第32話 親父が来る

 冬の日の朝は、起きるのが辛い。しかし起きなければバイトに行けないし、バイトに行かないとお金も入らない。目だけを開け、味噌汁のいい香りが漂っているのに気がついた。


「いい香りだなあ。寒くて起きるのが嫌になっていたけど、元気が出るよ」

「あたしも、布団から出るのが辛かったあ。だけどバイトに行かなきゃならないから、仕方ないよね~」

「う~ん、宝くじにでもあたればなあ」

「じゃあ、まず券を買わなきゃ。今まで買ったことないよ」

「実は俺もない」

「じゃあ、当たるはずないよ」


 その時、電話があり俺はすぐに返事をした。親父からだ。


「おい、来夢、元気にしてるか?」

「ああ……」

「色々な事を言われて、悩んでるんじゃないのか?」

「そりゃあね、考えすぎて頭が痛くなってた。会社の後継者になるだなんて、荷が重すぎる」

「これからそっちへ行こうと思ってるんだ。兄さんの見舞いもしたいから……」

「そうしてくれると、きっと喜ぶよ。今必死でリハビリの最中だから、父さんの顔を見たら、やる気が出ると思う。会社に戻れるように、励ましてやってよ。俺なんか頼らないで」

「ああ、実はそれも考えてる。それで、電話で話したんだけど、会社の手伝いもしようと思ってる」

「それはいい!」

「来てくれるんだったら、今までやっていた仕事とは職種は違うけど、事務仕事だけでも手伝って会社の様子を見てほしいって」

「おお、賛成だな。親父が手伝うっていう方法もあったんだ。兄弟だから、きっとそれがいいよ」

「そうだな。こっちも仕事はバイトだけだから、中断してすぐに行くよ」

「おお、待ってるよ!」

「それから、泊るところはな……」

「あ、泊るところ……うちに泊まる?」


 一瞬、言葉が詰まり、少しだけ間があり答えた。そんな間を察知したのだろうか。


「俺は兄貴の家に泊めてもらうよ。奥さんには悪いけど、大丈夫だろう」

「いいのかな……俺がいるのに。もし泊まれないような雰囲気だったら……俺のところに来て。こっちは一部屋しかなくて狭いけど、二人なら十分眠れるよ。部屋じゃ悪かったら、事務所のソファでもいいよ。そのうちウィークリーマンションを借りるさ」

「ああ、そうだね。おじさんのところにずっといるのも悪いしね」



 

 翌日の夕方、父親がやってきた。大きなスーツケースを持っていた。こちらへは暫くいるつもりなのだろう。バイトと学校が終わり、夜になってようやく会うことができた。久しぶりに外で食事することになり、この時は野乃香は家で待っていることにした。


「野乃香ちゃんとは?」

「実は、家にいるんだ。色々と事情があってね」

「そうか、あの子も大変なんだな。可愛いけど不思議な女の子だったな。会った時に、とても人懐っこい顔をしていた。きっと、人の温もりが欲しいんだろう。目が合うとニコニコしてた」

「そんなふうに見えたんだ。ちょっと変わった子だな、とはずっと思っていた。昔から」

「ふ~ん、昔から」

「そうなんだ。小学生の時から。動作がオーバーで、人目を引くけど、それが何とも言えず可笑しいんだ」

「きっと寂しいんだろうな。そんなふうにして、自己表現したり、誰かと仲良くなりたいと思ってるんだよ。時折、寂しそうな顔をしていた」

「へえ、俺の気がつかなかったことに、よく気がついてたんだな、親父は」

「人生の先輩だから。だてに長く生きてない。お前も意外と自分の良いところに気がついてない。中学生のころからそうだ。人からちやほやされなかった分、他人を見る目は養われたしな」

「どういうことだ」

「人からもてはやされていると、自分の本質が見えなくなる。もてすぎると、自分を過大評価するようになるということだ」

「変なところで、得をしていたってことか。だけど、そんなにもてない、もてないって強調するなよ」

「今ではそんなことはないだろうが。背も高くなってきたし、俺が言うのもなんだが、男前になった」

「やっと褒め言葉が聞けた」

「あの子とは楽しく暮らしてるのか?」

「結構……」

「そうか。あの子の力になってあげるといい。力になってあげ多分、お前にも返ってくるものがあるはずだ」

「見返りを期待しているわけではないけど、ギブアンドテイクてことか」


 面倒を見てあげているつもりが、俺が助けられてるってことか。話題が叔父さんのことになった。


「兄貴の見舞いに行ったよ。リハビリ頑張れって、発破をかけてきた。もちろん自分の力では限界があるだろうが、お前を頼ることで弱気になってはいけない。ウィークリーマンションを契約してきたから、早速今日からそっちへ泊るよ」

「親父……悪いな。もう一部屋あればよかったんだけど」

「いいんだ。一人の方が人に気を遣わなくて済むし、バイトしてお金もたまってきた」

「俺も、これからもバイトと学校の事をやっていくよ」


 久し振りに、色々な話が出来て心が軽くなった。野乃香に言われてやってみた瞑想も役には立ったが、親父の助言にはかなり助けられた。




 もう眠っているかもしれないな。そーっと玄関を開けて入ったら、暗がりの中に人の気配があった。なんだか不気味だな。なぜ電気を消しているんだろう。キッチンに座っていた人影が顔を上げた。それは泥人形のように、顔に灰色の泥のような者を塗りたくった、野乃香だった。


「うわあ! なんだ、その顔は!」

「ああ、来夢さん? これは……なかなか来夢が帰ってこなかったんで、やってみたんだ。これを塗ってしばらく置くと、お肌がすべすべになるらしいよ。スーパーで見つけたの、えへへ……」

「ああ、焦った! 一瞬、化け物かと思った! それに真っ暗だし。そんなことをして、顔が腫れないか? 早く洗った方がいいんじゃないの?」

「そろそろいいかな。拭きとります」


 ティッシュペーパーで、顔の泥をこすり取り、ようやく野乃香の顔が現れた。


―――俺がこんなに悩んでたのに、何をしてるんだ、まったく!


―――まあ、そこが憎めないところなんだよな。


「どうだった、お父さん? 元気?」

「まあまあだな。こっちに暫くいるってことで、ウィークリーマンションを契約したって。親父が暫くおじさんの仕事を手伝うってことになったから、俺の件は棚上げだ。少しほっとしてる」

「そうだったの。来夢はほっとしてるんだ。私はちょっと残念だけど」

「もう、それ以上言うなよ」

「は~い、了解で~す。しつこいと嫌われちゃうもんね」

「こいつ!」


 こんなことをしながら、待っていてくれた野乃香も俺も布団にもぐるとあっという間に眠りについた。時刻は深夜を過ぎていた。

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