第416話 ゴッドモード、入りました……。


「タクト……なんで……」


 彼の問いかけに、俺は無言を貫く。


 やってしまった……ついに。

 身体が、勝手に動いてしまった。

 あの屈託のない笑顔を見た瞬間、身体中に電撃が走り、俺を突き動かした。


 誕生日を祝ったことで、浮かれていたのだと思う。

 一時的な感情で、彼を抱きしめてしまった……。それならば、すぐに離れたら良い。

 だが、頭からそう指示を出しても、俺の身体は微動だにしない。

 むしろ、ミハイルの身体を、もっと強く抱きしめてしまう。


「悪い。ちょっと、このままで……」

 情けない声だと思った。

 正直、殴られると思ったが、ミハイルは控えめに俺の袖を掴む。

「べ、別に、謝らなくてもいいけど……」

 顔は見えないが、きっと彼のことだ。赤くなっているのだろう。


 

 ミハイルの頭を、撫でてみる。

 小さくて、片手におさまりそうだ。

 ビッタリと密着しているから、自然と彼の長い髪が数本、鼻の前で舞っていた。


 甘い香りがする。

 なんだろう。こいつが普段、使っているシャンプーだろうか。

 癒される。



 俺がミハイルを抱きしめて、どれだけの時間が経ったのだろう。

 10分ぐらい? わからない。

 でも、今は時計なんて、確認する余裕はない。

 このあと、どうやったらいいのか、分からない。


 夜だし、静かな商店街だから、人通りは少ない。

 だが駅が近いから、何人かのサラリーマンやOLがすれ違っていく。

 それでも、俺がミハイルから、離れることはなかった。


  ※


 目の前にある街灯に、小さな埃が降りかかる。

 最初は埃だと思ったが、それは夜空から降ってきた白い雪だと気がつく。

 “反対側”を見ているミハイルも、雪だと気がついたようだ。


「あ、雪……」


 時間切れ。だと感じた。

 こんなにたくさん雪が降っている中、彼をここに縛りつけてはならない。

 でも……俺の身体は、言うことを聞かない。

 まだ離れたくない、とわがままばかり、言いやがる。


「ミハイル。本当にすまん……身体が動かなくて」

「え……その、いいけど。寒くないの?」

「寒くない。むしろ、暖かくて心地が良い」

 今の俺はどうかしている。

 思っていることを、ペラペラと話しやがって。

「そっか……でも、今日のタクト。なんかおかしいよ」

「ああ。そうだな……こうやっているの、嫌じゃないか?」

「嫌じゃないよ。けど、どうして……男のオレなの?」

「!?」


 痛いところを突かれた。

 そうだ、彼の言う通り……なぜ男のミハイルを抱きしめたんだ?

 別に女役のアンナでも、良かっただろう。

 どうしてだ?

 俺にも分からない。



「その……ミハイルでしか、俺を救ってくれないと思ったから……だと思う」

「オレしか、出来ないことなの?」

「ああ、そうだ」


 俺はようやくミハイルから、身体を離した。

 だが、両手は彼の肩を、がっちり掴んでいる。

 逃げないように、捉まえているわけじゃない。

 彼の綺麗なエメラルドグリーンを、この目に焼きつけるためだ。


「タクトはオレが必要なの?」

 潤んだ瞳で訴える。

 普段の俺ならば、怯むところだが、今なら大丈夫。

「必要だ」

 言い切ってしまった。

「そ、そうなんだ……」

 逆にミハイルの方が怯んでしまう。

 頬を赤くし、視線を逸らす。


 ここで1つ気になるところがある。

 それは、彼の小さな唇だ。

 女装した際につけた口紅が、まだ落とせていない。


 卑怯だと思ったが、彼を誘うには、良い口実だと思った。


「なあ、ミハイル。お前、口元が汚れているぞ?」

 そう言うと、彼の細い顎を掴む。

 所謂、“顎クイ”ってやつを、やったつもりだったのだが……。

 顎をガッツリ掴んで上にあげると、ミハイルの下唇がひん曲がってしまう。

「うゔ……タクト。なにするんだよぉ……」

「あ、すまん」

 こういうところは格好つけられないのだと、童貞の自分を呪う。

 仕切り直して、人差し指だけで、再度、彼の顎を上げてみる。


「は、ほわわ! た、タクト!?」

 案の定、ミハイルの目は泳ぎ回る。

 かなり動揺しているよう。

 だが、俺も引くに引けない状態だ。

 このまま、行かせてもらう。


「目をつぶってくれ……」

「え、えぇ!?」

「汚れを落とすために必要なことだ」

「そ、そっか。分かった」


 そっと瞼を閉じるミハイル。

 なんて、愛らしい顔なんだろう。

 人形みたいに小さい。

 散々、汚れだとか抜かしておいて。この唇は誰よりも美しいと感じる。

 だからこそ、今。俺は奪おうとしているんだ。


「すぐに終わるから」


 なんてキザなセリフを吐き、彼の唇に自身を重ねようと試みる。

 この一線を越えたら、きっともう二度と……。

 それでも、ミハイルとなら。


 本当なら、彼の可愛い瞼を見つめながら、キッスしたいところだが。

 やはり、ここは俺も平等に。瞼をゆっくりと閉じてみる。


 ミハイルの鼻息を感じる。

 でも、それは彼も同様だろう。


「タクト……」

「ミハイル」


 俺の名前を呼んでくれたことで、同意とみなした。

 あとはお互いの唇を重ねるだけ……。

 しかし、悲劇は突然訪れる。


「こらぁあ! ミーシャ! どこだぁ!」


 その叫び声を聞いた瞬間。俺は、即座にジーパンのポケットから、ハンカチを取り出す。

 俺が普段から、愛用しているタケノブルーの白いハンカチだ。

 まだ瞼を閉じて、目の前で待ち続けるミハイル目掛けて、ハンカチを擦りつける。

 かなり強めに。


「痛いっ! いたた! タクト、痛いよ!」

「すまんな、ミハイル。かなり汚れがついていて……」


 俺が彼にキスをしようとしたことも、隠さないといけないが。

 女装していたことを、姉のヴィクトリアに、バレることを阻止しないといけない。

 だから、ゴシゴシと力強く拭き上げる。


 ピンク色に染まったハンカチを、ジーパンのポケットになおし、何事もなかったかのように振舞う。


「痛いよ……タクト。一体、なにがしたかったの?」

「いや……その……」

 急に歯切れが悪くなってしまう。

 きっとヴィクトリアが、登場してしまったことで、ビビったのだと思う。

「急にオレを、は、ハグしたり……意味がわかんないよ!」

 そう言うミハイルの顔は、ムスっとしていた。

「すまん……」


 結局、この日も俺はなにも出来ず、終わりを迎えてしまった。



 後からヴィクトリアが現れて、俺たち2人に声をかけてきた。

 ピンクのガウンを羽織っていたが、多分中は下着だろう。

 その証拠に襟元から、胸の谷間が見えている。

 動く度にボインボインいわせるから、吐きそう。

 

 

「おお~ こんなところにいたのか? ミーシャ! お前の誕生日を祝おうとしたのに、急に出て行きやがって。心配するだろが!」

 ちくしょーーー!

 もうちょっと、タイミングをずらせよ、お姉ちゃんっ!

「ご、ごめん……姉ちゃん。タクトが誕生日プレゼントを持って来てくれて」

 ようやく俺の存在に気がつく、ヴィクトリア。

「へ? ああ、坊主じゃないか。なるほど、わざわざミーシャにプレゼントを届けてくれたんだな。お前もパーティーに参加したらどうだ?」

 そう言って、2階の窓を指差す。

 嬉しい誘いだったが、正直、今はそんな気分じゃなかった。

 散々、自分からやっておいて、何も出来なかった。

 それが恥ずかしくて、彼の顔をちゃんと見ることが出来ない。


「いや……今日は帰ります」

「遠慮するなよぉ~ もつ鍋を作ってるからさ。食ってけよ♪」

 誕生日でさえ、もつ鍋かよ……。

「いえ。今日は本当に」


 そう言って、ヴィクトリアに頭を下げる。

 色々と、ミハイルをいじったし……。

 罪悪感もあったのだと思う。


「そっか♪ じゃあ、また来年な!」

「はい……」


 背中を向けて、駅に向かおうとした瞬間だった。

 ミハイルが大きな声で、俺を呼び止める。


「タクト!」

「え?」


 振り返ると、心臓の辺りを両手で抑えたミハイルが、苦しそうな顔でこちらを見つめていた。


「タクト……なんか、今日のタクト。本当におかしかったよ。悩みとかあるなら、言ってよね?」

「ああ。その時はちゃんと言うよ」


 俺は……最低だ。

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