第3話 食卓の風景(後編)
方術甲冑技士の
五本目の金属棒が取り出された直後、円筒から砕けた金属片がバラバラとこぼれ落ちた。
「左腕の骨格柱が完全にいかれてるねえ」セイジは蒼い筋の入った金属片の一つを拾い上げると、かけた眼鏡の弦を整えながらしげしげと眺めた。「ここまで砕けてると、左腕はたぶん宿曜文も含めて全交換だね」
「そうですか……」
ケイはがっくりと肩を落として、ヨロイの左腕交換費用を頭の中で試算する。腕の骨格柱は、汎用傀体水準で3万円前後だ。これに加えて、宿曜文の補修と工賃がどの程度になるか。果たして貯金だけで賄えるかどうか。5万円超えると厳しいよなあ。ヨロイを壊して、既に通学バスの費用を父さんに前借りしている身だ。これ以上の無心はできない。
ケイの目の前で、セイジは方術甲冑の円筒から巻物を引き出すと、スキャナにセットした。彼がスキャナ側面のスイッチを入れると、巻物はゆっくりと芯軸を中心に回転を始める。スキャナとケーブルで接続されたパソコンのモニタに、巻物に記述された宿曜文を吐き出してゆく。
メシロ通り沿いにある方術甲冑の販売・修理の店"フカダ甲冑"。
ケイは破損したヨロイの修理のために、学校が休みの今日を選んでここを訪れた。トウキョウ圏湾岸地区の防衛システム障害が発生した日から数えて、今日で五日が経過していた。
「宿曜文の破損チェックにはまだかかるから、その辺のパンフでも眺めて待っててくれるかい?」セイジがモニタ前の椅子に座る。「そこのお茶は好きに飲んでていいから」
「あ、はい。お構いなく」
ケイは作業台脇に積まれた冊子を一部手に取った。冊子の表紙には、青空を背景に長大なシャベルを構えて立つ方術甲冑の姿。方術甲冑メーカー、マサムネ開発のパンフレットだ。
手近な椅子に座って、ケイはなんとはなしにパンフをめくる。記載された内容は、新型の丙種方術甲冑ハバキ改弐型について。普段なら興味をもって読むところだったが、右手首の腕輪が目に入ると、自ずと〈夜明けの風〉と赤毛の妖精のことを思い出してしまう。滞在は、10日くらいって言ってたっけ。
ネリマ市内をひと通り巡った後。夕食もみはた食堂がいいというウルスラたっての希望で、ケイはヨロイを家路へ向けて駆った。
「結構、いられるんだね」
ケイが目の端で背後のシートを見ると、西日の眩しさにウルスラとメイハがその目を細めている。
「もう少し、いたいところではあるんだけどね。まあ10日くらいが限界かな」ウルスラはフードを目深に下した。「幸い、今日案内してくれたお蔭でだいぶ目星がついたから、この国での用事は済ませられそうだよ」
「しかし、こんな田舎町に何の用事なんだ?」メイハが薄目を開けて訊く。「キョウトと違って、ここには観光して楽しいものなんてないぞ。あるのはせいぜい、見て回ったとおり失地回復戦の跡地と慰霊碑くらいなものだ」
「この時代、ボクみたいな異邦人には、それも充分に見る価値のあるものなんだよ。キミだってもしブリタニアに行けば、何でも珍しく見えると思うよ」
「そんなものか」
「用事は探しものと、ちょっとした調べもの。あとは美味しいものを食べることかな。探しものについてはもう済んだし、ご飯も旨いし。あとはこっちにいられる限り、調べものを進めるだけだね」
きっと嘘は言っていないのだろう、とケイは思う。ただ全てを語ってもいないのもわかる。彼女はその言葉どおりなら、お忍びでニホンを訪れている異国のミスティックレイスだ。現在、キョウトで行われているニホンとブリタニアの特種生物災害対策会議と、無関係とは思えない。
彼女は何のためにニホンに来たのか、ケイはいまだ訊けずにいた。訊けば、案外と簡単に教えてくれそうな気もしなくもなかったけれど。訊いたらこの心地よい非日常がすぐに終わってしまう。そんな気がしたから。
何にせよ、彼女がいられるのは十日程度だ。
「しかし、失地回復戦、ね」ウルスラは言った。「確か20年前、界獣に占拠されたトウキョウ一帯を、ニホンの自衛隊と海浜警備隊の共同作戦で取り戻した戦い、だったっけ?」
「そうだね。僕らも父さんから聞いたり学校で習っただけだけどさ」
当時はトウキョウ圏一帯が界獣の脅威のために封鎖されており、実際に何があったのかを知っているのは自衛隊と海浜警備隊、政府の関係者のみだろう。失地回復戦の後、トウキョウ圏に都市防衛システムが構築され、大海嘯以前のようにとはいかないにせよ、人間の生存できる領域が大きく取り戻された。
ネリマ市は失地回復戦の最前線に位置し、かつての戦いの痕跡が点在している。その内には、今なお一般人が立ち入れない封鎖区画がいくつもあった。立ち入り禁止の理由は、界獣との戦いによる汚染物質の残留と、当時使用された兵器や武装祭器の残骸の処分が完了していないため、と市は公示している。
ウルスラの希望で、ケイたちは朝からそんな跡地をいくつか見て回った。午前中は公園となった跡地や当時を解説した資料館を訪れ、お昼はネリマ市庁舎前駅のファミレスへ。みはた食堂を出発してから昼時まで、ウルスラとメイハは互いに一言も話さず、ケイを介してしか意志疎通をしなかった。
いたたまれなくなったケイは、何とか打ち解けてもらおうと駅前通りのゲームセンターに二人を誘った。それが功を奏し、恐竜ハントのガンシューティングでスコアを競ってからは、互いに多少なりとも話すようになってくれた。やっぱり女子って難しい、と思う。
ちなみに戦績は、ケイは大差をつけられて二人それぞれに敗北。メイハとウルスラは僅差でメイハの勝利だった。
「なんで二人ともそんなに上手いのさ」
「射撃のセンスないからな、ケイは」「剣技はともかく、こっちは向いてないね。我が騎士」
ぼやいたケイは異口同音に言われ、ちょっとへこんだ。二人とも仲悪い感じだったのに、そこの意見は一致するのかよう。
ゲームセンターの後は、市内の封鎖区画を三箇所ほど巡った。当然、立ち入ることはできないから、フェンス越しに遠巻きに眺めるだけだったが。その中の一つ、最後に立ち寄ったトヨシマジョウ公園近くのネリマ市第六封鎖地区は、ケイにとって記憶に深く刻まれた場所だった。6年前、御幡家がネリマ市に越してきた頃、ケイがこっそり出入りしていた場所であり、何よりメイハとアヤハの姉妹と出会った場所だったから。
「ケイ、あの封鎖区画で何かあったのかい?」
ヨロイのシートに揺られながら、ウルスラが訊いてきた。第六封鎖地区のフェンス前で、ケイとメイハが少し物思いに耽っていたのを見て取ったのか。
「……小さい頃、、あそこにはよく出入りして遊んでたんだ」ケイは少し昔を思い出す。当時は小学四年生だった。「後で見つかって、こっぴどく怒られたけどね」
昔は、茂みに隠れたフェンスの下の土を少し掘れば、子どもの体なら簡単にフェンスの向こう、立ち入り禁止の封鎖地区へ行けた。今はもう無理だろう。体も年相応に大きくなった上に、6年前の騒動でフェンスも新築された。
「ふぅん……フェンスの向こうはどうなってるの?」
「今はどうかわからないけど、昔は回転木馬とかジェットコースターみたいな乗り物が、壊れて散乱してたり、崩れて水に沈んでたり。トヨシマ園って、結構有名な遊園地だったんだってさ」
転校したてで友だちもいなかった頃、ケイは抜け道を見つけると一人でフェンスを抜け、中を探検したものだった。自分を物語の冒険家や騎士になぞらえて。今にして思えば、とんでもなく危険なことをしでかしていたと思う。実際、しでかして大変な目に遭ったのだけれど。
ケイは左手の指で、髪に隠れた額の左端に触れた。額から左目の上まで一筋、かすかにくぼんだ傷痕がある。
「あとはヨロイ、当時の方術甲冑の残骸だとかのガラクタが、そこかしこに散らばっている」ケイの言葉を引き継ぐように、メイハが言った。「今でも星の位置によっては、あの一帯は防衛システムが不安定になる。封鎖されているのはそのためだ」
「それ、本当なの?」
ケイも学校などでそんな噂を聞いたことがあったが、今でも半信半疑だった。確かに昔、ケイが家族と引っ越してきた頃は、界獣に封鎖区画まで入り込まれたことが幾度かあった。しかし今は、都市防衛システムも格段に進歩したとPRされている。少なくともここ5年くらいは、封鎖地区に界獣が現れたなんて話は聞いたことがない。
「アヤハが言うのだから、間違いなかろう」メイハはそこで一旦言葉を切ると、少し間を置いて言った。「だからケイ、間違っても向こうに行こうだなんて考えるなよ」
「そんな気ないよ!」心外だとばかりにケイは振り向く。眉根を寄せたメイハと目が合い、ちょっと気圧される。「…別に、封鎖地区に入る用なんてないし。なんでメイハにそんなこと言われなきゃならないのさ」
「だってケイ、オマエ、ワタシたちが釘を刺しておかないと、すぐに危ない場所に突っ込むだろ?」青みを帯びたメイハの視線が、何かを見透かすようにケイを射る。「アヤハも言っている。『兄さんは、わたしたちがいないとすぐに死んじゃう生き物ですから』とな」
ケイは言葉に詰まってしまう。昨夜のことなどメイハは知らないだろうに、まるで見てきたかのような口ぶりだ。ウルスラの助けがなければ、今ここに生きてはいないだろうし、アヤハの改造星図がなければ、そのウルスラを助けることもできなかった。出会ってから一五歳になるまでの6年間、ほぼ半生と言って良い時間を一緒に過ごすと、そんなこともわかってしまうのか。
その時、ウルスラが吹き出すように笑い声を上げた。何がそんなにツボにはまったのか。笑う彼女の目にはうっすら涙まで浮かんでいる。
「そうだね! ケイはほうっておくとすぐに死んじゃうね!」ケイとメイハの視線を受けて、ウルスラは笑いを押し込める。それでも愉快でたまらない様で。「…失礼。でももう大丈夫、ケイの冒険はボクが助力するからさ」
ウルスラの言葉に、メイハが表情を険しくする。「何を言っている? ブレナンとやら」
ウルスラは仰け反って後席のメイハと視線を合わせた。「言葉どおりの意味さ。Ras gymysg」
「ちょっと、喧嘩はやめようよ!」
やっと少し打ち解けたと思ったら、もうこの有様で。
それから4日経って今に至るまで、ケイはメイハとウルスラが話す様を見ていない。食堂で何度か顔は合わせているのに。
ネリマ市は防衛ラインが下がった影響が大なり小なりあるものの、概ね普段どおりの日常に戻っていた。ケイは学生として、学業に家業の手伝いにと日々を過ごしている。これまでと異なるのは、異国のミスティックレイスの少女が朝夕毎日、みはた食堂に食事に来ること。そして彼女は夜になるとホテルに戻るフリをして、実際はケイの部屋の押入れで寝起きしていること。
「いやあ、ホテルは足がつきやすくてね。頼むよ、我が騎士」
命の恩人もとい恩妖精に頼まれてしまうと、ケイもそうそう無下にもできなくて。精一杯説き伏せて、なんとか全裸で寝ることだけはやめてもらった。彼女とその小さな友だちのために、毎日プリンを作る羽目になったが。
「時に御幡君」セイジが訊いてきた。モニタに流れる宿曜文を眺めながら。「アヤハちゃんに、ヨロイをいじらせただろう?」
「えーと……」
慌ただしい数日間のことを思い返していたところ、唐突に問われてケイは言葉に窮してしまう。フカダ甲冑を訪れる前に、ヨロイの破損理由と事情をあれこれ考えてはいたのだけれど。こうなってしまえば何を言っても嘘っぽくなる。
「甲冑本体のちょっとした改造くらいは大目に見るけど、星図はやり過ぎないように気をつけな。何せ難関資格の利権が絡む。バレれば護国庁から直で保安官が来てしょっぴかれるよ」
「はい、気をつけます」
事実なので、ケイもそうとしか言えない。昔馴染みの甲冑技士の恩情が身に染みた。
「あと、左腕の破損。何やったんだい? 装甲が貫かれて骨格柱まで砕けるなんて、よっぽどだ」
「それは、ちょっと部活で無茶しちゃって」ケイは籍だけ置いてる方術甲冑研究部を引き合いに出した。「格闘競技の練習試合で、相手校のヨロイにやられたんです」
そんな事実はなかったが、裏を取るようなこともされないだろう。そう目論んで、ケイは出鱈目を言ってのけた。
「……ま、そういうことにしておこうか」
少し間を置いて、セイジはモニタに向かってカタカタとキーボードを叩き始めた。
やっぱり宿曜文にも補修が入るか。骨格柱の交換と合わせて、修理費用は果たして幾らになるのか。ケイは固唾を飲んで、セイジの向き合うモニタを見る。骨格柱の金属を媒体に星辰の力で装甲を造成する宿曜文は、漢字と記号、幾何学図形が混ざり合い、宿曜書士や甲冑技士以外の素人は、見ても何が何だかさっぱりわからない。以前、ケイはアヤハに頼んで少し教えてもらったが、講義開始後、小一時間も経たないうちに挫折した。
ターン、とセイジがエンターキーを叩く音が響く。彼は傍らの計算機を軽快に叩くと、椅子から立ってケイに計算機のデジタル表示を見せた。
完全に予算オーバーだ。計算機を見たケイはがっくりと肩を落とした。
「交換用の骨格柱が新品で3万2000円、左腕の構成宿曜文の補修に1万2500円、工賃8000円を入れて、5パーセントの消費税。合計5万5125円になるね。まあ……」項垂れるケイを見て、全てを察したのかセイジは補足した。「骨格柱、廃棄で引き取った甲冑からいいパーツが採れたから、そいつを使えばもう少し安く仕上げられるけど、どうする?」
「それでお願いします」
ケイは頼んだ。是非もなく。
* * * * *
確かに当たった弾丸は、絡まり合う線虫のような表皮を力なく転がり落ちた。対象を撃ち抜くこともなく跳ね返されることもなく。
「どうしろってんだ? あんなモノっ」
悪態をつきながら、多村タツキは空になった弾倉を換えて駆ける。駆けながら撃つ。このネリマ市のサイノカミ中央塔屋上に、這い上ってきた異形に向けて。この場にあって、今なお進行する結界維持の舞踊儀式。これはひと時たりとも止めるわけにはいかない。これが止まれば、再びこの街の護りは消える。防衛ラインが下がっている今、界獣どもが押し寄せればどれだけの被害が出るか想像もつかない。
「こっちだ! バケモノ!」
言葉が通じるか甚だ疑問だったが、タツキは声を張り上げて叫ぶ。異形の怪物の注意を少しでも、演者たちから逸らしたかった。幸い、深い
しかし異形の怪物は、タツキたち特安部保安官らの努力を意に介した様子もなく、ズルズルと絡まり合う蚯蚓のような四肢で演者たちに向かって這いずってゆく。全長3メートル超のその姿は四肢から成り、輪郭だけはヒトめいていた。頭部と思しき盛り上がりには、蛸や烏賊といった頭足類のそれに似た眼が幾つも不規則に張り付き、太い紐状の組織が常に蠢いている。しかしその様を人に近づけて解釈する行為は、あまりに冒涜的に思えた。タツキは一目見ただけで、吐き気と一緒にこみ上げる生理的嫌悪感に、一目散にこの場を離れたくなったくらいだ。
閃光、音響といった対人制圧用のスタングレネードは用を為さず、実弾も効かない。反遺伝子調整技術、反ミスティックレイスの組織犯罪やテロに対応すべく訓練を受けてきた自分たちには荷が重い。こいつは小さいが界獣と同じ部類のものだ。殲滅するには方術甲冑が要る。さもなければ遺失知識、魔法や秘術に通じた高位の術者かミスティックレイスが。しかし今のこの場に、そんな者はない。
しかし超常の存在が現れること自体は、上の予想の範疇だったのか。タツキは怪物を挟んだ反対にいるであろう同輩に向かって呼びかけた。「坂城、近接戦に移行する!」
「無茶だ!」
坂城の警告を聞き流しながら、タツキはベルトの背部に装着した小太刀を抜いた。今回の、舞踊儀式の警護任務において、装備を義務付けられたのがこの小太刀だ。ニホンのミスティックレイス、月山の鬼が鍛えたこれは、遺失知識を使う犯罪者の、超常の技術を封殺できる。この怪物にも通じる可能性がある。
急拵えの板張りの演台に向かって、人型の戯画めいた怪物は這う。触腕の先端をコンクリートの床に突き立て、己が醜悪な体を引き寄せて進む。あの触手はどのような原理なのか、しなやかに柔らかく見えながら、コンクリートの床面を易々と刺し抉った。いわんや人体をや。この場にはタツキ自身と坂城の他に三名の保安官がいたが、その三名の内一人は胸を触腕に貫かれ、、一人は右腕を上腕から切断、もう一人は脇腹を抉られ倒れている。胸を貫かれた安堂は、おそらく即死。負傷した宮武と久我も倒れ、出血がひどく意識があるかも怪しい。
南無三と念じながら、タツキは怪物の脇腹に相当する位置に小太刀を突き立てた。拳銃弾と異なり、刃は軟体の表皮を貫きその奥へと潜り込む。
「いけるぞ!坂城!」
確かな手応えを感じて、タツキは小太刀に体を乗せる。鍔元まで押し込むと、手首を回してから刃を引き出した。斬り開かれた傷口から、赤黒い体液が撒き散らされる。その臭いは錆と潮にも似た、人の血の臭いに似ていた。
怪物はブルっと身じろぐように体を震わせると
i……iT………
おおよそ地上の動物の発声器官では例えにくい、奇怪な呻きを漏らす。
小太刀を血振りしてまとわり着いた体液を落とし、タツキは次の一撃を見舞うべく小太刀を振るう。その瞬間
「!?」
怪物の体から突如として生え伸びた新たな触腕が、タツキに襲いかかった。
薙ぎ払うようなその一撃に、反応できたのは奇跡に近く。タツキは小太刀を立て刃を前に、峰に手を添え受け止める。しかしその重さと衝撃を受け止めきれず、立てた小太刀ごと後方に押し飛ばされた。咄嗟に体を丸め、後ろに転がって衝撃を殺そうとするも、背をコンクリートに強打し肺から空気が押し出される。
「かはっ……」
息が止まり、激痛に身動きできない。倒れたタツキの目に、篝火に照らされた演台と、その直前に至った怪物の姿が入る。
iiiiiIIIIIIIITAtaaaaaaaaAAAAAA!!!!
轟く呻きで夜気を震わせると、怪物は右の触腕の先を床面に突き刺し、そのまま演台へ、謡い舞う演者たちへと触腕を走らせた。コンクリートの床面が割り裂かれ、板張りの演台が砕けて木片が飛び散る。剣鈴と六支扇を持って舞う五眼面の演者をも裂かんと、触腕が迫る。
もう駄目だ。間に合わない。タツキは触腕に切り裂かれる舞い手の、緋袴の少女の姿を想像した。名前は確か、柊木ヒヨリ。この警護任務の対象、オクタマ神事院で学ぶ対神芸能士は、一般社会ならまだ学校高等部に通っているであろう十代の少女だった。
タツキは痛ましさに目を伏せたくなるも、それはできなかった。万に一つの奇跡でも起こってこの場を生き延びられたなら、何が起きたかを可能な限り記憶して報告する義務がある。またそのように訓練されてきた身だ。
しかし、タツキの目の前に繰り広げられた光景は、彼の想像を裏切り乗り越え遥か明後日の方向にすっ飛んだものだった。
…ったるでえ! と、若い男の関西弁が聞こえたような気がした。あろうことか夜空から。苦痛の生んだ幻聴かと、タツキは己の耳を疑った。
次いで大きく響き渡った風切り音が、おぞましい怪物の呻きを吹き飛ばす。同時に重い衝撃が、タツキの伏した床を震わせる。揺れる彼の視界に、半ばから切断された触腕が宙を舞った。
AAAAaaaaaaaaiiiiiIIIIIIIItaaaaaAAAA!!!!!
べちゃりと濡れた音を立てて、触腕が落ちる。怪物は一際大きく呻き声を迸らせると、演台からその身を退いた。
顕わになるタツキの視界に見えてきたのは、舞い手の少女を背に庇い、立ちはだかる黒い人型の異形。武者と学生の混合物とでも言うべき何か。詰襟学生服の上に、パーツの揃っていない黒い甲冑を着こんだようなそれは、武者モドキとでも名付ければいいのか。顔は鬼を模したような面頬と角兜に覆われてわからない。ただ兜の装甲の隙間から、ツンツンの尖ったハリネズミのような黒髪がはみ出ている。
武者モドキは鷹の翼のように両手を広げてそこにいた。右手に剣、左手に短剣を携えて。
闖入者の介入で演者は助かったものの、結界の舞は中断された。
* * * * *
給水タンクの天辺に腰を落ち着け、ウルスラは姿隠しの魔法を解いた。ふぅと一息ついてバックパックを下ろすと、中からマグボトルを出して口をつける。渇いた喉をアイスティーが潤してゆく。息を整えながら見下ろす世界は、まだまだ若く細い月と、星々だけが照らす夜の水域。かつて人間と、高位存在の奉仕種族がその支配領域を巡って争った跡地だ。封鎖されて以来、全く人の手が入っていないのか。区画のほぼ全域が水没し、今いる廃ビルの屋上の他には、水面から頭を出している建物群は片手で数える程しか見当たらない。
はてさて何処から手をつけたものか。脚翔の魔法で建物から建物へと跳ぶには距離があるし、水面歩きの魔法は姿隠し以上に疲れるし。やっぱりケイと〈夜明けの風〉を伴うべきだったか。でも今夜は勉強しなきゃとか言ってたしなあ。そんなことを考えながら、ウルスラはマグを置くと、バックパックから今度は小さなカップのプリンとスプーンを出した。魔法を使うと頭が疲れる。糖分の補給が大切さ、と胸の内で呟いて、スプーンをカップに刺し入れる。約束された甘味の至福に、思わず笑みがこぼれてしまう。いただきますと口を開けたところで
「んぐぁっ」
ぐいと髪を後ろに引っ張られ、ウルスラはプリンを食べ損ねた。彼女が髪を引っ張られた方向に目を遣ると、翅を生やした小さな少女たちがムッとした顔でそこに浮かんでいる。
「ごめんごめん、ちゃんとみんなの分も作ってもらったからさ」
ウルスラはバックパックに手をいれると、もう一つのカッププリンを出して横に置いた。少女たちはプリン目掛けてさっと舞い降りると、プリンの欠片を手に手にウルスラの周囲を舞う。
「我が騎士が料理上手でお菓子も作れて、ボクらは幸せだよねー」
プリンを味わうウルスラの周りで、翅翔妖精たちもプリンを頬張りながら頷いた。
小さな至福の時間は、プリンの大きさに比例して瞬く間に過ぎてしまう。すると翅翔妖精の一人が、ウルスラの耳元まで寄ると何やら話しかけた。
「…ん? ケイのこと、これからどうするのかって?」
ウルスラが訊くと、翅翔妖精はうんうんと繰り返し頷く。
「それはもちろん、ボクらと一緒に来てもらうさ」他に選択肢なんかないよ、とでも言わんばかりにウルスラは断言した。「騎士と貴婦人は物語を織る縦糸と横糸みたいなものだからね」
翅翔妖精たちが喜色満面、元気よく飛び回る。夜の宙空に光の尾を引いて舞うその様を眺めながら、ウルスラはどうやってケイを連れてゆくかを思案する。彼を見つけてから、ずっと考えていることだ。彼はただの汎人の男子学生。国家や組織に注視されてるわけでもない。この国にそれなりの愛着はあろうものの、強い帰属意識があるわけでもなさそうだ。ブリタニアへの留学でも何でも理由を付けてアルビオンから手を回せば、どうとでもなる。ニホン政府が彼の身柄を出し渋るなら、星辰装甲の非公開技術の一つ二つくれてやってもいい。開発者としてその裁量はあるし、あの好もしくも無謀な行動力と善意の化身と引き換えなら安いものだ。
それより何より、彼をこの国から連れ出そうとする時、最大の障害となるのは恐らくあの姉妹だ。
一目でわかる、神性移植者の姉妹。プロテウスウイルスによって変質したものに特有の、猛烈な違和感。ウルスラはそれが大嫌いだった。ウイルスの運ぶ神代・伝承存在の因子で能力を底上げされたニンゲン。予め約束された、人造の英雄。あんなものが、次世代の担い手なんかであってたまるもんか。
クナリ・メイハとアヤハ、とか言ったか。クナリの名が
どうしたわけか、あの姉妹はケイに強く執着している。きっと彼を連れ去ることをよしとしないだろう。出し抜く算段をつけなきゃならない。
まあ、フィオナが放つであろう追手の気配もまだない。いましばらくは、探索を続けよう。ウルスラはカップとマグをバックパックにしまうと、指についたカラメルをひと舐めして命じた。
「みんな、二人組になって、この区画の建物を調べて!」
翅翔妖精たちはペアを作ると、かすかな光の尾を引いて水上に散ってゆく。知覚のリンクを確かなものにするために、ウルスラは目を閉じた。
「この区画だけカメラやら人避けの術式が敷設されてれば、何かあるって考えちゃうよね」
ここはネリマ市の東端に位置し、その全域がほぼ海に没した第二封鎖区画。ケイと市内の封鎖区画を巡っていて、怪しいと当たりをつけていた場所の一つだった。
翅翔妖精たちの見る光景、聞く音が、ウルスラの脳裏に浮かんでは消えてゆく。妖精たちは暗闇の水上を飛翔し、半ば以上海水に没した廃ビルの窓から内部へと飛び込んでゆく。妖精の目は光りなき闇でも見通せる。家財の朽ちた部屋を渡り、蝶番の錆崩れたドアを抜け、非常階段を見つけて下へ、下へ。
今いる給水タンクの上から、最も近い廃ビル群……ただの廃ビル。次も、特に見るべきものはない。その次も。またその次も。そして区画の最東端、そこから先は湾となる工場跡らしい建物の中に
「見つけた!」
ぐねぐねとねじ曲がった直線、と矛盾した表現でしか言い表せない、奇怪な柱と壁で構成された空間があった。翅翔妖精の目を通して見ているウルスラは、その光景に笑みを浮かべた。非ユークリッド幾何学的と呼ぶしかない、常人の知覚では認識が狂いそうになるその空間は、暗い海水を湛えて異容を放っている。
「アレをどうやって放逐せしめたかは、まだわからないけど……」
眩暈と軽い吐き気に耐えながら、ウルスラはその光景を精査する。整備された建造物の中の、異常な空間。奉仕種族や独立種族の遺跡ではない、これは人の手によるものだ。
「20年前ここで何が起きたのかは、少しわかってきたよ」
理解をより深く刻むように言葉にしながら、ウルスラは知覚のリンクを切って翅翔妖精たちに戻るよう命じた。明日にでも、ケイと一緒に現地に行こう。大規模な接触呪文を行使した痕跡がある。今更何かが起こるとは思わなかったけれど、先の奉仕種族襲来といい不穏な状況であることは確かで。万一のことを考えると、騎士に傍にいてほしい。
「二人きりで夜のデートも悪くないし……って」
翅翔妖精の一人が、緊急モードで夜空の光景を送り込んできた。月と星々を背景に、小さな影がいくつか見える。影はほんの少しずつ、しかし着実に大きくなってくる。
「珍しいね。あれが太平洋を越えてくるとは」ウルスラは目を開けて空を見た。影はその飛膜ある姿を顕わにし始めている。「W類奉仕種族……〈風を踏むものども〉」
ウルスラはパーカーの懐からタブレットを出し、タップする。防衛機能と周辺地域の状況をチェック。結界強度漸減中。防衛ラインは下がったまま今だ戻っていない。
「危機は再び。ボクらの前途は多難だね、我が騎士」二一世紀の貴婦人は、タブレットを使って彼女の騎士を喚ぶ。「聞こえる? Sir Cai」
* * * * *
メイハは国語が苦手だった。現代文は特に。テーブルの向かいで練習問題のプリントを前にする彼女は、昔、ケイの姉が入れたブラックコーヒーを興味本位で飲んでしまった時のような顔をしていた。
「『この時の作者の気持ち』なんて、わかるわけないだろう」
「この手の現代文の問題は、問題を作った先生が期待する答えを当てるゲームみたいなものだから」
随分と前から、こんなやり取りを繰り返してるような気がする。眉根を寄せるメイハを見ながら、ケイはそんなことを思い出していた。定期テストが始まって、こうしてテスト前の勉強会を始めた頃からだから、中等部に上がったくらいからかなあ。漢字の書き取りや説明文、論文なんかの問題はそれほど躓かないのに、文芸作品や小説になると途端に混乱するらしい。他人の頭の中なんてわかるものか、というのが彼女の言い分だ。ケイもその言い分には一理も三理もあると思っているけれど、その理を主張したところで赤点を取れば追試だし、追試をクリアできねば補習、更に三学期末の試験をクリアできねば留年だ。
「現国の冨地原の期待なんて、それこそわかるわけがない。知りたくもない」ジャージ姿のメイハは不貞腐れたように言うと、シャーペンを鼻に載せて居間の天井を見上げた。「国語の点なんて取れなくても生きていけるさ」
大海嘯で人口が激減した今の世は、どこもかしこも人手不足だ。ヨロイを繰れれば、建築土木運送その他の業界で働き口には事欠かない。
「まあ、メイハなら生きていけるとは思うけどさ」ケイはケイで苦手な数学、因数分解の問題に取り組んでいる。なんでわざわざくっついてるものを分解するのさ。と思わないでもないけれど。「できることは増やした方がいいよ。父さんの受け売りだけど『勉強は、未来の選択肢を増やすためにある』って」
「未来、ね」メイハは形の良い鼻先でシャーペンを放ると、右手でキャッチしケイの目を覗き込む。「ワタシは、今のままで十分満足なのだが」
暖かみと言おうか慈しみと呼ぶべきか。そんな柔らかな青い瞳に見つめられ、ケイは鼓動が少し速まるのを感じる。メイハは美人だ。だから仕方ないことだ。でも彼女はほんの少し年上でも妹のような存在で、幼馴染で、家族のような関係で。えーと何だっけ、今、僕が言いたいのは
「でも、今が今のまま続くかどうかは、誰にもわからないよ」
界獣の脅威に晒された世界ということだけではない。誰にでも、理不尽な困難に襲われる可能性はある。事故、災害、病……災厄には道理などなく、誰であろうと人を分け隔てしない。備えや準備を待つこともない。そのことを、ケイはよく知っているつもりだった。だから
「だから少しでも、できることは増やさないと」
「だから、乙種ヨロイの勉強をしてるのか?」
「えーと……」
ケイは言葉に詰まってメイハの青い瞳から目を逸らした。予期せぬ問いをメイハに突きつけられて。別に隠していたつもりもなかったのだけれど。部屋の参考書でも見られたのか。学校の勉強以外に乙種方術甲冑技能試験の勉強をする動機には、メイハも少なからず関わりがあったりもする。気恥ずかしくもあり、知られることが少し怖くもあり。
「乙種の免許が必要な場面なんて、そうはないよな」メイハのどこか愉し気な言葉が続く。「海浜警備隊を除けば、海運会社の海上警備部門か、民間の対特種生物警備会社くらいだ」
不意に、ひんやりとした柔らかな感触を頬に感じる。ケイが視線を戻すと、メイハの顔が目前にあった。テーブルに身を乗り出した彼女の右手が、左頬を包んでいる。目を逸らしようもなく、迫る美貌に心臓が跳ねる。長年見慣れた顔なのに、今はなんだか違って見えた。
「ケイ、何を考えている?」メイハの右手のひらはケイの頬をするすると撫ぜ登り、彼の額の左端で留まった。「ワタシは……」
額に触れたメイハの右手が熱を帯びる。否、熱を帯びているのはこの僕か。覗き込んでくる目が優しい。今なら何を言っても大丈夫。急に湧き上がったそんな確信に衝き動かされて、ケイが口を開きかけたその時に
「あーメイハ、そこから先はケイが一八歳になるまで待ってくれないかしら?」姉のシグネが居間に現れた。髪をタオルで拭きながら。「隠れてやってくれるならまだしも、目の前でとなると止めざるをえないのよ。児相の霧島さんにも言われてるし」
弾かれたようにメイハが手を引っ込める。ケイも仰け反るように顔の距離を遠ざけた。その拍子に後頭部を壁にぶつけ、ゴッと鈍い音が鳴る。
「痛っ、ね、姉さん……」
「何を慌ててるのよ。お風呂空いたから、どっちが先でもいいからさっさと入って寝なさい。特にケイ、まだ成長期なんだから。寝ないと背、伸びないわよ。それとメイハ」
「なんだ? シグ姉さん」
「現代文、作者の意図やらが難しければそっちは捨てて、漢字とことわざと故事成語だけでもしっかりやっておきなさい。それで赤点回避くらいはできるでしょ」メイハとのやり取りをいつから聞いていたのやら。シグネはそんなことを言った。「それに、せっかく一緒の学年で学校に行けたんだから、一緒に卒業しておきなさい。ね?」
「む……わかった。そうする」
メイハ、昔から姉さんの言うことは割と聞くとこあるよなあ。ケイは打ち付けた後頭部をさすりながら思う。彼女は何を言おうとしたのか。自分は何を口走ろうとしたのか。知らずに済んで、少し安堵している自分がいた。知ったらきっと、これまでの関係が大きく変わってしまう。そんな気がする。
その時、ケイのスウェットズボンのポケットで、ケータイが震えて着信を告げた。
* * * * *
ネリマ市の東部、第二封鎖区画に近づくにつれて、霧が漂い始めた。
ウルスラの言ったとおりだ。ケイは侵入禁止の警告板の前にヨロイを停めると、除装し方術甲冑の円筒をバックパックに収めた。修理早々にまた壊されてはたまらない。
霧に包まれた街灯が、淡くぼんやりとした電気の明かりを落としている。人払いの霧を蒔いてある、とケータイ越しに彼女は言っていた。その効果なのか。普段なら夜の11時も過ぎた今頃でも、車やヨロイを見かけるはずが、今は車一台人影一つない。
ケイは腕輪を付けた右手を差し上げ、〈夜明けの風〉を呼ぶ。腕輪がぎゅるんと回転し、右手の前に剣の姿を顕した。ケイがその柄を掴むと、自ずと鞘が滑って二本の銀鎖が飛び出し、彼の身体に絡みついて覆い尽くす。赤い光芒が放たれ、次の瞬間には、夜の街道に仄暗い銀の騎士が出現した。
「急いで、ケイ」視界の左に現れたウルスラは、緊張を孕んだ面持ちで夜の上空を見上げていた。「あれは、D類より性質が悪いんだ」
ケイは〈夜明けの風〉の膝をたわませ、一蹴りでフェンスを跳び越えた。翅翔妖精から送られてくる夜空の映像を見流しながら、瓦礫の山を駆け降りて水上に出る。この区画はフェンス周辺を除いたほとんど、おおよそ九割が水没した地域だ。ヘイワ台、とかつては呼ばれていたらしい。
漆黒に星々の僅かな光点が灯る映像の中で、夜の空になお暗い何かが見えてくる。徐々に大きさを増すその姿形は、その大きさがヨロイと同程度なことを除けば、奇妙なことに人に似ていた。
界獣には翼を持ち、空より飛来するものもいる。それをB類特種害獣と呼ぶらしいことは、ケイも報道等で見聞きしていた。B類害獣は海から現れるD類と敵対しており、時に海浜警備隊はこの関係を利用し咬み合わせて両者の損耗を謀ることもある。その映像で観たB類の姿は、遠目にだが翼のある蜥蜴のように見えた。
しかし今、騎内の映像に見えてきたものは、捩じれた鹿のような角を頭に備えた巨大な人型だった。翼はなく、ムササビのような飛膜が体の側面にある。不揃いな長毛が全身を覆うも、頭は鋭い牙の列を剥き出した骸骨のようで。その眼窩には紅い光が怪しく茫と灯っている。あれは何だ?
「W類奉仕種族、〈風を踏むものども〉、
「そんなのが、どうしてこの国、この街に?」
「ボクの推測だけど、こう頻繁に人界の防御結界が弱まると、あの連中〈古く忘れられた統治者〉の勢力図も書き換わる。特にW類は明確に人を喰い、攫って眷属を増やすことを好むからね。新たな狩場と見做したんじゃないかな」
「対策は?」
「この国の防衛組織、海浜警備隊が主に相手にしてきたのはD類とB類。W類に対するノウハウはほぼないよ。対B類の戦術は多少応用できるかもしれないけど、W類は速さと狂暴さが桁違いだから初見の遭遇戦では期待できない。セイレムの飛翔戦団か、
「僕らだけ、ってことか」
「そのとおりだよ。Sir」
我が意を得たり、とウルスラが笑みを浮かべる。
〈夜明けの風〉が、ウルスラのいる廃ビルの下に到着した。W類奉仕種族ウィンディゴは、もう肉眼でも目視できる高度にいる。翅翔妖精の観測情報から、その数は四体……否、三体になった? 映像の中で、ウィンディゴの一体がもう一体の背後から組み付くと、その首筋を喰いちぎり、不釣り合いに巨大な手で頭部を掴むと捩じり切って棄てた。
「アイツらは元来、単独を好むんだ。だから主神の影響が弱くなるとすぐに殺し合う。このままできる限り、同士討ちを待ちたいところだけど……」
ウルスラが言葉を切る。残る三体の内一体が、飛行路を変えて急速に高度を下げたのがケイにも見えた。向かっているのは、街灯の明かりもまだ眩しい市の中心、市庁舎駅周辺の居住区画か。
「行ってケイ! 剣を抜いて!」
ウルスラの掛け声とほぼ同時に、ケイは弾かれるように〈夜明けの風〉を駆った。背の大剣を抜いて右肩に担ぐ。全力で水面を蹴り飛ばし廃ビルの林を抜けて、高度を落としたウィンディゴへと向かう。『すぐにまた、必要になるから』出会ったあの夜に彼女は言った。今がその時なのか。人を喰い、攫うだって? 冗談じゃない。家族や幼馴染の姉妹、友だちがその中に含まれるなら。その可能性が一万分の一でも、那由多の砂粒の一つほどでもあるのなら、そんな可能性は欠片も残さず消し去ってやる。今あるこの剣の力が、一時の借り物であっても何でも利用してやる。
「いいね、いいね我が騎士。その意気だ」ウルスラが愉快でたまらない表情でケイの背を押す。「〈
大剣の刃に沿って、青く濁った光が湧く。青い光は濃くぬめりを帯びて刃を這い回り、滴り落ちながらなお湧き続けて剣身を倍化させる。
「これは……?」
青くぬめる剣の威容に、ケイは息を呑む。
「アイツらの主神の、敵対者の力を模倣してるんだ」得意げにウルスラが言った。「腐っても奉仕種族さ。支配者の敵の殲滅は、狩りよりも優先される。まあ、見てなって」
居住区画を目指していたウィンディゴが、何かに撃たれたかのように降下角度を変える。ウィンディゴは一声、耳障りな高音を迸らせると、〈夜明けの風〉目掛けて急加速した。
角を持つ怪物が、突風のように迫り来る。夜なお暗い二つの眼窩に、飢えに満ちた紅く昏い輝きを灯して。その身体の三分の一ほどもある巨大な鉤爪の手が、ケイの視界いっぱいに広がる。
迷わずケイは、青いぬめりの大剣を振りぬいた。刃はウィンディゴの左手を斬り裂きながら肩、胸へと食い込み敵対者の力でその体を侵蝕する。高度からの衝突の勢いに抗しきれず、〈夜明けの風〉が水面を滑って後ずさる。しかし剣は動かない。動かさない。
ウィンディゴはもがくように手足をばたつかせるも、数秒の後に崩れ砕け、水中に溶けていった。
「やった、かな?」
ケイが詰めていた息を継ぐ。その隙を、風を踏むものどもは見逃さなかった。
「ケイ! 後ろだ!」
「っ!?」
警告に背後を振り返るも、間に合わない。
二体目のウィンディゴが〈夜明けの風〉をその巨大な両手に捕らえ、夜空へ向かって上昇する。飛行機などでは在り得ない速度で、瞬く間に高度を増してゆく。
唐突な浮遊感に、ケイはなす術もなく戸惑う。そんな惑いを引き裂くように、ウルスラが叫んだ。
「振りほどいてケイ! 高高度まで連れていかれたら、〈夜明けの風〉はともかくキミの身体がもたない! 急いで!!」
「わかった!」
ケイは〈夜明けの風〉右肩甲のスリットから短剣を引き抜くと、己を掴むウィンディゴの手に力の限り突き立て抉り裂く。
短剣が帯びる青い光がウィンディゴの手から腕に流れ込み、その肘から先を溶かし崩した。
夜空に、苦悶のような怨嗟のような甲高い咆哮が鳴り響く。背後からの拘束が弱まったのを感じ取り、ケイは〈夜明けの風〉の身を捻ってウィンディゴから離れた。
「よしこれで……って、あ!」
手がかり足掛かりのない浮遊感。直後の、尻がひやりとするような落下の感覚にケイは思い出す。確か、高所から水面に落下すると、高度によっては水面もコンクリート並みになるとかならないとか聞いたことがあるような。それ以前に、そもそもヨロイの類は土克効果だとかで水に沈まない。
ウィンディゴの腕から逃れた〈夜明けの風〉は、万有引力の法則のままに、水に覆われた地上へと落下を始めた。
このままでは、きっとメイハの作った豆腐弁当の二の舞だ。ミンチ、挽き肉、麻婆豆腐の材料になる想像に、ケイが顔を青くする。
「我が騎士、ボクと〈夜明けの風〉はこの程度の冒険で騎手を死なせたりはしないぜ」
「どうやって……?」
ケイがウルスラの言葉に問い返そうとしたところで、〈夜明けの風〉は第二封鎖区画の水面に着水。したはずなのだが、想像していた衝撃はほんの少し、軽く前髪を揺らすほどしかなく。
「ボクは湖の貴婦人。水の魔法はお手の物さ」急に真っ暗になったケイの視界の中で、彼女の得意げな声だけが確かに響く。「ま、根回しはしておいたんだけどね」
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