第6話 不可触領域(前編)

 ブリタニア人だから紅茶を出しておけばいい、というのも安易だと思うんだよなあ。まあ、嫌いじゃないけど。

 心のなかでぼやきつつ、ウルスラはティーカップをテーブルに置くと、椅子の背に身を預けて大きく伸びをした。ブリタニア使節団の面々に捕捉され、ネリマ市の海浜警備隊施設の一室に放り込まれてから、既に三日ほどが経っている。その間、フィオナに随う水妖たちとニホンの使い魔"シキ"に監視され、自由に出歩けない事実上の軟禁状態に置かれていた。

 そろそろかな、と胸の内で呟きながら、ウルスラは翅翔妖精たちを呼び出した。ニホンの海浜警備隊による〈落とし仔〉討伐作戦が始まろうとしていることは、エイリィたちに探らせて既に知っている。見逃したくはないものの、ここからはなかなか出られそうにない。だから翅翔妖精たちに飛んでもらって、自身の目の替わりを務めてもらおうとしたのだけれど。

「そこまでよ、ウルスラ」扉がスライドして開き、フィオナが入って来た。「大人しくしてくれるなら、席を用意してあげてもよいのだけど」

「どういう風の吹き回しだい? スカイ島のアザラシ女」ウルスラは翅翔妖精たちを収納結界に戻した。「梱包されてブリタニアに送られるものだとばかり思ってたよ」

「これ以上、状況を引っ掻き回してほしくないだけよ。カムリの仔熊」フィオナは溜息をついて言葉を続ける。「海浜警備隊の許可が下りたわ。先の遭遇戦で、アレを撃退した貴女の意見も伺いたい、と。先方の好意に感謝することね」

 言い置いて、フィオナが身を翻す。

 ウルスラも席を立つと、フィオナの背を追った。速足で行き交う海浜警備隊員たちを横目に見ながら、無機質な廊下を進んでゆく。エレベーターを経由して地下へ。二つの扉を抜けて、大きな喧騒の空間に着いた。前面に大きなスクリーンを置いた室内で、海浜警備隊員たちが慌ただしく立ち働いている。

「ここが、海浜警備隊の指揮所(CIC:Combat Information Center)か」ウルスラはざっと室内を見渡した。今いる位置は艦橋めいた高所になっていて、観測情報の処理は下段で為されている。「アルビオンのそれとは、大きく違わないみたいだけど」

「まあ彼らも、星辰装甲の部隊を中核に据えて運用しているわけですからな」壮年の男が、ウルスラたちに歩み寄ってくる。「自ずと似たものになりましょう」

「キース」男の姿を認めて、ウルスラは顔を僅かに綻ばせた。「先に国に帰ったものだと思っていたよ」

「見くびられては困ります。我らカレドヴール隊、姫君を置いては帰れませぬ」キース、と呼ばれた男は苦笑する。彼の制服の左肩には、咆える白獅子の図章。それはアルビオン、即ちブリタニア連合王国対神話害獣機関の星辰装甲騎手の証だ。「そのようなことをすれば、私が故郷の面々に殺されましょうぞ」

「ボクはただのフェイだ。姫君はよしてくれ。オウエンの子、キース」

 ウルスラはキースのダークグリーンの目を見上げて言った。この男、キース・ボーエン大尉とはアルビオン発足当時からの付き合いだった。彼は最初期の星辰装甲、ウォードレイダーが実戦に投入された頃からの叩き上げの古強者ヴェテランだ。歳は四〇を越えていて、短く刈った髪にも白いものが目立つ。彼は幾度も昇進の話があったが全て断り、今なお現場で剣を振るい続けている。同郷なせいか気やすくもあり、ウルスラは多少目をかけて彼の星辰装甲の改装を手掛けてきた。ただ同郷故に、何かにつけて姫様扱いしてくるところが苦手でもあった。

「そんなことより、状況はどうなってるのさ? 会議の期間はとっく終わってる。例の交渉は進んだのかい?」

 ウルスラが今回の合同会議について、気にしているのはその一点だけだった。

「気になるなら、貴女も会議に出たらよかったでしょうに」フィオナが答えた。「交渉は可もなく不可もなく、よ。彼らにしても、考える時間が必要でしょう。ニホンのミスティックレイスたちも、予測については半信半疑の様子だったわ」

「あまり時間はないのだけど、ね」ウルスラは、正面大スクリーンを見遣った。「〈落とし仔〉の出現は、その意味で彼らにとってもいい判断材料になる」

 スクリーンには、不可触領域付近の映像が映し出されていた。海上のある一線から先が、陽炎のようにゆらぎ、歪み、判然としない。

「ボクとケイに痛い目に遭わされて、引きこもってやがる」ウルスラが、スクリーンのその先を睨む。「次は確実に、この次元から放逐してやる」

「その時はオレを呼べよ」じゃらんと右腕の鋼輪を鳴らして、灰色の目の鉱工妖精ノッカーがやって来た。「つーか面白そうなことしやがって。仔熊よ、どうしてオレを誘わなかった? こんな鉄火場見逃したとあっちゃあ、親父と父祖に笑われちまう」

「クレイノン、キミも残ってたのか」

「あだぼうよ」長い黒ひげを毟りながら、クレイノンが筋肉で厚い胸を張る。「親父とつるんで何かやらかすとは思ってたんだ。残って正解だったぜ」

「勝手な行動は慎んでほしいのだけど」窘めるようにフィオナが言った。「私たちは、ブリタニア連合の代表としてここにいるのよ。ウルスラ、今回の貴女の行動で、どれだけの国益が損なわれたか……」

「なに、それ以上のものを得たさ」ウルスラは不敵に笑う。「女王と円卓会議も納得すると思うよ」

 20年前、この地で起きた失地回復戦。半ば沈んだ歪曲空間、接触呪文の痕跡、大量の人骨、そして目前に迫るクトゥルーの〈落とし仔〉の再襲来。そう、アレは20年前にこの地に顕現した個体と同じものだ。

 尖った耳がぴくりと跳ねる。違和感にウルスラが振り向くと、扉が開いて男女二人の海浜警備隊員と一人の和装の女が入ってきた。

「Nice to meet you, Ms.……」

「ニホン語で問題ありませんよ、オノ一等監」

「これは失礼」フィオナに言われ、男、恰幅のよい初老の海浜警備隊員は挨拶をニホン語に切り替えた。「はじめまして。私は尾野ケンジ、ここ第三管区の本部長を務めております。ミス・ウルスラ、お噂はかねがね」

 差し出された手を、ウルスラは軽く握って返した。

「はじめまして、オノ一等監。この度は私と我が騎士への寛大な処置に感謝を」

「貴女の人類に対する貢献に比べればこの程度、大したことではありません」尾野は手を解き、柔和な笑みを浮かべる。「ただ今後は、事前に一報願いたいものですな」

「危急の用だったので、ね」ウルスラも笑みを返した。「ボクも〈落とし仔〉が討伐されたこの地で、あんなものを目にするとは思わなかった」

 含みのこもったウルスラの言葉にも、尾野は笑みを崩さなかった。

「そなたであったか」黒髪の、和装の女が口を開いた。「夜気に混じったツツジの香。地霊どもが騒いでおった。目くらましを振りまき、よう暴れてくれたものよ」

 その物言いが気に障り、ウルスラは和装の女を睨んだ。黄金色の瞳に、縦長の虹彩。話す際にちらりと見える犬歯は、人のものでは在り得ない。ニホンで活動するミスティックレイスは、主に二種族。角を持つキシンと、歳月を経た狐を祖とするもの。

「キミらが不甲斐ないからだろう? 四つ足。ボクらがやらねば、少なからぬ民が死んでいたさ」

「何も知らぬ夷狄の蛮族が勝手を申すな」

「キミらの罪過、ボクが知らないと思うのか?」

 その言葉にほんの微か、狐の瞳がゆらいだのをウルスラは見逃さなかった。半ば当て推量だったけれど、どうやら図星だったらしい。

「ま、いいさ」ウルスラは尾野一等監に向き直った。「それで勝算はあるのかい? 起源体、クトゥルーの〈落とし仔〉は……と、これはブッダに教えを説くと言うやつだね。愚問だったよ。キミらは既に一度、アレに勝ってる」

「これは手厳しいですな。元より、いずれまたこのような日が来ることはわかっていました」尾野は同伴した女の隊員に、持参した資料を配るよう促した。「我々も準備を怠ったつもりはありませんよ」

 ウルスラたちは手渡された紙の資料をめくった。ご丁寧に全文ブリタニア語訳が付いている。双炉式方術甲冑、弾体射出兵装、徹界弾……記述どおりの威力を発揮できるなら、確かに起源体殲滅の可能性は低いものではなかった。

「二基の星辰発動機構で、異なる星辰のフェートン効果から弾道を生成、同時に高伝導体の弾体を撃ち込む、か」自身、考えたこともない発想だったので、ウルスラは素直に感心した。「よく安定させたものだね。一歩間違えれば、星辰装甲と周囲の空間ごと〈大いなる天河グレート・スカイ・リバー〉に還元されてしまうのに」

「ヤタガラスたちの協力もあって、完成にこぎつけました。増産体制が整えば、我々人類の戦いも勝利に向けて大きく前進することになるでしょう」尾野一等監は腕時計を見ると、ブリタニアの一行を座席へいざなった。「そろそろ状況開始の時刻になります。では、こちらへ」




* * * * *




 悪夢、とはこの光景のことか。

 歪んだ視界の中で、半壊した僚傀が揺れている。揺れているのは僚傀かそれとも自分なのか。そのことさえも判然としない。ややもすればこみ上げてくる胃液を飲み下しながら、伊勢ソウリはコンゴウ改で駆けた。右腕に抱えたトウカは意識を失っていて動かない。果たしてこの状況下に生身を晒して、人は生きているものだろうか。しかし緊急除装せずヒエイごと彼女を運ぼうとしていたら、今頃は二人でこの世を去っていた。



 マルハチマルマル。予定どおり状況開始。第三管区の方術甲冑部隊は、不可触領域に向かって展開。回遊するD類特殊害獣を狩りつつ、戦線をポイントろ-三に向かって押し上げていった。状況は順調に推移し、ソウリたち第一小隊は不可触領域を目視できる距離に到達。数を増して押し寄せるD類を駆除している間に、特務部隊が不可触領域に突入した。

 最初の異変は、轟音。

 海上に重い衝撃音が轟き、陽炎の天幕から大質量が飛び出してきた。それはすぐに海面に叩きつけられ、転がり停止した。

 ソウリは薙刀の刀身を交換しつつ、それに向けて視界を拡大した。左腕部に盾となる装甲を備えた方術甲冑が、徐々に海中に没しつつある。特徴的なその形状は、不可触領域に突入したはずの甲種方術甲冑ショウキだ。ショウキは頭部を失い前面の装甲を剥がれ、頭のない繰傀士の肉体を顕わにしていた。

 ソウリの背を怖気が走り、身体が一瞬竦んだ。しかし、放置はできない。

「田和良警士、ショウキ繰傀士の回収に向かう。援護を」バディに通信を入れ、ソウリは即座に駆け出そうとした。しかし、いつもならすぐに返ってくる無駄に元気な返答が、ない。「田和良警士?」

 再度呼びかけるも、返答はない。ソウリがトウカの傀体の位置を確認して視界を向けると、月山刀を片手に棒立ちになったヒエイがあった。

「田和良警……トウカちゃん?」

「セン、パ……」

 呼びかけに、ようやく絞り出すような小さな声音が返ってきた途端、奇怪な衝撃がソウリを襲った。頭の芯を強く揺さぶるようなそれに、眩暈を起こし吐き気がこみ上げてくる。生唾を飲み込みかろうじて吐き気を抑え込むと、ソウリは頭を振って周囲を見た。

 視界の先に揺れていた、陽炎の幕がない。海面から次々にD類が巨大な顎を突き出し、喉を震わせるのが見える。


 PhHHhhh'nnnnNnnNngggGgGggggllLuuUUuuuuiiiIIiIIiiii mgggGGgGgGglWwWww'nNAaaAafFhhhHHhhh


 不可触領域が消えたのか。ソウリは自問自答する。いや違う。ここは


 Cthulhu R'lyeh wgGggGgAAAaaah'nNAnNnnaaAaagl fhhHHhtAsagnNnNnNNNNnn


 海が割れ、見上げるほどに大きな巨躯が立ち上がる。両棲類めいた大顎に覗く牙の列、水かきのついた前肢を持つその姿は、D類特種害獣のものだ。しかしその大きさが違い過ぎる。海上に出ている部分だけでゆうに20メートルはある。

「だ、ダゴン級……」

 それは大海嘯後に太平洋、大西洋でそれぞれ一度ずつ観測されたのみの、超大型のD類特種害獣亜種の呼び名だった。交戦記録は、いまだ何処の国の防衛機関にも存在しない。

 ダゴン級の左前肢に、ショウキと思しき方術甲冑が握られている。それを目の当たりにして、ソウリは理解した。ここは"不可触領域の中"だ。自分たち第一小隊は、明らかに不可触領域からは離れていた。理由はわからないが、不可触領域が急激にここまで拡大したとしか考えられない。

「隊長! 状況を……」

 万に一つの望みを抱いて、ソウリは後方の指揮車両、指揮所に通信を入れた。しかし返答は一切ない。当たり前だ、不可触領域ではあらゆる通信、観測が遮断される。独自の判断で行動するしかない。

 nNNaAnanAAAaaaa!!!

 ダゴン級が咆え、左前肢のショウキを投げ飛ばす。返すその前肢で、棒立ちになったトリュウを薙ぎ払った。その付近で、ショウキがトリュウに襲いかかって組み伏せ、その頭部を掴むとナイフで頸部を掻き切った。また別のトリュウが天羽々斬をショウキに向け、徹界弾を発射。どん、と鳴る重い破裂音。胸に弾体を受けたショウキは砕け散った瞬間に、命中箇所を中心に吸い込まれるように消滅した。

 ソウリの目の前で、特務部隊は同士討ちによって瓦解していった。混乱、の言葉だけでは説明できない。果たしてその繰傀士たちに何が起きているのか。突然気が狂ったとでもいうのか。


 Cthulhu R'lyehEEeeeEhhHhhEeEE!!!


 D類の大群が、唱和するように咆哮を轟かせる。その眼列が、ソウリにはこちらを認めて光ったように見えた。

 作戦失敗。急速離脱。指揮系統も何もかも、ここに全ては崩壊した。そう判断すると、ソウリはバディのヒエイに向かって駆けた。

「トウカちゃん!」

 幾度も呼びかけるも返答はない。ソウリのコンゴウ改が近づくと、ヒエイは膝を折って海面に倒れた。ソウリは緊急離脱訓練のままに、ヒエイの背部にある緊急除装レバーを引く。瞬時にヒエイは分解されて巻物状態に戻り、トウカの繰傀スーツがフロートを展開した。

 海面に浮くトウカを右手で拾い上げ、ソウリはコンゴウ改を駆った。出鱈目なサイズの巨獣とD類の大群に背を向けて。全速であっても、コンゴウ改の速力では獲物を追うD類の速度に及ばない。しかしこの一帯はソウリにとって、勝手知ったる長年の現場だった。海面、海中ともにおおよその地形は把握している。廃ビルや倉庫群跡を遮蔽に進めば、あるいは。



 三角跳びの要領で、コンゴウ改はビルの狭間を蹴り上がる。ごちん、と背後で顎が閉まる音が鳴った。左手を縁にかけて廃ビルの屋上に這い上がる。そこでようやく、ソウリは背後を振り返る気になった。

 果たして不可触領域を抜けられたのだろうか。センサー類もろくに見ずに夢中で駆けたため、自信がない。計器類は正常に見える。途中、幾度となく僚傀を目にした。自身と同様に全速力で退却する者がいた。D類の顎にかかり千切れる者もいた。要救助者一名を抱え、換えの武装もない有様では、緊急時のトリアージに従って見捨てるほかになかった。

 ソウリはコンゴウ改を背後の海に向けた。遠く陽炎の天幕が見える。ほんの少しずつ、ゆらぎの幕が湾岸に向かって近づいているように見えるのは、きっと錯覚ではないのだろう。ゆらぐ天幕から、第三管区の主力方術甲冑、コンゴウ改とヒエイが散り散りに潰走してくる。

 カァと烏の鳴く声が聞こえ、ソウリは傀体の視界を上に向けた。望遠に切り替えると、烏の肢が三本あるのがわかる。戦術陰陽士の使鬼だ。

『伊勢君! 聞こえる?』

 通信が回復し、切羽詰まった瑞元隊長の声が聞こえてきた。

「はい、こちら伊勢警士」大きく安堵の息をつきながら、ソウリは返答する。「不可触領域から、離脱できたようです。田和良警士が意識不明。受け入れ準備をお願いします」




* * * * *




 意見交換会議の席で、海浜警備隊員の青年がテーブルに身を乗り出した。

「つまり、遺伝子調整者は狂気に陥りやすい、と?」

 青年は、驚愕とショックを隠せていなかった。その蒼白になった端正な顔を見て、ウルスラは思う。ユピテル派も罪なことをしたものだ、と。彼はオガタ一等警正。今回のクトゥルーの〈落とし仔〉討伐作戦の指揮官だった男だ。歳は二〇代の後半くらいと若いが、相応に優秀なのだろう。大海嘯後、遺伝子調整技術が世界に公開されて、すぐに処置を受けた世代だ。その生まれを想像すれば、憐れでもある。恐らくは将来を嘱望されて、人類種の希望と見なされてこれまで生きてきたのだろうから。

「そういうことだね。汎人よりもその傾向が強いだけで、汎人だったら無事に済むってわけでもないけど」ウルスラは告げた。「感覚や能力が優れていることは、常に長所たりえるわけじゃない。常人、汎人なら遮断される刺激も、キミら遺伝子調整者は識閾下で処理されてしまうが故に、汎人以上に精神が多大な影響を受ける。異質で膨大な刺激に狂ったり行動不能になるだけならまだマシだ。キミたちは少なからず神性を、人外の因子を取り込んでる」

 神性移植について口にした瞬間、オノ一等監が咎めるような視線を向けてきた。それに構わずウルスラは言葉を続ける。危惧していたことが、そのまま起きたのだ。ユピテル計画、人類に神性を移植し、淘汰と世代を重ねて半神化し、〈古く忘れられた統治者〉に対抗させる。そんな企て、あってはならない。ボクはそんなことのために、剣を、星辰装甲を造ったわけじゃない。

「対した起源体によっては、起源体を上位存在と誤認してその意のままにされる可能性がある……恐らくあの作戦ではその現象が起きた」

 作戦生存者の証言が、ウルスラの予想を裏付けた。遺伝子調整者で構成された特務部隊の、同士討ちによる崩壊。

 安易な方策を取ったが故の陥穽。それはミスティックレイスの罪でもある。かつて神秘と人がともに在った時代への郷愁ゆえか。混沌の世に人に力を与えようと焦り、その結果生み出された子らの在り様をなおざりにした。神性の源となる半神、妖精、怪物たちは、力はあれど人よりはるかに不自由な存在だ。属する種族の性質、過去の誓約に縛られる。上位存在の命に抗い難いこともその一つだ。遺伝子調整者の高い能力は、そんな不自由さと不可分のもの。歳月を経れば、抗命も上位者を出し抜くことも不可能ではない。が、たかだか数十年ではまず無理だ。

 ただの人だけが上位存在に、神とも呼べる位階の存在に、身の程も知らずに反逆できる。最初の人がアブラハムの神に抗い、楽園を出たように。無知、愚かさと表裏の傲岸さと大胆さを、ただの人だけが持っている。

「回収されたショウキ傀体のレコーダーに、特務部隊の通話記録が一部、残っていました」

 挙手して発言したのは、海浜警備隊員の女だ。彼女については、会議の前に紹介があった。先の証言を持ち帰った生存者の上官で、名前は確かミズモト。

「帰還者の現況と合わせて、ミス・ウルスラの言葉を裏付けるものです」ミズモトはテーブルに置いた小型の巻物と再生装置を示した。「再生しますか? 聞き苦しい部分もありますが」

「是非」

 ウルスラはミズモトに向かって頷いた。

 ミズモトはオノ一等監が首肯するのを確認してから、再生装置を室内スピーカーのコードにつないだ。


『―ああああああああ『ふたぐん『んでっ、俺、何で、首に……が『いやぁっ! こないで、こないで!!『んぐるい『うぶっ…『ぐるうなふ、くとぅるう、るるい『出して、ここから出し』ふたぐ』ぼ…』ふんぐ』どうして』髪が抜け、え…エラ?』るlyeh』mglw'nafh Cthulhu』


 悲鳴と恐慌、狂気に捕らわれ変質してゆく者たちの断末魔が、ネリマ保安部会議室の空気を重く塗り替える。

 ミズモトはレコーダーの再生を停めると、手元の資料をめくり作戦参加者の現況を読み上げた。

「キョウト本部、第一管区第二防衛隊から選抜された特務部隊の繰傀士一二名がMIA(Missing In Action 作戦行動中行方不明)。第三管区各防衛隊の傀体繰士六〇名の内、帰還した隊員は四一名。一九名がMIA。帰還した隊員の内、一八名が緊張症ないしは汎恐怖症を発症。七名が作戦行動中の記憶を一部または全て喪失。四名が昏睡状態。現在も正常な意識を保っている者は、一二名」ミズモトは資料から顔を上げると、会議室の面々を見て、言った。「その一二名全員が、遺伝子調整を受けていません。対して意識障害を発症している者の七割ほどが、遺伝子調整者です」

 惨憺たる有様だった。この事態、決して予想外だったわけじゃない。遺伝子調整、神性移植による人体強化技術が世界に流布を始めてから二十と余年。ウルスラはずっと、その危険性をブリタニアのミスティックレイスたちと政府の人間たちに訴えてきた。

 しかし、ここまで容易く崩れ去るとは思ってもみなかった。ニホンの海浜警備隊は20年前に〈落とし仔〉を、恐らく完全ではないにせよ撃滅することに成功している。その手段は何処へ行ったのさ? ウルスラは肩透かしを食らったような気分だった。むしろ今、その手段を選ばずいつ選ぶのか。〈落とし仔〉は蠢動を始め、その支配域、不可触領域を拡大しているというのに。

「不可触領域が都市部に接するまで、あとどれくらいだっけ?」

「起源体の移動と領域拡大の速度が一定しないので、概算になりますが」ウルスラの問いかけに、ミズモトが答えた。「現在の都市の簡易結界の効力を考慮に入れても、おおよそ26時間後、明日ヒトナナマルマルには湾岸部居住区画に到達するものと推測されます」

 会議の場の、空気が重く張り詰める。作戦失敗の報は既に首都キョウトに届けられ、現在は政府と護国庁の間で対策会議が開かれている。このまま〈落とし仔〉を放置すれば、押し寄せる〈深きものども〉の大群によって都市は破壊され、拡大する不可触領域によってシェルターの避難民の多くが精神を破壊される。既に〈落とし仔〉の不可触領域は、度重なる破壊で弱体化したこの都市の結界を蝕んでいる。ザムザ症の発症者が更に出る可能性も高い。そうなれば大惨事だ。しかし残り26時間程度では、トウキョウ圏各都市の市民全てを安全圏に避難ことはできない。

 いまだキョウト本部からの指示は、ない。

「出し惜しみは無しにしないか、この島の守護戦士よ精霊よ」ウルスラは席から立ち上がると、この場の海浜警備隊士官たちと狐のミスティックレイスに向かって告げた。「このままではルルイエ浮上を待つことなく、明日にはこのトウキョウ圏が、遠からず列島全体が不可触領域、〈大いなるクトゥルー〉の勢力圏に沈む。こちらにはキミらに協力する用意がある」

 隣席でフィオナが気色ばむのがわかったが、ウルスラは無視した。

「出し惜しみとは心外ですな、ミス・ウルスラ」オノ一等監が反論した。「今回の作戦、我々は全力で臨んだ」

「とぼけている時間も余裕もないんじゃないか? オノとやら」ウルスラは知っている。彼らが秘し、語らなかった手段があることを。「C類起源体、〈クトゥルーの落とし仔〉の殲滅。射撃兵装なんて使わない、神性移植者も必要ない別のやり方があったはずだ。少なくともそれは、あの〈落とし仔〉を放逐寸前まで追い詰めたはず。復活に20年を要するまでに。何故それをやらなかった?」

 ウルスラの20年越しの問いに答えたのは、ニホンのミスティックレイス、永の歳経た狐の女。

「色々と足らぬでな」狐の女は答えると、何かを思い出すように目を閉じる。「あの時は確かに、九頭竜の眷属を滅せたと思うたのだが、このざまよ」

「伏莉様!」

「よい」伏莉は狼狽えるオノを見据えて黙らせた。「ことここに至っては、我らのみでは打つ手なし。夷狄の知恵を借りて民草を救えるのなら、一時の恥など安いものよ」

「あったんだね、やっぱり」長年の疑問が解ける。ウルスラは湧き上がる興奮を押し隠しながら言った。「〈古く忘れられた統治者〉の眷属を討つ技術が」

「クグツ舞、"倶威流くいるノ大太刀"」伏莉はその御技の名を告げる。「我が国に、帝の世よりも古くから伝わる破邪の舞よ。これを当代最高位の演者に舞わせ、神威を降ろして六体の傀儡武者の振るう六振りの剣に伝え、アレを討ち果たした……と、思うておった」

 舞、舞踊儀礼によって神性存在の力を借り受けたのか。古来、舞踊は神々と交信する術だった。正しく行えば、高次元の神の御力を、奇跡とも呼ぶべき事象を地上に顕すことができる。かつてはどのような人間社会にもあった技術たが、今はブリタニアを含めどの国でも絶えて久しい。それを、この島国の人々は変わらず伝え続けてきたのだ。眷属とはいえ、神に等しいものの一柱を滅ぼしかける純度で。

「それはすごい。これは社交辞令でもお世辞でもないよ」ウルスラは素直に感嘆した。「でも、足らないってのはどういうことだい? これまで伝えてきた技術があれば、再実行は可能だろう?」

「剣も足らぬが、何より演者、舞い手の技量がまず足りぬ。あの時、舞を献じた演者、鈴耶シノと同等の舞い手がおらぬのだ。育ててはいるのじゃがの。皆、まだまだよ」

「そのスズヤシノ本人は?」

「あの時、舞を終えるとこと切れたわ」言って、伏莉は瞑目する。「"倶威流くいるノ大太刀"は無面で舞わねばならぬ。妖神邪怪の悪疫邪気を、護るものなく身に受けねばならぬ。降ろす神威と引き換えに、シノは舞とともに命も捧げた」

 儀式魔術の多くは、対価を要する。それが人の命であることは、決して稀なことではない。もたらされる力が大きければ猶更に。しみじみ、神性存在などろくなものではない、とウルスラは思う。だからこそボクは〈夜明けの風〉を造り上げた。

「映像記録があれば見せてほしい」ウルスラは見てみたかった。太古から伝わる、神の御力を降ろす秘儀を。その神格、その力の在り処を示す星がわかれば、〈夜明けの風〉の手を伸ばせる。〈古く忘れられた統治者〉を打倒する力になる。「可能であれば、実際の舞も見たいところだけど、どうだろう?」

「よかろう。秘中の秘なれど、この危機に体面など気にしておったらシノにも祟られよう」伏莉は苦い笑みを浮かべた。「弟子もこのまちに呼んでおるしの」

「最後に一つ。これはボクのただの好奇心から訊くことだけど」ウルスラは問う。隠された出来事のもう半分を。「20年前、どうしてキミたちはアレと、〈クトゥルーの落とし仔〉との接触を試みたんだ?」

 この街に残る全てが、20年前にクトゥルーとの接触が試みられたことを示していた。工場跡に偽装された、接触呪文儀式の痕跡。大規模に改修工事された、儀式用の非ユークリッド幾何学的歪曲空間。水中に大量に投棄された人骨は、ウィンディゴとの戦いの後に確認しただけでも、一八〇人分を下らない。工事の規模と大量死の人数から、この国の報道記録に記されてしかるべき事件なのに、ウルスラがどれだけ調べてもその記述は皆無だった。もちろん当時の政府の主導ではなく、世界中に蔓延るクトゥルーを崇める狂信者どもの仕業の可能性もあった。

 答えても、沈黙を守っても"答え"につながる問い。答えなければ、それは政府の主導ないしは何らかの関与が明らかになる。

 答えたのは、オノ一等監だった。

「……大海嘯から10年。界獣に脅かされ一向に進まない復興に、国民が変革を求めたのだ」オノ一等監は話し始めた。苦いものを絞り出すように。「結果、長く続いた政権与党が選挙で敗れた。発足した新たな内閣で、特種害獣に対しこれまでとは異なったアプローチが模索された。方術甲冑で戦い、駆除するのではなく、特種害獣の上位者と何らかの交渉、取引を行うことはできないだろうか、とな。……結果は、貴女の知ってのとおりだよ。C類起源体、〈クトゥルーの落とし仔〉が顕現し、二〇〇名を越える接触実験参加者を巻き込んで、新トウキョウ湾岸にいま一度の破壊、小規模な大海嘯をもたらした。当時はトウキョウ圏全土が封鎖されていた。そのお陰で人的損失が最小限で済んだのが、不幸中の幸いだったよ。私が言っていい言葉ではないがね」

 雄弁な沈黙が会議室を満たした。海浜警備隊の若い士官たちが、驚きと物問いたげな視線をオノ一等監に向ける。初耳であったのだろう。無理もない。

 国家を担う議員を選ぶのは民衆、されどその選良を選ぶ民衆の賢明さを保証するものは何一つない。

「この国の上にいる連中の耳に、嘯いたヤツがいるんだろうな」忌々し気に、ウルスラは吐き棄てた。「〈古く忘れられた統治者〉の一柱、〈大いなるクトゥルー〉が交渉可能な存在であるかのように。狂人かダゴン教団に連なる者か、はたまた他国の扇動者か……吟唱詩人に悩まされるのは、いつの世も似たようなものだね。でもその追及はひとまず後だ」

 ウルスラは立ち上がる。

「準備にとりかかろう。キース、そこの彼女、ミズモトと一緒に、生き残りの兵から使えそうなのを選抜。突入部隊の再編成を」

「Yn eich ewyllys(御意に)」

「え? 私ですか?」

「そう。キミだ」驚きに目を丸くするミズモトに、ウルスラは言った。「あの話を聞いていても、キミは顔色を変えなかった。神性移植者にしては、ちょっと見所があるよ」

 会議室の席についてから、彼女は始終、不景気な表情を変えなかった。他の若い士官たちが、絶望、蒼白、無表情と様々に表情を変える中で。この世はどんな出来事も、悪い方へ転ぶのが当たり前だと言わんばかりに。常に最低最悪な状況を考えている者は、希望を心に思い描く者に比べて、非常の場において強靭だ。

「ちょっと待ってくれ!」オノ一等監が叫ぶように言った。「再突入するつもりなのか? あの不可触領域に? 本部の判断は……」

「目の前の問題を、責任を上位者に投げるのはもうやめにしないか?」この会議室にいる者すべてに向けて、ウルスラは選択を迫る。「選ぶんだ。今、ここで。危機を打倒するか否かを。〈落とし仔〉の一柱程度、ここで討てねばボクらに未来はない」

「……なかなかに手厳しいの。夷狄の女妖は」しばしの沈黙を、伏莉が破った。「この度の責は儂が負おう。この邑の結界、ここまで蝕まれては、どのみち儂の責も問われねばなるまい」

「伏莉様……」

 疲れ、縋るようなオノ一等監を一瞥して、伏莉は言った。

「それにウルスラとやらには、勝ち筋が見えておるようじゃ。そうであろう?」

 ウルスラは言葉にせず、にやりと不敵な笑みで答えてみせた。

「さあ、時間は残り少ないよ。フセリ、だっけ? 早速、舞踊について見せてほしい」

「承知した。すぐにヒヨリを呼び寄せよう」伏莉は立ち、扉に向かって身を翻す。「ついて参れ。しかしアレらの知識については、そなたらに一日の長があるのう」

「ボクらの国は、大海嘯の前からあっちの干渉が幾度となくあったからね」ウルスラは伏莉の背を追う。「否も応もなく、さ」

 妖精たちが去った後、ブリタニアにおいては魔術を探求する人間たちが〈古く忘れられた統治者〉についての知識を深めた。ある者は森羅万象世界の真理を探究するため、またある者は神の座、虚空の一座エン・ソフに至るために。人界と妖精の世界を行き交う"取り替え子チェンジリング"たちが、その知識を妖精たちの住まう霧の向こうにもたらした。

 伏莉は振り向き、ウルスラに問う。

「そなたたちは滅ぼせるのか? あの化外という言葉すら遠い、祀りえぬ神の仔を」

「私たちはそのためにやって来たのです。霧の帳の彼方から」ウルスラは答えた。「力を尽くしましょう。蒼天にかけて」

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