第8話 俺の部屋に野乃香が来た!

―――もうすぐ到着だ。


 すると野乃香は組んだ両手をもぞもぞ動かし、俺の名前を呼んだ。


「明月さん」

「なんだ?」

「あの、お尻がちょっと、痛くなってきちゃった……」

「止めようか」


 俺は自転車を停止させた。


「揺れるし、この体勢で長く乗っているのは疲れるだろう」

「御免……乗せてもらったのに」

「よし、あと少しだから押して歩こう。それに道幅も狭くなってきたから、歩いたほうがいいかもしれない」


 野乃香は、自転車から降り、スカートの裾を直した。小学生の時と同じように、膝上十センチぐらいのミニスカートだ。いや、あの時よりはいくらか長いかもしれない。

 大通りから一歩中へ入ると、道幅が狭くなった。周囲も高いビルが少なくなり、一般の住宅が多くなってきた。そんな一角に父と離れてからお世話になっている会社はあった。


「着いた」

「ここは、どこなの?」


―――そういえば、俺はどこへ行くと言ってなかったんだ。


 三階建てのビルの一階に事務所があり、建物の隣にはダンプカーや、建設用のショベルカーが置かれている。


「ここは、俺が働いていた明月組、叔父さんの会社だ。まあ今もアルバイトしてるけど。ついこの前まで、ここの上に住んでたんだ」

「一階は会社の事務所になってるのね」

「そう。明月組のね」

「……組って、この組の事だったのね。あたしったら、早とちりして、勘違いした。だって服装も怖そうに見えたし」


―――両手を頭の上に載せてから、バタバタ振っている。


―――これが焦っている時のポーズなのか。


「分かってくれればいいんだ。連れてきた意味が分かったでしょ?」

「うん、大切な場所に連れてきてくれたんだね。もう、ここには住んでないのね?」

「うん、最近一人暮らしを始めた。この近くだけど」

「そうなの。明月さんも大変なんだね」

「なあ、その明月さんっていう呼び方よそうよ。なんか……同級生って気がしないからさあ」


 自分の事をどう見ても年下だと思っている野乃香は、上級生に対するような言葉遣いで話す。


「じゃあ、何て呼べばいいのかな?」

「来夢って呼んで!」


 俺は努めてフレンドリーに言う。野乃香は、両手を胸の前で合わせて、揉み合わせている。


―――これは嬉しい時のしぐさか?


「いいの? 年上だけど」

「俺も君の事、野乃香って呼んでいいかな」

「私は、いいけど」


―――今度は手を横にして、パタパタと扇ぐようにしている。


―――嫌がっているのか、喜んでいるのかわからない。


 でも、いいって言うんだから、呼ぶことにしよう。


「野々香は、前と同じところに住んでるの?」

「あ、ああ。前に送って来てくれた、小学生の時に住んでいた家ね。色々事情があって、もうあそこにはいないの。今は姉と一緒に住んでる。母と色々あって別々に暮らしてるの」


 母親のボーイフレンドが家に来るようになってから、姉梅香と野乃香は家に居づらくなっていた。姉の梅香が高校を卒業すると同時に、母とは別々に暮らすようになり、そこに野乃香もついて行った。


 二人の生活は、居心地がよかった。母が嫌いだったわけではなかった。いや、母の愛情をこの上なく求めていた野乃香だったが、それが叶わぬものだとわかると、自分から母を避けるようになった。そんな野乃香に母は複雑な思いで、接していた。


 いざ離れ離れになってみると、寂しい気持ちもあるにはあるが、重苦しい気持ちから解放されたような身軽さもある。こんなふうにして、人と人とは離れていくのかと思うと、たまらなく寂しくなる。そんな中で、今は生活全般を支えてくれる姉の存在が大きかった。姉の給料と、野乃香のアルバイト代で何とか生活することはできる。ゆとりはないが気は楽だった。女性二人で暮らすのは、心細いこともあったが、敢えて気持ちを強く持つことにしていた。


「この年で親と離れて暮らすのは、結構大変だよな」

「うん。そうだね」


 野乃香にとって、目の前にいる来夢の存在が急に大きくなった。姉と同じ三歳年上の来夢はまるで兄のようで、一緒にいるとふんわりとした何かに包まれているようで暖かい。


「来夢は優しい人だね。よかった」

「何だこいつ、調子いいなあ」


 事務所には誰かいるはずだったが、野乃香といるところを見られると冷やかされるに決まっている。寄らずに家に帰ることにした。


「家を……見る?」

「う……うん」


 あれ、今度はすんなりとオーケーの返事をした。彼女は男性に用心しているものと思い込んでいた俺は、当然断られると予測していたので、予想外の答えに焦った。それでも、にっこり頷いているので、そのまま家に連れて行くことにした。家の前まで来て、入らないで帰るというかもしれないが……。


「ここからさほど離れていない。またアルバイトすることになるかもしれないから、近くにしたんだ」


 再び歩く事十五分。


 俺の住んでいるアパートが見えた。木造二階建ての一階だ。新築ではないが、割と新しいので真新しいカーテンを付けた部屋の中は、綺麗に見えるはずだ。


「もうすぐそこだよ。家に来る?」

「いいよ」


―――いいというのは、イェスなのかノーなのか、日本語は難しい。


―――言葉の調子だとイェスに限りなく近い。


 ここまで来て、こんな質問をするのは無粋かもしれないと思いながら、再び聞いてしまった。一緒に行って、部屋に入ってもいいって言うことか、ただ単に見に行ってみるということなのか。まあ、どっちでもいいか。


「さあ、着いた。ここだよ。入るよね?」

「いいよ」


―――先ほどのいいよ、はイェスということだった。


「思っていたよりも綺麗!」


 玄関を見た野乃香は、そんなことを言った。綺麗と言えるほどではないが、汚くはない。しっかりかたずけてあるし、あまり物が無い。


「入って」

「……うん」


 玄関を上がると廊下をはさんで洗面所とキッチンがあり、付きあたりが部屋になっている。短いがそこまでは廊下があり、黙って俺の後ろを歩いてきた。部屋が広く使えるように、ベッドは置かず、折り畳みのマットを布団代わりに使っている。六畳の部屋には、机と小さな本棚ぐらいしか置いてないので、意外と広く見える。衣類などはクロゼットにすべて収納してある。


「部屋の中も、意外と綺麗」

「意外と?」

「あ、変な意味はないよ。想像していたより……ってこと」


―――俺の事をむさくるしいやつだと思っているのか。


 キッチンの前に小さなテーブルと椅子が一つだけある。


「そこへ座ってね」

「うん」


 カーテンを開けると、遠くのマンションの家々の灯りが見えた。もう夜も遅くなっていた。昼間だったら、南向きの窓からを眩しい日の光がさしていただろう。南向きの窓がある部屋が見つかったのは幸運だった。テーブルの前には椅子が一つしかない。


「俺はこっちに座る」


 俺は、机の前の椅子に座った。野乃香は、俺の方を向くとにっこり笑っていった。


「招待してくれて、ありがと」

「そう?」

「家に来てって言ってくれて」

「そんなことが?」


―――女の子にそんなことを言われたら、ドキドキしてしまう。


―――しかも年下だ。


 こちらはどんな反応をすればいいのんだろう……。


「だって、そんなこと言ってくれる友達今までいなかったもん」

「ああ、友達ね」


―――そうなのか。


 俺は野乃香の言葉にさらにグッと来た。そして、立ち上がり彼女の傍へ寄り、髪の毛を撫でた。いつもの様に豚の髪飾りが、こっちを向いている。こいつは彼女の御守りみたいなものか。


 手を放して彼女の方を見ると、飛び切りの笑顔とバラ色の頬を俺に向けていた……ような気がした。


 すると、彼女の手がスーッと伸びて俺の頬を撫でた。


「ありがと。じゃあ、今日はもう遅いから帰るね」

「あ、ああ」


 あっけにとられた俺を残して、彼女はスキップしながら廊下を歩き帰って行った。窓から外を見ると、彼女は一度だけこちらを振り返り手を振り、一目散に走って行く。俺は彼女の姿が見えなくなった方向をいつまでも見詰めていた。

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