第5話 はじまりの場所(前編)

 2024年 5月20日 護国庁海浜警備隊第三管区ネリマ保安部施設 16時13分


 空調は効いているはずなのに、額には薄く汗がにじむ。収容人数六十名の室内に、百名以上がひしめき合っているのだから無理もない。黒縁の眼鏡を外してレンズを拭きながら、伊勢ソウリは思う。ネリマ保安部の第一会議室にここまで大勢の人間が集まるのは、おそらく初めてではないだろうか。少なくとも、自分が配属されてからは初めて見る光景だった。

 第三管区の海浜警備隊員を、各拠点に最小限の人員を残して全てかき集めたのだから当然だ。今、自分たち海浜警備隊が、否、この国に生きるすべての人々が直面している事態は深刻かつ重大で、微塵の予断も許されない。正面スクリーン上には"C目標駆除作戦説明会"の文字が、太ゴシック体で映し出されている。手元の紙の資料には、海面から幾本もの触手を伸ばす巨大な何かが、遠景の粗い画質で印刷されていた。

 それは海浜警備隊内でC目標と呼称される、巨大な未知の特種生物の姿だった。今からおおよそ48時間前、C目標は突如としてD類特種害獣の大群とともにトウキョウ湾に現れ、都市部へと侵攻を開始した。しかし観測された直後、D類の群れとともに活動を休止、現在までポイントろ-三付近の海底に留まっている。しかしそれが恒久的なものだと楽観できる人間は、この国の何処にもいないだろう。大海嘯以後、人々は未だいつ止むとも知れない界獣の襲来に脅かされ続けている。

 C目標が活動を再開する前に、これを殲滅する。ニホン政府と護国庁上層部はそのように決断し、現在はそのための準備が進められている。C目標駆除作戦。その状況開始の予定時刻は明朝、マルハチマルマル。

「それでは、当作戦の駆除対象である"C目標"について、詳しいお話を伺います」会議の進行は務めるのは、第三管区本部の副部長、高橋二等警備監だ。「特種生物災害ツクバ研究所で特種害獣を専門に研究されている、那珂澤なかざわアツシ博士です。それでは先生、お願いします」

 高橋二等監に促され、白衣の中年男が壇上に上がった。彼は「あー、んっ」と軽く咳払いすると、マイクに軽く手を添える。

「あ、どうも。紹介にあずかりました。那珂澤です」那珂澤博士は丸眼鏡を指で整えると、おもむろに語り出した。「C目標、我々研究者が"C類起源体"と呼ぶ存在が新トウキョウ湾に現われたわけですが、正直に申し上げて我々にもわかっていることはほぼありません。というか、人間の脳と思考力であれを理解できるのか、甚だ疑わしい」

 いきなり敗北宣言じみたことを言われ、ソウリを含めたこの場の海浜警備隊員は動揺を隠せなかった。声に出す者こそいなかったものの、あちこちで互いに隊員同士視線を交わしている。ソウリも思わず左隣のトウカに目を遣ると、彼女の目が「マジっすか?」と訴えている。

「まあそれでも、観察や記録、古くから伝わる伝承から、多少なりとも見えてくるものはあるわけでして」那珂澤博士は聴衆の反応を無視して話を続ける。「そもそも何故、我々研究者があの存在を"C類起源体"と呼ぶのか。それは大海嘯以後、襲来した謎の敵性体群、皆さんの呼ぶところの特種害獣、界獣ですが、あれらの行動を観察する内に、一つの仮説が立てられたことにあります。無秩序に見えて、敵性体群は相互に連携し、高度に知性的な振る舞いをする。囮を使って罠を仕掛けたり、あるいは、特定の領域を勢力下に置くために、一部の個体群が陽動のように振舞うこともある。これはある種の自己犠牲、利他的な行動です。ならば利益を享受する何者かがいるのではないか。何らかの指令者、ボス、あるいは上位の命令者が存在するのではないか、と。そしてその仮説は、ミスティックレイスの協力を得ることで裏付けられました」

 那珂澤博士は手元のノート型端末を操作し、正面スクリーンに二枚の画像を映し出した。左の一枚は、木彫りの彫刻画の一部を拡大したもの。右のもう一枚は、古びた書物の一頁から抜粋された挿絵だ。彫刻画はディフォルメめいて単純化されていて、挿絵はより詳細に描かれている。しかし双方、同じものを描いていることは一目瞭然だった。

「USAの漁村に伝わっていた民間伝承と、セイレムの魔女たちが遺した記録は示していました。〈深きものども〉、ディープワンズ(Deep ones)、我々がD類特種害獣と呼ぶものたちが奉仕する、上位の存在がいることを」

 そして、那珂澤博士は三枚目の画像を並べて投影した。巨大な蛸のような頭部に、無数の超大な触手。生え伸びる、未熟な翼のような鰭のような皮膜あるもの。三枚目の画像は、ソウリたちが受け取った資料に掲載された画像を拡大したものだ。

 見比べればすぐにわかる。先の彫刻画と挿絵は、三枚目の画像に写されたものを描いていると。

「USA、ブリタニアの言葉で"Great Cthulhu"、〈大いなるクトゥルー〉、そう呼ばれる存在です」那珂澤博士はそこで眼鏡のフレームを整えると、端末から顔を上げてスクリーンの画像を振り仰いだ。「"C類"と呼称するのは、Cthulhuの頭文字を取っただけですな。更に言えば、クトゥルーとの呼び名も、正確なものではない。そもそも我々人類の発声器官では発音不可能な名称に、無理やり近い文字を当てているにすぎません。起源体……源と呼ぶのは、この存在が奉仕種族、D類特種害獣こと〈深きものども〉の発生源と推察されるためです」

 室内がざわついた。目前のトウキョウ湾に現れたものが、人間の領域を侵犯する敵を生み出し、命令を下す上位存在である。初めて知らされた事実に、ソウリも他の海浜警備隊員たちと同じく動揺を隠せなかった。それは最早、大海嘯以後のすべての惨状を引き起こした原因、首魁そのものと言っていいのではないか。大海嘯から30年余、どんなメディアでも記録でも、そんな情報が開示されたことはなかったはずだ。

 那珂澤博士はそこで言葉を切ると、聴衆である海浜警備隊員たちに向き直った。

「ここまでで、何か質問はありますか?」

 ソウリはすぐに挙手したものの、同時に伸びた無数の手に埋没してしまう。

 那珂澤博士に「では、そこのあなた」と促されたのは、第二防衛隊第二小隊の栄口一等警士だった。

「第二防衛隊の栄口です。C目標、C類起源体が、日頃我々が対処しているD類特種害獣の発生源ならば、今回のC目標殲滅作戦を成功させることで、D類害獣の発生を永久的に止められる、ということでしょうか?」

「残念ですが、そうはなりませんね」ソウリも抱いた疑問と期待は、那珂澤博士に至極あっさりと否定された。「今、トウキョウ湾にいるC類起源体の個体は、恐らくは複数いるであろう起源体の一体に過ぎません。丁度良いので次の話に移りましょう」

 次に映し出されたのは海上、D類特種害獣の群れを突っ切って駆ける甲冑騎士の画像だった。

「現状についての話です。一昨日のことですが、アルビオンの実験騎体が、その性能テスト中に偶然、出現したC類起源体と遭遇、これと交戦しました」

 ああ、そういうことになったのか。胸の内で呟いたソウリは、異なる事実を知っていた。緊急出動で担当区域に向かった際に彼は見た。所属不明の星辰装甲がC目標の触手をかいくぐって突撃し、弾き飛ばされるのを。そして活動を停止した星辰装甲の回収を急遽、命じられたのはソウリたち第三防衛隊第一小隊の面々だった。

 回収には来日中のアルビオンから派遣された星辰装甲、ハイランダーとウォードレイダーから成る部隊も加わり、その搬送とネリマ保安部への搬入は物々しい雰囲気の中で行われた。回収に前後して見たものを含めて、回収作業については緘口令が敷かれている。

 事前に何の通知もなく、他国の星辰装甲実験騎体のテストなんてあるわけがない。きっと高度に政治的なあれとか外交的なそれとかが絡んで、一介の海浜警備隊繰傀士には荷が勝ち過ぎる事態が起きているのだろう。関わるまい、とソウリは心に決めた。だから俺は、アルビオンの実験騎体を、W類追跡中に見てなんかない。実験騎体の除装後にストレッチャーに載せられて運ばれる少年なんて見てない。しかもその少年に見覚えがあるなんてこともない。

「現在、C類起源体は活動を抑制し、ポイントろ-三付近に留まっています。使鬼、光学機器、レーダー諸々全ての観測を遮断した空間を形成して。不可触領域、とでも申しましょうかね」

 那珂澤博士が端末を操作する。正面スクリーンが切り替わり、次に映し出されたのはメルカトル図法の世界地図だった。地図上には、赤く塗られた円が無数に散らばっている。あるものは洋上に、またあるものは大陸、島の上に。そして南太平洋上に、一際大きい円がある。

「この不可触領域、この地球上に幾つもあるんですよ。人工衛星―つい先日B類特種害獣に落とされたようですが―から確認できたもので、大小合わせて一一三箇所。中でもとびきり大きいものが、南太平洋にありますね。トウキョウ湾の個体が、数ある起源体の内の一つに過ぎないと申し上げたのは、そういう意味です。しかも特種害獣はD類だけではない。C類以外の起源体も無数にいる可能性が高いのです」

 飄々と言う那珂澤博士とは対照的に、ソウリは眩暈に似た感覚に襲われた。無数の赤い円が界獣の発生源を示すのなら、そこから今なお界獣が湧き出しているのなら、界獣を滅ぼしてこの星を元の姿に戻すため、人類はいつまで戦い続ければよいのか。退官を考えている俺が考えることではないのかもしれない。しかし、大海嘯と界獣の襲来という理不尽に僅かなりとも抗ってきた者にとって、この現実はあまりに過酷だ。

「先生にお伺いしたいことがあります」トウカの隣のユミが挙手し、発言した。「第一防衛隊の占部といいます。先生は先ほど、C目標がD類特種害獣発生の源だと仰いました。その発生の仕組みはどのようなものなのでしょうか? 私はC目標の出現時に、観測室で湾内にD類が次々に顕れる現象を見ました。あれは一体……」

 同じ場に居合わせたソウリも同じものを目にしている。観測室の水盤に起きる出来事は、戦術陰陽士たちが放つ使鬼―人工の使役霊が観測する情報を統合・反映させたもので、限りなくリアルタイムに湾内で発生する現象を再現する。そのままを読み取るならば、何もない海中に突然、D類が現れたとしか考えられない。そんなことがありうるのか?

 もっともな質問ですね、と那珂澤博士は頷いてから語り始めた。

「D類特種害獣こと〈深きものども〉の唐突な出現。イメージし易いようにSF的な慣用表現に従うと、これは瞬間移動、空間を捻じ曲げて2点間をつなげて移動する空間転移、に近いものだと思われます。この現象は既に20年前に……、え、これ話しちゃダメ?」

 瞬間移動、空間転移。いくら特種害獣が未知の存在だからといって、出鱈目にもほどがある。ソウリがそんな感想を抱いて話を聞いていると、高橋二等監が那珂澤博士に向かって慌てた素振りで手を振っていた。

「あー、まあ、科学的にしっかり検証されたというわけでもないんですけどね」那珂澤博士は取り繕うように話を続ける。「観察された事象やミスティックレイスたちの記述から、そのようなことが推察されるという次第でして。C類起源体は、我々人類の触れられない第四の軸に干渉できるのではないか、と考える研究者もいます。でもまあ実際にそれができるなら、もっと陸を含めたあちこちに現れてそうなものですが。何処とも知らない場所、世界から〈深きものども〉を呼び出す空間転移は可能であるが、何某かの制約がある、と考えるのが妥当かもしれません。ミスティックレイスたちに言わせると、その時の星の位置や他の起源体勢力との関係で、起源体の力は大きく変化・増減するらしいのですが……」

 歯切れの悪い那珂澤博士の言葉の後、ソウリの隣で勢いよく手が伸びた。

「博士! 質問があります!」どうぞ、と促され、トウカは立ち上がると勢いよく言い放つ。「C目標を殲滅すれば、この地域、この国の人たちは助かるんですか?」

 それは単純明快な、たった一つの確認事項。おそらくすべての海浜警備隊員が、それさえわかれば戦える。ネリマ市を含む湾岸都市群には現在、非常事態宣言が発令され、住民のほぼすべてがシェルターへの避難を完了している。大海嘯によってこの国の人々は多くを失い、嘆き、また立ち上がってきた。これ以上失わない、失わせないために海浜警備隊はある。海浜警備隊を志す者は皆、大なり小なりその思いがある。なければ己の命を危険に晒してまで、特種害獣と殴り合うような真似はできない。

「そうですね」那珂澤博士も、明快に答えた。「C類起源体を滅ぼせば、それ以上は〈深きものども〉を呼べなくなるはずです。新トウキョウ湾に現れるD類も、回遊する個体群の数を超えることはなくなるでしょう」

 これが最後の大仕事になるかもしれないな。ソウリは万一の際にと定期的に書いている遺書の内容を思い出す。書き直すことは……まあ、ないか。実家の両親の面倒は、きっと兄夫婦が見てくれるだろう。

 興が乗ったのか。那珂澤博士は話し続けていた。

「新たな起源体出現の可能性は、依然として残りますが。それを探るのが我々研究者の仕事なのでしょうな。彼ら起源体は異世界・異次元などから来たわけではなく、我々人類などよりはるかな昔からこの星にいた、という説もあります。だとすると、闖入者と呼ばれるべきなのは、我々人る……」

「那珂澤博士、ありがとうございました」

 高橋二等監が話を打ち切り、那珂澤博士は元いた席に戻っていった。

 それからは、キョウト総本部の第二防衛隊隊長、緒形一等警正が壇上に立ち、作戦の具体的な解説に入った。概要は次のとおり。現在、ヘリでトウキョウ圏に向かっている首都防衛の精鋭、第一管区第二防衛隊。その一二傀体からなる特務部隊が不可触領域に突入し、新武装をもってC目標を攻撃、これを殲滅。第三管区の第一から第六防衛隊は、特務部隊の途上に出現することが想定されるD類の排除を行う。

 各隊の担当区域と配置、行動開始のタイミング、非常時のフォローアップ……細かな内容を詰め、C目標駆除作戦説明会は終了、解散となった。作戦開始は明朝8時。小隊内で意識合わせを行って、早めに体を休めねばならない。

「自分たちは露払い、ってことっすか」第一小隊の待機室に戻るなり、トウカが不満をもらす。「巨大な敵に立ち向かってみたかったっす」

「ま、そう言うなって。こっちの相手だって、これまでにないD類の大群だ。気を抜けば一瞬であの世逝きになる。バディの二階級特進なんて嫌だぞ俺は」ソウリは自席に着いて、改めて資料の頁をめくる。「それに、この資料の新型方術甲冑と武装。いきなり渡されても扱えないだろ?」

 資料には、今回の作戦で初投入される新型の方術甲冑とその武装についても掲載、解説されていた。双炉式甲種方術甲冑トリュウと、双炉による属星相生相克効果を利用した弾体射出兵装"天羽々斬アメノハバキリ"、徹界弾てっかいだん……月山のキシンたちと剣菱祭技工業が共同開発したそれらは、星辰装甲系武装祭器の開発史上、初の射撃武装ではないだろうか。従来、界獣こと特種害獣の殲滅については、肉薄しての白兵戦しか手段がなかった。これを遠隔地からの射撃で可能とするのであれば、繰傀士の安全確保や飛行型特種害獣への対応において、海浜警備隊は大きく前進することができる。

「天羽々斬と徹界弾。スペックを見る限りすごいねこれは。D類の大型亜種を一射で屠った実績もある」

「でもこれ、足りるんすかね」同じページを見ながら、トウカが疑問を呈した。「投入される三体のトリュウに、徹界弾はそれぞれ二発ずつ。初見の敵を相手には正直、心許なくないっすか?」

 不可触領域に突入する特務部隊一二傀体は、一体のトリュウと三体のショウキで構成された三つの小隊で構成される。弾体射出時とその前後、トリュウは回避行動不能となる。作戦成否の決定力を持つトリュウを、ショウキが護る。

「読む限り、徹界弾には相当に希少な鉱物を使っているらしいからね。扱うのはキョウト総本部の精鋭だ。訓練だって半端なくやってる。万に一つも外さないよ。的はあれだけでかいしね」

 第一管区の海浜警備隊は、首都キョウトと御所を護るべく全管区から選抜された精鋭だ。更に現在はそのほとんどが、遺伝子調整者で構成されている。そんな精鋭中の精鋭たちが作戦の主力を担うのだ。勝算は高いはず、とソウリは思う。

 するとトウカは、んーと何かを思い起こすように視線を上に彷徨わせて、言った。

「アレ、使えないっすかね」

「アレ?」

「アレっす。あの騎士みたいなカッコいいヨロイが、C目標にぶちかましたアレっすよ」トウカが目を輝かせて、右手を手刀の形にして宙を斬る。「でっかい燃え盛る光の剣でずばーって! いや思い出しただけでテンション上がるっす。アレ、C目標の触手何本かぶった斬ってたから、確実に通用するっす」

 その光景は、ソウリも見た。それも含めて他言無用を言い渡されてるんだけどな……と思うも、今、待機室にいるのは自分とトウカの二人だけだ。まあいいか、と思い直す。

「アルビオンの実験騎体の武装、なんだろうな。どう考えても機密の塊だ。それも他国の。俺たちが申請して使える代物じゃない」

「まあ、そうっすよね」トウカは残念とばかりにがっくり肩を落とす。「でもあのヨロイ、乗ってたのニホン人の男の子だったっすね」

 ソウリは一昨日に目にした出来事を振り返る。少年のことを始めとして、あの日に起きた出来事は謎が多い。界獣の大群と起源体の出現。事前通達のない、他国の実験騎体テスト。その繰傀士、アルビオンで呼ぶところの騎手は、ブリタニア人ではなくニホン人の少年だった。更には市街地で四人がザムザ症を発症し、多数の民間人を殺傷している。


 あの日、ソウリたちが実験騎体をネリマ保安部のゲート内に運び入れると、施設からものすごい美女と赤毛の少女が現れた。美女のことはわからなかったが、赤毛の少女についてはソウリも見覚えがあった。ブリタニアから提供されたW類とザムザ症の資料、その最終ページに添付された写真の少女その人だ。

 彼女は何者なのか。美女ともども気になった。ヨロイを除装し収納筒を日地警士に渡しつつ、ソウリは彼女たちを横目で眺めた。長い金髪をシニヨンにまとめた美女。その瞳は虹か星々のような色で、耳は笹の葉のように長く尖っている。人では在り得ないその特徴はブリタニアのミスティックレイス、通称"妖精種"の証だ。

 ならば赤毛の少女も同じく、ミスティックレイスなのか。ソウリがそんなことを考えていると、赤毛の少女が実験騎体に近づいた。何やら美女と言い合っているのが遠目にもわかる。

 実験騎体の傍らで、赤毛の少女が奇妙な光沢のある板に幾度か触れた。すると実験騎体が除装され、中から小柄な少年が現れた。

 意識がないのか。力なく倒れ込んでくる少年を少女が抱き留める。そこまで見たところで、ソウリはトウカを伴い待機室へ向かった。

 報告のため瑞元隊長のいる待機室に向かう回廊で、ソウリとトウカは医務室へと運ばれるストレッチャーとすれ違った。目を閉じてストレッチャーに横たわる少年の面立ちに、ソウリは見覚えがあった。もう6年ほど経っているためか、彼の顔からは幼さが削れて男の顔つきになりつつある。が、間違いない。名前は確か


「ミハタ、ケイ君、だったか」

「知ってるんすか? 彼のこと」

「ああ、顔と名前くらいはね」少年を見た日のことを、ソウリは今でも鮮明に憶えている。「彼は俺のことなんか知らないだろうけどな」

「へえ、海浜警備学校で会ったとかっすか? それにしては、若過ぎるっす。でもあの年齢で、あれだけ傀体を繰れるってのも……」

 特種害獣と戦う仕事に携わるなら、最低でも高等学校を卒業後に海浜警備学校に入学・卒業して海浜警備隊員になるか、あるいは一八歳から取得可能になる乙種方術甲冑の繰傀免許が必須である。しかし御幡少年は誰がどう見ても十代半ばだ。

「彼がヨロイでここに運び込まれるのは、これが初めてじゃない」

「ヨロイでここに運び込まれるのが初めてじゃないって…… もしかして、過去にも界獣とやりあったとかっすか?」

「そんなところだ。彼は界獣と交戦している。6年前に」ソウリは思い出す。当時の記録で、確か彼は九歳だったはず。だから今は一五、六歳か。「実情は一方的に破壊されただけって検証結果だったけれど。彼は生き延びた」

「六年前って、彼、十歳にもなってないんじゃないっすか?」トウカが驚きに目を丸くする。「ありえないっす」

「でも本当なんだな。何せ、その現場に最初に突入したのは俺だしね」

 今でもソウリはその時見たものについて、自身の記憶に確証が持てずにいる。見たままを報告した結果、当時の上官には「見間違いだろう」と断定された。

 ネリマ市第六封鎖地区、遊園地跡の屋内館。その崩落し僅かに残った屋根の下。半壊した丁種ヨロイの中で、頭から血を流し、抱えた毛布の塊を濡らす男の子。その隣で、汚れたスウェット姿の子どもが、凄まじい眼光でD類特種害獣を見上げていた。

 あの時、あの界獣は動きを止めてはいなかったか? 体感として数秒、現場の緊張感から1秒にも満たない時間であったかもしれないが。

 すぐに当時のバディの僚傀が突入し、ソウリも共に界獣を駆除した。そのため、あの静止した光景が何だったのか、今をもって定かではない。人知の及ばぬ特種害獣の行動など、考えても意味がないとも思う。しかし現場に長く出て界獣相手に戦ってきた今ならわかるのだ。あれは異常な事態だったと。界獣が人間を前にして、動きを止めるなどありえない。肢が断たれる等の大きな損傷を負えば、退避行動はする。だが生きた獲物を前に無傷で止まることはない。

 あの汚れたスウェットの子も、無事に生きていれば少年と同じような歳だろうか。特安の知人から聞いた話では、何でもひどい育児放棄ネグレクトを受けていた子どもらしい。

 思考はあちこち脱線する。しかしこれ以上は考えても詮ないことだ。

「まあアルビオンの実験騎体の騎手なんてやってるわけだから、彼にも事情があるんだろうさ」

 ソウリが話題を打ち切ると、待機室に瑞元隊長を始めとした第一小隊の残りの面々が入ってきた。

「全員そろってるわね。ミーティングを始めます」

 相変わらずの不景気そうなトーンで、瑞元隊長が口火を切った。




* * * * *




 身じろいだ拍子に、頭の左が軽く痛んだ。浮上しつつある意識が痛みと記憶を結びつける。ああ、またここを打ったのか。あの時は七針縫ったんだっけ。話せるようになると、海浜警備隊の人に色々質問されて、その後で父さんに拳骨もらったんだった。あれは痛かったよなあ。それから「叱るべきなのか誉めるべきなのかわからん」「だから叱って、少しだけ誉める」とか、わけのわからないことを言われて延々とお説教を食らったんだった。姉さんも姉さんで「確かに私は、拾ったものはちゃんと面倒見なさいって、言ったけど、言ったけど……」とか言って溜め息ついてた。

 微睡の中でケイは思い出す。あの時のことは、メイハとアヤハに会った時のことはよく憶えている。ネリマ市に越してきて、父さんの店がオープンして二ヶ月目くらいだった。母さんが病気になって入院して、父さんと姉さんは店と病院を行ったり来たり。家族皆が慌ただしくしていた頃のことだ。まだまだ小さかった僕は、それでも父さんと姉さんの負担にならないようにと、なるべく一人で静かに過ごそうとしていて。



 ケイはフェンスの下の窪みを這って潜り抜けると、窪みに腕を通してバックパックを引き入れた。シャツの腹についた土埃を払って、バックパックを背負うと茂みから顔を覗かせる。右に左に周囲を窺い、誰もいないことを確かめてから茂みを出る。向かうは巨大な鉄の船。一人ぼっちの冒険で見つけたお気に入りの場所だ。

 初夏の日差しに目を伏せながら、ケイは水浸しの広場を駆ける。耐水ブーツだから少々の水は平気だ。深いところは、飛び石のように覗くローラーコースターを踏んで跳び進む。台風続きで何日も来られなかったけれど、辺りはほとんど変わっていなかった。水が少し深くなっているくらいで。何か所か水が深くて進めない場所があったけれど、迂回のルートを探って進むのもまた楽しい。

 傾いだコーヒーカップの遊具に手をかけて越えると、大きな褐色の船が見えてくる。青空を衝く鉄柱に船体を預け、水没した街を臨むその様は、今にも出航しそうな帆船にも似て。昔は鉄柱にぶら下がって、宙を大きく振り子のように揺れる乗り物だったと聞くけれど。ケイは信じられなかった。こんなに大きい鉄の船が、宙に浮くわけないじゃないか。

 ケイはブーツを脱ぐとスニーカーに履き替え、鉄の船に接する建物に窓から入り込んだ。水たまりを踏んで階段を上れば、すぐに屋上の船着き場に出る。見晴らしの良いその場所から、船に跳び乗る。

 幾列もある座席の背もたれを駆け、柵を越えて舳先に立った。ここからは水没した街並みと、その向こうの新トウキョウ湾が一望できる。ケイはここから臨む風景が好きだった。物心ついた時から世界は界獣の、理不尽な脅威に晒されていて、どこに行こうにもその危険が付きまとう。どれだけ望んでも、ある場所から先には進めない。でもここからの風景を見ていると、世界は今いる場所からどこまでも拡がっている。そんな風に思えたから。

 ケイは舳先の赤く塗られた床に座ると、バックパックから弁当を出して横に置いた。店のテイクアウト容器に入っているのは、父が作り置いてくれた唐揚げと、ケイが残り物で作った炒飯だ。今日は金曜日で授業は昼まで。父は店で忙しく、高等部生の姉は当然学校だ。夜まで一人で過ごさなきゃならない。そんな今日のような日は、ケイは日が落ちるまでこの場所にいた。弁当を食べた後は、図書室で借りた本を読んだり、昔は遊園地だったというこの場所を探検したりして過ごす。

 弁当の次に出した本は、アン・ローレンス著"五月の鷹"。昔、母に絵本で読んでもらってから、ケイは騎士物語が好きだった。バックパックからスープの入ったマグボトルを出すと、さあ食べようと弁当に手を伸ばして

 横を見ると、弁当がない。ぱしゃんと鳴った水音に、ケイは船下を見下ろした。

 裸足の小さな人影が、猛スピードで駆け去ってゆく。その手に、みはた食堂の弁当容器を引っ掴んで。その姿は伸び放題の黒い髪に覆われて、まるで手足の生えた汚いモップのように見えた。

「待て!」ケイは叫ぶも、モップびとは欠片も止まる素振りを見せず、瞬く間に小さくなっていく。「なんなんだよ、もう!」

 一人ごちると、ケイは船を飛び降り階段を下って、駆ける背中を追いかけた。空腹と予想もしない理不尽に苛立ち、駆け足が自ずと速くなる。

 モップびとは、とんでもなく器用に水没していない瓦礫や遊具を踏んで跳び、伝って駆ける。この辺りを探検してよく知っているケイでも、なかなか追いつけない。それでも近道を知っていることもあって、見失うこともなかった。

 ケイが乾いた坂道に行き当たると、モップびとの汚れたスウェットの背中が、坂の上の大きな建物に消えるのが見えた。確かあそこは、体育館みたいな場所だったはず。更衣室か何かだったのか、沢山のロッカーを見た覚えがある。

 ケイは建物に辿り着くと、息を整えてから入り込んだ。なるべく音を立てず、静かにゆっくりと。見渡せば屋根の半分ほどは崩れ落ち、残った半分もあちこち破れて陽の光が射し込んでいる。

 壁が崩れた建物の隅。瓦礫が重なり小山のようになった一角から、かすかに物音が聞こえてくる。音の源を目指して、ケイは忍び足で向かった。瓦礫の丘を登り、音の在り処を見定めようと、そっと顔を覗かせる。

 眼下の光景を見た時、少年の心を占めていた苛立ちはあっさり消えてしまった。替わりに湧き上がってきたのは、ほんのりと暖かな不思議な感情だ。

 モップびとが、もっと小さな毛布ぐるみの子どもと弁当を分け合って食べていた。二人とも手づかみで、一心不乱に炒飯を口にかきこんでいる。小さな子が喉に詰まらせたのか苦しそうにすると、モップびとがペットボトルの水を飲ませた。モップびとの姿が、よりはっきりとケイの視界に入る。背丈はケイより少し小さいくらい。その顔も思っていたより幼くて、小さな子より一つ二つ上くらいにしか見えない。

 からん、とケイの手元の瓦礫が音を立てた。

 ケイがまずいと思うのも束の間、モップびとが気づいて見上げてきた。モップびとは敵意剥き出しの目でケイを睨むと、SHaaAAAA!と威嚇の唸りを上げる。その勢いに気圧されて、ケイはバランスを崩し瓦礫の小山を転げ落ちた。

「あ、痛……」

 体を起こして確かめると、左手を少し擦り剥いていた。

 あの子たちは何なんだろう。どうしてこんな場所で。幾つもの疑問が、いまだ幼い少年の頭を過ぎる。けれど、ケイは自分でもよくわからない衝動に駆られて、鉄の船に向かって走り出した。

 船に着くなり、舳先に向かう。荷物をバックパックに放り込むと肩にかけ、ケイは船体に傾いだ鉄柱を伝って下に降りる。階段を使うのがもどかしい。水たまりを越え坂道を上って、大きな建物に入ると再び足を忍ばせた。そろりそろりと静かに瓦礫の小山を登る。大きな壁材から顔を覗かせて見ると、二人の子どもはまだ食事中だった。

 モップみたいな年嵩の子は手のひらを舐め、毛布の小さな子は弁当容器に顔を突っ込んでいる。

 ケイはバックパックからマグボトルと紙カップを出すと、二人に向かってゆっくりと瓦礫の小山を下った。すぐに気づかれ、年嵩の子が怒りの形相で威嚇してくる。

「大丈夫、変なことはしないから……って、変なことって何さ」言った自身に突っ込みながら、ケイはゆっくり二人に近づく。ボトルの蓋を開けて、紙カップに注ぎながら。「どう? まだあったかいよ」

 ケイはスープを注いだ紙カップを差し出した。

 年嵩の子が鼻をひくつかせて、湯気の上る紙カップに視線を向けた。怒りの形相が溶け、驚いたような困ったような奇妙な表情に変わる。うーと小さく唸りながらにじり寄ってくると、手を伸ばしかけては引っ込めてを繰り返す。

「その子の面倒を見てるんだろ?」ケイは、年嵩の子が小さな子に食料を多めに与えているのを見て取った。「なら、きみもしっかり食べなきゃ」

 年嵩の子の様子から、言葉が通じているのかは怪しい。けれど、ケイは言わずにいられなかった。理不尽を前に誰かを助けようとしている人は、もっと誰かに助けられていい。そう思うから。

 年嵩の子はケイの目とカップを交互に見ると、ケイの左手ごとひったくるように両手でカップを掴んだ。

「わっ!」

 予想外の強い力に引き寄せられて、ケイは転びそうになる。しかし年嵩の子はお構いなしに、ケイの左手ごとカップを口に運んだ。

 汗と垢、糞尿の混じったにおいが鼻を衝く。動物園のにおいだ、とケイが思うのも束の間、間近で見る年嵩の子の表情に余計な想念は吹き飛んでしまう。

 スープを啜ってカップを下ろしたその顔には、ほのかな湯気に彩られて、かすかな笑みが浮かんでいたから。

 この子もしかして、女の子? 気づいたケイは急に気恥ずかしくなって、カップから手を離そうとする。しかし彼の左手は万力か何かで固定されたように離れない。外せない。

 そんなケイを気にする素振りもなく。汚いモップのような女の子はスープをもうひと口飲むと、カップを小さな子に与えようと運ぶ。

「ちょ、ちょっと待って痛いよ痛いってばああああ……」

 ケイはそのまま引きずられていった。



 思えばあの時、封鎖地区に侵入していたことを怒られるのを承知で、僕が二人のことを大人に話すことができていたら、その後の結末はまったく違ってたのだろう。

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