第3話 食卓の風景(前編)

 ピピッピピッと規則正しく電子音が鳴る。

 枕元の目覚まし時計を叩いて止めて、ケイは薄目を開けた。見れば時刻は6時30分。カーテンの隙間から、朝の薄明かりが漏れている。今週は僕が弁当当番だったよな。起きないと。昨日の残り物なんだったっけ……と考えていると、手首のひんやりとした感触が意識に登った。目を遣れば、そこには小さな銀の輪を紡いだ腕輪、星辰装甲〈夜明けの風〉の鍵がある。

 夢じゃ、なかったのか。布団に寝ころび仰向けになりながら、ケイは右手首を上げて腕輪を眺めた。ヨロイを駆って界獣から逃げ、死にそうになって、助けた妖精から剣をもらって……この身に起きたことを思い出せば、まるでおとぎ話のような出来事だ。今でも夢だったんじゃないかと思う。

 家に帰り着いてからは、異国からのお客様をもてなすホストとして、よくやった方じゃなかろうか。田舎の高等部一年生にしては。



 夜道に、"みはた食堂"の看板が煌々と灯っていた。

 食堂の扉の鍵を開け、電灯を点けて、ケイはウルスラを中へと招き入れる。

「ここがキミの家かい?」訊くウルスラは、興味深そうに、テーブルやら壁にかかったお品書きを眺めていた。「ダイニングルームのようだけど」

「父さんが食堂をやってるんだ。僕もよく手伝ってる」ケイはカウンターの一席をウルスラに勧め、厨房に入った。「家は隣なんだけど、事情があって寝起きもここの二階でしてるんだ」

 ケイはエプロンを着け手を洗って、アルコール消毒をしつつ考える。まずは腹ごしらえ、と思って食堂に案内したのはよいが、はてさて何を出したら良いものか。ブリタニアの人の好物なんて知る由もない。

 でも、どうせならおいしいと思ってもらえるものを、と思ってしまうのは料理人を父に持つせいか。

「好き嫌いとか、苦手な食べ物ってある?」

「ケイ、キミが手ずから振舞ってくれるのかい?」ウルスラが嬉しそうに身を乗り出す。「嫌いなものなんてないよ。ブリタニアの妖精種の舌はいつだって準備万端さ!」

 と言ってくれるものの、油断はできない。焼きイカをもりもり食べていた姿を知っているので、杞憂な気がしなくもないけれど。姉のシグネ曰く「文化や宗教のタブーは、どこに埋まってるかわからない地雷」。とりあえず鶏肉だけはほとんどの文化圏で食べられているから、まあ無難よ、とも言っていた。外国に行ったこともない癖に。

 海も空も界獣の脅威に晒された今の時代、海外旅行はごく一部の富裕層にしか許されない極めて贅沢な娯楽だ。

 よし、無難に鶏の唐揚げにしよう。得意だし。店の食材も無駄にならないし。ケイは冷蔵庫を開けて仕込み済みの鶏肉を出して、準備にかかった。フライヤーの電源は落としてあったので、鍋に油を移してガス台にかける。油が温まる間に炊飯器を確認すると、保温状態のご飯が湯気を上げた。今日から明日朝で消費しきれなかった分は、後でラップに包んで冷凍すべし、と心の予定表に書き込む。

 ケイは粉をまぶした鶏肉を油に投入。やがて漂ってきた香ばしい匂いに、「いいね、いいね」とウルスラが頬をゆるませる。

 油を切って、皿に盛り付け。茶碗にご飯、レタスとトマトと刻んだニンジンの簡単サラダに、ワカメスープを付けて、みはた食堂の唐揚げランチ二人前、完成。もう夜だけど。ワンコイン500円で、味噌汁とご飯お替わり自由が人気の秘訣。おろしポン酢とマヨネーズはサービスです。しかし彼女は箸を使えるのだろうか。怪しいと思ったケイは、彼女の盆にはフォークとスプーンを置いた。

「えっと、いただきます、でいいんだっけ?」

 ケイが驚いたことに、ウルスラは合掌してみせた。

「む、ボクだってこの国に来る前に少しは勉強したのさ」表情から驚きは伝わり、ウルスラが憮然とする。「食物に、恵みに対する感謝は、どこの国でも一緒だろ?」

「ごめん、僕らニホン人でも、やらない人が多いからさ」ケイは謝り、厨房を出て隣に座る。合掌して。「いただきます、でいいんだよ」

 ケイはスープを一口飲んでから、唐揚げを一齧り。揚げたての肉汁に舌を火傷しそうになって、慌ててご飯をかき込んだ。我ながら上出来だ。空腹が満たされる至福に、自然と笑みがこぼれてくる。

 しかし彼女の口には合うのだろうか? ケイが不安になって横を見ると、頬袋いっぱいに唐揚げとご飯を口に詰め、んーっんーっと呻く赤毛のリスがそこにいた。少し涙目になっている。

「大丈夫!?」ケイは慌ててカウンターの湯呑にポットのほうじ茶を注ぎ、ウルスラの前に置く。「ごめん! もしかして口に合わなかった?」

 ウルスラは、んーんーと呻きながらも首をぶんぶん横に振りつつ、ほうじ茶を呑んで椅子の背にもたれた。フゥと一息ついて、ほうじ茶をもう一口飲んで言うことには。

「口に合わないなんてとんでもない」フォークで次の唐揚げを刺し、ウルスラは大口開けて齧りつく。「もひゅひは、ひゃいこうのディナーだよ」

「最高はないんじゃない?」どうやらお気に召したらしい。ほっとしながらケイは言った。「お世辞でも嬉しいけどさ」

「お世辞じゃないぜ、我が騎士」ごっくん、と飲み込んでウルスラは言い返す。「キミは、大海嘯でアルビオン島外との物流が死んだブリタニアの食事情を知らないから、そんなことが言えるんだ。海の狼サクソンどもさえ来なければ、うちの食文化だってもうちょっとは……」

 ウルスラの目が何処か遠くを恨めし気に見つめた、ようにケイには見えた。

「でもあれでしょ、ウルスラはその、重要人物なわけだからさ。食事だって、有名ホテルとかのあれこれじゃない?」

「ボクはコーンウォールのノッカーたちのところでの暮らしが長かったからね。宮廷作法とかテーブルマナーとか、お行儀良くは苦手なんだ」言って、ウルスラは懐からタブレットを出すと、定食の載った盆に向けた。「あいつらに見せびらかしてやろう」

 女の子にはちょっと多いかと思えた量だったが、唐揚げとご飯は見る見るうちに、赤毛の少女の形のよい口に消えてゆく。気持ちの良い食べっぷりに、作ったケイも嬉しくなる。メイハとアヤハも、家に来た頃はあんな風にもりもり食べてくれたよなあと懐かしく思い出す。中等部に上がる頃からは、体重を気にし始めてかつてのようには食べてくれなくなったけれど。年頃の女子には色々あるのはわかるけど、少々寂しいものでもある。

 ウルスラの盆を見てみれば、もう茶碗も皿もスープカップも空だ。デザートにプリンでも出そうかな。そんなことを考えながらケイも食事を進めていると、ウルスラが何やら俯いていた。心もち顔が赤いような気がしなくもない。トイレかな、と思い案内しようと立ち上がる。

「その、我が騎士……」彼女はこころもち恥ずかしそうに口を開いた。「おかわりは、頼めるかな?」

「大丈夫、まだまだできるよ」

 厨房に向かって歩きながら、ケイは密かに胸を撫でおろした。勘違いで発言していたら、きっとまた貴婦人がどうこうと機嫌を損ねていただろう。女子って難しい。

 その小さく華奢な体のどこに入るのか。ウルスラは三人前の唐揚げと、茶碗で大盛り五杯のご飯を平らげた。

 ご馳走さまとお粗末さまで夕食を終えて、店を閉めて隣の本宅へ。ケイはウルスラを一階の客間に案内してから、風呂場でシャワーの使い方を説明して、気づく。

「あ、着替えとか大丈夫?」

 出会った時から、ウルスラは荷物の類は何一つ持っていなかった。時々その不思議な白いパーカーの懐からあれこれ出すだけだ。

 もし着替えがないと言われたらどうしよう。お湯はりボタンを押しながら、ケイは横目でウルスラを見て考える。寝巻は僕のスウェットとか貸せばいいかな。でも下着はどうしよう。見た感じの歳はアヤハに近いけど、サイズは合いそうに……ないよなあ。仮に合っても、勝手に下着など持ち出せるはずもない。姉さんがいてくれればと切に思う。

「ケイ、今なんか失礼なこと考えなかった?」

「いやいやそんなこと……」むっとしたウルスラに詰め寄られ、ケイは半歩下がりつつ。「ちょっとだけ考えたかも。ごめん」

「誰と比べたか知らないけど、わかるんだよそういうの」フンと鼻息荒く、ウルスラはシャワーを手に取って試す。「着替えのことなら、亜空間に圧縮収納してるから問題ないよ」

 御幡家共用のシャンプーとボディソープの場所を教えて、ケイは風呂場を出た。

 居間でテレビの電源を入れ、ケイはソファーに腰を下ろす。はぁ、と大きな溜め息をつくと、どっと疲れが湧いてきた。背もたれに体を預けた途端、待ち構えていたように眠気が襲ってくる。ああ、眠い。でも寝る前に風呂にも入りたい。メイハとアヤハにメールしなきゃ。シェルターに避難してないことがバレたら面倒だから、ウルスラと口裏合わせないと……考えながら、うつらうつらとするケイの耳には、テレビのニュースが遠くの波音のように聞こえてくる。


 今日から始まったキョウト特種生物災害対策会議は……

 本日午後4時30分頃、トウキョウ圏の湾岸地区で、都市防衛システムの大規模な障害が発生しました。対象はシンジュク市、ナカノ市、ネリマ市、トヨシマ市、ヒノキ市で……

 トウキョウ県に発令された緊急事態宣言は、明日5月8日の朝をもって解除の予定です。

 システムの完全復旧は5月末の見込み。それまでの間、護国庁は防衛ラインを……

 本日、オオサカ湾に接近した界獣群は全て、海浜警備隊第一管区第一防衛隊の活動により撃退されました。


「へぇー……」

 耳元で、どこか棘のある少女の声が聞こえた。ケイが目を開けると、顔のすぐ右に赤い髪と尖った耳がある。

 タオルをかぶったウルスラが、ケイの背後からソファーの背もたれに顎を載せていた。ふんわりとお風呂上がりの少女のいい匂いがして、思春期の少年は心拍が上がってしまいちょっと困る。

「見るからに、神性移植者って感じだね」

 ウルスラの視線を追って見ると、テレビの液晶画面の中で青年が話していた。青年の着る青の制服は、海浜警備隊繰傀士のもの。左胸のラインは赤の一文字。示す所属は第一管区第一防衛隊。ニホンの首都キョウトを護る、精鋭中の精鋭の証だ。

「しんせいいしょくしゃ?」

 界獣と戦っている時にも、彼女はそんな言葉を使った覚えがある。聞きなれない言葉にケイが訊くと、ウルスラは答えた。

「キミたちの言う、遺伝子調整者のことさ。あんな風に」ウルスラは画面を指さして。「よくよ。まったく」

 画面の中の青年は、短く刈った黒髪に顔立ち整い背も高く、見るからに優秀そうな好青年だ。実際、第一管区第一防衛隊の一員なのだから優秀なのだろう。皆守一等警士、とレポーターに呼ばれている。その名前くらいはケイも聞いたことがあった。主に国営放送で、海浜警備隊の広報でよく話題に上がる人物だからだ。ニホンの新鋭傀体、甲種方術甲冑ショウキの繰傀士。彼はその爽やか且つ剛健なルックスから、ちょっとしたアイドル並みにファンもいるらしい。以前、大倉さんがそんなことを言っていた。

「でもまあ、優秀な人たちなんでしょ?」ケイは眠い目をこする。「そんな人たちが活躍するのは、いいことじゃないか」

 この10年ほどで、遺伝子調整者はどんどん社会に進出しその高い能力を示し始めていた。きっと彼らが今後のこの国を、世界を引っ張っていくのだろう。世間はそのような風潮であるし、ケイ自身もそう思っている。生まれからして違うのだから、嫉妬心も大して湧かない。メイハとアヤハのことを幾らか知っているから、遺伝子調整の仕組みそのものに思うところはあるけれど。

「さあどうだろう」ケイの言葉に、ウルスラはどこか予言めいた言葉を返した。「人間があんなのばかりになったら、それこそこの世界はおしまいかもしれない」

 ぎょっとしてケイは目を覚ます。彼女の言う「あんなの」、つまり遺伝子調整者ばかりになったら、世界はおしまい?

 一体どういうことなのか。訊こうとするケイの機先を制するように、ウルスラは立ち上がって大きな欠伸をこぼした。

「ふぁ……そろそろボクは休むよ」

 言われてケイがテレビ画面の時刻を見てみると、もう午後十一時を過ぎていた。ソファーに腰掛けてから、ずいぶんと眠っていたらしい。

「ケイ、湯あみが済んだら、ボクの臥所に来るかい?」にまにまと悪戯な笑みを浮かべて、ウルスラは言った。「若き騎士は、貴婦人と褥と共にするものさ」

 ふしど、しとね、と言われて一瞬何のことかわからなかったものの、すぐに意味を理解してケイは耳まで真っ赤になった。

「い、行かないよっ!」思わずケイは叫んでしまう。からかわれてるのも、後でいじられるのもわかっていたが。「ニホンでは『男女七歳にして席を同じうせず』って言うんだよ!」

「それは残念」ウルスラは薄緑のナイトローブをはためかせ、客間に向かう。琥珀色の瞳でケイを流し見ながら。「ボクはいつでも待ってるよ。Nos da, fy marchog.(おやすみ、我が騎士)」



 その後はケイも風呂に入って、食堂二階の自室で寝床に入った。眠りに落ちる前に、何とかメイハとアヤハ宛てに無事を報せるメールを送った、ように思う。

 枕元で、ヴヴヴとケータイが震えてメールの着信を伝えた。ケイは手に取って画面を見る。アヤハからだ。イシガミ町シェルターは、午前七時に避難指示が解除される予定。そのままシェルターの朝食は摂らずにメイハと帰宅予定。とのこと。結びの一文は『あまり無茶しないでくださいね。兄さん』。

 アヤハには、何もかも見透かされてるような気がするんだよなあ。ケイは紅い瞳の少女を思い出す。去年の夏休みだったか、夜中にこっそり家を出て、タケヤやソウタと旧市街で酒盛りしたことがあった。誰にもばれてないはずなのに、翌朝アヤハに『夜遊びはほどほどに。やり過ぎると姉さんけしかけますよ』と耳打ちというか脅された。彼女たちと暮らし始めて、似たようなことは数知れず。

 わかったよ。先に家に着けそうだから、店の方で朝ご飯用意しとくよ。ケイがそんな偽装混じりのメールを送ると『カコとタケヤさんも後から来るので、その分もお願いします』と即座に返信が返ってきた。

 『了解』とだけ返してケータイを折りたたみ、ケイは布団から起きてカーテンを開けた。朝の日の光が眩しい。ふぁ、と欠伸を噛み殺しながら布団を畳んで、しまうために押入れを開けると

「んー……ケイ?」ごろりと寝返りを打ってこちらを向いた、琥珀色の寝ぼけまなこと目が合った。「あれ、もう朝かい?」

 ケイはピシャっと押入れの引き戸を閉める。耳に集まる熱を感じながら思う。この際、客間で寝てるはずのウルスラが何でここの押入れにいるのかは訊かない。どうやって客間の布団を持ち込んだのかも、まあいい。だから誰か教えてよ。

 なんで彼女、服着てないのさ……




* * * * *




 何なんだろう、この胸の辺りのもやもやは。

 朝の水上道をヨロイで駆けながら、メイハは自問する。昨夜ケータイ越しに聞こえた、ケイといる女の声。あれを聞いてから何だか自分は変だ。無性に苛々とするし腹が立つし、落ち着かない。こんなことは今までなかった。ケイの傍に誰がいても、こんな気分になったことはない……いや、一度あったかもしれない。先月のことだ。高等部に上がった4月の初め。上級生の女が、ケイに会いに教室まで来ていたのを見かけた時だ。女はしきりにヨロイ研、方術甲冑研究部へとケイを勧誘していた。進級生への部活の勧誘など、別段珍しいものでもない。大方ケイのヨロイの繰傀技術に目をつけたのだろう。ただその女の目に、何とも言えない粘ついたものが見えた気がした。ケイもケイで、上級生の女に手を握られてデレデレと満更でもなさそうで。

 翌朝メイハは 自分でもよくわからない衝動のまま、ケイの弁当を豆腐ライスにしていた。

 その時感じていたもやもやよりも、今のこれは長いしなかなか消えてくれない。お陰でシェルターではあまりよく眠れず、いつにも増して朝の陽射しが眩しい。

 ふぁ、と欠伸を噛み殺しながら、メイハはヨロイの眼を背後に向ける。簡易シートの前席で、カコが寝息を立てていた。相当揺れているのによく眠れるものだと感心する。後席ではアヤハが空を見上げていた。

「眠れなかったんですか? 姉さん」

 紅みがかった瞳を空に向けたまま、アヤハが訊いてきた。

「ああ、ケイのことが気になってな」

 メイハは心にあるそのままを答えた。この妹に隠し事をするのは難しい。アヤハは幼い頃から人間の通常の視力が極度に低い反面、常人を遥かに超えた聴力と嗅覚を持つ。ほんの僅かな声音や体臭の変化から、人の感情の動きまで読み取れるほどに。そのことを知るのはメイハとアヤハの姉妹だけで、周囲には耳と鼻が少々良いくらいにしか説明していない。バレれば確実に面倒なことになるだろうから。

「無事ですよ、兄さんは」姉を落ち着かせるように穏やかに、アヤハは言った。「メールも返ってきましたし。一緒にいた誰かは、わたしも気になりますが」

「誰だかわかるか?」

「わかりませんね。聞いたことのない声でした」

 アヤハは聞いたことのある声をすべて記憶している。名前がわかればその声の主も。そのアヤハが、聞いたことのない声とは何だ? メイハは声の主に考えを巡らせる。ネリマ市外の人間だろうか。

「女、だったな」

 ぽつりとメイハは言った。昨夜から続くもやもやのほとんどはその部分にあるのだ。知らない女が、ケイの傍にいるかもしれない。そのことがひどく胸をざわつかせる。

「ええ、女でしたね」確認するように、アヤハも言った。「兄さんのことを、ワガキシ、とか呼んでました。僅かですが、ニホン語にないアクセントが。外国人でしょうか」

「外国人の女? こんな田舎町にか?」

「わたしの聞き違い、という可能性もありますが、全く在り得ないということもないでしょう」アヤハは上向いた目を閉じる。「元々兄さんは、変な偶然を引き当てるようなところがありますから」

「そうかな……」ケイは変な偶然を引き当てる。それを聞いてメイハの脳裏を過ぎるのは、自分たち姉妹のことそのものだ。「そう、かもな」

「でもまあ大丈夫でしょう。普通の女の目に、兄さんが魅力的に映ることはまずありません」アヤハは目を開けると、断言した。当のケイが聞いたら落ち込みそうなことを、どこか嬉しげに。「ケイ兄さんも、少なからずおかしい人ですから」

 ケイはおかしい。そのことについて、メイハに異論はなかった。ケイがまともな人間なら、自分たち姉妹と関わることもなかっただろうから。しかし魅力的云々については、よくわからない。そもそもケイが女の目に魅力的に映ったら、あるいは映らなかったらどうだというのか。どうやらこの頭の良い妹は理解しているらしい。あるいはこの胸のもやもやも。

 自分の知らないことを、妹は知っている。なんだか悔しくて、メイハは胸のもやもやについて訊くことはしなかった。

「アヤハ、そろそろカコを起こしてくれ」

 ヨロイがナカムラバシ駅前に差し掛かる。カコの家まであと僅か、御幡の家まで数分だ。

 アヤハが前席のカコの肩を軽く揺さぶると、うみゅあ、と猫のような声を漏らしながらカコが目を覚ました。

「んー…… もう着いたん?」

 メイハは八重垣の家の前にヨロイを停め、片膝を着かせた。タケヤが先に帰宅済みなのか、二階の窓から灯が見える。

 カコは鞄をひっ掴むと、重さを感じさせない慣れた足取りでヨロイを駆け降りた。

「メーやんアーやんおおきになー」

「ケイが朝食を作って待ってる。荷物を置いたらタケヤと来るといい」

 ヨロイを見上げるカコに向かって、メイハは言った。八重垣の家とは家族ぐるみの付き合いで、両親が忙しいときなどはカコとタケヤの食事を頼まれている。

「すぐ行くで。お腹ぺこぺこや」

 後ろ手に手を振りながら、カコは玄関に小走りに駆けこんだ。その背を見送って、メイハはヨロイを立ち上げ我が家、御幡の家へ向かう。避難指示の解除後間もないため、道には人も車もヨロイもまだまだ少ない。すぐに見慣れたみはた食堂の看板が見えてくる。

「ああ、いますね」

 ぽつりとアヤハが言った。

 メイハが店の前にヨロイを停めると、アヤハはさっさと鞄を持って飛び降りて店の引き戸を開ける。同時に、ケイと聞き慣れない少女の声が聞こえてきた。

「だから、そんなに急いでかき込んだらまた……」

「んーんーんー!!」

 ケータイ越しに聞いた声と同じだ。メイハはヨロイを除装すると、円筒に格納してバックパックに放り込んだ。店の扉をくぐって、ケイが見慣れたエプロン姿で厨房にいるのを見て安堵する。まったく心配させてくれたものだ。メイハが大きく息をつくと、カウンター席にいた騒々しい輩の琥珀色の視線と目が合った。頬張った飯を咀嚼するそれは、こちらを訝しむ様子を隠さない。なんだこの赤毛のちっこいのは。

「「ケイ」」

 メイハと琥珀色の目の持ち主の、少年への呼びかけはほぼ同時で。

「そこのソレ、その娘は何だ?」

「彼女たちは何だい?」

「えーと……」問われたケイは、お玉を持ったままうむむと眉根を寄せて考え込んでから口を開いた。「メイハ、アヤハ、こちらはウルスラ・ブレナンさん。観光中に昨日の騒ぎに遭って、シェルターがわからなくて迷ってたのを案内したんだ」

 メイハは改めて紹介された娘を見る。赤いくせ毛に琥珀色の瞳。外国人、とのアヤハの推測は正しかったか。その目つき、あからさまに不審なものを見るそれに少し苛立つが、まあ許容範囲だ。

「ウルスラ、こっちはメイハとアヤハ。僕の……妹というか幼馴染というか、そんな感じの関係の人かな」

「ふーん……」ウルスラはメイハとアヤハを見上げて言った。「ボクはウルスラ。まあよろしく」

 その「よろしく」に、メイハはよろしくする気をあまり感じられなかった。まあ外国人なら、多少の意志疎通の不備から、不躾に感じられることがあっても仕方なかろう。そう思おう。ニホン語は随分と流暢のようだが。

「ワタシはメイハ、玖成メイハだ」名乗って、メイハは傍らの妹の肩に軽く手を触れる。「こっちはワタシの妹のアヤハ。目が悪いので、少々失礼があるかもしれないが、許してほしい」

「……よろしく」

 アヤハは小さく会釈すると、ウルスラの左隣の席に座る。

 メイハも倣って、ウルスラの右隣に席を取った。厨房に目を向ければ、ケイがフライパンの焼き飯に溶き卵を投入している。今日は炒飯か。隣の小娘が頬張っているのも炒飯だ。昨夜何があったのか。このウルスラとかいう娘が何でここにいるのか。訊きたいことは山ほどあったが、慣れ親しんだ日常の光景と、漂う香ばしい良い匂いに塗りつぶされてしまう。とりあえず、腹ごしらえしてからだ。昨日、面倒な奴を撒いて校舎から出るのに少々本気を出したせいで、腹が空いて仕方がない。

「はい、お待ち遠さま」

 目の前で盆に置かれた炒飯が、旨そうな湯気を立てている。メイハは即、口に運びたい衝動にかられるも、その前に一つだけ言って置きたいことがあった。主にケイに対して。シグ姉さんには「どっちでもいいじゃない」とよく言われる。でもこれだけは譲れない。

「ワタシはケイの妹じゃない。どちらかと言えば姉のようなモノだ」

 しっかりと言い置いてから、メイハは炒飯を頬張った。

 




* * * * *




 兄ちゃんが、あかん。

 家からみはた食堂までの短い道のりで、カコは頭を抱えたい気持ちになっていた。玄関に脱ぎ散らかされたスニーカーで、兄が先に帰宅したことがわかった。二階の部屋に呼びに行って目に入ったものは、布団に転がる変態だった。起き上がったかと思えば、顔を赤くして布団に倒れて転がり、また起きては気持ちの悪いにやけ面になる。胸を押さえて苦痛に顔を歪めたかと思えば、口元に手を当てまたにやける。昨日の下校から今朝までの間に、兄ちゃんに何があったんや。なんぞヤバイ薬でもキめたんか。こんな田舎でも違法な薬を売る悪い輩がおるんか。

「兄ちゃん、メシや!」

 カコが耳元で怒鳴ってその尻を蹴飛ばして、ようやくタケヤは妹を認識した。

 今、タケヤはカコの隣を歩いている。みはた食堂に向かって。その足取りはふわふわと落ち着かない。今すぐスキップでも始めそうだ。顔をよく見れば、褐色の肌がほんのり赤く染まっている。外に出て多少は正気に戻ったのか。右手を口に当てて、にやけ面を隠そうとしている。それがカコにとっては猶更に気持ち悪い。

 おかんがバストンで頭ぶっ叩けば直るかな。カコが浮かれる兄を横目で見ながら考えていると、みはた食堂はもう目の前だった。

 扉を開けてタケヤが店内に入る。後に続くカコの前で、タケヤが足を止めた。

「どうしたん?」

「えらい別嬪さんがおる」

 言って立ち止まった兄の背から、カコは顔を覗かせた。見慣れた食堂のカウンター席に、少女が三人、並んで座って食事を摂っている。内二人は良く知る玖成メイハとアヤハ。その二人に挟まれるように、もう一人。赤い髪のとんでもない美少女がいる。ちら見した横顔だけでもわかる。歳は一緒くらいか。若草色のスカーフをターバンのように頭に巻いた彼女は、愉し気にレンゲで炒飯を頬張っている。その左右隣のメイハとアヤハは、言葉少なに黙々と炒飯を食べていた。

 朝の食堂に、そこはかとない冷気のような緊張感が漂っている。たぶんその元凶且つこの状況を説明できるであろう兄の友人は、厨房で呑気に炒飯を炒めていた。嗚呼、ケーやんって良くも悪くも鈍なとこあったなあとカコは思い出す。

「いらっしゃい。タケヤ、カコちゃん」

 ケイが、皿に炒飯を盛りながら八重垣兄妹に目を向けた。

「おはようさん。今日も世話んなるでー」カウンターの美少女三人を横目に見ながら、タケヤはテーブル席に座った。「なんやケーやん、両手に花じゃ飽き足らず口にも薔薇かい」

「あれ、そんな華やかなもんやないで」カコもタケヤの向かいの席につくと、声を潜めて言った。「しっかし、あの距離感に割って入れる女がおったんか」

 カウンターを見れば、赤毛の少女が勝手知ったる風情でお代わりを注文し、ケイが苦笑しながら追加の炒飯を準備している。その様は、外見の違いを除いてしまえば、カコにはケイと玖成姉妹よりも兄と妹っぽく見えた。発する言葉も「ケイ、美味しいよ!」とか「うちで厨房仕切ってよ、ケイ」とか既に名前呼び捨てで随分と親し気だ。声と口調から、昨夜ケータイから聞こえた声の持ち主とわかる。果たしてこの娘は何者なんや。ケーやんへの露骨な好意もそうやけど、メーやんアーやんの圧に平然としとるなんて、ただ者やないで。しかもニホン人やない、ガイジンさんや。生で見るの初めてやわ。

「タケヤ、カコちゃん、できたよ」

 厨房のケイが、炒飯定食の盆をカウンターに置く。カコとタケヤが受け取りに席を立つと、ガラリと店の扉が開いて若い女が入ってきた。ショートボブの黒髪に、その面立ちは厨房の少年とよく似ている。ケイの姉、隣の学区で教師をやってる御幡シグネだ。

「あ、シグねーやん。おはよーさん」

「あら来てたのね。おはよう。カコちゃん」

 柔和な笑みで挨拶を返すシグネに、メイハとアヤハ、ケイとタケヤも軽くおはようの挨拶を返す。

「まったく、バスが混んでてもう……」シグネは愚痴をこぼしながら店内を見渡すと、カウンターの赤毛の少女に目を留めた。「ケイ、また野生化した女の子拾ってきたの?」

「そんな、犬猫拾ったみたいな言い方しなくてもいいじゃないか」厨房のケイがぼやく。「彼女は……」

 ケイが言いかけるが早いか。赤い髪の少女は席を立って、颯爽とシグネの前に立った。

「はじめまして、ボクはウルスラ・ブレナン。ブリタニア連合の方から来ました」ウルスラと名乗った少女は、笑顔でシグネを見上げた。「もしかして、ケイの姉君あねぎみですか?」

 カコは盆を持ってテーブルに戻りながら、計算やなあ、と思う。シグネをケイの親族だと見て、即、好印象をゲットしに行ったんか。たぶん、これまでアーやんもメーやんも関わったことのないタイプや。

「Nice to……って、ニホン語で良さそうね。はじめまして、ウルスラさん。私はシグネ・ミハタ。ケイの姉です」

「やっぱり! 良く似ているのですぐにわかりました」ウルスラはシグネの手を握る。「弟君おとうとぎみ、ケイにはすごく親切にしてもらいました。どんな感謝の言葉でも言い尽くせないくらいに」

「あら、それはそれは。愚弟の行動で貴女が助かったのなら何よりだわ。てっきり、また厄介ごとに自分から首を突っ込んで、渦中の誰かを引っ張ってきたのだとばかり」

 シグネが愉しそうにカウンターの玖成姉妹を一瞥すると、メイハは少しばつが悪そうに余所を向き、アヤハはほうじ茶の湯呑を口にする。ケイは聞こえないフリをするかのように、厨房奥に引っ込んで炒飯を炒め始めた。

「市内を観光中に緊急避難警報を聞いて、シェルターを探して迷っていたところをケイに助けてもらったんです」ウルスラは耳元の髪を摘まんで引っ張る。「彼と会うのがもう少し遅れてたら、今頃は界獣の腹の中でした」

 カコはウルスラがケイに向ける好意にちょっと納得した。ケーやんが、異国の美人さんの命の恩人ってわけなんか。道理で。この世全ての女子の夢、さしずめ白馬の騎士さまか。騎士さま言うにはケーやんは、ちいとばかり背が足りない気もするけどな。あばたもえくぼ、っちゅうやつか。目の前の兄は炒飯を頬張りながら「えらいフラグ立てよったなー」とか言っている。

「はるばるこの国に来てくれたのに、災難ね。魚が美味しいくらいで何もない街だけど、ゆっくりしていってね。ケイ?」

「何? 姉さん」

 シグネに呼ばれ、ケイがフライパンを持ったまま、厨房から顔を覗かせた。

「今日は休校でしょ。折角だから、ウルスラさんに市内を案内してきなさい」シグネはスーツの懐からケータイを出すと、開けて画面を見る。「お店のことは大丈夫。そろそろ父さんも帰ってくるし」

「え? ちょっ……」

「いいんですか姉君!」戸惑うケイに被せるように、勢い込んでウルスラが言う。「それは助かります!」

「ほら、軍資金もあげるから」

 シグネは鞄から財布を出すと、ケイに向かって一万円札を指に挟んで見せた。

「でも昨日、ヨロイを壊しちゃって今は足がないんだ」

「ワタシのを貸してやる」困り顔のケイにメイハが言う。空になった炒飯の皿を、トンと少し大きな音を立てて置きながら。「その代わり、ワタシも同行するぞ」

 ぎろりとウルスラを睨めつけるメイハの目の中で、青い部分が光ったように見えたのは気のせいか。ウルスラは「かまわないよ」と笑顔を返す。その琥珀色の目に表情がなくて、目の当たりにしたカコはちょっと寒気を感じる。これがアルカイック・スマイルっちゅうやつか。美人のガイジンさんがやるの見ると怖いわー。

「やっぱケーやんモテとるやないか。デェトか? 両手に花束でおデェトなんか? ワイかてまだ……」

「どこ見てそんな発想が出んねん。修羅場や修羅場」

 見当違いのあほ兄の発言を訂正しながら、カコはレンゲで炒飯をすくう。兄ちゃんが何かたわ言を口走ったような気もしたけど、まあ気のせいやろ。




* * * * *




 ストレスチェックで見たはずのその絵は、果たして何枚目だったか。

「この絵、何に見えますか?」

 臨床心理士を名乗る女に問われ、樋口シンイチは言葉に窮した。その絵を目にする前までは、感じたことをそのまま述べてきた。これは好きだとか嫌いだとか。あるいは綺麗だとか寂しい感じがするだとか。思うままに感想を述べてくれとの、臨床心理士の言葉に従って。それまでスクリーンに投影された絵の数々は、遊ぶ子猫たちや青々とした大樹、雪冠を頂く山嶺といった、良くも悪くも普通の絵で。いつかどこかで見たような気はするものの、絵画に詳しいわけでもないシンイチには「上手い絵だ」ということくらいしかわからなかった。

 しかし今、最も印象に残ったあの絵を思い出そうとすると、途端に記憶が曖昧になる。直前に見た樹氷の森、直後に見た夜明けの都市の絵は、詳細とまではいかなくともだいたいの構図は憶えていた。なのに、あの絵だけどうして……もしかして、あれが何かわかるか否かが、発現者とヒルコの分かれ道だったのかも。などと益体もないことを考えてしまう。

 設計形質が満足に発現せずに成人年齢を迎えたのに、今更何を期待しているのか。

 折り合いをつけたつもりでも、未練はまだあるのだろう。だから年に一度の遺伝子調整者向け健康診断も、いまだに欠かさず赴いている。会社の定期健診もあるのに。貴重な有休まで使って。

 胸の内で自嘲しながら、シンイチは揺れるバスの窓の外に目を移した。視界に入るのは、ネリマ市の旧市街、半ば水没したかつて街だった場所だ。住む者のいない家屋がビルが、沈む日に照らされ海水混じりの水に晒され朽ち崩れている。赤い陽射しの色と相まって、その様は何か巨大な生き物の死骸をシンイチに連想させた。

「……っ?」

 不意に、目の奥が疼いた。胸の鼓動に合わせて、痒いような痛いような感覚が目の奥から頭を刺す。シンイチは右手のひらを額に当てた。ひどく熱く感じる。反面、手のひらは氷水に漬けたように冷たい。びちゃびちゃと冷汗が滴って止まらない。思い出せない絵の残滓が、記憶の彼方でチラチラと躍る。頭の熱が顔から首、胸へと少しずつ滲むように這うように下ってゆく。何だこの感じは? 熱い。それ以上に痒い、痛いくらいに。もう痛い。頭の奥、脳の深みがナニかに引っ張ラレル感ジがスル。痛い。身体が熱イ。肌ガムズ痒い。胸が苦シイ。息モし辛イ。熱苦シイこの服ヲ脱ギタイ。

 シンイチは首筋をかいていた左手の指を、シャツのボタンにかけて引いた。シャツと一緒に胸の皮膚と肉が剥がれた。痒みが少し鎮まる。右手の指で頬をかくと、顔と一緒に頭皮がずるりと剥ける。

 車両内に甲高い悲鳴が上がる。こちらを向いた運転手の目が、驚愕に大きく見開かれるのがシンイチには見えた。無数の像に重なり合って。

 腕に脚に胴にまとわりついて、絞めつけてくるものを、脱グ。でもまだ熱い苦シイ。痛痒イ。余計なものを脱ぎ棄てたら、今度は灼けつくような痛みに全身を隈なく蝕まれた。一六個の眼も一五八本の触腕も、どこもかしこも炎に炙られるように痛い、痛イ、イタイ……

 痛みに苦しむシンイチに、一つの方向が指し示される。それは彼方の上位者の、令。


 コワセ


 シンイチの意識は彼方からの令に呑み込まれ、欠片も残らずただの機能となり果てて。

 シンイチだったモノは、触腕で窓を突き破るとバスの外へと飛び出した。


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