってなくはないんだ。ただその場合は間違いなく、トウキョウ圏はまた放棄されることになるが」

 タマミは腕の時計を見た。時刻はちょうど21時を回ったところ。不可触領域がシェルターのある居住区画に到達するまで、推定で残り20時間程度だ。

「そんな、対立してる時間なんてないのに……」

「上を責めることは簡単だ。しかし実際に上に立てば、物事を決めるのはそう簡単じゃないことに気づく。組織がでかくなればなるほどな。その後のことも考えなきゃならんし」ヨシカズは自嘲の笑みを浮かべる。「ま、現場の末端要員の俺が言っても、説得力はないだろうが」

「それで、私たちはどうするんですか? 現状、まともな捜査なんてできないですよ」

 トウキョウ圏各都市の民間人は、すべてがシェルターに退避している。銀鳩と黒鬼の案件を追う永井と嶋村たちも、思うように捜査は進んでいない。タマミ自身も、玖成姉妹の交わす言葉がわからずお手上げだ。少年のことは報告書に記載されたことしかわからない。これまで調べた限りでは、彼と彼女たちに組織的な背景はなさそうだ。玖成姉妹の違法行為については、特種害獣襲来時の緊急避難の側面もあり、悪質性が低いと判断され、二人は保護者への引き渡しが決まっていた。そもそもトウキョウ圏壊滅の危機を前にした今、他国の思惑を探る捜査などやっていられるものではない。

「退避だ退避」ヨシカズが腕時計を見ながら言った。「もうヘリがこっちに向かっている。あと一時間もすれば屋上に着く」

「え? 退避ですか?」

「そうとも。今は俺たちにできることなんてない。界獣退治は、海浜警備隊のヨロイ乗りの仕事。餅は餅屋だ。ここの連中は、上の判断なんか無視して再突入の方向で動き出してるしな」

 タマミは驚いたものの、少し考えれば納得する他にない。自分たち特種安全管理部の保安官は、過激な排外主義者や、界獣を崇める狂信者、遺失知識を利用する犯罪者の取締りが主な職務だ。自分たち外事課はそれに加えて、他国の人間、他国のミスティックレイスが関わる案件を扱う。界獣、特種害獣の駆除・駆逐は領分ではない。

 しかし人々の危機を前に逃げ出すことに、気が咎めるのを止められるものでもない。特安とて護国庁の組織。この国の人々を護るために在るのだから。

 そんな思いが顔に出ていたのを見て取ったのか。ヨシカズは言った。

「『僕が選んだことだから』」

「何ですそれ?」

「昨日、目を覚ました御幡君と少し話をしたのさ」ヨシカズが温くなったブラックコーヒーを啜る。味が気に入らなかったのか、露骨に顔をしかめて。「課長から、彼から"ブリタニアのお嬢様に唆された"って言質を取れないものかって打診もされてたんでな」

 ブリタニア連合のミスティックレイス〈湖の貴婦人〉ウルスラ・ル・フェイは、大海嘯後の世界を護る星辰装甲系武装祭器の開発者だ。彼女は最新の星辰装甲実験騎体、コードネーム〈夜明けの風〉の騎手に、ただのニホンの少年を選んだ。

 そして無届で繰り返された、二人の戦闘行動。これは二国間に結ばれた防衛援助協定に違背している。事が明るみになると、当然のことながら護国庁上層部はアルビオンに対して抗議、事情の説明を求め、多くの譲歩を迫った。対するアルビオンは人的物的損害がほぼ皆無なこと、また二人の行動は緊急避難に当たるとしてこれに反発。そこまではタマミも聞いて知っている。護国庁は国益確保の駆け引きの材料に、少年が"アルビオンに利用された"旨の証言を求めたのか。

「彼は言ったよ。『僕が選んだことだから』ってな。損得の計算ができない年齢じゃない。無理やり乗せられたってことにした方が、後々何かと得なことぐらいわかってたはずだ。実際、俺も話の中でそう誘導した」語るヨシカズはどこか苦みのある笑みを浮かべた。「それでも彼は、頑なに自分の選択だと主張した。彼女の剣を手に戦ったことを。それなりの刑罰が下される可能性を理解して、な。若いってのはいいもんだ」

「そういう波瀬さんだって、まだ三二じゃないですか」

 波瀬ヨシカズは勤続八年、特安部外事課のなかでも中堅どころの保安官だ。大海嘯直後の混乱期を経験しているせいか、言動を合わせると実年齢より五、六年は歳上に見えてしまう。本人はそのことを気にした風でもなく、むしろしょっちゅうおじさんぶる。顔だけ見れば、右目の下の一文字傷が荒事のにおいを出すものの、意外と若く見えるのも確かだ。

「嫁さんと子どもを抱えちまうと、人生、少なからず守りに入っちまうもんだ。だから時に、若さゆえの無謀さが羨ましくもなる」ヨシカズから、おどけた雰囲気が消える。「不可触領域への再突入、間違いなく彼も行くだろう。あの実験騎体、妖精のお嬢さんが切れる最強の手札だからな」

「その乗り手、騎手にどうして彼が選ばれたんでしょうか?」

「さっぱりわからんよ」ヨシカズは右手のひらを上向けてひらひらと振った。「異国のミスティックレイス、それも〈湖の貴婦人〉の考えることなんてな。伝説は語る。かの女は勇敢なるもの、騎士を育て、助け、時に破滅させる。彼もえらいもんに見込まれたもんだ」

「そんな……御幡君でしたっけ。彼、まだ一五歳ですよ」タマミには理解し難い考えだった。ブリタニアのミスティックレイス、妖精の助けがあったとて、訓練もまともに受けていない子どもが死地に赴くことに変わりはない。若さ故に自分の死というものが、よく理解できていないのではとさえ思う。それとも女には理解できない、男の浪漫的な考えなのか。だとしても無謀に過ぎる。「そういうものですか、男の子って」

「そういうものさ、男の子ってのは」ヨシカズはあっさり肯定した。「特に女の子に頼りにされちまったらな。今のこの国で、一五歳なんてまだまだ子どもの年齢だが、戦国の世ならば元服、武者として初陣に臨む年頃だ。侮ってかかるべきじゃあないのかもな」

 ヨシカズはコーヒーの紙カップを置くと、話を続けた。

「で、だ。何となく、俺の勘なんて全くもって当てにならないんだが、彼なら、彼らならやってくれそうな気がするんだ。海浜警備隊の連中も、半壊の憂き目に遭っても妙に士気は高いしな。だから俺たちは俺たちで、しっかり……!?」

 鳴り響くけたたましいサイレンの音が、ヨシカズの言葉を遮った。警報と同時に明滅するランプが示すのは、第三収監室。玖成姉妹のいる部屋だ。

 何が起きたのか。弾かれるようにヨシカズが、続いてタマミは席を蹴って駆け出した。監視室の扉を抜けて、非常階段を駆け下って収監室のある下階へ。二人は駆けながら腰の電針銃テーザーガンを抜き、構える。ヨシカズが先行し、タマミが後衛につく。ヨシカズが曲がり角ごとに顔を少し出しては戻し、安全を確認して進む。

 すぐに第三収監室が視界に入った。離れていても、その異常さがわかる。

「なに、これ……」

 タマミは茫然と呟いた。質の悪いブリキのようにひしゃげ、廊下側に倒れた特殊鋼製の扉を前にして。




* * * * *




 頭を打っているので検査が必要。ケイがそんなことを看護師の人に言われて、病室に留め置かれておおよそ一日半。学校の定期健康診断ではまずやらない、採血やCTスキャンやらの検査を幾つも受けて。ベッドに腰掛け、ふと気づけばもう夜だった。

 不意に訪れた空白の時間に、ケイは今後のことを考えてしまって少し気が重くなった。やっぱり鑑別所かなあ。波瀬って人、もしもの話だと前置きしてはいたけれど。無免許で甲種方術甲冑に類する傀体を乗り回した上に、海浜警備隊の許可も届出もなしに界獣と戦闘、しかも乗り回した傀体は非登録で無国籍。高等部一年生の知識では、どんな罪になるのか計り知れない。

 それでも波瀬と名乗る護国庁の人に、ウルスラとメイハとアヤハ、家族の無事を確認できたのは幸いだった。湾岸公園の戦いから二日ほどが経っている。今も皆が無事ならば、あの界獣の大群と〈落とし仔〉についても、きっと、自分が知らぬ間に決着がついたのだろう。そう、ケイは思っていた。

 背後の扉がスライドして開く。近づく足音に振り向いて見れば

「やあ我が騎士。元気そうで何よりだ」キッチンカートを押して、ウルスラが病室に入ってきた。いつものパーカーにデニム、スニーカー姿で。「ディナーを取ってきたよ。キミの身体はモニターしてるからあまり心配はしてなかったけど。実際に顔を見たほうが安心できるね」

「ウルスラ!」ケイは思わず駆け寄ると、ウルスラの両肩に手を置いて無事を確かめる。「君こそ怪我は……ないみたいだね。よかった……」

 ケイは安堵の溜息をついた。〈落とし仔〉の攻撃のさなかに海に落ちていく姿が、彼が彼女を見た最後の記憶だったから。

「あ、うん」珍しく歯切れの悪い返事を返すと、ウルスラはそっと目を閉じて額をケイの胸に預けた。「心配かけてごめんね、ケイ」

 手と胸から伝わる体温に、ケイはひどく安心している自分に気づく。そして

「あ……」普段ならまずしない、大胆なことをしていることに思い至って、慌ててウルスラの肩から手を離した。「ご、ごめん!」

「む、つれないねぇ我が騎士」ウルスラは、いつものにまにました笑みを浮かべている。「もう少し再会の喜びに浸っていたかったんだけどな」

「それより界獣は、〈落とし仔〉はどうなったのさ?」

 頬が熱いのを知られたくなくて、ケイは話題を変えた。ウルスラの顔も、ほんの少し赤くなってるように見えるのは気のせいか。

「食べながら話そうか」ウルスラは話しながら、キッチンカートから夕食のトレイを出す。エビピラフにコンソメスープ、デザートに小さなプリン。シェルター避難時のお決まりのメニューだ。「わかりやすくまとめるとだね。キミが一撃入れた後、ヤツは、クトゥルーの〈落とし仔〉は退却。海浜警備隊の精鋭が殲滅に向かって、敗けて潰走。ヤツは勢力を盛り返して、ボクらは再戦のための準備中」

 ケイは夕食のトレイを、茫然となりながら受け取った。何てことだ。決着はおろか、何ひとつ終わっちゃいなかった。

「詳しくは後で説明するけど、ヤツは不可触領域を拡大しつつ、呼び出した界獣の群れと西に向かって進行中。その途上にはトウキョウ圏の都市部がある。不可触領域の到達予測時刻まで、残りはおおよそ20時間。到達すれば、街に甚大な被害が出る。界獣によって港や建物が壊されるだけじゃない。人間が壊される。シェルターにも多少の霊的防護はあるだろうけど、防ぎきれるものじゃない」

「人間が壊される、って」ケイは抑揚の少ない彼女の言葉に、それがものの例えではないことを悟る。「殺される、だけじゃないの?」

「ケイもアレに近づいた時、吐き気を感じたり気持ち悪くなっただろ?」ウルスラは自身の分のトレイを持つと、ケイのベッドに腰掛けた。「あれの百倍か千倍ひどいのが来ると思ってくれればいい。人にもよるけど、意識を失ったり精神に異常を来たすんだ。感受性が高い人間なんかは、身も心も人間の形をやめてしまうこともある。こうなるとD類やW類に喰われるほうがマシかもしれないね。知性も記憶も失って、高位の存在に奉仕を続けるだけの存在になり果てる。殺されない限り、永久に」

 ウルスラは軽く手を合わせると「いただきます」と言ってピラフを頬張った。んぐ、ケイやケイの父君の炒飯に比べると今一つかなあとか何とか言いながら。

 メイハとアヤハを助けようと駆けたあの日よりも、お婆さんとウルスラを抱えて駆けたあの日よりも、遥かに巨大で理不尽な困難が、ケイの目前にあった。それは普通に考えれば、海浜警備隊が対処すべき問題で、一介の学生がどうにかすべきことじゃない。そんなことはケイにもわかっていた。

 ごくんとピラフを飲み込むと、ウルスラはケイを見つめた。剣を差し出したあの時のように。

「理不尽に抗う術は、もうキミの手にある」そして、選択も再び。「どうする、Sir Cai?」

 しゃらん、とケイの右手首で銀鎖が鳴った。




* * * * *




 田和良トウカ二等警士は、身じろぎもせずベッドに横たわっていた。ただ無表情に天井を見つめ、呼吸と瞬きをするのみで。ソウリが話しかけても何の反応もない。

 彼女だけではない。ネリマ保安部の病室に横たわる隊員の内の半数ほどが、同じ容体を示していた。

「所謂、緊張病カタレプシーに似てはいますが、私にはどうにも異なる症状に思えるんですよ」ソウリの横で、真科田まかだヨウスケ医官は言った。「脳症も疑いましたが、CTで見ても脳の異常は見当たりません。食事や給水には反応します。これは推測なのですが、彼女たちの状態はある種の防御反応なのではないか、と」

「防御反応?」

 ソウリが問い返すと、真科田医官はパイプ椅子から立ち上がった。彼は身長が2メートル近くあるため、それだけで迫力がある。黒い肌は、彼がアフリカ大陸の血を引く証だ。彼自身は、自分の容姿が周囲の人々に威圧的に見られることをかなり気にしている。当人はいたって温厚な人物だ。

 そんな真科田ヨウスケ医官は右手を手刀の形にすると、おもむろにトウカに向かって振り下ろした。

「ちょっ!」

 と待って、とソウリが言う間もなく、真科田医官の手刀はトウカの左手に防がれていた。

 ね? とでも言うように真科田医官は小さく笑むと、椅子に座りなおす。

「ブリタニアの妖精の言葉どおり『異質で膨大な刺激』が脳に、意識に流れ込んだならば、その全てを受け入れたら意識が甚大な被害を受けるのならば、刺激に対して意識を遮断し自己の意識を守る。そんな機能が働いたのかもしれません。過電流でブレーカーが落ちるように。症状は全く異なりますが、その意味では解離性障害に近いもののように思えるのです」

 真科田医官の専門は精神医学だった。異世界、異次元の怪物とも呼ばれる界獣、特種害獣を相手取る海浜警備隊員は、精神に病を抱え込む者が少なくない。生命の危険と未知の怪物に対するストレスに晒され続けるためだ。真科田医官はそんな隊員たちのケアに当たっている。

「先生、回復の見込みは?」

 ソウリは問う。かつての快活な姿を知っているバディとして、このような姿はずっと見ていたいものではない。

「わかりません……」真科田医官は静かに首を横に振った。「20年前、C類起源体と交戦したなら似たケースがあったはず。そう思って本部のデータベースを当たりましたが、当時の年代の情報だけが抜けていました。ええ、露骨なほどに」

 政権交代に伴って発生した大惨事。当然、表に出すわけにはいかず、証拠隠滅を謀ったのは議員か官僚か。

「ただ、人間に限りませんが、生き物は自身が意識している以上の情報を取得し識閾下で処理しています。彼女たちは今も異質な刺激の源、起源体の接近を感じ取っているのかもしれない。ならば……」

「起源体が消えるか去れば、元に戻ると?」

「あくまで可能性の話ですよ。未知の事例に私たちは無力だ」真科田医官は苦い笑みを浮かべた。「伊勢さん、そろそろ時間なのでは?」

 言われてソウリは腕時計を見る。21時20分。再突入のための、コンゴウ改の改装が終わる頃だ。明日一六時に開始予定の、トウキョウ湾不可触領域への再突入作戦。ソウリは突入部隊に加わるよう瑞元隊長に言い渡されていた。早々に試験場に向かって、シミュレータで改装傀体を体に馴染ませねばならない。

「では、行ってきます。皆のことをよろしくお願いします」

 ソウリは敬礼すると、病室の扉に向かって身を翻す。

「こんな時代です。祈る神は持ち合わせませんが」真科田医官も立ち上がると、ソウリを敬礼で見送った。「ご武運を」




* * * * *




 シェルター間を繋ぐ地下連絡通路を、四人乗りの電気車両エレカーが走る。その後部座席で、御幡シグネは隣の父を見遣った。御幡コウ、四五歳。髪に白いものが混じりつつあるものの、いたって健康で冴えない独身の中年男だ。一般の同年代と異なるところと言えば、妻を亡くし、二人の子を育て、更に実子でない二人の子どもの未成年後見人になっていることくらいか。

 そんな父は今、ひどく深刻な顔で頭を抱えている。

「なあシグネ、俺の育て方が悪かったのかな……」

 幾度となく同じ問いを繰り返すので、うんざりしたシグネは言葉を返すのをやめていた。

 シェルターに避難した際に、ケータイにかかってきた電話。それは海浜警備隊からのもので、ケイとメイハとアヤハがネリマ保安部に保護されていることを告げるものだった。三人とも連絡がつかずその身を案じていた時だったので、シグネは父と二人で安堵の溜息をついた。その後、三人の重大な違法行為の可能性を示唆されるまでは。

 それから今に至るまで、父はあれこれくよくよと悩んでいる。最初こそシグネも「あの子たちが事情もなしに、違法行為に手を染めるはずないでしょ」と言ってはきた。しかし言うにつれてシグネも自信がなくなってきた。あの子たち、事情があればやりかねない。6年前にやらかしたケイは元より、メイハとアヤハもケイが関わると見境がなくなるところが確かにある。

 それでも、とシグネは思う。あの子たちが大それたことをやらかすのは、相応の事情があってのことだと確信している。単に罪を犯しただけならば、わざわざ緊急事態宣言が出ているこの状況下で、こうして面会と引き渡しの連絡が入るはずもない。と思いたい。

 推測も交えてそんなことを言ってきたものの、父の反応は相変わらずだ。

「あの子らが非行に走ったら、母さんに顔向けできんよ。誰に似たのか……」

 メイハとアヤハはともかく、ケイは間違いなく母さん似ね。決めたことはどんな障害があってもやる。放たれた矢のように。シグネは思い出す。治療後の病み上がりの状態で、メイハとアヤハを引き取ることを決めた母は、児相の霧島女史と鬼神のように働いた。

 そして父にも似ているのだ。鈍感で頑固なところなどそっくりだ。

「そろそろネリマ保安部に着きます」

 前席で運転する海浜警備隊員が、振り返らずに告げてくる。

 薄暗い地下通路の先に、ライトに照らされた入り口が見えてきた。




* * * * *




 足を、腕を、全身を使って、ソウリは発射口を、ダゴン級を模した巨大なD類特種害獣の体幹部に合わせた。手の繰傀系を天羽々斬に切り替えると、右手の人差し指に引き金トリガーの感触が発生する。即、引き金を引く。天羽々斬の発射口から弾体・徹界弾が発射され、命中。この3時間ほどシミュレータに取り組んで、ようやく当たるようになってきた。ダゴン級は一見、巨大で的が大きく、当てやすいように感じられるが、慣れない動作で動いている目標に弾体を当てるのは至難だった。コンゴウ改の視界と弾体射出兵装・天羽々斬の照準レティクルが重なる感覚にも、なかなか慣れない。日地ケイタに言わせると「ゲームみたいなもんですよ伊勢さん」だそうだが。

「日地、もう一度だ。今度はもっとダゴン級を動かしてくれ」

「そろそろ休んだほうがいいじゃないですか?」

 ケイタが言ってくる。時刻はもう0時を回っていた。

「ようやく慣れてきたんだ。だからもう少しだけ頼む」

 試験場のシミュレータを使った訓練を終えて、方術甲冑を降りた時には一時を過ぎていた。除装、巻物への収納を行う前に、ソウリは改めて自身の方術甲冑を眺める。頭から胸までの部分はコンゴウ改のそれだが、他の部分はすべてトリュウのものに置換されている。一際目立つのは、右肩に装着された弾体射出兵装・天羽々斬の砲身だ。

 先の戦いで、トウキョウにあるトリュウは全て喪失。キョウトから運び込まれていた補修用の骨格柱と宿曜文をかき集めて、足りない部分をコンゴウ改で代替した結果、生まれたのがこの方術甲冑だ。

「コンゴウ改甲、とでも名付けましょうかね」甲冑技士の日地ケイタが寄ってきた。突貫で換装と再設定を行った上にシミュレータ訓練まで手伝ってくれたせいか、目の下に疲労の隈が濃い。「明日も……ってもう今日ですが、また言いますけど、無理に双炉を積んでるんで、傀体の強度から安全に撃てるのは一発だけです。二発目の発射は、保障できません」

「責任重大だな、これは」

 ソウリは言った。予備に残されていた徹界弾は二発のみ。そしてまともに撃てるのは一発だけときた。

 その一発でも命中さえすれば、原理上は特種害獣をこの世界から消滅させられる。異なる属性の星辰が衝突時に発生させるフェートンなにやらで。起源体に対しては実績がなく未知数なものの、有効である可能性は高い。ソウリは事前に説明を受けたが、細かな部分はもう憶えていなかった。とにかく一発逆転の目を持つ新武装祭器を任されたことになる。その経緯は、瑞元隊長曰く「今、動ける繰傀士の中で、射撃成績の平均スコアが最大だったから」。

 銃なんて年二回の技能再訓練でしか撃たないのに。ソウリが、それが判断基準になるのかと訊けば

「射撃スコアは、ないよりマシ、くらいの重要度しかないし、実は後付けの理由よ」

 至極あっさり否定された。そして続けて言うことには

「貴方はあの不可触領域で、特務部隊の壊滅を冷静に観察し、更に行動不能に陥ったバディを救助して、生きて情報を持ち帰った」瑞元隊長は、いつも誇張も世辞も虚飾もなく、事実をのみを挙げる。「だから切り札を任せられる。恐らくだけど、今、最も必要なのはその資質。異質な刺激が心と身体を蝕む空間で、普通に行動できること。言い換えるなら、どれだけ高い能力があっても、不可触領域で正常な意識を保てない人間は役に立たない。汎人でも、遺伝子調整者でも」

 ことがここに至って、これまでの価値観がひっくり返ってしまった。今日この日、C目標駆除作戦に参加するまで、この国を護る仕事は有能な後の世代に引き継いで、自分は別の生き方を探そうとしていたのに。

 ソウリはコンゴウ改甲をケイタに任せると、休むために試験場を後にした。明朝7時に第一会議室へ集合。アルビオン勢とのミーティングの後、シミュレータで作戦時の行動と連携の確認。後、16時には不可触領域へ再突入することになる。

 深夜帯で人の少ない浴場で体を温め、コンタクトレンズを外して眼鏡に換える。施設内の共有寝室へ向かって歩いていると、自販機のある休憩所にひとり、見慣れない人影を見つけた。

 束ねてまとめた黄金色の髪に、尖った耳が伸びる後ろ姿。アルビオンのミスティックレイスだ。赤毛の女の子と言い合っていた姿が記憶に新しい。その時は毅然として見えた姿が、今は少し萎れて見える。

 ソウリは素知らぬ振りで通り過ぎようとして、何故か自販機に小銭を入れている自分に気づいた。あれ、何やってんだ俺? 思う間もなく缶のミルクティーとスポーツドリンクを出すと、ミルクティーを差し出して、慣れぬブリタニア語を発していた。

「How about a cup of tea with milk ? If you want.(もしよければ、いかがですか?)」

 通じているだろうか? ソウリは全く自信がなかった。ブリタニア語は海浜警備隊員になるための必須科目だが、一般の隊員が実際に使う機会はほぼ皆無だ。

 話しかけられると思っていなかったのか。ミスティックレイスの女性は、その不思議な色の目を驚きで丸くした。その顔が何だか幼い少女のように見えて、可愛いな、とソウリは思う。失礼かもしれないが、まあ内心で思うだけならいいだろう。美女のこんな顔を独り占めできるのは、こんな時間まで仕事をしていた役得だ。

「Thank you for your concern.(お気遣い感謝します)」ミスティックレイスの美女は、缶を受け取ると小さく微笑んだ。「ブリタニア語がお上手ですね。でもニホン語で問題ありませんよ。勇敢なお方。確かミスタ・イセ、でしたか」

「私のことをご存じなんですか?」

 ソウリは驚いた。ミスティックレイスと言えば、現存する何処の国でも重鎮だ。そんな人が、一介の繰傀士である自分のことを知っているとは思わない。

「ええ、キースのリストに写真と経歴がありましたから。先の戦いで、大きな戦果を挙げられたとか」

「戦果なんてそんな。逃げ帰ってきただけですよ」

「情報も重要な戦果だと認識しています。特に起源体については、私たちでも不明な点がほとんどなのですから」

 言いながら、ミスティックレイスの女性は缶をしげしげと眺めている。何を、とソウリは考えてから思い至る。もしかして、開け方がわからないのか? プルタブの形がニホンとブリタニアでは違うとか、聞いたか読んだかした覚えがある。

 ソウリはそっと彼女の手から缶を取ると、プルタブを開けてからその手に戻した。

「ありがとうございます。良い香り……」ミスティックレイスの女性は、飲み口を形の良い唇に運ぶ。「甘くて美味しい。ニホンのものも悪くはありませんね」

 その顔がまた少女のように見えて、ソウリは何故か気恥しくなった。いい歳こいて何をドキドキしてるんだ俺は。

「申し遅れました」ミスティックレイスの女性は、缶をテーブルに置いて椅子を立つ。身長はソウリと同程度。170センチ代半ばくらいか。「私はフィオナ・マッカラム。アルビオンで渉外を担当しております。階級は大尉に当たるでしょうか」

「こちらこそ失礼を」ソウリも居住まいを正し、背筋を伸ばして敬礼した。「俺、いや私は伊勢ソウリ。海浜警備隊の一等警士。軍の階級に合わせるなら曹長に相当します」

「イセ、ソウ」フィオナは少し戸惑った表情を見せたものの、すぐに理解したとばかりに手を打った。「ああ、イセが氏族名でソウが名なのですね。soul、sooill、暖かい良い名です」

 ソウ、ソル? 恐らくブリタニア語ではない単語を口にされ、ソウリも少し戸惑った。後で調べてみるか、と思う。

 フィオナは椅子に腰を下ろすと、一口飲んでから大きく息をつく。

 その姿に、言おうか言うまいか随分迷ったものの、ソウリは結局口にした。

「お疲れのようですね」

「そう見えますか?」フィオナは驚くと、今、気づいたとばかりに頷いた。「そう、そうですね。疲れています。詳細を貴方に話すことはできませんが。上司と我がままな同僚に振り回されて。上も横も下も皆が皆、好き勝手なことばかり言って、やって……」

「少し、わかります」ソウリは言った。「私もバディが割と独断専行する性質だったもんで、組んだ当初は振り回されるは上官に小言を言われるわ……こっちの身にもなってみろってものです」

「でしょう? 方々に調整に出向いて事を収めてるのは誰なのか、いつかわからせてやらないと。そう、今回の件が終わったら溜まった休暇を使ってバカンスへ……」休暇に思いを馳せているのか。フィオナは楽し気に語り始めたものの、急に何かに気づいた様子でソウリを見つめた。「明日、行くのですね」

「はい。C目標の殲滅に向かいます」深刻になるのは本意ではない。ソウリは努めて軽く振舞う。「ま、ちゃちゃっと行って、一発ぶち込んできますよ」

 瑞元隊長から今回の再突入について打診された時、拒否も許されていた。再突入はほぼ第三管区の独断であった上に、作戦参加者の生命の危険があまりに大きいためだ。

 しかしソウリは再突入部隊への編入を承諾した。大きな正義感があったわけじゃないのは、自身でもわかっている。ではバディを、同僚たちをひどい目に遭わされたことへの復讐のためか。近いように思うが、たぶんこれも違う。

「これは単に、私の興味本位で訊くことです。だから、答えがなくとも気分を害したりしません」フィオナは問う。「どうして貴方は、この戦いに?」

「私が……俺が生まれたのは大海嘯のすぐ後で。当時は生き残った人たちが皆、安心して生きられる場所を探して彷徨ってた」

 彼女の虹色の瞳に魅入られるように、ソウリは口に出していた。自身でも、明確に自覚していなかった衝動を。

「大きな都市以外は、テンコ、ニホンのミスティックレイスが作る結界に住むしかなくて。でもその数と広さには限りがあって。生きる場所や糧を巡って人間同士の争いも絶えなくて。うちの家族も、巻き込まれないために家財を抱えて何度も逃げた。ようやく落ち着いて暮らせるようになったのは、十歳になった頃だったな。だから」

 この胸にあったのは、やっと安心して暮らせる家に辿り着いた冬のあの日、家族で鍋を囲んで思ったことだ。

「これ以上、人が生きる場所を失くしたくない」

 言ってからソウリは我に返る。何を気障ったらしいことを、と後悔するのも束の間。フィオナが立ち上がると、ソウリの手にしたスポーツドリンクのボトルに触れた。彼女は結露した雫を数滴、指に載せる。

 フィオナはその指先で、ソウリの左手の甲に何か模様のようなものを描いた。

「何を……?」

「良き戦士への祝福です。おいしいお茶のお礼と思ってください」戸惑うソウリに、フィオナは告げる。「太陽と月が、貴方の道を照らしますように」


 去ってゆく彼女の後姿を見て、ソウリは改めて後悔した。話しかけるんじゃなかった。彼女の優しい眼差しが心に焼き付いて離れない。眠れなくなっちまうじゃないかちくしょう。




* * * * *




 ケイがその意志を告げた時、父は驚き、嘆き、怒り、ありとあらゆる激しい感情が混じって噴き出したような顔をした。

「な、許すわけないだろうそんなこと!」父、コウはケイの左手首を掴む。「すぐに帰るぞ! おまえはまだ学生だ。界獣のことは海浜警備隊に任せるんだ」

 ネリマ保安部施設の病室で、父と息子は対面した。緊急事態下において、父は当然、息子を連れて安全な場所へと逃げようとする。

 掴まれた左手の力強さが、ケイには嬉しい。でも、と思う。

「ウルスラの話を聞いてただろ、父さん。海浜警備隊だけじゃ、あの界獣、怪物は倒せないって」

「ご子息の言葉どおりです。父君ちちぎみ」ケイの横で、ウルスラは言った。「迫る災禍の源、クトゥルーの〈落とし仔〉は、ご子息の剣でなければ届かぬ敵です」

「だからと言って……」苦みを堪えるような表情を浮かべて、父は尚も言い募る。「その剣とやらを扱うのは、ケイでなければならないのか? もっと、そう、大人の適任者はいないのか?」

「いません」ウルスラは即答した。冷然と。「私が選び、彼が選んだ。剣は選択の元にある。"選ばれる者"の元にはない。では逆に問いましょう父君。いったいどれだけ歳月を重ねれば、その命の価値は変わるのか」

 それは暗に告げていた。家族以外の者が戦いに赴くのは構わないのか、と。

「少し意地の悪い問いでしたね」言葉に詰まる父と姉を前に、ウルスラは少し目を伏せる。「謝罪しましょう。ご家族ならば、抱いて当然の思いです」

「できることが、あるんだ」父と姉を交互に見つめて、ケイは告げる。自らの選択を。上手い言葉が見つからなくて、もどかしいけれど。「だからやる。できることの最大限を。幾度もやってくる理不尽を、ただ受け入れ続けるのはもう嫌だ。選べるなら、選ぶのなら」

 母が病に倒れた時から、ずっと胸にあるこれを、八つ当たりじみたそれを、言い表すならきっと怒りが最も近い。

「理不尽を切り拓く道を、僕は選ぶ」

 激しさを含んだ沈黙が病室を支配する。上手く伝わっただろうか、とケイがもう一度口を開こうとしたその時

「メイハとアヤハはどうするの?」思いがけないことを、姉が問うた。「あの子たち、怒るわよきっと」

 瓦礫の山で、何もできない自分が嫌で、逃げ込んだ先で出会った二人。あの時だって結局、父が海浜警備隊に通報していてくれなかったら、三人まとめて死んでいた。もっと早く、父に姉に相談すべきだったのだ。

 今はもう、二人には父さん姉さんも、山城先生もカコちゃんもタケヤも大倉さんもいる。だから、きっと大丈夫だ。

「メイハにはちゃんと勉強しなって、アヤハにはピーマンとかセロリとか苦いものも食べるように言っておいて」

 ケイが言伝を頼むと、姉は深い深い溜息をついてから言った。

「諦めましょう、父さん」

「シグネ?」

「これはダメだわ」姉はケイに近寄ると、手首を掴む父の手に触れる。「きっとこの子、手足を失くしても這って行ってしまう。思いきったら何をされても止まらない。母さんと一緒よ」

 父が目を閉じて、開けた。激しい感情はなりを潜めて、替わりにひどく苦し気な表情が浮かぶ。まるで自身の身体の一部を、今まさにもぎ取られてでもいるかのような。

 ケイはその表情をかつて見たことがあった。それは二度。医師に母の病名を告げられた時と、母の心音が止まった時だ。

「勘違いするなよケイ」言う父の手が、静かに解かれてゆく。「戻ったら半年は無給で店を手伝わせるからな。それとウルスラさん、だったか」

「はい」

「ケイのことを、頼みます」父はウルスラに向かって深く頭を下げた。「あなたはミスティックレイスだ。人知を超えた知識と力をお持ちのはずだ。だからどうか、どうか、この子のことを助けてやってください」

「頭を上げてください、父君」ウルスラは父が頭を上げたのを見とめると、天を仰いで朗々と、歌い上げるように言葉を紡ぐ。「今ここに、アーサラ・アウレリアナは蒼天にかけて誓う。〈星に届く手〉のケイを、持ちうるすべてをかけて助力することを。もし、われこの誓いを破ることあらば、大地よ裂けてわれを呑み込め。海よ押しよせてわれを溺れさせよ。天の星よわれに落ちてわが命を絶て」

 何かの誓い、なのだろう。ケイには後に続いた言葉の意図がわからなかった。何かとても重大なことを言っているらしいことしか、わからない。

 ただこの場で、姉のシグネだけはウルスラの意図を察したようで。

誓約ゲッシュね……」姉が問いかける。「本当にいいの?」

「もちろん!」

 答えたウルスラは、ケイがこれまで見たこともないほど、とびっきりの笑顔だ。




* * * * *




 ケイとウルスラが、再突入の準備のために病室を去った。次はメイハとアヤハを引き取りに行かねばなならない。さて、ケイがいないことを何と説明したらいいのやら。シグネは頭を悩ませながら、父と二人で病室の扉を抜けた。すると

「御幡さんですね?」

 勢いこんで、海浜警備隊員の一人が駆けつけてくる。相当急いで来たのか、大きく肩で息をしているのがわかる。果たして何事があったのか。今さら、弟が妖精と怪物退治に向かうこと以上に、驚くことなんてない。

「はい、御幡ですけど」生半可なことでは動揺しないつもりで、シグネは訊いた。 「どうしました?」

「その、大変申し上げ難いことなんですが」海浜警備隊員は息を継いで、言った。「玖成メイハさんとアヤハさんが、この建物を脱走しました」

「「は?」」

 父と二人、シグネは素っ頓狂な声を出していた。




* * * * *




 天井の崩れた箇所から、月あかりがこぼれてくる。

 左肩に刺さった針を抜いて放り捨てると、メイハは周囲を見渡した。目が慣れてくると、月と星の僅かな光の下に浮かび上がってくる。瓦礫の小山に、かつてアヤハを抱えて眠った巣穴が。何度訪れても、時が止まったように、ここはあの日から変わっていない。

 危険物の除去が終わらず、再開発からも見放されたネリマ市第六封鎖地区。ここの開発が進められないのは、この街の防衛システム、結界の、消せない綻びがここに常に発生しているからだと、アヤハは言っていた。また、だからこそ都合がよかった、とも。



『止まらないんですね、ケイ兄さん』収監室で、人知を超えた感覚でケイの言葉を聴き取ったアヤハは姉妹のことばで言った。『あの界獣を滅ぼすまで……』

 明日、ケイはアヤハの言う〈大きく、強く、底知れぬほど深く、臨めぬほど高いモノ〉を滅ぼしに向かう。あのこまっしゃくれた赤毛の小娘とともに。

 させるものか、とメイハは収監室の扉を破壊した。そのままアヤハの誘導でケイの元に向かおうとしたところで

『姉さん、行先は兄さんのところじゃありません』

 袖を引かれて止められた。

『何故だアヤハ!』鳴り響くサイレンに負けじとメイハは叫ぶ。『ケイを連れ戻すんじゃないのか!?』

『連れ戻しますよ! 決まってます!』アヤハも叫ぶように答えた。『でもそれは今じゃない。今、連れ戻しても、きっと兄さんは行ってしまう。あの女に、妖精に仕向けられてるとわかってても。そういう人だって、姉さんだって知ってるじゃないですか』

「む……」

 メイハは唸る。ケイはそういうやつだと、ワタシはきっと誰よりも知っている。ケイがそういうやつでなかったら、きっと汚いけだもの二匹など、飢えて凍えて死ぬまで放っておかれたことだろう。

 遠く駆け足の音が聞こえてくる。恐らく警備の人間がここに向かっている。焦るメイハに、アヤハは告げた。

「滅ぼしましょう、姉さん」ニホン語で発されたその言葉は、深く冷たい音がした。「兄さんが立ち向かうもの全てを。兄さんが戦う必要がないように。もちろん簡単なことじゃないです。でも、今のわたしたちならできる」

 アヤハは目を閉じ、開けた。その眼窩に眼球はなく、替わりに暗黒の虚空と煌めく紅い宝石のような星々が在る。メイハだけが知っている、アヤハが全力で星辰の力をみる時の姿だ。妹に普通の人間の目はない。普段は星々の紅い光を捻じ曲げて、瞳のように見せかけているだけだった。

「……そうか」メイハは頷くと、アヤハの身を左腕に抱えた。「そうだな。やろう」

 発現したこの身の力は、遺伝子提供者の意図と引き換えに与えられたものなのか。けれど使い方を選べば、きっとケイを、あのあたたかなカップの手を護る力になる。いや、力にするのだ。

『いったん下がって、右へ向かってください』

 アヤハのことばに従って、メイハは後ろに、元の収監室に跳ぶ。目の前を小さな何かが二つ、高速で飛んでいった。見送ってすぐ、扉を抜けて右へ駆け出す。タンと乾いた音に続いて、何かが左肩にチクリと刺さった。その瞬間、左腕が痺れてアヤハを離しかける。なんとか堪え、右手で肩とつながるワイヤーを掴むと、手首を回して捩じり切った。

 妹を抱え直して、また走り出す。その指示に従い右、右、直進して左へ。非常口を抜け外の階段に出る。見下ろす地上は二階層下。メイハはアヤハを抱えたまま、迷わずその身を宙に躍らせ壁面を駆け降った。



 封鎖された遊園地跡には、かつての戦い、失地回復戦で使われた兵器、祭器の残骸が無数に落ちていた。

 宿曜書士資格の勉強に必要なのだとせがまれて、メイハは放課後に幾度となくアヤハを連れてこの場所に足を運んだ。フェンスさえ抜ければ監視の目もなく、大きな音を立てても誰も来ない。おまけに参考資料や材料はそこら中に散らばっている。宿曜文や星図の自習にはうってつけの場所とも言えた。界獣に襲われる可能性にさえ目をつぶれば。

「宿曜炉さえ生きてれば」アヤハは家から持ち込んだノートPCのキーを、目にも止まらぬ速さで叩く。「復元できます。わたしなら」

 ノートPCにつながるケーブルの一端は、瓦礫の小山に突っ込まれていた。

 カラン、と瓦礫の一片が小山を転がり落ちる。またカランと落ちて、また落ちて。次々に瓦礫の欠片が落ち、やがてガラガラと大きな音を立てて小山が崩れ去った。

 舞い上がる粉塵に、メイハは腕を目前にかざす。徐々に粉塵の煙は落ち着いて、月明りの視界が戻ってくる。

「!?」

 腕を下ろしたメイハの前に、巨大な鎧武者が屈んでいた。普段使いの丁種ヨロイと異なる武骨なフォルムから、これが純粋に界獣との戦闘に特化した傀体なのだとわかる。黒一色の全身の中で、左肩の装甲にのみ白く"伍"の字が刻まれていた。

「方術甲冑コンゴウ。20年前、失地回復戦に投入された、ニホンで最初の甲種方術甲冑です……おや?」

 アヤハが何かに気づく。すぐに、りぃん、と小さくも綺麗な鈴の音のような音が空間を満たした。粉塵が鎮まってくると、その音の源が見えてくる。ぃいん…りぃぃいん……と、それはほんのわずかな、埃ほどの大きさの塵を受けて鳴る。

 コンゴウの足元に、方術甲冑のサイズをしてなお巨大な緋色の大剣が、その刀身半ばまでを地面に埋めて突き立っていた。


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