第1話 破られる平穏

 女神レグルス──

 心の望みを叶える女神として人々から崇められている。

 それは山奥の湖に現れると伝えられていた。

 レグルスの加護を受けた者は「レグルスのカギ」と呼ばれる金色のカギを授かる。

 カギは己の意志でしか開けることはできない。

 誰にも開くことはできないのだ。

  

 人々はそれを伝説、夢物語だと語る──

  



 *




 集落から少し離れた林の中、乾いた音が空を切る。

 構えを変え、間合いを変え、茶髪の少年が一心不乱に木刀を振るっていた。


「エバン!」


 ふいにその張り詰めた空気が途切れる。

 声のした方を見やると、赤みを帯びた桃色の髪の少女が木の根につまづかないように軽やかに駆け寄って来ていた。


「リンディ」


 表情をほころばせると、少女も花のような笑みを返した。


「やっぱりここにいたのね」

「あぁ」


 茶髪の少年──エバンは右手で木刀を握り直すと、軽く空を払ってみせた。


「やっぱり毎日やってないとカイトスみたいになれないもんな……」

「カイトスさんはずっとエバンの憧れだものね」


 愛らしい桃色のワンピースを纏った幼なじみに頷きを返す。


 思い出すのは六年前。

 当時のエバンはまだ十歳ほどだった。

 リンディは傭兵カイトスに連れられてこの小さな村、イズールドへやってきた。


 人の心が読める能力を持って生まれたリンディは、それを封じてもらうために伝説だと言われる女神レグルスに会おうとしていた。

 同じ年頃の子供が珍しかったエバンは、イズールドの側にある山の中の湖に女神が現れる事を教えた。女神伝説を信じていたし、何よりリンディ自身に興味があったのだ。


 リンディは比較的貴族が多く住んでいるルマイトで、物心ついた時から他人の口から出る言葉と裏腹な思想に辟易してしまっていた。

 自身も高貴な家柄であるはずだが、今ではこの田舎のイズールドへ移住している。

 エバンの母は小さな宿を経営しているため、その一つをリンディの部屋にしてくれたのだ。


「でも、ホントに女神が現れた時はびっくりしたなぁ。今まで見たことなかったから」

「でもエバンは信じてたんでしょう?」


 そう言ってリンディは首から下げている金のカギを見下ろす。

 六年前、山奥にある湖に現れた女神に授けられたカギだ。


「本当に必要としている人じゃないと、女神は現れてくれないんだと思うの」

「そっか。俺は特に悩みがなかったからなぁ。……父さんの遺した剣を、母さんはどうしたら触らせてくれるんだろう、って事ぐらいしか」


 そう言って茶目っ気たっぷりにリンディを見やり、次の瞬間二人で吹き出した。

 風が木々の葉を、さわさわと心地いい音で駆け抜ける。


「カイトスの持ってる刀もかっこよかったな。……吠えろ、呈黒天ていこくてん!ってさ」


 かつての傭兵の勇姿を思い出し、構えを真似して木刀を振りかざすエバン。

 湖までの道のりに現れた魔物を、華麗な一閃で薙ぎ払った男の姿が今でも目に焼き付いている。


 そんな様子を、リンディは微笑ましく見つめていた。

 能力を制御できるようになった今、こんな平穏を手に入れることができたのは彼らのおかげだ。


「また会えたらいいのになぁ。今どこにいるんだろう……」

「そうね。ちゃんとお礼も言えてないもの」


 少女を村へ送り届けた傭兵は、湖まで二人の護衛をし、再び村まで戻って来てすぐに姿を消してしまっていた。

 他に仕事があったのかもしれない、と思ったものの、なんとなく釈然としない。


 ふと、静かな林の中の向こうから忙しない足音が聞こえてきた。次いで聞こえた声は聞き慣れたもの。


「エバン……エバン!」

「母さん……!?」

「ミーザおばさん……?」


 珍しく焦ったような声に二人で目を見張って答える。

 駆けて来たのはエバンの母、ミーザだった。


「よかった。リンディちゃんもいたのね」

「どうしたんですか?そんなに慌てて……」


 ミーザは乱れた呼吸を落ち着かせてから真剣な眼差しになった。


「落ち着いて聞いてちょうだいね。二人とも、今すぐ村を離れてほしいの」


 再び二人揃って目を丸くする。

 エバンは驚愕の表情のまま母に詰め寄った。


「ど、どういう意味だよ……!?」

「今は村に近づかないで。しばらくの間離れていてちょうだい。あなたにこれを渡すから……」


 そう言ってミーザが取り出したのはひと振りの剣。鞘に収まっていても、エバンにはそれが何なのか──誰の物だったのかはっきりとわかった。


「これっ……父さんの!!」


 押し付けられた剣を震える両手で受け取る。

 思っていたより重量のあるそれに、手のひらより心に重みがのしかかった。


「そうよ。あなた、ずっと欲しがってたでしょ」

「そ、そうだけど……なんで……?」

「これでリンディちゃんを守るのよ。……とにかく、はやくここから離れなさい。わかったわね」


 言い終わった途端にミーザは振り返りもせず足早に村へと踵を返した。


「母さん……!」


 呼びかけても、母の姿はすぐ林の中へ消えていってしまった。

 呆然としていると、隣から控えめな声がかかった。


「……ごめんなさい、エバン。私、おばさんの心を読んでしまったのだけど──」


 その言葉で、リンディが途中から口をつぐんでいた理由がわかった。

 胸元に下がるカギを握りしめて望めば、心を読む能力を一時的に解放できるのだ。


「村にアルタイル隊が来てるみたい。きっと私を探しに来たんだわ……」

「なんだって……!?」


 リンディの能力を狙っている者は多い。平民、貴族、兵士や国王までがその能力欲しさに気を狂わせている──という、どこまで本当かわからないような噂まである。


 アルタイルというのは国内に三つ存在する砦の一つだ。イズールドから一番近い砦である。


(リンディを狙っているとしたら、すぐに逃げなきゃ……。でも──)


 村の住民たちの顔が浮かぶ。小さなこの村では知らない顔などない。

 続いて思い出したのは母の笑顔。その温もり。愛情のこもった手料理の数々。


(もし、俺たちが逃げたことで、みんなが危険な目にあったりしたら……)


 迷いを断ち切るために、エバンは頭を振るった。

 そして、強い意思を新緑の瞳に宿してリンディを見つめる。


「俺、行かなきゃ。リンディはここで隠れててくれ」

「私も戦うわ。エバン」


 間髪入れずの返答に、思わず言葉に詰まる。

 リンディは微かに笑みすら浮かべていた。


「──はは。心、読まれちまったか」

「いいえ。読んでないわ。あなたの心なら、能力を使わなくったってわかるもの」


 エバンは己の発言を恥じた。この幼なじみは自分を信じてくれているのだ。勝手に心を読むような真似はしない。


「それに……みんなを助けたいのは私も同じ」


 よく、考えていることが顔に出やすいと言われるエバンだが、リンディの前だと誤魔化すことすらままならない。

 それにエバン自身、嘘は苦手な方なのだ。


「わかった。じゃあ、一緒に行こう!」


 リンディが頷いたのを確認して、二人揃って集落のある方向へ駆け出した。

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