第5話 はじまりの場所(後編)

 見上げた視線の先は、半球型の監視カメラ。ご苦労なことだ、と思いつつメイハは机に突っ伏した。アヤハが乗っ取った路駐のヨロイを使ってケイを追いかけ、その途上で海浜警備隊に捕捉・補導されたのが一昨日のこと。妹と二人、今に至るまでネリマ保安部施設の収監室に留められている。

 幸い、ケイのヨロイがこの施設に運び込まれるのを見かけた。同じ建物の内にいる分、少しは安心だ。外は巨大な何かと界獣の大量出現で大きな騒ぎになっている。そのためか、こちらは簡単な聴取の後はほとんど捨て置かれていた。

 ワタシは無免許繰傀で、アヤハは方術甲冑の違法起動か。ナスとか名乗った女の調査官に告げられた罪状が、メイハにのしかかる。聴取中、家族を、弟分を助けるためだった、界獣から逃れるためだったと訴えてはみたものの、さして取り合ってはもらえなかった。代わりにケイについてあれこれ訊かれた。最近、御幡ケイはどんな様子だったかと。

 明らかにおかしかったと正直に答えてもよかったが、メイハはそうせず「別に」で通した。聴取中、アヤハが伝えてきたのだ。彼らは何らかの事情で、ケイの情報を知りたがっている。ケイの情報は、有利に話を進める取引材料になると。その間〈姉妹のことば〉がわからない調査官は怪訝な顔をしていた。

『外が、騒がしいですね』メイハの斜め向かいで、アヤハが虚空を見つめている。『この建物に、沢山の人が集まってきてます』

『大きなアレと、界獣どもを退治するためだろう』メイハは机から顔を上げた。確かに、外の足音が前より幾分騒々しい。『ケイはどうしてる?』

『心音、呼吸ともに正常です。うつらうつらと、寝ぼけたような感じでしょうか』

 うっすらと微笑んでアヤハが答えた。妹は耳がいい。多少外が騒々しくても、同じ建物内ならば、一度聞き分けた音の判別などわけもない。

『なら、いいか』

 言って、メイハは再び机に突っ伏した。




* * * * *




 監視モニタの映像内で、少女が二人、言葉を交わしている。仕込まれたマイクは音声を拾い、録音しつつヘッドホンに伝えてくる。それを聞く那須タマミは、内心で頭を抱えていた。この子たち、何語で話してるの? ニホン語でもバラタ語でも、ましてやブリタニア語でもない。特安部の外事課保安官として、世界の主だった言語はほぼ習得している。しかし今、少女たちが発している言葉は生まれて初めて耳にする。所々に「keai」と少年の名前らしき音が入るのはわかるが、それだけだ。前後がまったくわからない。そもそも言語なのこれ? 獣が唸り合ってるだけじゃないの?

 補導された二人の少女は、無許可で運用された他国の星辰装甲の騎手の縁者だった。そのため騎手の少年の確保後すぐに、特安部で調査報告書がまとめられた。玖成メイハと玖成アヤハ。姉妹。キョウトにて、玖成イクコの私生児として誕生。父は剣菱祭技工業の専務取締役、桂木シゲミチと推定される。遺伝子調整者。二人とも四歳時検診で不完全発現者と判定。6年前の2018年7月27日、ネリマ市第六封鎖地区で保護される。それまでの間、病院への通院記録、小等学校への就学記録ともになし。当時はトウキョウ圏の都市防衛システムが本稼働を始めた頃で、全国からトウキョウ圏内の各市に移転する世帯が多かった。彼女たちの書類は、市役所に集まる膨大な量の転居手続きの中で見逃された。

「そんなんだから役人は税金ドロボー呼ばわりされるのよ」

 ごちながらタマミは報告書をめくる。保護された当時、二人はほぼ野生児と言ってよい状態だった。玖成姉妹の初等教育に当たった教員、山城フミコ女史の記録によると、姉妹は変形したニホン語の単語に唸るような音を組み合わせた、姉妹二人でのみ通じる独自の言語を発達させていたという。

 独自の言語を発達させたということは、まともな話者が近くに皆無だったことの証左だ。保護されるまで、姉妹はどのような環境で生きていたのか。報告書には"隔離環境""重度ネグレクト"と書かれているだけで、後は想像するしかない。強いて想像したいものでもないけれど。

 そんな言語で話をされたのでは、余人がわかるわけもない。多言語話者じゃなくて、言語学者とか、言い方は悪いけど動物学者とかの領分じゃないのこれ?

 立て続けに現れたザムザ症発症者と、結界塔の襲撃。EU圏から来たと思われる仮称〈銀鳩〉と〈黒武者〉の活動。新イタミ空港で失踪したブリタニアの要人と、ブリタニア製星辰装甲の無届運用……今月に入ってから特安部外事課の仕事は凄まじく増えた。果たして今のトウキョウに何が起きているのか。海浜警備隊との協力の下、外事課要員は今をもって原因究明と対応に追われている。課長は、彼女たちからできるだけ情報を収集してくれとか言ってくるけど。

「こんなの、どうしろってのよ」

 匙を投げたいタマミの見るモニターの中では、姉妹が食事を摂っていた。




* * * * *




 出された夕食は、カレーピラフとワカメの味噌汁。缶詰のものと思しきフルーツポンチ。シェルター避難の際に出る定番のメニューだった。

 栄養補給は大切だ。メイハはスプーンでピラフをかき込む。無駄に丈夫なこの体は、補給さえあれば役に立つ。これから何が起ころうとも。さっさとピラフをたいらげて、フルーツポンチを果物もろとも飲み干した。

「行儀が悪いですよ、姉さん」

 アヤハはピラフを半分かた食べ終えたところだ。

「今は非常時だ、許せ」メイハは手の甲で口をぬぐうと、言葉を切り替えた。『最悪、ケイを確保してこの街を出よう』

 無免許繰傀や違法改造の罪状は、平時ならきっと思い悩まねばならないのだろう。悪くすれば鑑別所なりに送られてしまう。しかし今はトウキョウ圏内すべてが界獣の、アヤハが言うところの「とんでもないモノ」の脅威に晒されている。とにかく生き延びることが最優先だ。

『そうですね。名残惜しくないと言えば嘘になりますが』アヤハは同意すると、ほんの少し、施錠されたドアに耳を傾けた。『ドア、壊せます?』

『わけもない。ケイの居所はわかるか?』

『もちろん。そろそろ目を覚ましそうです』ふとアヤハはピラフを掬うスプーンを止め、言葉をニホン語に戻した。「食べたいですね。兄さんの炒飯」

「そうだな」

 思えば人の手料理を食べたのは、あれが初めてだったかもしれない。メイハはポケットを探ると、くしゃくしゃになった紙カップを取り出した。変色し皺の入ったそれは、傍から見ればただのゴミでしかない。六年も前のものだから無理もない。

 メイハは紙カップを机に立ててみる。カップは潰れて細くなっているのですぐに倒れた。拾いあげて、手のひらに載せてみる。今、改めて見ると随分と小さい。これに触れたあの日には、もっともっと大きくて、何より暖かく感じたのに。それでもまだ暖かいような気がして、いまだに捨てもせず持ち歩いている。

 あの日、ケイが差し出したこのカップがなければ、ワタシは、ワタシたちはどうなっていただろうか。メイハは想像してみた。食べるものもろくになく、人の言葉もまともに話せない子どもが二人。この歳まで生きていられたか甚だ怪しい。仮に生き延びても、今の自分たちとは異なる別の何かになり果てていたかもしれない。あの頃のことを思い出すと、よくもまあワタシたちなんぞに関わったものだとケイの行動に呆れるし、胸の内からうまく言葉にできない何かが湧いてきて、知らぬ間に口からこぼれ出しそうになる。


 ごうごうばしゃばしゃと、ひどく強い風と雨が、暗い窓を叩いていたことを憶えている。


 幼いメイハは眠って起きて、ドアを見る。また眠って起きて、ドアを見る。いつもなら、知らぬ間に食べものの入った箱がドアの前にあった。見知らぬ"似たもの"が、箱を置いてドアから出るのを見かけることもあった。なのに窓が暗いままになってからずっと、箱は現れなくなった。眠って、起きて、ドアを見る。次はある。きっとあると思って眠る。それでも箱は現れない。

 飲むものはあった。出る場所があった。でも食べるものがない。毛布にくるまって転がる小さな"似たもの"は、か細い声で飢えを知らせてくる。

 このままではいられない。終わってしまう。何もかも。動けなくなって、消えてしまう。時々見かける小さな小さな、ぶぅんと音を出すもののように、あるとき音を出さなくなって、動かなくなる。食べられなくなってから、ワタシも少しずつ動きにくくなっている。同じだ。

 ずっと前、見たもの聞いた音を頭の中で追いかけた。それを記憶と呼ぶのだと、メイハはずっと後になってから知った。

 ずっとずっと前、ここでないどこかから、オカアサンに手を引かれ、ここに入れられた。決してドアに近づくな、近づけば痛くて怖いことになる。そんなことを言われたと思う。その時口にした「ハイ、オカアサン」が、メイハが思い出せる限りで最初に口にした言葉だった。

 ここでないどこかで、食べたことがあるのを思い出す。ここでないどこかには、ずっと食べてきたものよりも、気持ちよいもの、あたたかいものがあった。

 ここではないどこかに行けば、食べものがある。でもドアには近づけない。痛くて怖いことになると言われた。

 どうしよう、どうしよう。ものを知らず、助けを求めて声を上げることすら知らず、ただ惑うばかりの幼い顔を、一瞬、青紫の稲光が照らす。刹那の後に雷鳴が轟き風が唸り、メイハはびくりと体を竦ませた。

 稲妻と風は、暗い窓の向こうから。

 恐る恐る、幼いメイハは窓に近づいた。顔を寄せて窓の向こうをじっと見る。ごうごうと鳴る暗闇の中、下に小さく光るものが幾つも見えた。

 メイハは窓を叩いた。小さな拳を握りしめ、力いっぱい叩きつけた。

 窓にびしりと、蜘蛛の巣状に罅が入る。更に叩くとガラスが割れ、拳が外に突き出た。破片が手を裂き血が滴る。メイハは痛みに顔をしかめたが、血はすぐに止まり痛みは消えた。

 幾度も叩いてガラスを砕き、穴を広げる。風と雨が強く吹きこんで、伸び放題に伸びたメイハの髪をなびかせる。ガラスを叩く手よりも、頬を叩く雨粒のほうが痛いくらいだ。窓の穴が広がるにつれ、吹き込む風雨も強くなる。はじめて触れる風と雨に、小さな"似たもの"が怯えるように「mE,Vuiuu」と鳴いた。

「ikNnnnAa,uyUrrrr,aY」

 メイハは血濡れた手で小さな"似たもの"を抱えこむと、窓の穴を抜け暗闇の中へとその身を躍らせた。

 初めて感じる浮遊の感覚も束の間。背を打つ衝撃にメイハは呼吸ができなくなった。背から全身を激痛が駆け抜け、呻き一つあげることができない。がふ、と口からぬるいものがこぼれる。しかし痛みはすぐに消え、代わりに飢えが一際強く襲ってきた。

 食べものは、どこにある? 叩きつけるような雨の中、メイハは小さな毛布の塊を抱えて立ち上がると、遠い小さな光に向かって駆け出した。


 それから何処をどう進んだのかは、あまりよく憶えていない。明かりの下に沢山の食べものが並んでいるのを見つけて、掴み取って、ニンゲンたちに追われて駆けて。アヤハを抱えて逃げ込んだのが、あの遊園地跡の建物だった。

 メイハは紙カップを再び机に立てる。今度はうまくバランスが取れて、倒れない。頬杖をついて、その危ういバランスを眺めて思う。これはワタシの、ワタシたちにとっての起点。きっとここからワタシは始まった。




* * * * *




 その日からケイは毎日、午後を遊園地跡で過ごすようになった。小学校から帰宅するなり、店の残りものをかき集めてバックパックに突っ込んで。二人の子とごはんを食べたり、二人が寝起きする瓦礫の穴の巣を、風雨が入らないようにブルーシートで補修したり。

 夜まで家を空けていても、ケイは父にも姉にも咎められなかった。父は店の仕事と入院している母の世話で、姉もまた学業と母の世話で忙しく、接する時間が僅かになっていたせいだ。店のある最寄り駅から母のいる病院までは、水陸バスを乗り継いで一時間以上かかり、小学生を連れての頻繁な見舞いは難しかった。

 それでも週に一度、土曜の午後にはケイも姉と待ち合わせて見舞いに行くことができた。


 治療の副作用で髪の薄くなった母を見て、痩せても努めて明るく振舞おうとする母を見て、ケイは言った。

「母さん、ぼくに何かできることはない?」

 そのたびに、母は言うのだ。

「ありがとう。でもお母さんは大丈夫。ケイはちゃんと勉強なさい」

 入院中の病者に、十にもならない子どもができることはさしてなく。せめて父と姉の邪魔にならないようにと、ケイは努めて一人で過ごした。


 だから、なのかな。ケイは今でも考える。困窮する二人の子に、メイハとアヤハに食べ物を与えたのは。遊園地跡で二人と過ごしている間だけは、何もできない自分を忘れることができたから。


 そんなある日に、姉と一緒に母の見舞いに行くと、ケイを見るなり開口一番、母は言った。

「ケイ、仲良しの子でもできた?」

「え、と……」ケイは言い淀んでしまった。二人のことは、何となく言ってはいけないことのような気がして。「まあ、そんなとこかな」

 その日の見舞い時間が終わるまで、母はずっと笑顔でいた。

 帰りのバスで、姉に言われた。

「ケイ、ちゃんと最後まで面倒見なさい。飼うなら一緒に父さんに頼んであげるから」

 毎日のように残り物を持って何処かに行く弟について、姉なりに思うところはあったらしい。

 面倒を見ているのは人間だとも言い出せず、ケイはただ「あー…うん」と頷くことしかできなかった。


 そしてその日はやってきた。台風続きのあの夏、最大の台風がやって来た日。

 学校は夏休みに入り、店も台風を前に終日閉店。居間のテレビは昨夜からずっと、強風注意報と大雨洪水警報をテロップで流していた。

 家は雨戸を閉め切っていて、外がどんな状況かケイにはわからない。ただ雨戸に叩きつけてくる雨粒が、家屋を揺らす強風が、外の嵐の凄まじさを伝えてくる。

 ケイはそわそわと落ち着かず、二階の自室と一階の居間を行ったり来たりした。二人は大丈夫だろうか。あの体育館みたいな建物、柱はまだまだ頑丈そうではあったけれど、ブルーシートを張った天井や壁はもうとっくに水浸しになっているだろう。寝床に水が流れ込んでないだろうか。きっと寒い思いをしているに違いない。行ってどうにかしたいけれど、辿り着ける気がしない。昨日、遊園地跡からの帰り道の時点で、何度も風に飛ばされ転びそうになりながら帰ったのだ。より風雨の強くなった今日、行けばどうなることか。道だって水没しているかもしれない。

 それでもやはり心配で、ケイは家の中をうろうろと歩き回る。落ち着きなさいと姉に叱られ、しぶしぶ居間のテレビの前に座った。


 ……決壊したトヨシマ市西部堤防について、現在、応急処置作業が急ピッチで……


 画面の向こうでは、暴風雨の中、丙種方術甲冑の作業員たちが忙しなく動き回り、軽々と土嚢を積み上げている。

 ガタンと物音がした途端、冷たい風と水の粒がケイの頬を叩いた。振り向くと、玄関を開け父が入ってくるところだった。

「帰ったぞお」飄々と言いながら、父は玄関を閉めると肩にかけた円筒を降ろす。「ちょっと外を見てきたが、この辺はまだもちそうだ」

 父は商店連合の人たちと一緒に、町内の水没地の確認に行っていた。

「こんな日に『ちょっと外を見てくる』って、死にに行くようなものよ?」

「商店連の人たちと一緒だから大丈夫だって。ヨロイもあるし……」

 姉と父が話している。しかし何を言っているのか、ケイの耳に入らない。ケイの目は、父が肩から降ろした円筒に釘付けになった。それはヨロイ、丁種方術甲冑。ミスティックレイスからもたらされた技術で造られたそれは、水を遮り、水面を駆けることができる。

 ケイはこれを繰傀することができた。免許を取得できる年齢ではなかったけれど。トウキョウ圏の再開発地域では、人手が圧倒的に足りないこともあり、丁種ならば無免許でヨロイを繰り軽作業を行っても見逃された。ケイも父に教わり、ヨロイで荷物の搬入を手伝うことがあった。


 トウキョウ圏の界獣の活性化を確認。護国庁より、特種害獣注意報が発令されました。今から挙げる地域にお住いの方は、外出を避け、海浜警備隊もしくは警察の指示に従ってください。トヨシマ市、ネリマ市……


 界獣、活発化。テレビの発した単語が頭に届いた瞬間、ケイは駆け出した。父のヨロイの円筒を掴んで玄関を飛び出す。

「ケイっ!」

 後ろで叫んだのは父か姉か。ケイは吹きつける風に抗って円筒を立て、組紐を引いた。

 瞬く間にヨロイが展開し、巨大な武者が姿を顕す。ケイは風雨に目を細めながらその背に登ると、身体を滑り込ませて一目散に駆け出した。




* * * * *




 巣穴に、冷たいものが流れ込んできた。

 あたたかさを少しでも得ようと、与えようと、メイハは小さな"似たもの"を抱え込んだ。上下左右に張った青いものは、初めこそ冷たいものを防いでくれたものの、上から下から染み出してくる冷たいものを抑えきれず、今は冷たいものそのものになっている。

「…nKaa,iIIit」

 小さな"似たもの"が空腹を訴えてくる。メイハはスウェットのポケットから"甘く心地よいもの"を出すと、二つに割って一つを与えた。

 何という音がこれを表すのだっけ。メイハは割れた欠片を見ながら、頭の中を辿った。確かkeaiはこれを指して、chokoとかいう音を出していたように思う。齧って口に含むと、とても甘く心地よく、僅かに体があたたかくなったように感じる。

 そもそもkeaiは何なのだろう。姿は似ているものの、小さな"似たもの"とも何かが違う。かつてあたたかかったオカアサンとも違う。あたたかなものを運んでくる、奇妙な"似たもの"だ。

 眠って目を開けたら、ずっと暗いままだった。明るければkeaiが姿を現すころだったけれど、今はいない。きっと暗いせいだ。前にも暗いときには姿を現さなかったことがある。ならば明るくなれば現れるのだ。あたたかいものを持ってくるのだ。

 だからメイハは目を閉じた。今は体中が冷たいけれど。眠って、目を開ければ明るくなる。そうすればkeaiがあたたかいものと一緒にやってくる。はやく明るくならないかな……

 不意に、小さな"似たもの"が毛布の中で身じろいだ。何かと思って見てみると、いくつもの小さな紅い光が巡る眼で、メイハに見えない何かを"みて"いた

「kaaAAeee,iiuUUu,hiiiuuuuUU!」

 痛くするもの。大きいもの。くる。

 ぞわ、とメイハを気持ちの悪い冷たさが襲う。メイハは小さな"似たもの"を置いて巣穴を這い上がると、外を見た。

 rururruRRUUUururuuaaaAAAahhahaaaaa!!

 痛くするもの。大きいもの。が、大きな口を開けてこちらを向いた。




* * * * *




 ヨロイを駆ってフェンスを跳び超える。いつもなら茂みに隠れて潜り込むところが、ヨロイの脚力ならば一瞬だ。

 急げ、急げと己に言い聞かせながらケイは走る。叩きつける風と雨は、ヨロイの表面に触れるとぬるりと滑って逸れていく。水に満たされた道も遠回りせずに駆けていける。

 すごいと思うのも束の間、遠くaaaahhhhhhRurururu……と奇怪な鳴き声が響く。ケイは前に海浜警備隊のテレビ番組を観て、その音を聞いたことがあった。界獣だ。

 体の芯を、冷たいものがすぅっと通り抜ける。震える足を強く踏みしめ、半ば水に没したローラーコースターを蹴って、ケイは鉄の船を横目に体育館を目指す。坂を駆け上がり、崩れた壁から中に飛び込んだ。

 目の前に、巨大なそれはいた。後肢を雨水に溢れた地面に浸して、大きな顎から粘性の涎を垂らしながら。鰭のある尾をゆらし水かき付きの肢で這うように進む。雨ざらしの、瓦礫の小山に向かって。

 小山の中腹に、濡れそぼった姿を出しているのは、あの子だ。

 頭が白熱し何も考えられない。意味のある言葉なんてはるか遠くにすっ飛んだ。ケイは飛び込んだ勢いのまま、瓦礫を蹴って左肩から界獣に突っ込んだ。

 ヨロイとほぼ同サイズの界獣は、ビリヤードの球のように吹き飛び体育館の壁を突き破った。

 iiiiiIiiGyYaaaa!!

「ハッ……」

 止めていた息が一気に吐き出される。同時に時間が流れ出す。早く、早く、二人を連れてここを出ないと。ケイはヨロイの上体を除装すると、目を丸くして見上げてくる年嵩の子に言った。

「早く! 小さな子を連れてきて! 早くっ!」ケイは焦り、繰り返す。言葉が通じているのかも怪しいのに。「早く! ああもうとにかく急いで!」

 それでもこの場に危機が迫っていることは通じたのか。年嵩の子は巣穴に戻ると、小さな子の包まる毛布を抱えて出てきた。

 ケイはヨロイを小山に寄せると身を屈め、左手を伸ばして年嵩の子を抱える。小さな子が、年嵩の子の腕の中で窮屈そうにもがいた。

「こっちで持とうか?」

 人ひとりを抱えて、ヨロイにしがみつくのはきっと難しい。上体除装の状態であれば、繰傀者の胸から上が空く。提案したケイが差し出した手に、意図を察してくれたらしい。年嵩の子は小さな子をケイに預けた。

 なんとか間に合いそうだ。でも、もたもたしてはいられない。すぐに二人を連れてここを出て、家に帰って……後は、父さんと姉さんに相談しよう。きっとすごく怒られるけど。仕方ない。ケイはヨロイの身を起こし、崩れた壁に向ける。そこを抜ければ、この封鎖地区の外まで一走りだ。きっと間に合う。この手は、何もしないよりも良い結果に届く。

「hiiiuuuuUU!!!」

 小さな子が、悲鳴のような甲高い唸り声を上げた。

 弾かれるようにケイが振り返ると、界獣が発条のように跳ね、襲いかかってきた。ジグザグ無秩序に並んだ牙の列がもう目の前だ。

 何かを感じる暇もなく。横殴りの衝撃は左から。その直後、ケイは意識を真っ白に塗りつぶされた。



 目を開けて、ケイは体を起こした。頭の左に少し違和感があるくらいで、他に痛む場所はない。消毒液の匂いが鼻につく。よく似た匂いを覚えている。あれは母の入院する病院だった。なら、ここは病室なのか。目の前にあるもう一つのベッドは空だった。周囲はどこもかしこも白かベージュで塗られ、ここが何処なのか示すものは何一つない。あるのはせいぜい備え付けの洗面台と小さな棚だけ。壁にかかったアナログ時計は11時を指している。窓がないので、夜なのか日中なのかわからない。空腹の度合いから、昼間なんじゃないかなと思う。

 頭がはっきりしてくると、こうなる寸前の記憶が蘇ってきた。〈夜明けの風〉で界獣と戦い、その首魁とやらを斬り倒しに行って……外した。いや、外されたのか。海に落ちたウルスラは、皆は無事なのか。界獣の大群は、巨大な〈落とし仔〉はどうなったのか。

 誰か人を探して、いろいろ確かめないと。そう思うとケイはベッドを降りて、ベージュのリノリウムの床に裸足を着けた。

 その時、部屋の扉がスライドして開くと、スーツ姿の男が入ってきた。

「御幡、ケイ君だね」

 穏やかな口調で話す男の背は高く、スーツ越しでも引き締まった体型がわかる。

「はい、そうですけど。あなたは……?」

「失礼、私は波瀬ヨシカズ。護国庁特種安全管理部に勤めている者だ。少し君に訊きたいことがあるんだが、いいかな?」

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