第2話 妖精の剣(後編)

 コンゴウ改の眼を通して見る夜の街は、ブラウンセピアに調色された写真に似ている。そのせいか、伊勢ソウリは夜間の警邏や駆除任務に携わると、古い映像記録を観ているような気分になる。今となっては作戦行動中にもさして不自由は感じないが、駆け出しの頃は水没地帯と陸地、また水面や海面と界獣の境界が判別し難く、何度も危うい目に遭った。訓練で散々に「色で見分けるな、形で見分けろ」と教え込まれたが、その教えが完全に身になったと思えたのは、繰傀士として配属されて二年余りが経ってからだった。コンゴウ改の映像は、日中は普通に色彩がある。そのため、意識の切り替えが困難だったのだろうと、後のソウリは分析した。だというのに。

『センパイ、一体通しますんで後ヨロシクっす』

 海浜警備隊繰傀士としてのキャリア1年半ほどの田和良トウカは、夜の旧市街をこともなげにヒエイで駆けた。ヒエイは足元から飛び出す界獣を軽快に跳んで避け、廃ビルの壁面に手足をかけて器用に這い登る。

 ヒエイのあった場所で、界獣がギシリと空しく顎を閉じる。

 ヒエイに後続してコンゴウ改を駆るソウリは、界獣に照準を合わせて投網銃のトリガーを引いた。ワイヤーネットが展開し、界獣の体に絡みつく。

 ニホンのミスティックレイス、月山がっさんのキシンが鍛造したアクロ鋼製のワイヤーネットは、方術甲冑を離れても僅かな時間、界獣の動きを封じられる。その時間はおおよそ10秒。

 ソウリは投網銃をコンゴウ改の腰部ホルスターに収めると、背の薙刀を構えて突進。ワイヤーを振り切ろうともがく界獣目掛け、網の目を縫って刃を突き入れる。ゴツっとした硬い感触に、脊椎に相当する部位に達したことを確認すると、刀身を残したまま切り離し、薙刀の柄に替えの刀身を装着。今度は頸部を割き貫いた。

 GyiAAAaaa……!

 断末魔の叫びじみた咆哮を上げながら、界獣が徐々に動きを緩慢にしてゆく。数秒後、界獣は動きを止めて崩れていった。

 同時に、対象をなくしたワイヤーネットと薙刀の刀身が水中に沈んでいく。それに頓着することなく、ソウリは先行するトウカのヒエイを付かず離れず、一定の距離を保持して追いかける。視界を広く確保し、観測情報と現実の世界、ヒエイの活動を観察する。ヒエイは廃ビルに登りきると、ビルの屋上から屋上へ飛び進む。界獣を捕捉すると、ヒエイはその上空から逆持ちの薙刀で急襲した。

 刃が界獣の頭部を穿つ。ヒエイは薙刀を放って着水。頭の刃を外そうと身をくねらせる界獣目掛け、腰から一閃。月山刀の一撃を居合抜きに斬りつけ、界獣の右前肢を切断する。バランスを崩す巨体の横をヒエイはすり抜け、今度はその背部へ深く刀を突き入れた。

 もがく界獣にしがみつくように、ヒエイがその姿勢を保持すること数秒。界獣は崩れ水に溶けていった。

 ソウリは周辺の状況を確認する。使鬼の観測情報をチェックしても、駆除対象なし。この地域の界獣、D類特種害獣の駆除は完了したようだ。

 トウカの駆るヒエイが、月山刀をゆるやかに鞘に納める。歴戦の武人めいたその様を見て、ソウリは思う。

「もう、トウカちゃん一人でいいんじゃないかな」

 偽らざるソウリの本心は、知らぬうちに言葉に出た。ヒエイの性能分を差し引いてみても、彼女のセンスと成長の度合いは自分と比べて桁違いだ。遺伝子調整者、人工の天稟はかくあるものか。これからは先は、彼女たちのような者が中心となって、この国を護ってゆくのだろう。嫉妬心など湧いてこない。むしろそれでこそ、安心して退官願を書けるというもの。

 ソウリが近い将来に書く退官願の文面を考えていると

『そんなことないっす!』

 勢いよくトウカからの通話が入った。さっきの内心、口に出ていて聞こえていたのか。ソウリは少し気まずくなるが、まあ嫌味でも何でもない本心だしな、とも思う。

『センパイのバックアップがあるから、やれるんす。実際、センパイと組んでからスコアの伸びが段違いなんすから』

「なに、すぐに誰と組んでも十分にこなせるようになるさ」

 とは言ったものの、トウカの言葉も事実ではある。第一小隊の駆除戦果は第三管区の中でも常に上位にあった。戦果の伸びは、かつてトウカが所属していた第一管区の部隊にいた頃の記録と比べても明らかだった。

 田和良トウカと組む前から、繰傀士としての伊勢ソウリにはそんな傾向があった。自身のスコアは全国平均やや上くらいなのだが、バディを組んだ相手は着実にスコアを伸ばす。ソウリとしては誰と組んでも、同じように任務を遂行しているだけだったが。結果、第三防衛隊内で彼に付いたあだ名は"スーパー器用貧乏"、"永遠のバイプレーヤー"。誉められてるのか、どうなのか。

「でもまあ、あれだ」ソウリは次代を担う後輩に言った。「刀身はともかく薙刀まるごとポイは、回収班からあれこれ言われるぞ」

『う、気をつけるっす』

 水中に没した装備品は、後で防衛隊回収班のダイバーたちがサルベージして整備、再利用される。没した装備が多ければ多いほど、大きければ大きいほど、回収班の仕事は増える。それが彼らの職務なのだから表立っての文句はないが、余計な仕事が増えれば当然いい顔はされないし、遠まわしな嫌味くらいは言われる。チーフダイバーの碓井に、また奢らなきゃな……ソウリは酒好きの同期の顔を思い浮かべる。あいつ絡む上にザルなんだよなあ。

『本部から連絡です』今度は、戦術陰陽士ユミからの通話だ。『先ほどサイノカミの応急対応が最終段階に到達。またシステムの完全復旧までの間、防衛ラインを第五まで引き下げることが決定されました』

 シンジュク市を中心に、トウキョウ湾上の第一から居住区画の境界となる第七まである防衛ライン。第五となれば、市民の居住区とほんの少しの海だけが、人間の活動できる領域となる。

「ずいぶん思い切ったな」

 それがソウリの感想だった。都市防衛システム復旧までの間、これで間違いなく漁業関係は操業できなくなる。新トウキョウ湾岸の主幹産業の受ける打撃は、いかばかりか。政府がある程度の補償はするだろうが、市民の憤懣は溜まるだろう。そういった積み重ねが、ミスティックレイスの排斥運動や、遺伝子調整者への謂れのない差別、界獣保護運動などの狂った活動につながっている現実がある。

『それだけ、サイノカミの損傷が深刻なのよ』瑞元隊長が、聞いているこっちが落ち込む暗いトーンで告げてきた。『緊急で伏莉ふせり様にお出まし願ったみたいね』

「伏莉様、ですか」

 大海嘯後のニホンを護る都市防衛システム"サイノカミ"。伏莉はその構築者、ニホンのミスティックレイス天狐てんこの一人だ。現在はトウキョウ圏を含む関東、第三管区の防衛システム最高管理責任者でもある。ソウリはかつてその姿を、年に一度の大演習で見たことがあった。ヨロイ越しの望遠映像で見ただけだったが、ぞっとするような美女だったことを憶えている。腰まである長く艶やかな髪は、ぬばたまの枕詞そのままの黒。金色の瞳と獣のような縦長の虹彩が、彼女が人ではないことを示していた。平時、彼女はオクタマ山中にて特殊技能者育成に携わり、滅多なことでは山を下りないという話だったが。

『隊長、ナカノ市方面の第三小隊より増援要請です』

『了解。すぐに向かうと伝えて。伊勢君、トウカちゃん、聞いてのとおりよ。ポイントを送るから。走れる?』

 瑞元隊長の言葉とともに、ソウリの傀体に目的地の座標が送られてくる。方術甲冑を除装して、傀体装備輸送車両で向かうには時間的も微妙な距離だ。

「了解。直ちに向かいます」

 薙刀を担ぐと、ソウリはコンゴウ改をナカノ市街のポイントに向けた。




* * * * *




 剣のような月の下、緋袴の巫女が跳び、回る。右手に剣鈴、左手に六支扇。顔に五つの炎の眼を刻んだ異形の面を付けて。

 夜気を震わせる瓏瓏たるうたいは、人の発声の限界に挑むかのように、喉を絞り尽くすかのように掠れしわがれ、絶命間際の獣にも似て。

 巫女は奇怪に身をうねらせながら舞い巡り、扇を振るって踊り跳ぶ。舞いは旋回、踊りは跳躍。それはニホンの芸能史、その裏側で脈々と受け継がれてきた、高みのものに捧げられ、高みのものと交信し、その御力を借り受ける術。借り受けて成すのは祓えの御技。

 古来よりニホンでは、外つ国とつくにからの来訪者を迎える度に舞踊が舞われてきた。それは歓待を示すものでありながら、常に真逆の意図があった。外から持ち込まれる悪疫、病、凶事へ向けて、去ね、去りゆけ、ここより先へは通さぬと、回って巡って境を築き、跳んで地を叩き追い立てる。舞い手が面を付けるのは、凶事と直に触れ合わぬため。それでも外つ国のものと相対する舞い手の身は、常に生命の危険に晒される。故に舞い手の一族は幾世代にも渡って、時の権力者から厚遇されてきた。

「…はずだったんじゃがのう」

 巫女の舞踊を眺めながら、伏莉は溜息とともにぽつりと呟いた。外つ国の凶事を祓うその技も、30年前の災禍の前に多くが失われていた。能や狂言のように表舞台に出ることのなかった技は、ほんの僅かな断片が、旅する芸能者たちに伝えられるのみとなっていた。それさえも途絶えかけの風前の灯の有様で、一人の天与の才を持つ女がいなければ、完全にこの世から消えていたことだろう。

 その女、鈴耶シノも今はいない。20年前のあの日、彼女は統京湾に出現した"あれ"を退去せしめて命を落とした。しかしあの日までに、己の知る全ての舞踊と謡を、弟子たちに伝え遺してくれた。

「人の身を超えたその偉業、感謝してもしきれぬな」今頃は浄土にいるか、はたまた輪廻の輪の内か。伏莉は目を閉じて、種族を超えた亡き友を思う。「御前がおらねば今日この日も、更なる大厄に見舞われていたことじゃろう」

 シンジュク市、都市防衛システム"サイノカミ"中央塔。その頂で、五つ眼の面を付けた巫女が舞う。シンジュク市と同様にシステムが破壊・涜神されたナカノ市、ネリマ市、トヨシマ市、ヒノキ市の塔でも、現在、同じ舞踊儀式が進行している。舞い手と謡は、オクタマ山中で技を磨ぎ伝える鈴耶シノの弟子たちだ。

 山中異界より現世に這い出た天狐も鬼神キシンも、祓えの御技は使えない。高みのものは応えない。ただ人のみが、これを成しうる。

 都市防衛システムの復旧まで定期的に舞うことで、損傷前のサイノカミと同じ範囲とまではいかなくとも、それに準じた領域を安全に保てる。

 伏莉の背後では、サイノカミへの応急処置が急ピッチで進められていた。防護服を着た作業員たちが、積み上げられた人体の断片を搬送し、底面と壁面を洗浄している。抉られた御印の修復には、キシンの技師を要請する必要があり数日を要する。修復後も涜神解除儀礼の執行、星図の調整と特種害獣嫌気パターンの再設定等々、やるべきことは山積みで、システムの完全復旧まで16日が見積もられていた。

 果たして今日のこの惨事、いかなる者が為したものか。

 伏莉はかすかに眉根を顰め、考えを巡らせる。大した抵抗の痕跡もなく、殺され解体された警備員、深く抉られた塔の頂。いずれも、超常の力が関わっていることは間違いない。護国庁の特安部からは、ネリマ市周辺に西欧系の術者が数名入り込んだとの報告が上がっていた。果たしてこれに関係があるのか。"あちら"の存在、〈古く忘れられた統治者〉についてのこの国の知識と対処は、どうしても西欧、米国のそれに一歩も二歩も劣ることは否めない。

「何やら、風が匂うのう」くん、と伏莉は形の良い鼻梁で夜気を嗅ぐ。「ツツジの花か? 醸した蜜のような匂いも混ざっておるが、はて……」




* * * * *




 街灯に照らされた夜の町に、人影はない。

 周辺地域の市民の避難はほぼ完了との連絡が入っている。しかしあくまで"ほぼ"だ。市も全住民の所在を完全に把握できているわけではない。逃げ遅れた誰かがまだいるかもしれない。サクラオカ町シェルター第二ゲートの前で、警備担当の柳瀬ナオキはまだ見ぬ避難者を待っていた。

 ururuuuuuuuuuuuaaaa……

 時折、海の方角から聞こえてくる界獣の咆哮に身震いする。海浜警備隊が出動しているはず。ここまでは来ない。界獣が居住区画まで来たことは、ナオキがヒジリ警備保障に就職してからの一二年間に一度たりともないのだ。今回も大丈夫に決まっている。

 それでもやはり、遠い咆哮を聞くと体が震えてしまうのは、幼い頃の記憶故か。ナオキは今年で三五歳になる。覚えているのだ。30年前、大海嘯のあの日、母に手を引かれてマンションの屋上へ逃れた時のことを。隣接するマンションの屋上に、上昇した海面から界獣が飛び出して、ナオキたち同様に逃げのびた住民に襲いかかった。上がる悲鳴と絶叫。血混じりの喉が出す金切り声は、生涯忘れられそうにない。人々が界獣に喰いちぎられ引き裂かれ圧し潰され、屋上のアスファルトが血と臓物で塗れていった。間一髪、自衛隊の救難ヘリが間に合わなければ、自分も同じく屋上の塗料と化していたことは想像に難くない。

 サクラオカの名の通り、サクラオカのシェルターは地域でも標高が高い丘陵部の中腹に建設されていた。第二ゲートのある位置からは、眺望良く町並みが見渡せる。楽な仕事だ、とナオキは思う。人や車、ヨロイが来ればゲートを通し、万一、界獣が来ればゲートの内に逃げ込むだけだ。

 今も車一台、ヨロイ一傀体の影も見当たらない。海浜警備隊の方術甲冑と界獣が交戦しているのだろう。時折、遠く東の方からGyiiaaaAAA……と苦鳴のような咆哮が聞こえる。

 そんな音に気を取られていたせいなのか。ナオキが気づいた時には、もうその二人の人影はかなり大きくなっていた。

「すみませーん!」

 街灯に照らされて少年が駆けてくる。その隣には、パーカーのフードを目深に被った小柄な少女がいた。

 避難者だ。こんな時間まで何処で何を? そんな疑問がナオキの頭を過ぎるが、今はそんなことを考えている場合じゃない。

「怪我人か?」

 同僚の須永が、同じ光景を見て言う。

 言われて見れば、少年は誰かを背負っていた。

「行ってくる!」言いおいて、ナオキは少年たちに向かって駆け出す。「君たち、大丈夫かい!?」

 声をかけながら近づくと、見えてくる。少年は十代半ばくらい。少女はフードのせいで顔は見えないが、同い年くらいか。少年の背で、老婆が目を閉じている。

「はい!」利発そうな少年が、息切れしながら答えた。「僕らは、大丈夫です。お婆さんも、眠ってるだけで……」

「手伝おう」ナオキは少年から老婆を譲り受け、背負う。少年たちを先にゲート行かせようと、振り返って「君たちは先にゲートへ」

 行ってくれ、と言いかけて彼は言葉を止めた。

 振り向いた先には、人影一つなかった。




* * * * *




 仁木さんのお婆さんをシェルターの係の人に預けた途端、赤毛の少女は「行こう」とケイに耳打ちするなり、彼の手を掴んで駆け出した。

 つんのめりそうになりながら、ケイも慌てて一緒に坂を駆け下りる。道を曲がって進んでまた曲がって、着いたのはシーソーと鉄棒、ベンチが一つあるだけの小さな公園だった。

 ふぅ、と息をついてケイはベンチに腰掛けた。呼吸を整えながら隣を見れば、彼女もフードを上げて大きく息をついている。急にどうしたというのだろう。ケイの頭に疑問が過ぎる。つられて付いてきたけれど、別にあのままシェルターに避難してもよかったのではなかろうかと思う。

「どうしたのさ、急に」なので、ケイは疑問をそのまま口にした。「シェルターに保護してもらっても、よかったんじゃないかな。君はその……」

 ミスティックレイス。それも異国の。普通に考えれば、田舎者のケイでも超VIPだとわかる。こんな状況だ。公的機関だって真っ先に保護してくれるだろうと思える。

「そう、ボクは"コレ"だからさ」少女は赤いくせ毛を軽く指で引っ張ってから、尖った右耳の先をちょんとつつく。「騒ぎになるのは嫌なんだ。今ここにいるのは、お忍びというやつでね」

 ブリタニア連合のミスティックレイスは、尖った耳の美貌の男女が多い。その姿と立ち居振る舞いは、海外産ファンタジー作品に慣れ親しんだニホン人に、物語の妖精種族エルフの姿を彷彿とさせた。そのためEUのミスティックレイス戦乙女ヴァルキュリアと並んで、ブリタニアの妖精たちはニホンでは高い人気がある。今では国内外のファン向けに写真集なども出版されているくらいだ。

 かつての首都圏、統京二三区も今は昔。田舎のネリマ市くんだりに、ブリタニアの妖精美少女が現れれば、ちょっとした騒ぎになるのは確実だ。

「お忍び、かあ」

 そんなこともあるのだろうとケイは納得する。ちょっと釈然としないような気がしなくもなかったが、相手は人類の救済者の一人だ。汎人である僕など思いもよらない事情もあるのだろう。

「それにさ」少女はベンチから立ち上がると、ケイの右手を両手で持って引っ張った。「今のこの街で一番安全な場所は、キミとボクがいるここだよ。我が騎士」

 手を引かれてケイは立ち上がる。その右手首で、銀の小輪が連なる腕輪がチャリンと音を鳴らす。



 それは星辰装甲〈夜明けの風〉が、形を変えたものだった。界獣との戦いを終えた後、ケイがヨロイの要領で除装を行うと、たちまち星辰装甲は消え、右手首の腕輪だけが残った。「それは〈夜明けの風〉そのものというよりは、収納倉庫の鍵みたいなものさ」と赤毛の少女は言っていた。

 差し迫った困難を打開して、ケイは〈夜明けの風〉の返却を申し出た。もともと緊急避難的に手にすることを決めたのだ。今となっては身に余る力だと思うから。

「本当にありがとう、助かったよ」言ってケイは腕輪を差し出した。「今はもう、これは返すべきだよね」

 すると彼女は小首を傾げ、ひどく不思議そうに目を丸くした。「え、なんで?」

「え?」とケイも同じく返してしまう。何だか色々認識の食い違いがあるみたいだ。だからケイは順を追って説明してみた。「これ、すごく高価なものだよね。ニホンの甲種方術甲冑とかよりすごいものだよね」

 界獣の脅威からニホンを護る、海浜警備隊に配備されている甲種方術甲冑は一傀体、首都キョウトで戸建ての家が五戸買える額は下らないと報道されている。

 その甲種方術甲冑より、ケイにはこの〈夜明けの風〉がはるかに高性能に思えた。自身の体を操るのと変わらぬ反応と運動性、界獣を一撃で屠る武器。それらは、ケイがテレビ放送や新聞雑誌で知る限りにおいてだが、この国の最新鋭の甲種方術甲冑にすらないものだ。

「そうだね。ニホンの方術甲冑なんかとは比べようもないね」

 あっさり言う少女に、ケイは食い下がる。

「僕、お金ないよ」

「いらないよ。そんなもの」

「僕は、ただのニホンの学生だよ」

「そうだね。そうだったね」

 ケイの言葉に短く返しながら、赤毛の少女はにやにやと笑みを深くしてゆく。

 あれ、ひょっとして僕、からかわれてる? ケイが気づいたのを察したのか、少女はようやく言葉を紡ぎだす。

「キミは、妖精の剣を得る対価を既に支払い済みだよ」少女は、腕輪をケイの腕に嵌めなおした。「だから〈夜明けの風〉はキミのもの。このボクによる無期限サポート付き。お得だね!」

「でも……」

 言い募ろうとするケイを両手のひらで遮って、赤毛の少女は目を閉じる。内なる何かを探すように。あるいは思い出すように。

「あるべきものが、あるべき場所に辿り着いただけ。勇気と冒険に応えることは、私たち湖の貴婦人にとって存在理由そのもの。それを奪わないで。それに……」

 言葉を切って瞼をやや上げ、少女は半眼の眼差しでケイを見つめて、告げた。

「すぐにまた、必要になるから」



 また、必要になる。その言葉に押し切られるように、ケイは腕輪を、妖精の剣を受け取った。本当に良いのだろうかという思いは、まだあった。けれど、ここで簡単に放り出すこともしたくなかった。今は、キミがいい、と言ってくれた彼女の選択、剣を取った自分の選択、その先をもう少しだけ見てみたい。

 赤毛の少女はケイの前で、両手を広げて踊るようにくるくると回りながらシーソーに駆け登る。

「ボクが支援し、キミの駆る〈夜明けの風〉は、ブリタニアとニホンの武装祭器の中では最高位の戦力さ。世界最高!」

 言った瞬間、少女を端に乗せたシーソーは重力に引かれてガタンと落ちた。

「…って言いたいところなんだけど、EUの不死殲騎エインヘルヤルやFN(First Nations)のニューシャーマンにはヤバイのがいるし、USAの古の対神兵器群エルダーアームズも未知数だし……世界一って断言できないのが悲しいところだよ」

 競技会か、せめて撃破スコアの公表でもあればねー。あ、アングリアの黒騎士のヤツがいやがったか。と語る姿は楽し気で。

 ふとケイは気づく。あれ、僕と彼女、なんだかなし崩し的に一緒にいることが前提になってない? 彼女、国際的VIP。僕、普通の高等部の学生。星辰装甲の件もだけれど、今のこの状況、問題だらけどころか問題しかない。

 これからどうするのか、どうしたいのか。話そうとケイが口を開きかけたその時、くきゅぅと小さな音が鳴った。ケイではない、少女の方から。

「……聞こえた?」

 心なしか、顔を赤くした少女が言う。何と答えたらよいものか。一五歳の少年には難題だ。

「えーと、お腹すいたね」

「我が騎士、減点」

「なんでさ!」

「貴婦人の苦境には、騎士はいたわりの心を持つべきだよ。そこは『いいえ何も、我がとうときひと』とか気の利いた台詞で、貴婦人の名誉を守らないと」

 そういえば僕はいつの間に騎士になったのだろう。剣を抜いた時にノリで気障な台詞を言ったのが原因かな、とケイは思うも、口には出さずに飲み込んだ。このやりとりと関係が、くすぐったくもちょっと楽しかったから。

「でもまあ、僕もお腹が空いたよ」

 ケイはズボンのポケットからケータイを出して時刻を確認する。現在一九時を少し過ぎたところ。普段なら御幡家でもとうに夕食の時間だ。小さな液晶画面を見れば、メールと着信が数知れず。メイハとアヤハだ。後で返信入れなきゃな、と思う。

「で、だ。時に我が騎士」赤毛の少女はずずいとケイに迫る。「ボクは今夜、ネリマ市庁舎前のホテルを予約してたんだ」

「そうなんだ」

 観光資源も大した産業もないネリマ市だが、バス駅のある市庁舎前の周りではホテルがいくつか営業している。しかし今日の緊急事態では、ホテルのスタッフも皆、シェルターに避難済みだろう。警戒態勢が解除されるのは、訓練ではないのなら最短でも明日の朝になる。営業再開はその後になるわけで、つまり……

 期待に満ちた琥珀色の瞳が、剣のように細い月の明りを受けてケイを見つめている。

 何をするにも考えるにも、今夜はもう人も行政もまともに動かない。時間も時間だ。ケイは期待されているであろう言葉を口にする。「粗末な我が家ですが、よろしいでしょうか? レイディ」

「もちろんです」我が意を得たり、と小さな貴婦人は芝居がかった言葉で返す。「案内なさい、我が騎士」

「ここからだと30分くらい歩くけど、いいかな?」

 距離と道のりを見積もりながら、ケイは訊く。ヨロイがあれば十分もかからない距離だったが、徒歩で且つ陸路しか進めないので仕方がない。ああ、後で壊したヨロイを回収しに行かなきゃなと思う。メイハがヨロイを貸してくれるか不安だ。

「構わないよ。歩きたい気分だし」ケイを見つめながら、少女は後ろ歩きに歩き出す。「〈夜明けの風〉を使えば早いけど、それで海浜警備隊に見つかるのも面倒だしね」

 二人、公園を出て歩き出す。通りには誰一人おらず、時々、界獣のものと思しき咆哮が遠く彼方から聞こえてくる。

 そこでケイは、肝心なことを訊いていなかったことを思い出す。界獣に追われてから今の今まで、目が回るような時間を過ごして、二人で苦境を超えてきて、なんだかんだと自然に話ができてしまっていて、大事なことを忘れていた。

「あのさ、訊いてもいいかな」

 ケイの問いかけに、赤毛の少女は小首をかしげる。

「何だい? 我が騎士」

「えーと、その前に」ケイは歩きながら背筋を伸ばし、少し姿勢を正してから言った。「僕の名前は、御幡ケイ。失礼じゃなければ、名前を教えてほしいな、なんて」

「あ!」少女は一瞬、呆気に取られたように目を丸くすると勢いよく話し出す。「ボクもすっかり忘れていたよ! そうだね。お互いの名前、名乗ってなかったよね」

 そこで少女は立ち止まって居住まいを正すと、あの泉の世界で見せたような、右足を後ろに下げる小さなお辞儀をしてから言った。「ボクの名前はウルスラ。後に家族名が続くけど、長ったらしいからウルスラだけでいいよ。サー・ミハタケイ、でいいのかな?」

「そっか、あっちの国ではニホンの名前と姓名が逆なんだね」サーはともかく、とケイは訂正する。「僕はケイ。ミハタは、名字、家名、Family nameになるのかな」

「ケイ……けい、 Kay、Cei」ウルスラは、その名を何度も噛むように繰り返すと「Cai Hir! いい名だね! 実にいい名前だよ!」

 興奮した面持ちでケイに飛びかかり、両手を彼の首に回して抱き着いた。

「うわっ」急な重さを受けて少しよろけながら、ケイはウルスラを抱き留める。野の花のような甘やかな香りと、やわらかく暖かな感触に耳と頬が熱くなる。「ちょ、ウルスラ?」

「そう、ボクはUrsula!」ウルスラはケイの耳に口を寄せて告げた。花咲くような笑みを浮かべて。「これからよろしくね! 我が騎士 Sir Cai!!」




* * * * *




 剣のような月を背に、銀の鎗が淡い光の尾を引いて閃く。鎗は少年の胸の中央を貫き、次いで人だった異形を穿ってビルの壁面に縫い留めた。

 胸の穴から盛大に鮮血を迸らせ、少年は仰向けに倒れ伏す。ごぽりと口から溢れる血が、彼の褐色の肌を赤く塗ってゆく。

 トヨシマジョウ公園駅前のビルの谷間に、風のように降り立つ姿が一つ。パンツスーツ姿の少女が、長い銀色の髪束を靡かせ駆けてゆく。一直線に、倒れた少年の元へ。大きな翡翠色の瞳に涙を溜めて。

 壁に固定された異形は、その赤黒い蚯蚓めいた触手の束をかき集める。束はやがて人の頭と手足のような形を成して、崩れて、成して、崩れてを繰り返す。まるで人の形に戻ろうとするかのように。しかしすぐにその動きは緩慢になり……停まった。

 かつん、と小さな金属の輪が落ち転がってゆく。壁に突き立った鎗を残して。

 ぼろぼろと崩れて消えてゆく異形を余所に、少女は膝を着き少年を抱え起こした。

 少年の胸から飛び散った血は、アスファルトとビルの壁に赤い前衛画を描き、彼の口からはなお鮮血が溢れる。目の焦点は合わず、かひゅーかひゅーと塞がる気道を確保せんと動く喉の力が、徐々に失われてゆく。

「ごめんネ、ごめんネ、痛いヨネ……」

 たどたどしいニホン語で謝りながら、少女は少年の胸にその白い手を当てた。血とともに流れ落ちる命を、留めようとでもするかのように。瞬く間に手は真っ赤に染まり、やがて少女のスーツを浸す。どこか潮に似た血臭のなかで、少女は額を少年の胸に押し付けことばを紡いだ。余人に聞こえぬ調(しらべ)に乗せて。それはニホン語でもブリタニア語でもない異国のことば。歌と祈りが分かたれる前の、古い古い願いの形。高みのものへの訴えと、対価を示しての取引の形。

 カッと蹄鉄を鳴らして、少女の背後に黒い鋼の馬が舞い降りる。黒馬は少女に耳を寄せると、首を横に振りヒヒンと一声いなないた。よせ、とでも言うかのように。

 しかし少女はなおもことばを紡ぐ。黒馬のいななきに対し、静かに首を振りながら、血にまみれながら歌うように祈る。やがて声は小さくなり、ことばは「―yr」の音を最後に消えてゆく。

 少女は血で汚れた顔を上げ、涙を湛えた翡翠色の瞳で夜空を見上げた。その目の光に、業火のような怒りが閃く。しかしそれは一瞬のこと。瞬きの間に、怒りの火は鎮まり鈍色の悲しみが取って代わる。

 そして少女は抱えた少年に目を落とした。その視線にあるのは慈しみと悲しみと、ほんの少しだけ願いに似た何か。

「ごめんネ……」

 謝りながら、少女はスーツの懐から黄金色の小瓶を出す。ほんの僅かな逡巡の後、小瓶の中身を口に含むと、翡翠色の目を閉じて、血を吐きこぼす少年の唇に自身の唇を重ね合わせた。

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