第九章:戌亥への対応~

 加奈子の死や直川賞の件、またその後の様々な社内処理に時間がかかったため、問題を先送りにしていた戌亥の件は、年明けに白黒つけることとなった。タイミングは伊藤やMIKAの作品が直川賞候補作としてマスコミ発表される前がいいと決まった。

 年末が例年以上に慌ただしく、年始の担当作家への挨拶も早々に切り上げていた。そこで改めてゆっくり話がしたいという理由で紡木が戌亥に連絡を取る。陽菜も同席すると告げたため彼は喜び、すぐにアポイントが取れた。馬鹿な男である。

 二人で市内にある事務所兼自宅に訪れると、彼はいつも以上に相好を崩して家の中へ上がるように手招きした。

「さあ、さあ、よく来てくれましたね。お二人とも年明けでまだ忙しいでしょうに」

「いえ、年末は色々忙しかったものですから、戌亥さんにもご迷惑をおかけしました」

 紡木が答えている間、陽菜は黙って後ろに立って愛想笑いだけはしておく。

「戸森さんや田端さんの件は大変でしたね。その辺りの話も含めて今日はゆっくり話そうじゃないですか」

 リビングに通され、大きなソファに座るよう促されたために、二人は言われるがまま腰を下ろす。その間に彼はキッチンから三人分の飲み物を運んできてテーブルに置き、正面ではあるが陽菜寄りの場所に座った。気持ち悪かったがここでも黙っておく。

「ありがとうございます。早速ですが戌亥さん。いつ頃他社と契約されるご予定ですか」

 回りくどいやり取りを省略し、紡木がストレートに話を進めた。

「何を言い出すんですか、唐突に。何の冗談ですか」

 彼は虚を突かれて動揺していたが、笑ってごまかすように言った。

「話は聞いていますよ。某会社から引き抜きの話があったそうで。しかも伊藤さんとセットで移籍してくるなら特別ボーナスが出るらしいですね。羨ましいです。そんな高い評価を受けているんですね」

 構わずそう切り込むと、さすがの彼もムッとしたようで言い返してきた。

「なんですか。失礼ですね。誰がそんなことを言っているんです。それとも今後私を担当したくないから、新年早々他の会社に代わってくれとでも言いに来たのですか」

「違います。そんなことを私が言ったら、戌亥さんにますます私は酷い担当者だという悪口を、伊藤さんに告げる口実を与えてしまうじゃないですか。そんなことしませんよ。私は戌亥さんといつトラブルになっていて、どんなひどいことを言ったんですか。伊藤さんに告げた通りのこと、ここでおっしゃって下さいませんか」

 そう畳みかけたので、横から陽菜が口を挟んだ。

「そうですよ。紡木さんと戌亥さんが揉めているなんて話、私も聞いたことがありませんけど、伊藤さんはいろいろ聞いていらっしゃるようで。私にも教えてくださいよ。伊藤さんに言ったことが本当なのかどうか、第三者の私が聞かないと公平な話はできませんからね。しかし会社の悪口もおっしゃっていたみたいですから、完全に公平とも言えないか。そうそう、先に言っておきますけど、某会社さんからはもう連絡は無いと思いますよ。だってこの件は先方の会社にも知れ渡っていて、向こうは大変らしいですから」

「な、何を言っているんですか。私は悪口なんて言っていませんよ」

「それでは伊藤さんが嘘をついているんですか。それに戌亥さんを引き抜こうとしていたこの会社の人にも直接聞きましたが、それも嘘だって言うんですか」

 紡木は引き抜こうとしたライバル会社の担当者名を、フルネームで伝える。さらに会って話した証拠としてその人達から受け取った名刺を見せると、さすがに彼も顔色が変わった。だがまだなんとか誤魔化そうと彼は抵抗を示した。

「い、いや私がどんな話をしたと言うんです」

「今度この会社が大阪に支店を出そうと計画し、それに伴い西日本在住の作家さん達に色々営業をかけて契約者数を増やそうとしていたようですね。どことも契約していない若手、中堅作家さんに声をかけるだけならまだしも、当社と契約している作家さんにも手を出していると聞きました。さらに担当者と揉めているだの会社はおかしなことをやっているだのと嘘八百を並べ、他の作家さんまで一緒に引き抜こうとしていることが許せなかったので、呼び出して問い詰めました。そしたら正直に白状しましたよ。戌亥さんに伊藤さんとセットで来てくれるよう働きかけていたって」

「そんな事、私が言う訳ないでしょう」

 まだ白を切ろうとする彼を、さらに攻撃した。

「それが教えてくれました。向こうも背に腹は替えられなかったのでしょう」

 そこから紡木は、佐藤が仮契約を結んでくれた作家とのその後やり取りを、彼に説明し始めた。慌てた相手の会社は、仮契約を取り消しさせようと動き出した。そこでこちらも相手の担当者を呼び出し、話をしたのだ。

 その際、伊藤から直接某会社と契約を結ぶことはないとはっきりお断りしてもらった上で、今回の事情を説明した。さらにこれまでの経緯を某会社の上部に報告し、悪質な行為をしていると正式に抗議文を出した事も伝えた。

 その上相手担当者の行動に不満を持つ他の契約作家にも話を広め、ごっそり当社へ鞍替えして貰うと警告したのだ。すると仮契約を結んでくれた作家も同席していた事もあり、すらすらと白状した。戌亥を唆し悪口を広め、伊藤と一緒に引き抜こうとしたことを認めたのだ。また目的はあくまで伊藤であり、戌亥は単なる足掛かりだと言った事も告げた。

「何だって! 足掛かりだと!」

 説明を聞くにつれて顔が青ざめていた彼は、最後の一言で顔を赤くして怒りだした。

「もし私の話をお疑いなら、この場で接触した担当者に連絡をしていただいても結構ですよ。ただ電話をかけても出ないかもしれませんが。大事になってしまったために、先方も諦めるとおっしゃっていましたから」

「ちょ、ちょっと待っていてもらえますか。トイレに行ってきます」

 彼はそう言って席を立ち、奥の廊下に向かって歩いて行った。おそらく紡木の言う通りかどうかを確かめるため、電話をかけに行ったのだろう。結局十分以上彼は席に戻ってこなかった。その間、陽菜達は出してもらったお茶をゆっくり飲みながら話していた。

「何回もしつこく電話しているんですかね」

「担当者の携帯に連絡がつかないから、直接向こうの本社にでもかけているんでしょう。そこでも相手にされていないか、たらい回しにされているか、じゃないかな」

 ここまできて本音はまだ心配そうにしている紡木に、わざと呆れた顔でソファに踏ん反り返り、苦笑しながらそう言った。あんな奴に同情はいらないと思っていたからだ。

 ようやく彼が席に戻ってきた時、顔は真っ青だった。そして力無く正面の席に座ると、即座に頭を下げた。

「すみませんでした。相手の口車に乗り馬鹿なことをしました。申し訳ありません!」

 テーブルに額をすりつけ、土下座もしかねないほど謝る彼の姿を見て、紡木はそれまでの怒りが完全に収まったようだ。逆にこのお馬鹿な作家のことを可哀そうに思ったらしい。

 だが陽菜はそう簡単に済まそうと思っていなかった。これまでにもしつこくされた恨みもあり、今度は代わって攻撃を続けた。

「相手の担当者、捕まりました? 向こうはなんて言っていました? 私達の言っていることが本当だって分かったんじゃないですか」

「紡木さん達の言う通りでした。僕も騙されていたんです! 本当に済みませんでした!」

 向こうの会社もこれ以上騒がれては困ると思ったのか、紡木達と会った時に告げた通りの説明をしたらしい。そこでようやく自分が利用されていたと気づいたようだ。

「年末頃からやたら佐藤の歓迎会をしないのかとか、忘年会や新年会を開いて支店所属の作家同士は交流が必要だとか言っていましたよね。戌亥さんは他の作家との交流を避けているはずなのに、おかしいと思ったんですよ。あれは引き抜きの話があったからそうした集まりを利用して、直接伊藤さんに近づこうとしていたんですね」

 問い詰めると素直に頷いたため、さらに彼を責め立てた。

「騙されていました、で済むと思っているんですか。全て認めた上で今回の件、どう落とし前をつけますか。会社としても名誉を棄損され、しかも担当者とありもしないトラブルがあっただの嘘の悪口を言われ、これから信頼関係が保てるとでも思っているんですか」

 当事者である紡木より、陽菜の方が怒りは収まらなかった。

「すみません。僕は紡木さんに何の恨みもありません。これは本当です。でも向こうの会社からものすごくいい条件を提示されたものですから、つい魔が差しただけです。最近伸び悩んでいたことは確かで、環境を変えた方が上手く行くことがあると言われて」

「確か戌亥さんはデビューしてしばらくは調子が良かったけど、その後はあまり売れなくなったから紡ぎ家と契約されたんでしょ。そこで紡木と組んで一度はヒットを出せた。でもまた上手くいかない。だからまた環境を変えれば、良い作品が書けると思ったんですか」

 彼を容赦なく責め続けた。おそらく紡木はすでに許す気でいる。だがこのままではいけないと思い、ここは自分が悪者になろうと決めていたからだ。

「僕がデビューしてからのことを話していたら、そう向こうの会社の人にも言われたんです。だから紡木さんがどうとかじゃなくて、つい、そうかもって思っちゃったんです」

「今はどう思っているんですか。やはり環境を変えた方が売れると思っていますか」

「いや、森さん、思っていません。冷静に考えてみれば、デビューからしばらくして伸び悩んでいる所で紡木さんと組ませて頂いてヒット作が生まれました。そこからまた前の調子に戻っていますが、それは僕自身に問題があって、やはり紡木さんの力が必要だと思います。そうじゃないと僕はやっていけない。勝手なことを言うようですが、もう一度僕にチャンスを下さい。紡木さん、森さん、お願いします。今回は申し訳ございませんでした」

 彼はソファから腰を下ろし、とうとうテーブル下のカーペットに土下座して謝りだした。そこまでされては、許さない訳にはいかなかった。

「分かりました。頭を上げてください、戌亥さん。今回のことは水に流しましょう。私も担当者として、作家さんにそこまでの思いをさせてしまった責任も感じているんです」

 紡木の言葉に、陽菜は首を横に振った。

「あなたは全く悪くない。それは間違いよ。紡木さんは作家さんと真剣に向き合ってやってきている。それは誰もが知っているし、だから私は今回のことをそう簡単に許せないの」

「本当にすみません。紡木さんには良くして頂いています。僕の一時的な気の迷いです」

「もう分かりましたから。頭を上げてください、戌亥さん。森さんも、私の為に怒っていただくのは嬉しいのですが、担当者の私に免じてもう許してやってくれませんか」

 紡木まで陽菜に頭を下げ謝っていた。そうなると振り上げた拳を下ろさざるをえない。

「しかたがないわね。でも甘いよ、紡木さんは」

 と呟いてソファに背を預け、もう知らないから勝手にやってとばかりの態度をとった。悪者役はここで終わらせるためだ。陽菜の様子を見て、紡木は彼を立ち上がらせてソファに座るよう促し、正面で向き合い告げた。

「先ほど言いましたように、今回は水に流しましょう。支店長の真鍋にもそう報告しておきますので、引き続き私が戌亥さんの担当をさせていただきます。それでよろしいですね」

 真鍋の名を聞いて彼は顔をこわばらせたが、コクンコクンと首を縦に振って言った。

「よろしくお願いします。今後は絶対裏切りませんから」

「じゃあ、まだうちと契約し続けるということでいいんですね。それなら一つだけ言っておきます。今後、担当でもない私にしつこく連絡してこないで下さいね。その約束を守れないようだったら、真鍋さんに言って契約自体の見直しをお願いすることにしますから」

 ドサクサにまぎれて陽菜がそう告げると、彼は背筋をしゃんと伸ばし、

「分かりました。もう二度とそんなことはしません」

 と約束したため、一気に気分が晴れた。自分にとって今回の訪問における目的の一つがこれで達成できたのだ。

「じゃあ、私からも一つ条件を出していいですか」

 紡木が遠慮がちにそう告げると、彼は目を剥いた。何を言い出すのかという驚愕の表情で見つめながら息を飲んでいた。

「簡単なことです。ちょっと協力してくれればいいんですよ。私達の営業活動にね」

「営業活動? 私達?」

 訝しんでいる彼に対し、二人は含み笑いで答えた。

「ええ。私や森さんに同行していただき、体験談などお話しして頂ければいいんですよ」

「よく分かりませんがそれで許して頂けるのなら、何でもします。よろしくお願いします」

 彼はそう言って再び頭を下げた。その様子を見て二人で顔を見合せて頷く。

「何でもしますと言いましたね。約束しましたよ。十軒、いや二十軒くらいは同行して頂くかもしれませんが、覚悟して下さい。しばらく執筆には影響が出るかも知れませんが」

「に、二十軒、ですか? どこへ連れて行こうとしているんですか?」

 予想以上の数だったのか、彼は慌てて頭を上げ二人の顔を交互に見た。

「だから言ったじゃないですか。営業活動だって」

 これは事前に真鍋とも打ち合わせをしていたことで、戌亥の態度にもよるが素直に謝るようなら首を切るより会社の為に動いて貰おうと結論付けられた、彼への制裁だ。

 その後二人は彼を連れ、佐藤も使ったリストを手に某会社と契約している作家や、どこにも所属していないが某会社も訪問しただろう作家の事務所や自宅を訪問し続けた。

 そして某会社と契約している作家さんや某会社が尋ねて来て話を聞いた、と少し乗り気になっていた作家達には、名前を伏せて戌亥による体験談を話して貰ったのだ。いかに悪質な会社が存在するかを説きながら、エージエント会社と契約している作家のフラットな視点からメリット、デメリットも説明させた。その上で

「紡ぎ家は誠実な会社です。よろしければ当社との契約を考えていただけませんか?」

 と、陽菜や紡木が切り出す方法で新規開拓の営業活動を一カ月だけ集中的に行ったのだ。

 その結果二人合計で三十二軒訪問し、その内五人の作家から仮契約書を頂くことに成功した。ちなみにその五人中三人が某会社と契約していた作家である。その数カ月後、某会社の大阪支店進出という計画が一旦白紙に戻った、という噂を耳にすることになるが、それはまた別の話となるのでここでは割愛しよう。

 年が明けた月の半ばに直川賞の候補作五作品が決定し、マスコミに対してリリースされた。もちろんその中には伊藤茂太の“彼方へ”と、MIKAの“あの冬の夜には”の二作品が入っていた。

 マスコミや文芸評論家たちの間では、三度目の候補に挙がった伊藤の“彼方へ”が本命とはいえないが、受賞作としては有力だと評されたのだ。その一方で初めてノミネートされたMIKAの“あの冬の夜には”も、主催会社の春夏秋冬社から出版された作品である。かつデビューも同社ということもあり、いきなりの受賞もあり得るのではと注目を浴びた。

 ただ本命は今回で五度目のノミネートとなる、時代小説作家の二坂にさか秋友あきともが書いた“虎徹こてつ”ではないかとの見方が圧倒的に多かった。幕末の志士たちを描いた“虎徹”は、後学の為に読了済みだったが、これまで二坂の出す作品は八割方読んだという紡木によると、過去の作品の中で最も完成度が高く、心震わせられた小説だという。

 他に挙がった候補作の中で未読のものもあったが、すでに五作品すべてを読んでいた紡木によると、文芸界の評判通り今回の受賞は残念ながら二坂で間違いないだろうという。真鍋や佐藤、伊藤の担当者の鳥越でさえそうかもしれないと口を揃えていた。

「せめて伊藤さんとダブル受賞にならないかな」

 真鍋の意見に鳥越は強く頷いていた。佐藤も伊藤の受賞があるとすれば、その可能性しかないのでは、という。元編集者で普段から多くの小説を読んでいる三人と、元来から本好きで自ら小説家にもなろうとしていた紡木とは違い、陽菜は読書習慣がほとんどない。 

 紡ぎ家に就職してから担当作家の書く作品や、真鍋達や他の作家達から読んでおいた方がいい、と勧められた作品を読むだけで精一杯だった。そのため候補作五作品の中で発表前に読んでいたのは、伊藤とMIKAの作品のみだ。

 その後は受賞作が発表されるまで二作品を読むのがやっとだった。そんな自分が直川賞の批評などできる訳もなく、この話題に関しては黙って聞き役に徹するしかない。

 だが候補作が発表され、伊藤とMIKAに対して各マスコミからの取材依頼で忙しくなると、そこからは陽菜の出番だ。過去の経験を生かし大いに力を発揮した。伊藤もMIKAも、普段からほとんどマスコミによる取材を受けてこなかった経緯がある。その為急に大量の取材を受けることには、二人とも抵抗があった。

 とはいえ候補作発表から受賞作発表までの約十日間が勝負だ。残念なことだが受賞作が発表されてしまえば、注目されるのはその作品だけに集中してしまう。そうなる前にノミネートされた作品をいかに宣伝し、多くの方に読んでもらうかの戦略が必要で、なるべく多くの方の目に触れ、関心を集めることが重要だった。

 そこでかつての主戦場だったテレビ業界や雑誌業界での顔を生かし、取材依頼のあった媒体の中で特に影響力の在るもの、または次作以降の作品を宣伝する場合に仕事が繋がりやすい相手先を優先的に選定し、作家にかかる精神的負担を最小限に抑える予定を組んだ。

 またそんな忙しい期間でさえ少しでも合間ができると戌亥を呼び出し、新規開拓工作に動いたことが、短期間で作家五人から仮契約書を結べたとも言える。

 直川賞候補作家の五人の内二人が名古屋の紡ぎ家との契約作家なのだから、他の作家にとってかなり魅力的で実力のある会社に映っただろう。こちらもそこを大きくアピールした。それだけ直川賞の存在が大きかったと思い知らされる機会でもあったのだ。

 MIKAに関しては、引き続き会社の宿泊施設で寝泊まりさせた。その上で、なるべくテレビや雑誌などのインタビュー取材には、会社の会議室を利用して移動せずに済ませたのだ。どうしてもラジオ出演などで出向かなければならない場合は紡木か真鍋、佐藤の三人の内二人でローテーションを組み、ボディーガードを兼ねて同行した。  

 この騒ぎに乗じて藤河がいつ動き出すか分からないため、彼の動向を引き続き調査会社に依頼してマークしてもらうなど、細心の注意は払っているらしい。そのおかげもあってか、それとも彼女による警告で諦めたのかは不明だが、彼の動きは完全に止まっていた。

 ちなみに彼女のプロフィールは、受賞しない限りは小人症であることを伏せ、著者近影やインタビュー時の写真、テレビ撮影においてはバストアップまでと決めた。障害や本名、過去の事件や施設にいたこと等は全て秘密にすることを了承する媒体にのみ取材許可を出した。よってサインなどは書くが、書店周りやサイン会を開くこともNGにしたのだ。

 逆に伊藤は今回をきっかけとして積極的に取材を受け、メディアへの露出度を一気に上げて、これまで全くと言っていいほどやらなかった書店周りなどの営業も始めた。おかげで鳥越は忙しく走り回ることとなったが、これまで控えていた分好評だったという。

 直川賞の発表当日、伊藤と鳥越は選考結果の連絡を待つため、支店ビル一階のバーを貸し切り、そこで待機することになった。例年通りならば、前もって事務局に伝えてある携帯に夕方の七時頃かかってくるらしい。選考から漏れれば“残念ながらこの度は”との言葉で逃したことが分かり、受賞ならば“おめでとうございます!”から話が始まるという。

 待機場所のバーには夕方の五時から集合し、そこには京川と真鍋、そして“彼方へ”を出版した担当編集者も同席した。陽菜も京川の強い要望で待っている人達の食事を用意する係として仕事を早めに切り上げさせられ、参加することになった。

 一方のMIKAは四階の宿泊室で紡木と佐藤の三人で待機していたが、行きがかり上支店ビルの部屋に泊まるきっかけを作った寺坂が、途中から駆け付け参加した。彼女は年末の騒動に関わることなく年明けまでカンヅメ状態で無事作品を書き上げ、今は最終のゲラを提出し終わり一段落ついたところだという。とは言っても作家は次々と作品を生み出さなければならない厳しい職業だ。案の定、佐藤には

「こんな場所に来ている時間が合ったら、次の作品のプロットでも考えていろ!」

 と怒られていたようだが、紡木とMIKAと二人でまあまあ、と宥めて待機メンバーの仲間入りを認めさせたという。

 出版社の編集担当者は賞の主宰者でもある春夏秋冬社の人間であるためか、待機の場には来ないで出版社側で朗報を待っていますとの連絡があったようだ。もし受賞したなら、某有名ホテルで行われるマスコミに対しての受賞コメントを行う会場で落ち合うことにし、落選となればそのまま残念会もせず今回は解散する、という話をしていた。

 だから紡木としては佐藤とMIKAの三人だけだと気まずいため、寺坂が同席してくれたことは大変ありがたかったようだ。またMIKAの件があるため警備上の問題から、直川賞候補作家が出たら新年会を兼ねて他の作家と集まる話は流れた。

 そしていよいよ、という時間になって事前に伝えてあった連絡先である鳥越のスマホが鳴った。通知相手が直川賞の事務局からだと分かり、彼女は伊藤にスマホを渡した。

「はい、伊藤です。はい、分かりました。いえいえ、わざわざありがとうございます」

 電話を受けとった彼女の言葉と表情からは、落選したことが陽菜達にも理解できた。だが電話を切った彼女は落ち込むこともなく、あっさりと

「今回も駄目でした。それはそうですね。そう簡単には受賞させてくれません」

 と笑っていたので、真鍋や京川達も特に慰めの言葉もかけず、

「じゃあ、次もまた候補に挙がることを祈願して乾杯!」

 と、盛大な残念会を開くことになった。伊藤は陽菜と早々に退散したが、京川と真鍋は担当編集者も巻き込み夜遅くまで飲み明かしたらしい。四階のMIKAの方にも同じく落選の連絡が入り、そこではささやかな残念会が開かれたという。結局直川賞は予想通り、二坂秋友の“虎徹”が受賞し、伊藤とのダブル受賞の夢は叶わなかった。

 だが伊藤とMIKAの作品も質が高かったと選考委員により評価されたことと、発表までの期間に宣伝した効果もあったのだろう。伊藤の“彼方へ”は重版に次ぐ重版により三十万部を発行するまでのヒット作となったのだ。さらにMIKAの“この冬の夜には”に至っては若い読者の支持を呼び、SNS等で読んで欲しい作品として広まったため、四十万部という大ヒットを飛ばした。

 販売冊数が増えるほど印税率が上がる契約を結んでいた二人の作品のおかげで、支店が得たエージエント料の業績は大きく伸びた。これには社長の京川が大いに喜び、支店の全担当者とスタッフにまで臨時ボーナスを出す、と言い出した時には驚いたものだ。

 今回の件でエージエントの収益が増えただけでなく、取材を受けたことによる収入もあり、また紡ぎ家の活躍が業界にも大きく広がった。その影響は本店にまで及び、新規に契約を結びたいという作家が急増したという。また支店でも新規開拓していた作家五人全員と本契約まで結ぶことができた他、新たにエージエント契約を結んだ作家がさらに増えた。

 しかし最も驚くべき大きな契約となったのは、今回直川賞を受賞した二坂秋友から、紡ぎ家とエージエント契約を結びたいとの連絡があり、それが成約したことだろう。

 二坂は京都在住だ。個人でやっていたが、これまで四度直川賞の候補に挙がる度にマスコミに騒ぎたてられ、うんざりしていたという。だが今までは候補止まりだったため、受賞を逃せば騒がしい波はすぐに引いて静かになり、何とか乗り切れたらしい。しかし今回は受賞したおかげで大変なことになった、と紡ぎ家に泣きついてきたのだ。

 二坂は以前から紡ぎ家の活躍、特にマスコミとの遣り取りを得意としている点に関心を寄せていたが、なかなかきっかけが掴めず個人で続けてきたという。しかしさすがに直川賞作家となれば世間は放って置かないため、一人では処理しきれないと観念したそうだ。 

 そこでまずは今回の受賞騒ぎによる取材攻勢の舵取りと、次作は是非うちで、いや当社で、とひっきりなしに依頼、訪問してくる各出版担当者の窓口をお願いしたいと相談された。支店としては大きな契約先を得たのだが、それはそれで大騒ぎとなったのだ。

「まずマスコミ対応が優先だから、そこは森さんにお願いしようか。だけど森さんだけでこの騒ぎが鎮静化するまでは全て担当できないだろうから、次作品に関しての出版社との窓口は紡木さんにやって貰おう。しばらくは二人体制でお願いできるかな。それでマスコミ対応が落ち着いてきたら、担当は紡木さんに一本化すればいい。同じ京都在住の戸田さんを担当しているし、やれるよね」

 真鍋にやれるよね、と言われた紡木は困っているようだった。陽菜もそうだが、ただでさえ自分達で新規開拓してきた作家達を担当することになるし、仕事量は相当増えている。 

 MIKAにだって今もどんどん仕事が舞い込んでいるため忙しいはずだ。

 だが陽菜と同様、真鍋は紡木の心配していることを汲み取っていた。

「もちろん今のままだと仕事量が増え過ぎて二人ともパンクしてしまう。開拓してきた作家や、新たに契約したいと言ってきた作家達やMIKAさんのこともあるからね。でももう少し我慢してくれないか。近い内に本社から一人増員する予定だから」

 それを聞いて思わず聞き返した。

「本当ですか。本社も今回の影響で契約作家数が増え、人手が必要だと聞いていますけど」

「それは新たに新卒も含めて採用枠を増やしているから大丈夫だ。本社は他の出版社に勤務経験のある人材がいて集めやすいから。紡木さんはMIKAさん,戌亥さん、寺坂さん、戸田さんの他にもう二人担当しているけど、その二人を佐藤さんに担当移行してもらえばいい。彼はいま六名に加えて今度戸森さんも担当してもらうことになるが、本来なら元編集者としてもっと多く担当してもいいくらいだからね。その分紡木さんは二坂さんと新規取引との作家を対応してくれればいい。増員の社員が来たらまた振り分けし直して、バランスを取るようにするよ。これは社長の京川さんも了承済みだから」

 その説明に安心したのか、紡木が頭を下げた。

「ありがとうございます。分かりました。やってみます」

「とりあえずは、しばらく二人でやってみよう。大丈夫だよ」

 そう声をかけると紡木は頷いた。その後二人で二坂の件は綿密に情報交換をしながら進めた。忙しくなったが遣り甲斐は十二分にある。それにこの会社はしっかりとしたバックアップ体制もあり、頑張った分だけの評価もしてくれるからやっていけるだろう、と紡木と共に陽菜も自信を持つことにした。

だが嬉しい悲鳴を上げながらも、忙しい毎日を過ごしていたため油断してしまったのだろう。MIKAの失踪から三カ月以上が経ち、そろそろ三月も終わり新年度が始まろうかという時期だった。費用もかかるためそろそろ藤河の監視をどうするか、と紡木が真鍋と相談し始めた時である。

 この時こちらから藤河に接触し、あらためて警告しておけば事件は起こらなかったかもしれない。だが多忙でありその判断を先送りにしてしまったのがいけなかった。後悔先に立たず、である。調査会社によるマークも長期に亘っていたことから緩んでいたのだろう。  

 お昼に入った時間帯だった。突然事務所のドアが開き、男が怒鳴りこんできたのだ。

「涼子を出せ! どこに隠している! ここで匿っていることは分かっているんだぞ!」

 その時事務所内ではスタッフも全員がいた。その中で男だけが興奮し、近くにいた若い男性スタッフの臼田に、掴み掛らんばかりの勢いで部屋の中央まで入ってきたのだ。

 このビルはセキュリティーがしっかりしているはずだが、男がどうやってこの部屋まで辿り着いたのかは後で判明した。昼食時だったため出前を頼んでいたスタッフが、店員の背後にいたこの男の存在を確認せず、そのままビルに入れてしまったらしい。

 出前を持ってきた店員が気づき、注意しようとしたがそれを振り切って二階の事務所に向かって階段を駆け上がったのだという。乱入してきた男が誰だか一瞬分からなかったが、涼子という言葉を聞いて思い出した。この男こそがMIKAの実父と名乗り、ストーカーまがいのことをしていたあの藤河である。そのことに佐藤も気づいたようだ。

「お前、藤河だな! 許可も無く勝手にこの事務所へ入ってくるんじゃない! 不法侵入だ。警察を呼ぶぞ! おい、誰か一一〇番しろ!」

 紡木が咄嗟に電話を取り、警察に連絡をした。

「ふざけんな、てめえ! 早く涼子を出せ!」

 臼田から佐藤に標的を変えた藤河は、彼の胸倉を掴んですごんだ。しかし藤河より背が高い彼は怯まず見下す形で睨み返した。

「こちらはお前に用はない。今警察を呼んでいるから、以前にお前がやったストーカー行為についても被害届を出して、刑務所に放り込んでやる」

「なんだと!」

 藤河は右手を上げ、今にも殴りそうになった。

「きゃあ!」

 女性スタッフや鳥越達が悲鳴を上げる。だがそれでも怯まない佐藤を見て、藤河は彼の胸から手を離し、急に態度を変えた。

「頼む! そんなこと言わないでくれ。私は涼子の実の父親だ。疑うのならDNA鑑定でも何でもしてくれたらいい。私は涼子に会って、一言詫びたいだけだ。ただそれだけだよ。頼むから会わせてくれ!」

 最後の方には涙ぐみ、床に座り込んで土下座までして懇願し始めたのだ。しかし佐藤はしゃがみ込んで藤河と視線を合し、冷静に質問した。

「ほう。じゃあ聞くが、あんたが彼女を自分の子だと思ったのはいつだ。答えてみろ」

 藤河は彼から目を逸らし、どう答えればいいのかを懸命に考えているようで沈黙した。

「黙っていたら分からないだろ。さあ、お引き取り願おうか。そうしないと警察に連れていかれるだけだぞ。彼女から“これ以上付きまとうなら、警察にストーカー行為だと通報します。加えてそちらの会社の上司にも宛てて、困っている旨やあなたのしてきた過去のことも詳しく書いて報告します”という文書が内容証明で送られているはずだ。今捕まれば間違いなく接近禁止命令が出て、二度と涼子に近づくことはできないぞ」

 彼の言葉に驚いた藤河は、それは困ると首を振って言った。

「あの事件だ。涼子の兄が家に火をつけて母親も死んだ、あの事件がニュースで流れて初めて涼子の存在を知ったよ。それまで私は全く知らなかった。あの子の母親とは涼子が生まれる前に別れていたから、彼女は私にも家族にもずっと黙っていたらしい」

「今は独身でも当時あんたには家族がいた。不倫していたことを認めるんだな」

 藤河は渋々ながらも首を縦に振った。そこで彼は問い質した。

「じゃあ聞くがなぜこの二十八年もの間名乗り出もせず、涼子を放置しておいた? 自分の子だと知ったなら、あの事件後に彼女がどんな目に合ったか知っているだろ。周りの親戚全てが障害のある彼女の引き取りを拒否した。だから施設に入れられたんだ。どうしてあんたは引き取らなかった。いや名乗り出もせず何故援助すらしなかった。大手保険会社に勤務していて高給取りだったあんたなら、認知するなりできただろ。そんなこともしないでずっと放置してきた奴が、なぜ今頃になって名乗り出た。おかしいだろ」

「そ、それは、」

 言葉を濁らせて答えあぐねる藤河だったが、それでも彼は容赦しなかった。

「あんたが転勤を機に涼子の母親と別れた後も女遊びを続け、離婚したことも涼子と同じ障害児の子供がいたことも知っている。数年前に妻や子供に対する養育費の支払いが済み、今度はギャンブルや株に手を出して金に困っていることも、だ。しかしそんなあんたは借金で首が回らなくなった時、涼子のことを思い出して調べたんじゃないのか。そしたらいつの間にか小説家になって成功し、金を持っていそうだと知って近づこうとしたんだろ。親として名乗り出て金を無心しようと、な」

 過去を調べ上げられ、また涼子に近づこうとした目論見さえも読まれた藤河は完全に言葉を失い、顔を真っ赤にして唸るような声しか出せない様子だ。

「だがそんなことはさせん。まず本人が拒否している。親子関係なんか証明できる訳ないだろ。そのことは伝えているよな。今後あんたは近づくなって。近づいたら警察に通報し、あんたのしてきた事を会社に言い付けるって。だがもう遅い。こんな所まで勝手に入ってきたんだから、諦めてさっさと警察に捕まりな」

 その言葉にこれまで我慢していた怒りが爆発したようだ。藤河は急に立ち上がって怒鳴り出し、同時に立ち上がった佐藤に対して拳を振り上げた。

「若造が、黙れ!」

 藤河のパンチが彼の頬を捉えた。

「きゃあ!」

 女性達が再び叫んだ。だが、佐藤は笑っていた。

「ほう。とうとう殴ったな。さあ、これで不法侵入だけじゃなく俺に対する暴行、傷害罪も加わったぞ。恐喝罪もあるから執行猶予無しの懲役刑は確定かな」

「ふ、ふざけんな!」

 さらに藤河の拳が再度彼の顔面を捉える。興奮している藤河の赤ら顔を見る限り、もしかするとお酒が入っているのかもしれないと思った。警察への通報を終えていた紡木が助けに入ろうと席を立ったが、真鍋が彼らに近づけないよう制止していた。

 だが相手は六十一歳とはいえ、これ以上タガがはずれた相手に殴られ続ければ彼の身が危ない。もしかすると単なる怪我では済まない場合だってある。

 しかし当の本人は、口から血をにじませながらも平気な顔をして藤河を睨み続けていた。

「おい、どうした。もう逃げられんからな。絶対臭い飯を食わせてやる。そして二度と俺達に近づけないようにしてやるからな」

 挑発に乗った藤河は、今度は胸倉を掴んで彼の体に膝蹴りを入れた。

「やめろ!」

 これには真鍋も思わず大きな声を出したが、なぜか佐藤は倒れないように踏ん張り、片手で真鍋を遮る仕草をした。そこで彼がわざと殴られているのだと理解できた。彼は乗り込んできた藤河の行動を逆手に取ったのだ。

 ここで暴行の被害がはっきりすれば藤河の罪は重くなり、今後彼女に近づくことは困難になる。おそらく真鍋も彼の考えを汲み取り、様子を伺っていたに違いない。

 だが一方的にやられてばかりでは、警察が到着するまでに取り返しがつかないことが起こっては困る。再び紡木が駆け寄ろうとしたが、真鍋が邪魔で近づけないようだった。

「なんだ、その程度か。お前に絶対涼子は会わせん。二度と近づくことさえ許さんからな」

 倒れないどころか、藤河を見つめる目がさらに怒りを増して迫る彼に一瞬怯んだが、殴り始めた感情に歯止めはきかなかった。

「やかましい! お前は何様のつもりだ!」

 藤河は胸倉を掴んでいた手を離して両手で数回殴り、そして何度も蹴りを入れた。無抵抗を貫いていた彼もこれはさすがに堪えたようで、その場に倒れ込んだ。

「やめろ!」

 倒れた彼に覆いかぶさって、さらに殴りかかろうとする藤河を止めようと真鍋が叫んだ。その離れた一瞬の隙をつき、紡木が素早く藤河達のいる場所に駆け寄ると、閃光一発、右足での蹴りを藤河の鳩尾みぞおちに見舞った。

「ゲフッ!」

 と、一言発した藤河は仰け反って倒れ、そのまま気絶した。泡を吹いて横たわっている男を平然と見下し、佐藤に手を貸している紡木の様子を見ていた鳥越は茫然としている。だが空手有段者の紡木にとって、無防備な相手に魂心の一発を見舞ったのだ。これ位は造作もないことだったのだろう。

 それに最初から紡木が藤河の相手をしていれば、簡単に彼を追い出すことはできたはずだ。そのことは佐藤や真鍋だって分かっていたはずである。それでも彼らは今後のMIKAのことを考え、興奮している相手を見て佐藤はワザと殴られる役を買って出たのだ。

「大丈夫ですか、佐藤さん」

 全員で駆け寄って見た彼の顔は、赤く腫れ上がっていた。

「お、俺は、だ、大丈夫だが、紡木、馬鹿野郎。これじゃあ、」

 彼の言葉を遮り、紡木は答えた。

「もう大丈夫ですよ、佐藤さん。これだけ一方的に殴られていれば、十分な罪に問えます。事務所内の防犯カメラに今の場面はしっかり写っているでしょうから。私は一発しか蹴っていませんし、十分正当防衛の範囲です。ただ佐藤さんは無茶しすぎです。あれ以上殴られていたら、ただの怪我じゃ済まなかったかもしれません。打ち所が悪ければ人は簡単に死にますし、拳が目に当たったりしたら失明もしかねませんよ。甘く見すぎです」

 彼に説教し始めた。保険知識もそうだが、空手三段の紡木にとって人を殴ることの知識はここにいる誰よりも持っている。本社にいた頃彼はその事を知らず紡木につっかかり、鳩尾に肘打ちを一発食らって悶絶したという話を耳にしたことがあった。だからその腕前は身に染みているはずだ。

「ああ、そうだった。そっちは紡木の専門分野だったな。だがお前が最初から出て来ていたら、余計厄介なことになりかねない。だから俺が出たんだろ」

 佐藤は痛む体をさすりながら体を起こし、紡木が手助けしながら言った。

「ええ。そう仕向けたんですよね」

「え? わざと殴られっぱなしになっていたんですか?」

 彼らの意図を気付いていなかった鳥越達が驚いている時に内線がかかり、臼田が真っ先に出た。警察が到着したようだ。ロックされた入口の扉を解除して警官達を中に入れます、と真鍋に報告を入れていた。

 部屋に到着した彼らは、気を失い倒れている藤河を見て驚いていたが、真鍋が丁寧に説明して室内の防犯カメラにも藤河が部屋に侵入してきてからのやり取りは、一部始終映っているはずなので確認して下さい、と告げた。

 藤河が事務所に侵入した直後から、真鍋は自分の席にある非常用ボタンを押し、防犯カメラが部屋全体を映すように切り替えていたという。そのことを説明して実際に録画されていた映像を再生して見せると、警官達もようやく事の成り行きを理解したようだ。

 警官の一人がまだ横たわっている藤河の体を起こし、背中に膝を当てて気を入れると、彼はようやく目を覚ました。そして再度騒ぎたてようとしたが目の前にいる警官の姿を見て急に大人しくなり、そのまま連行されて行った。

 その後は何人かの警察関係者がビルを出入りし、今回起きた騒ぎの発端や経緯の説明の為に、責任者である真鍋と最後に蹴りを入れた紡木、そして暴行された被害者である佐藤達は警察で事情聴取を受け、調書にサインしたという。

 佐藤は病院で怪我の治療を受け、診断書を貰って暴行による被害届を出し、真鍋は会社へ不法侵入された被害届を、紡木はMIKAを伴ってこれまでにあった出来事を元に彼女へのストーカー行為における被害届を出した。その後藤河はその他にも様々な法に触れることを行っていたことが明るみにされ、複数の罪状により逮捕された。

 MIKAの件も含め、藤河に関する事件の全ての窓口になった紡ぎ家の顧問弁護士によると、少なくとも藤河が実刑を免れることはできず、数年は出てこられないだろうと説明を受けた。そして彼女に対する接近禁止命令も下されるだろうとのことだった。

 後になぜ藤河があのような暴挙に出たかの理由が分かった。彼はちょうどこの年度末を持って会社から退職を迫られていたようだ。会社の金も着服し、闇金を含めて複数から借金取りが会社にも押しかけるようになり、頼れる先はMIKAしかいなかったらしい。

 だが彼女からは拒絶され、近づけば警察に訴えるとまで言われたおかげで、調査会社に払う費用の目処も立たなくなり調査を打ち切り、途方に暮れていたという。そこで酒におぼれ、最後にはエージエント窓口の会社にいるとどこからかで知り、乗り込んできたのだという。大胆で無計画な行動だが、そこまで彼は追い詰められていたようだ。

 藤河の逮捕を受け、ようやくMIKAは住んでいた家に戻ったが、今後のことも考えて、今まで以上にセキュリティーのしっかりしたマンションを探し、移り住むことになった。  

 家賃は当然高くなったが、直川賞候補作がヒットしたことで注目されただけではない。藤河が逮捕された事件のおかげで、それまで隠していた小人症の障害のことや過去の事件についても公表されてしまったのだ。その為マスコミに追われる日々が続いたからである。

 ただ世間は彼女に同情的で、幼くして悲劇に巻き込まれ小人症という障害を乗り越えて作家になったことが、逆に称賛されて人気となった。次に出した作品も順調に売れ行きが伸び、生活における経済的な負担の心配をする必要が無いほどの売れっ子に成長した。

 余談だがMIKAの出現により、重鎮の倉田真冬が持っていた最も小さい作家という称号は彼女の物となり、伊藤さんの使っていた二番目に背の低い作家というキャッチフレーズも自然消滅したことは言うまでもない。

 新年度に入り、戌亥の騒動を利用して新たに契約獲得した作家が六名、また二坂のように直川賞候補発表後の効果によって紡ぎ家の評判が高まったことで、新たに契約したいと申し出てくれた作家が他に二名、と大幅に担当作家が増えた。その対策として、約束通り本社から松宮という中堅出版社の元編集者が増員としてやってきたのだ。

 彼は三年前、紡ぎ家の東京本社に転職してきた四十歳という編集経験も豊富な人で、子供一人と奥さんの三人揃って名古屋に異動してきた。

「前の田端さんと同じで人当たりは良い人ですよ」

 陽菜は初対面だったが、紡木は本社時代に顔見知りだったらしい。彼が異動の挨拶をしていた時、興味深げだったように見えたらしく教えてくれた。だが思わず愚痴った。

「ああ、そうかもね。でも彼、既婚で子持ちだってさ。いい男はなかなか来ないものね」

「勘弁して下さいよ。せっかく来てくれた大事な戦力なんですから、喧嘩しないで下さいね。雰囲気が悪くなっちゃうじゃないですか。それに独身の男性がご希望でしたら、そう言う人を寄こして貰うよう、真鍋さんと二人で本社へ進言しても良かったんですけど」

 出資者の真鍋と紡木が要望すれば通ると冗談っぽく言うので、言い返してやった。

「そんな事言えるはずないじゃない。松宮さん以外ここにいる全員が独身でしょうが。それに喧嘩しないでなんてどの口が言うかな。佐藤さんが来て思いっきり社内の雰囲気を悪くしたのは、どこのどなたさんでしたっけ」

 陽菜の言い分が最もだと思ったのか、紡木は舌をぺろりと出して自分の席に戻った。

 しかし田端と戸森の事件以降、佐藤が一時的でなく正式に支店への配属が決まりそうだと聞いた時にはぞっとしたと言っていた紡木だったが、藤河の一件以来彼のことを見直したようで、二人の関係は前よりもずっと良くなっている。

 それにあの失踪事件以来ずっと持ち続けてきた疑問を晴らすためにも、陽菜は一度紡木と佐藤を交えて話をしなければならないことを思い出していた。

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