第21話 バイトから戻ると野乃香がいてもう一晩泊まることに

「おお、もうこんな時間かあ」

「どうしたの?」

「バイトに行かなきゃ」

「そうなのね、今日は日曜日だけど……」

「朝からバイトが入っていたんだ」


 野乃香を一人にしてバイトに行くのは心苦しかったが、生活のためだから仕方がない。


「朝ご飯を一緒に食べてから、出かけるね」

「うん、私はここでゆっくりしていてもいい?」

「いいよ。出かける時は、くれぐれも気を付けろよ。あの男がここにいるって気がついて見張っているかもしれないからね」

「十分用心するわ」


 来夢は急いで身支度を済ませテーブルの前に座った。昨日買っておいたおにぎりの隣には、出来立てのみそ汁がある。朝から味噌汁を飲むことはめったになかったので有難かった。焼魚とサラダまで用意されている。いつもは冷凍ご飯を解凍して、昨日の残りのおかずを食べるか、トーストを牛乳で流し込むような簡単な朝食だった。


「今日は、朝からご馳走だ」

「よく寝てたから、その間に作ったのよ」


 俺は朝方になってから熟睡していたようだ。


 おにぎりはスーパーで買ってくる出来あいのものだったが、みそ汁は野菜がたくさん入っていて体に優しい味がした。暖かい汁が口いっぱいに広がり、ほっこりした。


「うわあ、あったかくておいしいよ」

「ふ~っ、こんな時でも食べると元気が出るよね」

「その通りだな」


 たった一杯でこんなに満足できるなんて、みそ汁は不思議な食べ物だ。焼魚に箸を付け、口に運ぶと、潮の香りがして塩気がご飯によくあった。


 暖かい湯気と味噌の香りが体を芯から温めてくれた。野乃香はいつまでここにいることになるのだろう。今日家に帰るのだろうか。それとも、明日。それとも、これからずっとこの家にいることになるのだろうか。あの男の動向次第か。


「じゃあ行ってくるけど、戸締りには気を付けてね。合鍵を渡しておくから、出かける時は見張りがいないかどうか確認してから出るんだぞ」

「分かってる。行ってらっしゃい。来夢も尾行されないように、気を付けて」


 まだまだ油断はできないな。時間になったので、俺はバイトに出掛けた。



 

 来夢が出かけてから、野乃香は姉に電話した。電刃口からは明るい声が帰ってきた。


「もしもしお姉ちゃん。そっちはどう?」

「あのねえ、もう大丈夫だと思って外へ出たら、ばったりあの男につかまっちゃったのよ。それで、お母さんの居場所を聞かれたんだけど、知らないって答えた。だって本当に知らないんだもの。知ってる人がいたら、こちらが教えて欲しい位よね」

「そう答えたら、あいつは何て言ったの?」

「それならもう仕方がない、あきらめるって。妹も居場所は知らないから、今後私たちに付きまとうのはやめてって言っておいたわ。他をあたってみるみたいよ。一緒に働いてた人のところに訊きに行くらしいわ」

「そうなの……。あきらめて帰ってくれてよかった」

「それで、あんたの方はどうなったの?」

「あ、あたしの方……」

「そうよ、来夢君と……どうなったの?」

「どうなったって……」

「だって、最愛の来夢君と二人きりで一晩過ごしたんだから、何もないってことはないでしょ? 二人きりの夜は……楽しかったでしょう?」

「……それが」

「え~~っ、本当に何もなかったの! 信じられない! それ、どういうこと!」

「ちょ、ちょっと……」

「あ~、分かった。あんたって子は、まるでわかってないのね。好きだって告白してないからよ」

「どうやって告白したらいいの」

「タイミングが大事よ。さりげなく演出して、ムードを高めるのよ」

「よ~し、あんたもう一晩泊まってなさい。ここには当分帰れないことにしておくから」

「え~~っ、帰れないの」

「着替えだけ取りに来ればいいわ。そうしたら、まだ危ないからここに身を潜めていなければならないって、泣いて訴えるのよ! 来夢君の事だから、安全になるまで、そこにいていいって言うはずよ」

「そんなあ……」

「嫌なの?」

「いや、では……ないけど」

「じゃあ、決まりね! そういうことにするからね。口裏合わせるのよ」

「ああ、待ってお姉ちゃん! ちょっと、ちょっと」


 そこで通話は終わってしまった。窓の外へ視線を向けると、温かい日差しが射していて、のんびりと散歩する親子連れが見えた。今日は日曜日だ。野乃香は、食事の後片付けを済ませると、家にいったん戻ることにした。


 たった一日離れていただけだったが、姉の梅香に会うと嬉しさがこみあげてきて、抱き合ってお互いの無事を喜び合った。


「あ~ん、お姉ちゃん。昨日は怖かった。へんな人に付きまとわれて」

「よかったわ! 無事で。今まで二人でやってきたんだから、これからも大丈夫よ。それに来夢君という強い見方もできたしね」

「うん、うん。お姉ちゃんも一人になっちゃうけど、気を付けてよ」

「あたしの事だったら心配いらないよ。テーブルの上のおかずも持って行って」

「あ、こんなに作ってくれたの……」


 いつの間にか、野菜をたくさん入れて筑前煮を作ってくれていた。数日分の着替えとタッパーに入ったおかずを持ち、野乃香は再び来夢のアパートに戻った。冷蔵庫の中の食材を確認し必要なものを買いに再びスーパーへ行った。明日から学校とバイトが始めり、また忙しくなる。そのために準備をしなければ。




 夕方になり来夢が帰ってきた。帰ってくるまでの間に、電気がまでご飯を炊き、豚肉の生姜焼きと付け合わせの野菜を炒めておいた。


「夕飯もいい匂いがする。また、ご馳走にありつけるなんて、凄いなあ」

「お世話になるから、当然です」

「お世話になるって……あいつまだ家の前で見張ってるの?」

「そのようで」

「ということは……」

「今晩もよろしくお願いします」


―――え~~っ! 


―――やはりそうなのか。


―――予測はしていたが、今日も野乃香は家に泊まるのか……。


「あのう……迷惑をかけて御免」

「そう言うわけではないんだけど……」


 今晩も抱き着かれてしまったら、どうなってしまうのだろう。長い夜を前に心を落ち着けようと、胸に手を置き深呼吸をした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る