第十章~新体制と疑問の解決

 新年度に入って半年が過ぎた頃スタッフも一名増員され、社員を含め十名体制になった名古屋支店は忙しい時期をなんとか乗り越え、ようやく落ち着きを取り戻すことができた。

 年二回発表のある直川賞で、七月の候補作に紡木の担当している戸田と真鍋担当の渋井の二人が初めて候補作に挙がり、嬉しい悲鳴を再び上げたが残念ながら受賞は逃した。それでも支店では二期連続で二名の候補作を出したことにより、紡ぎ家の他の契約作家達も刺激を受けたのか、次々と良質な作品を書き上げてヒットを飛ばしだすという好循環が生まれたことは幸いだった。

 そうして日々忙しくしていた陽菜達がようやく一息つけたのは、八月の盆休み、九月のシルバーウィークと立て続けに長期休暇進行に苦しめられた日々を乗り越え、秋の気配が漂い出した頃である。だがもう少し経てばまた年末進行が始まるため、作家や担当者達もまた苦しめられる日々が続く。今はそれまで安らげるほんの一時だった。

「ようやく、と言った感じよね。去年の年末からいろんな事件が起こってずっとバタバタしていたし、担当作家が増えるは社員とスタッフも増員するはで、なかなか忙しかったから。紡木さんも担当作家が立て続けに直川賞候補に挙げられて、大変だったでしょ」

 一階の定食屋から出前を頼んだ陽菜と紡木と鳥越の三人で、奥の会議室を使って昼食を取りながらそんな会話をしていた。真鍋と佐藤と松宮は外出している。知らない人が外から聞けば、中で女子会でもしているような雰囲気で和気あいあいと話をしていた。これだけリラックスしての昼食は久しぶりかもしれない。

「そうですね。でもまた年明けの直川賞も、MIKAさんが夏に出した“この夏の夜には”の評判がいいので、再び候補に挙がるのではと期待しています」

「シリーズと言っていいのかな。“夜には”の第二弾だよね。第一弾が初めて候補作に挙がってから彼女も売れっ子になったことだし、今回も前回以上に良い出来だって批評家達の間でも噂になっているから、ノミネートされる可能性は高いよね」

「伊藤さんの“あなたの胸の奥に”も可能性があると思いますよ。これでノミネートされたら四回目ですから、そろそろ受賞してもおかしくないと思います」

 鳥越が負けずに自分の担当作家を押し始めた。

「私の担当ではノミネートの可能性がある人は今回もいないな」

 そう言ってため息をつくと、紡木は頷きながらも慰めでは無く冷静に分析した。

「矢尾さんはすでに直川賞を取っていますし、森さんの担当している他の作家さんは作風からして、直川賞向きじゃない人が多いだけですよ。こればかりはしょうがありません。こういう賞は作風で受賞しやすいとか向き不向きがありますし、気にすることはないと思いますよ。それに賞が取れて無くても、担当の売り上げは順調じゃないですか」

「そうですよ。確かに大きな賞の候補に挙がったら担当としてテンションは上がりますけどそれはそれで大変ですし、落選したらかなり落ち込みますからね。特に伊藤さんのように何度も、となると正直きついですよ」

「そうそう。賞も良し悪し、だね。担当者としては作家さんが気持ち良く書けて、作品が売れるように努力するのが仕事だから。賞を獲りたいと思う作家さんもいるだろうし、そうでない作家さんもいる。その人達に合わせて対応していくしかないよ」

「そうね。ノミネートされてからのマスコミ対応だけでも大変なのに、受賞後の対応を考えると申し訳ないけど、担当じゃなくて良かった、って正直思う時があるから」

 肩をすくめて冗談交じりに笑った。二人もうんうんと頷いて苦笑いしている。正直仕事量が一気に増えることは確かだ。一月に直川賞を受賞した二坂の対応を紡木と二人で行ったが、あの時期だけは忙殺されたと言っても過言では無い。

 マスコミ対応が一段落したこの夏以降、紡木一人で二坂を担当し対応しているが、それでも出版社からの執筆依頼が膨大だ。二坂と打ち合わせをしながら仕事を請け負うにしても、その順番や割り振り、締め切り期限の設定、契約内容の取り決めなど多岐に渡る。その為一時期に比べれば一息ついたと言えるだろうが、忙しいことには変わりない。

 そのことをよく知っているため、陽菜は心配になって尋ねた。

「まだ二坂さんの対応も忙しいよね。そんな時にMIKAさんがノミネートされたら、もっと大変になるよ。大丈夫? この夏も戸田さんがノミネートされたから大変だったでしょ。あの時はまだ私も二坂さんの手伝いをしていたから、まだマシだったかもしれないけど。戸田さんも売れ出してかなり忙しくなってきたし、自分の体調の方はいいの? 無理しているようだったら担当減らしてもらうか、担当替えも考えてもらった方がいいよ」

「ありがとうございます。でも大丈夫です。忙しいことは確かですけど楽しいですし、真鍋さんや森さんや皆さんから、ちゃんとフォローしていただいていますから。佐藤さんにだってMIKAさんの“この夏の夜には”の営業フォローとか、手伝ってもらいましたし」

 彼女の過去やプロフィールが公になったこともあり、これまで控えていた営業活動ができるようになった。また小さくて可愛いと見た目の人気も上がり、テレビや雑誌取材が増え、サイン会を開いて欲しいと全国の書店からの依頼も殺到したのだ。

 そこで真鍋の指示もあり、紡木は佐藤と手分けして今までできなかった販売促進のために各地を走り回ったのだが、最近それがようやく一段落したところだと聞いている。

「そうだったね。佐藤さんも最初来た頃よりだいぶ丸くなったというか、最近は紡木さんと衝突することもほとんどなくなったし」

 陽菜が頷くと鳥越も同じく同意していた。

「そうですよ。前は事あるごとに喧嘩していましたもんね。特に佐藤さんはMIKAさんに関してやたら口を挟んでいましたし。私、隣の席でいつもハラハラしていましたもん」

「そうそう。紡木さんに対してだけじゃなく、以前は担当作家にやたらドライだったけど、最近は結構外出して作家と顔を合わすようになったよね。前は効率良く、無駄な動きはしないのが信条だったからか、真逆の紡木さんと衝突することが多かったけど、最近は紡木さんに似てきたんじゃないかって思うくらい、担当作家のことを熱く語るし」

「私、そんなに熱く語っていますか」

 そう聞き返してきたので、陽菜だけでなく鳥越さえも深く頷いた。

「佐藤さんって本社時代からどこか冷めている感じだったんでしょ。だから紡木さんともよく喧嘩していたって聞いたけど、本当に変わったよね」

 だがそこで鳥越が首を横に振った。

「でも森さん。私、伊藤さんが直川賞候補にノミネートされてから、春夏秋冬社の編集者と仕事をする機会が増えて色々話をするようになりましたけど、噂では昔の佐藤さんってそうじゃなかったらしいですよ。どちらかというと、入社当初は紡木さんタイプだったって聞きました。でも転職する少し前から、ああいう風にドライな感じに変わったって」

「へえ。そうなの。意外。ということは最近の佐藤さんが本来の彼の姿ってこと? じゃあ、彼のあのドライな営業スタイルに変わった訳が何かあった、ってことかな」

「そうじゃないですか。あの藤河事件があってからだと思いますよ、佐藤さんが変ったのって。それに春夏秋冬社にいた頃はMIKAさんの担当だったんですよね」

「そう。彼女がデビューしてからずっと面倒を見てきたのは佐藤さんだし、彼女を紡ぎ家に紹介したのも彼だから。その一年位後に彼が紡ぎ家に転職してきたんだよ」

 紡木が説明したその言葉に、陽菜は思わず反応した。

「もしかして佐藤さんが担当者としての行動が変ったのは、彼女が関係しているのかも」

「どういうことですか?」

「だって彼が冷めた編集者に変わったきっかけが、春夏秋冬社時代にある訳でしょ。それが彼女の件でまた元の彼に戻ったのなら、彼女が関係しているのかもしれないじゃない」

 自分で言いながら考えてみた。これまでずっと確認したかったこととも何か関係があるのかもしれない。そこで忙し過ぎてこれまでずっと先延ばしにしてきた件を、今日にでも二人に確かめようと決心した。

 昼食を食べ終えて午後の勤務が始まると出版社の関係各所に連絡し、作家への督促や進行状況の確認、連絡事項のメールを打っていると、いつの間にか外は暗くなっていた。

 真鍋や松宮は夕方近くに帰社したが、佐藤はまだ戻っていない。彼が最近書くようになったホワイトボードの行先は山梨と沼津、岡崎と書かれている。山梨と沼津は本社時代からの担当だが、岡崎市在住の作家は新しく契約した新担当だ。おそらく高速を使って車で移動し、三人の作家と打ち合わせを入れたため、遅くなっているに違いない。  

 テレビ電話を使っての打ち合わせでは済ませられない場合、以前の彼は効率良く動く為に、打ち合わせ日程を一日の中に詰め込んで出かけることはあった。だが最近の彼の外出頻度は、以前より明かに多くなっている。

 紡木が足を運び、顔を合わせて打ち合わせをすることが大切だと主張した時など、時と場合による、やたら何でも顔を合わせればいいってもんじゃない、無駄を省け、効率重視だ、と言っていた彼がどういった心境の変化なのか、真逆の行動をし始めたのだ。

 そこでまず紡木に今日は忙しいかを尋ねた。するとゲラのチエックもあるので遅くはなると思うが、それほどでは無いという。そこで思い切って佐藤のスマホにメールを送った。

“遅くなってもいいから、帰社したら紡木さんとMIKAさんの件で少し打ち合わせをしたいのだけど、時間はある?”すると、かなり時間が経ってから、

“早くても帰社は九時過ぎです。それでも良ければOK。駄目なら明日朝八時は?”

 と返信が来た。だが朝一にする話では無いと思ったので、

“今日は九時過ぎでもOK。遅くなって私達が帰っていたら、明日以降また時間を改めて。”

 と送り返したところ、“了解”と短い返答があった。

 夜九時を回った頃には、仕事を終わらせた鳥越や松宮達が席を立った。紡木は全く帰る気配がない。事務所にはまだ真鍋が残っていたが、京川から飲みの誘いの電話を受けたらしく、仕方ないという表情を浮かべ「お先に」と一声かけて一階に降りて行った。

 時計は九時半を過ぎていた。だが佐藤の帰社に関わらず、やることはいくらでもある。明日の行動計画、直近一週間、一カ月の予定を見直し、まだ読みかけだった新規担当作家のゲラもあった。もう一人の作家が出版社から駄目出しされて再提出したプロットの内容チエックも、できれば明日までには済ませておきたい。

 今までは編集業務に関して出版社に丸投げの担当が多かったが、最近では一部の担当作家で編集やプロットの打ち合わせに口を挟む仕事も任されるようになり、勉強の毎日だ。

 正面に座る紡木の席を覗くと、二坂のゲラを広げて読んでいた。彼の作品は確かに面白い。紡木によると以前は一ファンとして新刊が出る度に購入して読んでいたが、今や作品になる前段階で原稿が読めると興奮し、今の仕事をしていて良かったと言っていた。

 紡木ほどではないが陽菜も最近は読書量も増え、誰よりも先に作家の作品を読むことができる喜びを理解できるようになった。忙しい時はさらりと内容は読み流して、誤字・脱字などのミスが無いかのチエックに集中せざるを得ない場合もあるが、今のような時間を活用すれば、作品の世界に浸りながらじっくりと読むことができる。

 案の定、二人はお互いゲラを読み進めている間夢中になっていたようで、佐藤がドアを開けて帰社したことさえ気づかなかった。

「まだいたんですか。もう十時過ぎですよ。今日は諦めて帰ったと思っていたのに」

 彼に声をかけられそんな時間なのかと驚いたが、待っている人もいないし無理していた訳でもない。紡木もまた同じビルの上で通勤時間がゼロだから特に問題はないだろう。

「担当作家のゲラを夢中に読んでいただけだから大丈夫よ。佐藤さんこそ遅くから打ち合わせするのもなんだから、日を改めたほうがいいかしら」

「いえ、俺は取りあえず今日の仕事は終わらせましたし、デスクワークも明日以降でいいです。でもMIKAさんのことで打ち合わせって。珍しく外出先にわざわざメールまで打ってきたくらいだから、急いでいるんじゃないんですか。何かトラブルでも?」

 荷物を片づけながら彼が尋ねたが、首を横に振った。

「トラブルじゃないよ。急ぎかと言われるとそうでもないけど、ずっと気になっていたことがあったので、少し紡木さんも含めて話したいと思ったんだけど、いい?」

 MIKAの件で話をすることなど全く聞いていない彼が、キョトンとした表情で陽菜の顔を伺っていたがそれを無視して告げると、彼は少し間を置いてから、

「じゃあ、会議室で話をしますか」

 と言って、先に部屋の奥に向かって歩きだした。首を傾げている紡木の腕を引き、読みかけのゲラを片付けさせて後を追う。会議室の電気を点けた彼は、一番奥の一人席に座って二人を待っていた。紡木をその横の長いソファに坐らせ、陽菜はその隣に腰かけた。

「なんです? 打ち合わせしたいことって。あと気になっていたことがあるとか」

 彼が足を組みこちらを向いた。そこでまずは軽い調子で話しかけた。

「今日の昼間、ここで最近佐藤さんの行動が変わったって話をしていたのよ。何か心境の変化でもあったんじゃないかって」

「なんですか、それは。そんな話をするためにこんな遅くまで待っていたんですか」

「もちろん違うわよ。ただそこで佐藤さんが春夏秋冬社にいた頃、そう、MIKAさんを担当していた頃はとても熱心な編集者だったという話が出たの。確か佐藤さんが彼女のことを思って、他社との関係を築けるエージエントと契約した方がいいと進言して、うちと契約したんだったよね。そして紡木さんが担当になった」

「俺が熱心な編集者だったかどうかは所詮他人の評価ですよ。いい加減な噂を耳にしたようですけど、それがどうかしましたか」

 話の内容が見えないからか、彼はイラつくように尋ねてきたが、言葉に以前のような刺は含まれていない。引き続き話を続けた。

「紡木さんが彼女を担当し始めて、しばらくして佐藤さんが転職してきたんだよね。でもその頃の佐藤さんはとても熱心な編集者だったとは聞いてないし、良く紡木さんと衝突していた。この会社に来るまでの間、何があったの?」

「なんですか。打ち合わせがしたいっていうから了解したんですよ。そんなどうでもいいことを聞きたいんだったら勘弁してくださいよ。俺だって長距離運転してきて疲れているんですから」

 そう言って席を立とうとした彼を、手で制した。

「話は最後まで聞きなさいよ。でも佐藤さんは年明けに起こったMIKAさんが関係する藤河の事件があってから変った。それまでは紡木さんとよく衝突していたのに。担当者としての考え方が真逆だったからだろうし、紡木さんも譲れなかったからだと思うけど」

「そうですね。こいつは強情ですから。俺にいくら文句を言われても楯ついてきますし」

 座り直した彼はそう皮肉る。そう言われた当の紡木は陽菜と彼の間で困惑した表情で黙って聞いていた。構わず話を続けた。

「でもそんなあなたが名古屋に来てからずっと、特にMIKAさんに関しては紡木さんによく突っかかっていたわね。最初はあなたがデビュー当時から面倒を見てきて、この会社に紹介したこともあるから思い入れが強いのだと思っていたけど、去年のあの事件からどうもそれだけじゃない気がしていたの。そして急にあなたの態度が変わった。それだけ大きな変化があれば、二人の間に何かあったと考えるのが普通でしょう」

「森さん。何を言っているのか分からないのですが。何度も言いますが、変ったかどうかなんて人の見方次第でしょう。一体何が聞きたいんですか。はっきりしてください」

「じゃあ言うわよ。あなたとMIKAさんとは、他人に言えない関係があるんじゃないの」

「何を言い出すんですか。もしかして男女関係があるとか言わないですよね。森さんといえど、人を馬鹿にするもんじゃない」

「いいえ、そうじゃないの。もっと近い関係よ」

 彼の目を見つめて問い詰めた。驚いた表情をして一瞬目が泳いだが、すぐ否定した。

「もっと近い関係ってなんですか。何もありませんよ」

 彼の反応を見て確信した。そこでずっと持ち続けてきた疑問をぶつけた。

「佐藤さん、あなたはMIKAさんと血が繋がっているでしょ」

 さすがの彼もぎょっとして、こちらの目を睨み返してきた。間にいる紡木も驚いていた。

「あいつに肉親なんていません。両親は焼け死んだし、実の父親だとか言っていた藤河は刑務所の中です。それとも俺が藤河と血が繋がっているとか言いだすんですか。それともMIKAを見捨てた親戚の一人だとでも?」

「そうじゃない。彼女の事件があってから紡木さんが弁護士を通じて、遺産相続の件もあるから以前に遺産の請求をしないと一筆を取った親類関係を再度調べたの。私もその書類を少し見させてもらったけど、その中にあなたと同じ年の人はいなかった」

「そうでしょうね」

 弁護士が調べたと聞いた彼は、強がりながらも明らかに動揺していた。

「でも一筆を取っていない人の中でたった一人だけ、全く同じ年齢、同じ名前の人がいたの。それが彼女のお兄さん。そう、両親を手錠で拘束し火事を起こして死亡させた、鈴元すずもと哲也てつやさん。当時十歳だったお兄さんは、その後家庭裁判所の保護を受け、苗字と名前を変え児童保護施設に預けられて生活を送った。それが佐藤淳さん、あなたでしょう。そして何の因果かあなたが就職した出版社に、妹である本名鈴元涼子さんが作家としてデビューすることになった。どういう経緯でそうなったかは知らないけど、それならMIKAさんにやたらこだわっていた理由が私にも理解できるわ」

 ふうっ、と大きく息を吐いた彼はしばらく沈黙していたが、途中で観念したのか急に穏やかな声で話し出した。

「そこまで調べられていたらしょうがないですね。そうです。俺が涼子の兄ですよ。血は母親の分しか繋がっていませんが」

「やっぱりそうだったんだ。つまり佐藤さんが昔起こした事件で亡くなった二人が実の両親、涼子さんは藤河とあなたの母親との間に生まれた娘だったのね。そこで質問があるんだけど。藤河がMIKAさんの実の親だと、佐藤さんはいつから知っていたの」

 彼は素直に話し出した。

「名前を知ったのは、あの火事の日です。俺は涼子を守るために両親を手錠で拘束して聞きました。本当は誰が涼子の父親だってね。俺の父もそれを聞きたがっていました。母はずっと黙って口を割らなかったが、俺が家に火をつけると脅してようやく藤河という男の名を白状しました。しかし父がそれでまた逆上し、二人のいい争いが再び始まった。醜かった。実の親として情けなかった。結局頭に血が上った俺は、ストーブを蹴とばして涼子を連れて逃げました。でもその後、藤河の名をそこに同席していた弁護士達も含め、誰も口にすることは無かった。ずっと俺達の胸の中だけにしまっていた秘密だったんです」

「そうだったの。だからMIKAさんが失踪した時、手がかりが掴めない紡木さんや真鍋さんにヒントを与えるため、彼女の個人情報の入ったホルダーの中に実の父親の存在を仄めかすメモを入れたのね。それをたまたま私が見つけた。その話をきっかけにして、あなたは本当の父親の存在を私達に伝えたんでしょう?」

「そうです。本当は紡木さんに気付かせるつもりでしたが、森さんが先に見つけてしまいましたから、あのタイミングで話を切り出したんです。もし誰も気づかないようだったら自分であのホルダーを引っ張り出し、紡木さんに渡そうと考えていたんですけどね」

「おかしいと思った。彼女は紡木さんのことをとても信頼していて、何でも話していたのに実の父親がいることは知らされていなかった。しかも彼女を見つけて紡木さん達が話を聞いた時、藤河が名乗り出るまで本人は本当の父親のことなど全く知らなかったというじゃない。最初はデビュー時に彼女からあなたが聞きだしたのかと思っていたけど、違うと分かってからなぜ佐藤さんが知っていたのか、ずっとひっかかっていたの。でもその秘密を明らかにしたおかげで問題解決が早まったことは確かだけど。あの時すでに彼女の失踪に藤河が関係していると気づいていたの?」

 彼は陽菜から視線を外し、暗く、僅かな家の明かりだけがぽつり、ぽつり、と灯っている窓の外を見つめながら話しだした。

「いいえ。でも俺は藤河の存在を気にしていました。しかし奴は自分の名が裁判でも全く出なかったことをいいことに、ずっと自分の存在を消していましたから涼子に近づくことはないと思っていたんです。けれど涼子が作家としてデビューしてから、注意しなければと思い始めてはいました。でもあの時点で藤河の居場所や行動を掴んではいません。だからあの時、涼子が失踪したことで藤河が絡んでいる可能性があると真鍋さん達に言ったのは嘘じゃなくて、可能性があるとしたらそれしかないと思ったんです。本当はずっと秘密にしたかったことですが、緊急事態でもあったからしょうがなかった」

「でもあなたの予想が当たって藤河の名前が出てきた、ってことね」

「はい。その後紡木さんがマークしてくれたのと涼子自身の脅しの効果もあり、藤河は動くことができなかった。だからあいつはあんな無茶な行動に出たのだろう。おかげで奴は捕まったし、今後刑務所から出てきたとしても、涼子に近づくことはできない。相続権を主張したとしてもDNA鑑定をしない限り認められる可能性は薄いし、相続権の廃除手続きをすれば、あいつの手に渡る心配もない。そうだったな、紡木さん」

 それまで黙って聞いていた彼は、頷いてから補足説明をしだした。

「確かに遺留分を有する相続人が被相続人に対して虐待や重大な侮辱、または相続人が著しい非行をした場合、相続資格の廃除の事由に当たります。よって生前に家庭裁判所へ請求すれば、今回のケースだと認められる可能性は高いでしょう。あと藤河が無茶な行動に出たのは、あなたが事前にMIKAさんがこのビルにいると告げたからでしょう」

「なんだ。ばれていたのか。そう。どこかで決着を付けなければと思っていたから、わざとあいつに公衆電話から匿名で教えたのさ。調査書には連絡先が乗っていたし、奴が自暴自棄になっている状況も把握していたからな」

 二人の話を聞き、陽菜は呆れながら言った。

「だからあなたはあんな行動を取ったのね。事前の覚悟があったから手出しもせず、藤河に殴られっぱなしだったんだ。実の両親を犠牲にしてまで彼女を守ったお兄さんなら、あれくらいはどうってことなかったんでしょうね」

「はい。それに俺が手を出したら加害者になって正体が明らかになり、涼子や会社に迷惑がかかります。でも被害者であればその危険性は少なくなると思ったんですよ。でもばれてしまったらしょうが無いですね」

 彼はそう言い席を立とうとしたので止めようとしたが、その前に紡木が彼の腕を掴んだ。

「どうするつもりですか。この会社を辞めるとでも? そんなことは許しませんからね。担当はあくまでも私ですが、実の兄にもしっかりと見守ってもらわないと困ります」

 会社から追い出される覚悟をしていたのか、彼は目を大きく見開いて紡木に聞いた。

「お、おい、おまえはそれでいいのか? 俺は殺人者だぞ」

 しかし彼は極めて冷静な表情を装って答えた。

「それは過去のことです。それにおそらくですが、このことは社長の京川さんはご存じでしょう? 真鍋さんは知らないようでしたけど。それでも多分森さんと同じくあの事件以降、気づいたと思います。私もそうでしたけど」

 さらに驚愕した彼は机に身を乗り出した。陽菜も思わず紡木の顔を二度見した。

「お前知っていたのか。それにどうして分かる? 京川さんに聞いたのか?」

「いいえ、聞いても言わないでしょう。でもあなたの性格だと京川さんには本当のことを話して、その上で転職できるかどうかを決めたのだろうと思いました。でも今の口ぶりだと当たっているようですね。それでしたら社長が認めた上での採用です。私達は文句ありません。そうなると社内で知っているのは総務・人事担当部署の一部の社員だけでしょう。もちろん私は誰にも言うつもりはありません。真鍋さんも黙認しているということは同じ気持ちでしょう。森さんもそうですよね?」

 元よりそのつもりだったため、その確認に首を縦に振った。すると安心したのか、どかっとソファに倒れ込んだ彼は本音と思われる事を呟いた。

「本当か。それなら助かる。俺は本当にこの会社が好きなんだ。出来るなら辞めたくない。それに今は、涼子のいるこの支店に配属されたんだから余計だよ」

 そこで紡木が陽菜も確認したかったことを尋ねた。

「それが最近の行動の変化の理由ですか?」

 すると彼はぶっきらぼうに答えた。

「それもあるが、ビジネスライクな社員として行動をしていたことは、ある意味間違っちゃいないと俺は思っている。少なくとも前の会社ではお前のように作家への思い入れが強かった。それで涼子を紡ぎ家に紹介したが、会社では利益に背く行為だとなじられたんだ。他の出版社との付き合いができないなら囲い込め、という考え方だったからな。だから俺は上司とぶつかった。俺のようなやり方は、会社組織に向かないと思い知らされたよ。それからだ。ビジネスライクに徹した行動をとるようになったのは」

「でも結局転職しましたよね。その時になぜ元のスタイルに戻さなかったんですか」

「この会社で生きていくにも、その方がいいと思っていたからさ。現にここの本社にも同じような奴らは沢山いた。俺は涼子が契約しているこの会社にずっといたいと思ったからこそ、生き残るためにスタイルを戻さなかったんだよ」

「それで昔の自分のスタイルで、彼女の担当をしている私が気にくわなかったんですか」

 痛いところを突かれたという顔をした佐藤は、頭を掻きながら答えた。

「そうさ。だから同い年ということもあって、つい突っかかった。だけどそれだけじゃない。俺は妬けたのさ。嫉妬だな。俺以上にお前を信頼していた涼子の姿を見ていて、そして兄としても心配だったんだ。お前に惚れたんじゃないかとな」

 あまりにも意外な理由を口にしたので、紡木も陽菜も思わず苦笑した。

「なるほど。そう言う訳でしたか。いや、MIKAさんは魅力的だと思いますよ。でも私が担当作家に恋愛感情を持つことはないですね。そんなことはしません」

「お前がそう言う奴だと思っているさ。だが人に惚れるってことは理屈じゃない。万が一ってことがあるからな。お前みたいな変な声の男でも、熱心に尽くしてくれてしかも頭はいいし、空手も出来て男としても逞しい。涼子の方が惚れてもおかしくはない」

「変な声は余計です」

「ここまで話したんだから俺からも聞くが、お前、同性愛者ってことはないんだよな?」

 思わずカッとなった彼は大声で否定した。

「ありません! 私が好きなのは女性ですし、これでも何人かと付き合った経験はあります。残念ながら今は独身ですけどアニメ声で変だからって、それは偏見と差別ですよ」

「ああ、すまん。だから今までは何も言わなかったじゃないか。今日はぶっちゃけて話す機会ができたから聞けたんだ。俺ばっかり自分の過去を喋っているんだし、それくらいしてもいいですよね?」

 彼は陽菜に話題を振って逃げようとしていた。

「いいんじゃない。でも話を戻すけど佐藤さんの営業スタイルが元のスタイルに戻った理由はなに? それにMIKAさんがいるのに最初はこの支店へ応援要員で来るのを嫌がっていたとも聞いていたけど、それはなぜ?」

 笑いを堪えながら、まだ解決していない疑問をぶつけた。するとそれまで苦笑していた彼も真剣な顔に変わり、姿勢を正してから真面目に答えてくれた。

「それはですね。この会社にいる間も違和感はずっと持っていたんです。でもあの事件が起こり、この支店に正式配属になって紡木さんの変わらないスタイルと、そんな彼を信頼している作家や社員やスタッフ達の姿を見ていたら、ここでならやり直せるかも、と思ったんですよ。それに応援要員を嫌がったのも確かです。それは紡木さんがいたし、涼子に近づきすぎるのもどうかと思ったから躊躇しました。だけど今は違います。あの事件からは近くで涼子を見守りたいと思うようになりましたから」

「そうだったのね。謎が解けたわ」

 陽菜が納得したところで、急に恥ずかしくなったのか彼が紡木を責めだした。

「だけど誤解するな。お前のスタイルは俺と似てはいるが、違うぞ。紡木の場合は猪突猛進型で熱心に作家を思うあまりに、作家を窮地に追い込む可能性があるんだ。危なっかしいんだよ。二、三歩引いて冷めた行動を取ってきた俺だから余計に分かる」

「それは、自分でも理解はしているんですけどね。なかなか変えようと思っても難しいんです。佐藤さんのように器用じゃないですから」

「不器用過ぎるんだ。しかし変に器用でもらしさが無くなる。もっとバランスを考えろ」

 たじろぐ紡木に助け船を出すため、彼に質問をした。

「ああ、まだ疑問があったからもう一ついい? 佐藤さんのいる出版社の賞にMIKAさんが小説を応募して受賞した、というのは偶然だったの?」

 彼は紡木への口撃を止めて腕を組み、何かを思い出すように視線を斜め上に向けた。

「入賞したのは全くの偶然です。一編集者が意図して出来ることじゃないし、まず涼子が小説を書いていたなんてことは、俺も応募原稿が送られて来て初めて知りましたから」

「そうだったの。そんな偶然もあるのね」

「いえ、それが全くの偶然でもないようです。涼子が入賞した後、編集部に来た彼女に小説を書き始めたきっかけを聞いた時は驚きました。俺は春夏秋冬社が出している月刊の文芸書と俺が読み終わった小説本の一部を、入社してから匿名でずっと涼子のいる施設に寄贈品として送り続けていました。涼子はそれを毎月楽しみにしていて、読み耽っていたそうです。以前から本が好きで施設では小説をよく読んでいたらしく、文芸書に書かれている作品や多くの物語に触れるようになって、どんどん小説の世界に引き込まれ、好きになったと言っていました。そこでよくあることですが、小説を読み続けている奴達に多い、“一度は書きたくなる病”にかかったそうです」

「それはすごく分かります。私がそうでしたから。今は諦めて応援する側にいますけど」

 そこで共感して頷く紡木に対し、彼は話しだした。

「そうだったな。涼子はあんな体だというハンデもあったからだろう。性格も臆病で友達も作れず、本を読むことでなんとか生き続けることができた、と言っていた」

「物語の世界に浸ることで、現実世界から離れられて救われることってありますからね」

「まさしく俺自身もそうだった。事件を起こしてから、周りの大人達の勧めで本を読むように言われたが、嵌ったよ。本を読むことで色んな知識を得られたし、想像力も鍛えられた。だから俺がどれだけ愚かなことをやったかということも、よく分かったんだ。それで更生して社会の役に立とうと勉強した。そして好きな本に携わりたいと出版社への就職を希望し、その夢が叶った。だから施設にいる涼子にも、また他の子達にも物語が持つ力や本を読むことの楽しさが伝わればいいと、俺は文芸書や小説を送り続けたんだ」

「佐藤さんが送った本で彼女はさらに小説にのめり込み、執筆するようになったんですね」

「そのようだ。文芸書には新人賞の応募要項も掲載しているからな。それに涼子は高校を卒業したら施設を出なければならなかった。その後どうやって生きていくか悩んでいた時期だったから、小説家になる夢を持ったらしい。そして書き続け、卒業間近に応募した作品で入賞しデビューできて自立できるようになった、と嬉しそうに話してくれたよ」

「そういうことか。偶然は偶然でも佐藤さんがきっかけを作ったのね。すっきりしたわ」

 深く頷くと彼は笑った。そこで紡木が付け加えるように言った。

「じゃあ、先ほど言ったようにMIKAさんを近くで見守ってあげて下さい。それと彼女と話し合った時に聞きましたが、彼女は兄のことだけは今どうしているのかと時々考えたりするけれど、何か困って名乗り出てこない限りは今のままがいいと思っていると言っていました。彼女はお兄さんのことを心配されているようです。今はそのタイミングでは無いかもしれませんが、いつか名乗り出て話ができるようになるといいですね」

 彼はその言葉に体を震わせ、顔を天井に向けた。おそらく涙が溢れないよう堪えているのだろう。少ししんみりとしだした空気を変えるため、わざと大きな声で言った。

「佐藤さん、嘘をついてごめんね。それに遅くまで残ってもらって」

 そう言うと彼が会議室の壁にかかっている時計で時間を確認して驚いていた。十一時半を回っているのだから当然だろう。

「もうこんな時間か。じゃあいいですか。紡木はこの上に住んでいるからいいけど、俺は終電で帰んなきゃいけないし、森さんもそうでしょう」

「ごめんなさいね。でも間に合う?」

「ぎりぎりです。間に合わないかもしれない」

 慌てて立ち上がった彼に、紡木が躊躇しながら陽菜達に声をかけてきた。

「だ、だったら今日はうちに泊まりますか? 部屋で少し飲むことも出来ますけど」

 その言葉に彼と同じく陽菜も両眉を上げた。彼が部屋に人を呼ぶなんて信じられないことだ。真鍋すら招いたことはなく、本社時代から誰も入ったことが無いとの噂を耳にしていた。この会社に勤めてからうつ病は改善しつつあるようだが、仕事以外で必要以上に人と絡むと疲れてしまうらしい。その為極力そうした付き合いを避けていることも知っていた。このことは彼の身近にいる社員は皆が認識している。

 だが周囲の人達もうつ病に関して正しい知識、認識を持っていない方が多い。ただのなまけ病と捉える人もいれば、異常者のように扱う人もいる。また悪化すると自殺するのではと極端に心配する人もいるが、彼は一度も考えたことはないそうだ。その理由も聞いたことがあった。

 彼が二十八の時両親を自動車事故で亡くしたが、その時運転をしていた彼の姉だけが重傷を負いながらも生き残った。相手の過失が大きい事故だったけれど、その事故で両親だけでなく助手席にいた五歳の娘までもが死んでしまったのだ。

 運転者として、親として、妻として、娘としての責任を強く感じた彼の姉は精神を病み、やがて自殺した。彼の姉とは陽菜がお世話になった雅史先輩の奥様だった人でもある。

 その頃仕事で忙しくしていた彼は、夫の雅史先輩に任せっきりで姉が苦しんでいることなど気がつかなかったらしい。その時深い悲しみを覚え、何故相談してくれなかったのか、何故その悩みに気がついてやれなかったのかと腹立たしく悔しい思いをしたようだ。

 そうした経験があるからこそ、自殺は残された人間を深く傷つけることを痛感したという。だから自分がうつ病だと診断された時、何としても生きて病気に立ち向かい、ゆっくりでも前向きに進もうと思えたからこそ、今があるのだと言っていた。そして少しだが今の彼はさらに一歩前に踏み出そうとしていた。だから佐藤や陽菜に声をかけたのだろう。

「本当にいいのか? これから帰るのは面倒だし、泊めてもらえるのなら助かるけど」

「どうぞ。二LDKですから泊まれるスペースは十分ありますし、お客様用の布団も一応二人分あります。ここ数年使った人はいませんけど、自分の布団の替えとしていつでも使えるよう、定期的に日干ししていますから清潔ですよ。女性の森さんには鍵のある部屋を一人で使ってもらいますから、安心してください」

「そ、そうか。じゃあ、そうさせてもらおうかな。森さんはどうします?」

 彼の勇気に応えなければならないと思って言った。

「私も泊まる! でもお酒は少しでだけでいいけど何があるの?」

「貰い物のビールやウィスキーが少しだけです。なんなら一階のバーから持ってきてもいいですけど」

「いや、遅いから俺も酒は少しでいい。でもな、紡木。ちょっと聞いていいか?」

「なんでしょう?」

「お前、本当に同性愛者じゃ、」

「ありません! 心配なら帰ってもいいんですよ!」

 紡木が怒鳴ると、肩をすくめた佐藤と目を合わせて笑った。最後には三人で笑いながら会議室の電気を消し、事務所の鍵を閉めて四階の彼の部屋へと向かった。(了)

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作家エージェント名古屋支店の事件簿 しまおか @SHIMAOKA_S

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