第6話 野乃香の勘違い

 野乃香は、繁華街で来夢に助けられた時のことを思い出していた。その時の彼は、ブラックスーツを着こなして、精いっぱい大人びた格好で決めていたのだが、彼女にとっては全くそんなイメージではなかった。どこかの組の組員。自分とは別世界の人。野々香はじっと黙り込み、体を固くしている。野乃香に絡んでいた男たちを脅した時のセリフをまだ覚えていたからだった。


―――勘違いさせてしまった。


―――俺はあの時、組員がいるとか、向こうにいる体格のいい社員を組みの者といってしまった。


―――じゃ、じゃあ、俺の事をやくざかなんかと勘違いしてるのか!


 野乃香は、じっと固まっていた。


―――やはりそうか。


「僕は別に……怪しいものでは、というか怖い人じゃない」

「え、そうなんですか……」


 彼女はさらに身構えた。


「嘘じゃないよ。僕のこと覚えてたんだね」

「は、はい。繁華街で、セーラー服をコスプレと勘違いされて捕まった時に、助けてくれた方でしたね」

「そうだよ。あの時はちょっと粋がっちゃってたんだ。別に僕は怖い人じゃない」


―――彼女に疑われてしまったら、他のクラスメイトにまで、怪しいお兄さんだと思われてしまう。


―――こういう場面では、最初の印象が大切だ。


―――説明しても、彼女は信じている様子はない。


―――絶対に誤解を解かなければならない。


「安心して」

「……え、ええ。まあ」


―――相変わらず緊張したままだ。


 そんな話をしていると、教師が教室に入って来た。初日のホームルームが終わり、挨拶すると皆帰宅し始めた。疑いを晴らすなら今しかない。再び彼女に話しかけた。


「ねえ、信用してよ」

「だ、だって。どっかの組員だって言ってたでしょう……」

「組っていうのはねえ……会社の事で」


 野乃香は、じっと机に座ったまま下を向いていたのだが、その時きっと俺の顔を見て言った。


「嘘よっ! 後ろに怖いお兄さんも立ってたわ! 助けてくれたのはありがたいけど、まさかクラスメイトになるなんて! これからずっと一緒にいるなんて……。どうかお願い、私を脅さないで……」


―――いくら言っても信用しないんだなあ。


―――ああ、どうやって自分の事を証明すればいいんだ。


―――困ったものだ。


「誤解してるんだよ。俺の言っていた組っていうのはねえ……」

「あたし、もう帰ります! ほっといてくださいっ!」

「ちょ、ちょっと! 待てよっ!」


 そう言いながら、腕を組み自分の体をぎゅっと両手で握りしめている。下を向いているので、豚の髪飾りが俺を睨みつけている。またこいつかよ。彼女は、立ち上がれずにいる。


―――まずいっ! 


―――ひょっとしてまたあの時みたいに、泣き出すんじゃないだろうな。



 彼女は俺を上目使いに見ている。じっと見つめると、なんとその眼には涙が光っていた。


―――またしても、この涙! 


―――まずい、まずいよおお~~! 


―――これじゃ、俺がこの子を泣かしてるみたいじゃないかああ。


―――そんなつもりないのに! 


―――あああ~~、困ったなあ! 


―――俺は女の子の涙には、弱いんだ~~っ!


 野乃香は椅子を引き、立ち上がった。そのまま、誰にも見咎められないように小走りに教室を出て行った。俺は追いかけた。


「ちょっと待てよ!」

「あ~~~ん、あ~~~ん、許してくださいい……。おねがいです~~!」


 ドンドン俺は悪者のようになっていく。


―――何をいってるんだ、こいつは。


「だからさ、俺は悪いやつじゃないんだ。ほら、君が小学生の時も家まで送ってあげただろ?」

「へ……。なんのこと、ですかあ……」


 彼女は、驚いたように立ち止まって俺の顔をじっと見た。あの時の事は覚えていないのか……。だったら、説明してあげるしかない。


「そんなことが、あったかなあ」

「ああ、横浜駅で迷子になって泣いていた君を、何と親切な僕は君を家まで送って行った! お金も持っていなかったからね。お金を挙げようかとまで言ったんだけど、返せないから駄目だって断られてさ」

「そうだったの?」

「そうだ! その親切なお兄さんが、俺だ!」


 俺は得意げに胸を張った。あんなことはめったにすることはなかった。それ以来二度とこんなことはなかった。


「ああ、そう言えば、そんなことがあったような……」

「思い出したか?」


 俺は、野乃香の顔を覗き込んだ。


「……なんとなく」

「送って行って、それからの事は?」

「それからって……」

「ほら、お礼にって、何かしただろう? 家の前で……」

「家の前で……」


 俺は笑みを浮かべて、野乃香の返事を待った。あんな衝撃的なことを忘れるはずがないだろう。


「……何だろう。私何かしたかなあ」

「よ~く、考えてみて。何かしたはずだ、親切なお兄さんに」

「……忘れちゃった」


―――何だよ! 


―――」ファーストキスの相手を忘れたのか!


―――少なくとも俺にとっては、ファーストキスだった。


―――脅かしてやろうか。


「キスした……。 ありがとうってね」

「えっ、えっ、えっ、あたしそんなこと……、してないでしょ? 嘘でしょ、嘘でしょ!」

「ど、ど、ど、ど、どこにい~~~っ!」

「それは、秘密……」

「してない、してない、してない~~~っ」


 野乃香は、先ほどよりもさらに焦っている。手をバタバタと振って、否定している。


「したんだ。覚えてないかもしれないけど」

「え~~~っ、えっ、えっ、本当に、そんなことを」


 そう言いながら、足までもバタバタさせて否定している。


「もういい、俺のことわかってくれれば。じゃあ、また明日」

「え、ええ。また明日。まだ、信じられない、信じられない~~!」


 野乃香は何か言いたげな様子だった。


「なんだよ。何か言いたいことでもあるのか?」

「う~ん、でも追いかけてきたから驚いちゃった。脅されるのかと思って……」

「なにもしねえよ! こう見えても、俺は紳士だ! 君をからかった奴らとは、全く違うんだから」


 さっきよりは、少しだけ安心したようだで、俺は彼女の前に一歩進んだ。彼女との間隔は十センチくらい。目の前に立ちふさがるような位置だ。そして、彼女の髪の毛を見た。あまりの至近距離に、彼女は目を白黒させている。汗までかいて、その汗を両手でパタパタ吹き飛ばそうとしている。


「な……、なあに?」

「これずっとつけてたんだな」


 俺は彼女の頭に手を置いた。その瞬間びくっと動き、身をよじって俺から逃げようとした。

―――やっぱり、この人私に何かしようとしているんだ!


―――油断させておいて……。


 野乃香の脳内では、来夢をまだ怖い人だと認識していた。そう、中学生の時に絡まれたことがトラウマとなって、ある種の男性恐怖症になっている。男性、特に年上の男性に傍に寄られると、何かされるのではないかと思ってしまうのだ。


「もう、触らないで!」


 俺は彼女の頭から、手を離した。


「わかったよ」


 野乃香は、焦って顔を真っ赤にして走り去った。髪の毛の結び目のところで、豚の髪飾りが揺れていた。小学生の時に出会って、幻のように消えてしまった野乃香が、今現実に目の前に現れたかのようだった。

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