第9話 野乃香にとって来夢は特別

 大急ぎで駅へ戻った野乃香は、バスに乗り込んだ。もう時刻は十時を過ぎていた。念のため姉にメールを送っておいた。笑顔満載のメールに、我ながらうきうきする。心配して待っている梅香もほっこりすることだろう。バス停からも息を切らして走り、家にたどり着いた。


「ただいま!」

「あら、今日はどうしたの。寄り道でもしてきたの?」


 姉の梅香はスウェットパンツにTシャツ姿といういで立ちで、野乃香に訊いた。家にいる時の定番の服装だ。仕事を終えて帰ってくると、いつもこの服装に着替えてリラックスしている。


「友達が出来たんで、ちょっと話し込んじゃって。お腹すいちゃったあ! ご飯食べる!」

「へえ、友達、もうできたの」


 小さい頃から友達を作るのが難しい野乃香にしては、珍しいことだ。人見知りが激しく、よほど相手の本心がわからないと、自分の心を開かない。いつも梅香の後をくっついて歩いているので、自分の友達がいつまでたってもできないんじゃないか、と梅香は心配していた。野々香はご飯をよそり、目の前に並んでいるおかずを食べながら、がつがつかき込んだ。


「うん、まあね」

「よっぽど気の合う友達がいたのね。野乃香ったら、慌てて」

「何?」

「ご飯粒付いてるよ、ほら」


 今日の野乃香は、嬉しそうだ。どこかへ出かけると、帰って来た時の野乃香はいつも疲れ切ってぐったりしていることがほとんどだが、よほどいいことがあったのだろう。梅香は、野乃香の口元からご飯粒を取り、野乃香の目の前に座った。野乃香は、しっかりと梅香の目を見ていった。


「うん、今日はその人の家へ行ったの。いい人だったよ」

「もしかして中学校の同級生とか?」

「違う」

「その女の子、よっぽど気が合ったんだね」

「うん、そうかもしれない。だけど、その子、男の子なんだ」

「へっ、そうなの~~っ! それは驚いた!」


 入学早々友達が出来たのも姉の梅香にとっては驚きだったが、それが男子だというのはさらに驚きだった。


「野乃香、男の子といても大丈夫だったの?」

「大丈夫だった」

「へえ、よっぽど優しい人だったんだね。ねえ、ねえ、どんな人か、お姉ちゃんに話してみてよ」

「同級生だけど、年上なんだ」


 さらに梅香は驚いている。以前繁華街から戻ってきたときに、大人の男性二人にからかわれて以来、男性を避けて通るようになっていたからだ。特に年上の男性とは、口を利くことすらできなくなっていた。


「えっ、それで、話が出来たの? どうして、大丈夫だったの? 聞きたい、聞きたい、聞かせて!」

「待って、待って! ハフハフ、落ち着いてよお、お姉ちゃん。まだ食べてるんだから。そんなに慌てないで」

「だってえ。驚いてるんだもん」


 野乃香は、ご飯をかき込み、味噌汁をごくりと飲み込んだ。それから、小学生の時にここまで送ってくれた人で、繁華街で助けてくれた人とも同一人物で、その人と同じクラスになったことまでを説明した。


「事情はよく分かったわ。要するに、その人は、野乃香の救世主のような人なのね?」

「まあ、そうなのかな。困った時に現れるからね」


 梅香はう~んと頷いた。


「だから、気持ちが許せたんだね」

「ちょっと特別な人だね」

「そうなの……」

「うん!」


 特別な人、救世主、姉にそんな言葉で表現された。今日再び会って自転車に乗ったことも、彼の部屋まで行ったことも自然に出来た。


「だけどさっき野乃香、その人の部屋へ行ったって言わなかった!」

「……うん、行ったよ」

「へえ~、それも信じられない! 今度、連れて来てよ。どんな人なのかお姉ちゃんが見て判断してあげる」

「お姉ちゃんのお眼鏡にかなわなかったら、どうするの?」

「辞めた方がいいわ。私男を見る目はあるから。お母さんの男友達だって、ろくな人じゃなかったみたい。一目見た時にそうだと思ったけど、ずばり的中したもん。そのうち出て行っちゃうんじゃないかな」

「そうなの?」

「うん。最近家に寄り付かないみたいで、どうも、お母さん一人でいることが多いみたい」

「そうだったの」


 食事を終えてお茶をすすっていた野乃香に、梅香がいった。


「そうだ! その人、週末にでも家に呼んでよ。あたしがじっくり観察してあげるからさ」

「分かった。お姉ちゃんにはかなわないわね」


 お節介だとは思っても、梅香の忠告には従うことが多い。彼女がいなかったら、今の生活も成り立たなかった。そんな彼女を、梅香は心から頼りにしていた。


 

 野乃香は、交換した来夢のアドレスにメールを送った。家に遊びに来て、という内容だった。今度の休みの日に行くよ、という返事が返ってきた。姉の仕事の休日である土曜日はどうかと再びメールすると、その日はバイトもないからということで、昼頃に来ることになった。野乃香は、金曜日には気合を入れて掃除をし、リップクリームで唇をすべすべにして待った。




 当日、約束の時刻になると来夢から電話が来た。


「近くまで来たから、出て来て」

「うん。すぐ行くよ。あたしが道に出れば、すぐに見つかるはずよ」

「待ってるよ」


 家の前に出ると、道の向こうの方から来夢が歩いて来るのが見えた。そんな姿を見ると、野乃香の心臓は飛び跳ねた。大人っぽい。自分が子供に思えてしまう。


 来夢は、渋めの色のシャツに、チノパンを履いている。ジーンズ以外のパンツも履きたくなり、急いで買ってきたものだ。来夢は手を振って合図した。野乃香の服装は淡いベージュのフレアースカートに白のTシャツだ。


「なんか、大人な雰囲気……」

「似合うかなあ」

「よく、似合ってて、かっこいい。さあ、こっちだよ!」


来夢はじっと野乃香の服装を見た。今日は随分と大人っぽくしているように見える。


「来夢は、いつもと雰囲気が違う」

「野乃香も、かなり違う」

「年上の友達と釣り合うように、頑張った……」


―――そうか。


―――彼女なりに気を遣っているということなのか。


 二人そろって野乃香の家に向かう。アパートに入って行くと、彼女は、この部屋よ、と指さして鍵を開けた。


「どうぞ。入って」

「うん。お邪魔します」


 すると、部屋の奥から声がして、野乃香の姉梅香が出て来た。梅香はいつものスウェットを着ている。


「こちらお姉ちゃんの、梅香です。二人で住んでるの」

「よろしくお願いします」


 すると梅香は、ぼさぼさの髪の毛を手櫛で整えながら言った。


「こちらこそ、妹をよろしくね。妹の事、可愛がってあげてくださいね」


―――可愛がってなんて、姉の言うことか? 


―――焦るじゃないか。


―――野乃香のお姉さん何を考えてるんだろう。


―――確か俺と同い年のはず。


「お茶でも淹れましょう。それともコーヒーがいいかしら?」

「どっちでも……あ、いえ、コーヒーを頂きます」


 梅香は二人にコーヒーを淹れ、自分の前にもカップを置いた。キッチンのテーブルには、椅子が二つしかないので、自分は立ったままカップを持ち、飲み始めた。


「妹にも、あなたのような友達が出来てよかったわ」

「……ああ、どうも。ありがとうございます」

「これからも、仲良くしてね」

「勿論です」


―――俺のような友達、とはどういう友達だろう。


―――それもよくわからない。


 姉の梅香も彼女と同様、俺の顔を見てニコニコしている。そんな二人の顔を見比べていると、梅香が言った。


「あら、あたしの顔に何かついてる?」

「いえ、野乃香さんに似て、笑顔が素敵だなと思ってみてました」

「そうお。じゃあ、あたしそろそろ、用があるから出かけなきゃ」


 ずっといるのかとばかり思っていた野乃香が訊いた。


「あれ、お姉ちゃん、今日は別に用はないんじゃあ……」

「あたし、用事を思い出しちゃって、じゃあね、野乃香」

「あら、あら、お姉ちゃんたら……」


 そして、今度は野乃香の家で、来夢は彼女と二人きりになった。姉がいなくなると野乃香は急に大人しくなった。


「また二人だけになったね……」

「そ、そうだね……」

「何か二人で……する?」

「……ああ」


二人でする、って何をするんだ。聞き方が怪しげだ。


「何がいいかなあ? ゲーム? 楽しいことがいいでしょ?」

「そうだな」


俺はドキドキしてしまう。楽しいことって、何だろう。頭の中で色々なことを想像していると、野乃香がいった。


「じゃあ、お昼ご飯を、作りますっ!」

「うん」


そういうことか。確かに、楽しみた。野乃香は、立ち上がって抽斗を開け、エプロンを付けた。 

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