第八章:MIKAの行方と失踪の裏側

 加奈子の死の翌日ではあったが、真純達は五時過ぎから会議室に集まっていた。いよいよ直川賞の連絡が入る日だ。予想外の出来事が起こり落ち着かない状況の中で、他の業務の打ち合わせを兼ねながら内心はドキドキが止まらずにいた。

 そんな時、鳥越の持っていたスマホが震えだした。マナーモードにしていたため、振動音だけが聞こえる。

「おい、かかってきたか?」

 佐藤が反応し、会議室に緊張感が走った。時間は七時少し前だ。彼女は周りを見て、皆が頷いたのを確認してから電話に出た。

「はい、紡ぎ家の鳥越です。はい、いつもお世話になっています。春夏秋冬社の浜口さん。はい。伊藤茂太さんの担当です。はい。直川賞の候補に! ありがとうございます! すぐ本人に確認を取りまして、折り返し連絡をさせていただきます!」

 聞き耳を立てていたので電話の内容を理解した全員が、一斉に歓声を上げた。そこで自分のスマホが真鍋の前に置かれたままであることに気づいて手に取ろうとした時、こちらも振動音が鳴りだした。ビクッとしながら慌てて電話に出て耳に当てる。

「はい。株式会社紡ぎ家の紡木です」

「お忙しいところすみません。春夏秋冬社の池下いけしたです。今よろしいですか」

 彼女はMIKAがこの秋に出版した“あの冬の夜には”の編集担当者だ。先方の声が弾んでいる。緊張で喉が渇き思わず唾を飲み込み、声が震えた。

「は、はい。大丈夫です。何でしょうか」

「やりましたよ! MIKA先生の“あの冬の夜には”が今度の直川賞にノミネートされました! 今日の選考会で決まりましたよ! 私も先ほど聞いたばかりですが、候補作として年明けにマスコミ発表することになります。お受けいただけるかという確認の電話ですが、よろしいですか」

「は、はい、ありがとうございます! ただ一応、私の方でMIKAさん本人に確認を取らなければいけないので少しお時間をいただけますか。実は少し事情がありまして、彼女は今連絡が付きにくい所にいるものですから」

 事前に考えていた想定問答を頭に浮かべて答えると、池下は訝しげに尋ねてきた。

「連絡が付きにくい、ですか。どこか遠くにでも取材に行かれたのですか」

「まあ、そんなところです。ただなるべく早く連絡をつけて折り返しご連絡するようにしますから。ちなみにお聞きしますが、いつまでにご返答すればよろしいですか」

「え? いや、ちょっと待って下さい。お受けいただけますよね?」

「杓子定規な回答で申し訳ないですが、あくまで私はエージエントとして窓口になっているだけですので、本人に確認を取った上でないと勝手にお答えする訳にはいきません。もちろんそちらの事情も承知していますので、早急に連絡を取ります。ただ最低でもいつまでに、という期限を教えていただけたらと思いまして。勝手なことを言ってすみません」

 連絡がつかないと悟られないよう詳しく聞かれる前に、早口で一方的に言い分を告げた。

「ああ、そうですか。まあ、そうですね。ちょっとお待ち下さい。私も担当作家が候補作に挙がったのが初めてなので、その後の流れを良く知らないものですから確認します」

 池下が上司か直川賞の選考に関わる担当者の元へ尋ねるためだろう。保留音が鳴り始めた。ふう、とそこで息を吐いた。緊張でどっと体中から汗が吹き出して体が熱くなり、ハンドタオルで濡れた額を拭く。

 その様子を見た真鍋が、心配そうに声をかけてくれた。

「どうした?」

 鳥越は一旦電話を切り、伊藤に確認の電話をかけるため会議室を出ていった。残った三人の目が真純へ集中している。伊藤と同じく直川賞にノミネートされたが、こちらは素直に喜びの声を出せずにいた。

 当然真純も胸の中に渦巻く複雑な思いがあり、普通なら先程以上に歓喜の声を出してガッツポーズを取っていたことだろう。しかも伊藤とは違い、MIKAは今回初めて候補作に挙がったのだから当然だ。

 受賞せずとも今後は今まで以上に、いや比較にならないほどの注目を浴びることになる。そうなれば今まで出してきた作品の売り上げにも大きく影響が出るため、会社としても担当者としても大歓迎すべきはずなのだ。

 しかしそう単純にはいかないかもしれない。MIKAの事情を考えれば、目先の利益に飛びつくより問題を解決せねば、先へは進めないのだ。

「大丈夫です。いま、どれだけ返答に時間をいただけるか、確認を取ってもらっています。担当の池下さんも初めての経験らしくて、良く分っていないようなので」

 保留されたままだが、先方に漏れないよう携帯を手で押さえながら真鍋に小声で答えた。

「そうか。ノミネートされたか。良かった」

 佐藤がぽつりと呟き、しみじみとその喜びを味わっていた。出版社時代に彼女のデビューから数年間関わってきた、彼なりの感慨もあるのだろう。今は自分の担当で無くても、思うことは多いはずだ。

 全員が席から一斉に立ち上がっていたが、彼が坐りだしたのを機に森も真鍋もソファに腰かけ直した。真純もそのまま腰を下した。会議室のドアが開き、一度外に出ていた鳥越が再び入ってくる。手にはスマホを握ったまま声をかけた。

「真鍋さん、すみません。伊藤さんが電話を代わって欲しいそうです」

「え? ノミネートは受諾してくれるよね?」

 心配そうに聞き返したが、彼女は苦笑した。

「もちろんです。ただ真鍋さんにもお礼を言いたいそうです」

「そういうことか」

 伊藤にとって彼は彼女の前担当者でもあるからだ。そのため席を立ってスマホを受けとると会議室を出ていった。

 入れ替わりに会議室に入り、部屋にある外線電話の受話器を取った。伊藤と真鍋が話している間に、外線で春夏秋冬社へ受諾の連絡をするためだ。担当者に繋いで受諾の旨を伝えたところ、その後の段取りの説明を受けているらしくしばらく会話が続いていた。

 その間も真純の持つスマホから聞こえる保留音は鳴り続いている。確認に時間がかかっているのか先方で揉めているのかは不明だが、どうすることもできない。

 心臓がバクバクと脈を打ち、頭痛がひどく体もだるくなる。ストレスという目に見えない化け物が肩の上に乗り、胸を鷲掴みにして握りしめ、頭や体を締め付けているようだ。

 電話が終えた鳥越は正面の席に座って横にいる佐藤に小声でどうなっているかを聞いていた。そこでMIKAも候補として選ばれたことを知り小さくガッツポーズを取ったが、彼女もまた状況が単純でないことを理解している。その為他の二人同様じっと真純の方を心配そうに見つめていた。

 しばらくすると保留音が止み、池下の声が聞こえた。

「お待たせしました。上に確認しましたが、年明けの発表までに段取りもあるので、明日中にはご連絡頂きたいとのことです。ただ連絡が付きにくいご事情もおありなので、最大明々後日までは待ちますとのことです。ただそれまでにご返答頂けないようでしたら、こちらとしましてはノミネートを辞退されたと判断します。それでもよろしいですか」

 池下の声が先程とは違い感情の冷めた、静かな怒りを押し殺しているように聞こえた。

「はい。もちろんです。出来るだけ早くご連絡いたしますので、それまでお待ちいただきますか。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。では失礼します」

 ようやく電話を切って深く息を吸い込んで酸素を取り込み、ゆっくり大きく吐いて気持ちを落ち着かせた。その様子を見ていた佐藤が我慢しきれずにせっついてきた。

「いつまで待つって?」

「できれば明日中、最悪でも明々後日まで。返答が無ければ辞退と判断するそうです」

「こっちには最大三日と答えるだろうな。他に辞退者が出れば変わるが、実際にはもう二、三日の余裕があるはずだ。本当の締め切りは隠しておくものだから」

 原稿の締め切りでも、出版社側の編集者は実際より早く期限を伝えてくるものだ。佐藤は以前、最大でも一週間しか猶予はないと言っていた。だから先方がそれより早い期限を伝えてくるだろうことは予想していた。

「とは言っても出来るだけ早く回答した方がいい。あれから連絡はないのか。真鍋さんの言った通り、直川賞にノミネートされたら辞退するというメールを送ったんだろ。返信はないのか」

「ありません。でも実際に連絡が来たからには行動に移すしかありません」

「どういう意味だ?」

 彼が首を傾げた。その問いには答えず真鍋の姿を探したが、まだ伊藤との話が長引いているらしく、会議室には戻ってきていなかった。しかたがない。まずは一人で確認しに行こうと席を立ち、隣にいる森に対して告げた。

「ちょっと席をはずします。真鍋さんが戻ってきたら四階に行った、と伝えて下さい」

「こんな時に何をしに行くんだ。おい、無視するな。答えろ」

 佐藤が部屋を出た真純の後を追いかけてきた。そこでちょうど話を終えた真鍋とばったり向き合う。

「できれば明日、遅くとも明々後日までには、MIKAさんが直川賞のノミネートを承諾するか確認をして欲しい、とのことでした。ですから上に行ってきます」

 その意図を理解した彼は頷いた後、真純の背後にいた佐藤に向って指示を飛ばした。

「俺も一緒に行こう。佐藤さん達は会議室で先に打ち合わせをしておいてくれ。鳥越さんと三人で伊藤さんに対する今後のフォローをどうするか、年明けの発表までにやること、その後に何ができるか、何をどこまで準備するかを確認しておいて欲しい。佐藤さんは直川賞に関して詳しいし、森さんはマスコミ関係を含めた営業戦略に長けているから、二人で鳥越さんにアドバイスをしてやってくれ。鳥越さんは全ての事が初めてだろうから頼んだよ。後で私達も合流する。あとこのスマホ、鳥越さんに返しておいてくれ」

 佐藤は立ち止って彼から鳥越の携帯を受取り何か言いかけていたが、真純と真鍋は背を向けて早足に事務所の出口へ向かったため、諦めたらしくそのまま会議室に戻っていった。

 廊下に出た二人は階段を使って四階の部屋を目指した。一歩一歩登りながら、真鍋に春夏秋冬社の池下と話した内容とその反応を改めて報告する。彼は真剣な表情で頷いていたが、聞き終わると真純の肩を叩いて微笑んだ。

「まずはおめでとう。“あの冬の夜には”は、本当にいい作品だ。紡木さんもかなり協力していただろう。編集等に関しては基本的に出版社側へ任せた契約だったけど、彼女にアドバイスを求められて色々資料を調達したり、取材にも同行したりしていたからな。だからあの作品が評価されたことを、いまは素直に喜んでいいんじゃないか」

「はい。もちろん嬉しいです。本当に良かった。彼女の才能と努力が評価されるまでになったんですよね。やっとここまで辿り着いたって感じです。良かった。本当に」

 これまでの複雑な思いを横に置き、純粋な気持ちでノミネートされた事実をあらためて噛みしめると、心から喜びがどんどんと湧き溢れて涙が流れ、頬を伝った。   

 だがそこでまた現実に引き戻される。大変素晴らしいことなのに、辞退することも覚悟しておかなければという考えが頭をよぎってしまい、どうしても喜びが半減してしまう。

 涙を拭って大きく息を吸い、そして息を吐いた真純の顔を彼が心配そうに覗きこんだ。

「大丈夫か。素直に喜べないのは理解できる。厄介な案件を取り除かない限り安心出来ないのは当然だ。でもこれまでやってきたことが決して無駄では無かったことに間違いはない。その自信だけは持っておけ。その後の事はこれから考えよう」

「はい。分かりました。まずは確認をしてからですね。私達の推理が間違っていないか。そして当たっていれば、きっちり会って話し合わないといけないですからね」

「ああ、ただ間違っていたら一から考え直しだ」

 彼はわざと茶化しながら笑った。しかし真純は笑えなかった。

「今日、出入りしている様子は無かったと思っていいですよね」

「大丈夫だ。さっき伊藤さんと電話で話し終わってから、防犯カメラの映像も出入りした記録も再チエックしたが、変ったことはない」

「だから長い間席をはずしていたのですか」

「ああ、彼女にもノミネートの連絡が入ったからね。打ち合わせ中、全員席をはずしていたから、その間に出ていかれていたら困ると思って、念のため確認した」

「さすがです。だったら大丈夫だと思います」

「そうだな。そう信じよう」

 階段を四階まで登り切った二人は、自分達も住んでいる宿泊施設のある階の廊下を歩きだした。この階の奥には京川の部屋や真鍋と真純の住居としての区画もある。

 ただ会社と契約している作家達がカンヅメで使用したり、打ち合わせの為に泊まったりする部屋とは区別されており、簡単には行き来できなくなっていた。社員達の住む区画に入るには、個別のセキュリティーキーが必要なのだ。

 しかし社員側の部屋から作家達が使用する部屋には訪問できる。ただし作家が在室する部屋を尋ねる時、基本的には少なくとも二人以上で行くことがルールだった。なぜなら相手が女性作家だったりすると、担当者といえども夜遅く男性一人で訪問した場合、トラブルが起こることもあり得るからだ。逆もまたしかりである。

 もちろん各部屋の前の廊下には防犯カメラが設置されており、万が一のことが起きた時、検証できるようにはなっている。それでも部屋に入ってしまえば分からない。そこで間違いが起こるような誤解をされないためにも、複数で訪問することが原則となっていた。

 よって稀にスタッフや社員が帰社した後で作家から呼び出しを受けた場合、このビルに住んでいる二人が連絡を取り合って一緒に訪問するのだ。

 出資者特権により安い家賃負担で住ませて貰っている分、そのような仕事も任されていた。どちらかがいない場合は、夜中だろうと京川に声をかけて対応してもらうことになる。

 だが作家側も余程のことが無い限り、遅い時間に呼び出したりすることはない。なぜなら下手をすると京川が来てしまう可能性もあるからだ。社長であり、しかも作家達にとって文芸界の大御所を夜中に呼びつけることなど、恐ろしくて出来るはずがない。

 真純達は作家達の使う宿泊施設のあるエリアに入り、四〇一号室のドアの前に立って呼び鈴を鳴らした。通常は作家が部屋にいる場合、訪問する前に内線電話をかけてから部屋に向かう旨を告げ呼び鈴を鳴らすのだが、今回だけは例外だ。

 いきなりの訪問に相手は驚いただろう。ドア越しにうっすらとドタバタ慌てる音が聞こえてくる。防音がしっかりされている部屋とはいえ、ドアの前に立てば少しの音は響く。

 しばらくして覗き穴から真純達を確認した作家が、インターホン越しに応答した。

「何ですか、事前の連絡も無しに部屋まで来るなんて。紡木さん、私のことはしばらく放っておいてくださいとお願いしたはずですが」

 寺坂が怒ったような声を出していたが、かまわずインターホン越しに返した。

「寺坂さんに用はありません。そこにMIKAさんがいるでしょう。先ほど彼女の作品が直川賞の候補作に選ばれたとの連絡がありましたので、急いで参りました。彼女と早急に打ち合わせをしたいのでここを開けてください」

 言葉に詰まった彼女はインターホンを切り、中でなにやら話し合う声がした。そこで二人の推測が確信に変わる。後ろに立っていた真鍋を見て、やはりいますねと小声で確認をした。彼も安心したかのような表情を浮かべ静かに頷いた。  

 そこでドアに向き直し、もう一度インターホンを鳴らした。

「MIKAさん、そこにいますよね。心配しましたよ。皆で探していました。早くここを開けてください。直川賞やあなたが調査して避けている人物の件についても、早急な打ち合わせが必要です。私達を信じて下さい。決して悪いようにはしませんから」

 こちらの真剣な問いかけに観念したのか、少し時間を置いてドアが内側から開けられた。項垂れた寺坂の大きな体が小さく見える。その後ろに小さなMIKAの姿を発見した。

 悲しそうな表情をしていたが、元気そうな彼女を見てようやく心底安堵することができた。ぼんやりと突っ立っている寺坂の脇を通り抜け、部屋の中に入り床に立て膝をついて、真純は彼女の顔を正面から見据えた。

「MIKAさん、“あの冬の夜には”が今度の直川賞にノミネートされましたよ。おめでとうございます。よかったですね」

 彼女の両手を掴んで握った。彼女は戸惑っていたが、続いて入ってきた真鍋の顔を見上げ、もう一度真純の顔を見つめた。目にうっすら涙を浮かべた彼女は小さな声で謝った。

「ご、ごめんなさい」

「いいんです。無事に会えて、直接報告できただけで私は嬉しいです」

 そう言うと彼女は真純の手を離してぎゅっと抱きついてきた。小さな腕が首に巻きついて、涙で濡れた頬が顔に当たる。真純も優しく彼女の背中に手を回し、軽くハグをした。そして耳元でもう一度言った。

「おめでとうございます。よかったですね」

「ありがとう。心配かけてごめんなさい」

「いいんです。いいんですよ」

 真純は何度も彼女の小さな背中をさすった。本当に子供のようだ。三十一歳だが小人症という生まれつきの障害を持った彼女の体は、まるで小学生の低学年程度の身長しかない。

 しかしこの体だったからこそ、寺坂と手を組んでこのようなトリックができたのだ。

「ところで寺坂さんはどこまで知っているのかな。一緒に話した方がいいのかい。それとも詳しいことは聞かされず彼女に協力しただけなら、別の部屋に移って話をするけど」

 真純とMIKAがハグしている間、真鍋が彼女に尋ねていた。

「いえ、私は手伝っただけで詳しいことは知りません。打ち合わせが必要なら私はいなくていいと思います」

「では別の部屋に移動しよう。ところで寺坂さんが執筆するというのは本当だよね」

「それは本当です! ちゃんと書いています!」

 寺坂は彼にそう答え、信じて欲しいと訴えるような目で真純を見つめていた。そこで立ち上がり、MIKAの手を引きながら声をかけた。

「では執筆の邪魔をすると悪いので、私達は出ます。引き続き頑張ってください。ただ体を壊さないよう無理はしないでくださいね。あとMIKAさんが直川賞の候補に挙がったことは、マスコミ発表まで絶対に誰にも言わないくださいね。お願いしますよ」

 彼女は大人しく頷き、真純達が部屋から出ていく姿を静かに見送ってくれた。

 今夜、作家用の宿泊室を使用しているのは寺坂だけだ。真鍋が事前に用意していたカードキーを取り出す。彼女がいた部屋から一つ空けた四〇三号室のドアを開けて入り、電気を点けた。その後を真純はMIKAの手を引きながらついて行く。

 四階の宿泊施設は一DK型が五室、さらに広い一LDK型が三室の計八室がある。作家達がいつでも使用できるよう準備しており、部屋の掃除やベッドメーキング、アメニティの補充などは業者によって定期的にメンテナンスされていた。会社としても作家達が快適に過ごせるよう配慮している。

 真鍋達が入った一DKの部屋も綺麗に整頓されていた。部屋の配置は入口のすぐ左側に簡易キッチンとトイレ、洗面所とお風呂があり、左奥の窓際には執筆時に使用できる大きな机と横に本棚が置かれている。窓際の右側にベッドがあり、その手前に椅子二脚と小さなテーブルを設置していた。

 まずMIKAをテーブルにある椅子へ座らせる。もう一つの椅子に真鍋を座らせようとしたが、彼が首を横に振ったため真純は腰を下ろした。彼は奥の机に置かれた椅子を引っ張り、テーブル近くへと移動させて座った。

 彼女は椅子に座ったまま俯いていたので、少し間をおいてから話しかけた。

「ところで、寺坂さんには何と言って手伝ってもらったんです?」

 肩をビクッとさせた彼女は、どう説明すればいいのか分からず困っているようでなかなか話しださない。その為こちらから想像していたことを口にした。

「寺坂さんがここの宿泊施設を使って執筆したいとSNSに書きこんでいるのを見て、ここに隠れる計画を立てた。違いますか?」

 彼女は顔を上げて目をまたたき、真純の顔を見た後、頷いてからまた下を向いた。

「だから今までそれ程親しくも無かった彼女に、ダイレクトメッセージを出すなりして交流を持った。そして彼女がここを使用する日にビルへ入る予定を早めなければならない事態が起こったのでしょう。そこでここに来るまでの約一週間は彼女の家かどこかに隠れていた。その間身を隠して生活する為必要な物は彼女に頼んで購入し、神戸の家から発送してこの宿泊室に届くよう手配したのではありませんか。そして自分自身は彼女の持つ大きなバッグの中に入って一緒にこのビルの宿泊室に入った。そうですね。あなたなら大きなバッグに入ることは可能だし、力のある彼女ならそれを持ち運ぶ事もできたでしょう」

 MIKAは俯いたまま何度も頷いた。しかしまだ何があったか、自分からは喋ろうとしない。どこまで真純達が気づいているのかが分からず、どこまで話せばいいのか躊躇しているように見えた。それならば、と話を続けた。 

「ここからプライベートな話になりますけど許して下さい。こちらでもMIKAさんと連絡が取れなくなったために、調査せざるを得ませんでした。あなたが頼んだ調査会社に連絡をして、こちらからも同じ依頼を出しました。そこから色々なことが分かったのですが、あなたはある人から逃げようとして今回の計画を思いついたのですね。その人は実の父親だと名乗ってあなたの身辺を探っていることを知り、その男が本当に自分の実の父親かどうかを調べた。名前は藤河保、元保険会社の社員だそうですね」

 彼女は跳ねるように頭を上げ、驚いた表情で真純の目を見つめた。構わず続きを喋った。

「父親である可能性が高いという報告書を見たあなたは、寺坂さんを通じて以前から計画していたことを行動に移そうとした。しかし予定より早かったので、すぐにはこの宿泊室へ入れない。でも身を隠そうとした場所の選択は正解でしたね。ここなら他の宿泊施設と違い、長期滞在していても内部のごく一部の人を除けば知られる心配はありませんし、外部の人が調べることも難しい。例え分かってもセキュリティーが厳しいこのビルに籠っていれば、外部から接触することはまず不可能です。食事は一階の定食屋に出前を頼めば運んでくれますし、ちょっとした買い物が必要になっても、彼女の協力があれば入手できますしね。それに私達もMIKAさんを守るお手伝いができますから」

 話を聞きながら見つめる彼女の目にはどんどんと涙が溜まる。そして溢れて頬を伝い流れだした。真純は自分が持っていたティッシュを取り出して彼女に手渡す。

「MIKAさんの生い立ちも改めて調べさせていただきました。火事でご両親を亡くし、お兄さんとも離れ離れになり、親戚の人達からも見放されてしまった。結果あなたは障害者が集まる養護施設で過ごされましたね。だけどそこで小説と出合い、物語を読んでいる内にその魅力に嵌って作家を志した。そして幸運なことにデビューできて今に至る訳ですが、直川賞にノミネートされるまでの作家にまで成長されたんですよ。すごいことです」

「そうです。それまで辛かったことが多かった私ですけど、小説家になった後はとても幸せでした。それなのに、それなのに」

 やっと口を開き始めたが、とても苦しそうに話す彼女を見ることは辛かった。それでもこの問題をはっきりさせ解決しなければ先には進めない。そこで心を鬼にして質問をした。

「そこで藤河という男が近づいてきたのですね。最初はあなたを探っている人がいることに気づき、さらにその男が接触してきて自分は父親だと名乗った、という話を聞きました。確認しますがどんな形で、どのような会話がそこでされたのですか」

「私はこんな体ですから、街を歩くと好奇な目で見る人達は少なくありません。長い間そういう経験をずっとしてきました。でもこの名古屋へ引っ越しをし、私のような障害者でも住みやすい環境を紡木さんに選んで頂いたおかげで、今まではとても快適でした」

 確かに真純が名古屋に異動が決まった際、担当変更を拒んだ彼女に根負けをした。ならば彼女がより住みやすく良い環境を選ぼうと時間をかけて調べ、今の住まいを決めたのだ。

 その際には周辺に同じような方もいる障害を持つ人達が暮らす施設の近くで、周辺住民の理解が深い場所を探した。そうすれば彼女が街を歩いていても、偏見を持った目で見られるストレスを少しでも軽減できると考えたからだ。

 そして今の物件の大家さんや周辺の方々は、想像以上に温かい人が多かった。引っ越しを終えてからも、しばらくは心配で何度か彼女の家を訪ねたが、行く度にこの街、この家、この部屋をとても気に入っている、と彼女が上機嫌に話すため安心していたのだ。

「でも一カ月以上前から今までに無かった妙な視線を感じるようになったので、すごく不思議でした。そこで周りの人のことを観察しはじめたら、怪しげな男の人がいることに気づいたのです。家の近くに良く行く美味しいパン屋さんがあるのですが、その近くでまたその男を見つけたので、一度お店の人にお願いして聞いて貰いました」

 彼女の説明によると、その店にいる若い男性店員は常連客である彼女の話を聞き、心配して店の中に避難させてから外にいる男に近づいたそうだ。どういうつもりで人のことを監視しているのか、警察を呼ぶぞと言ってくれたらしい。そんな勇気のある正義感を持った青年が今時いたのかと驚いた。彼女もまたとても感動したという。

 その青年の問いかけに驚いた男は、警察は困ると言って逃げ出そうとしたそうだ。それを阻止した彼は、何か身分を証明するものを出して彼女に近づく理由をいえば警察は呼ばないと交換条件を出したという。するとしぶしぶ藤河は名刺を出したらしい。   

 そこには誰もが知る大手の保険会社名が入っている関連会社の名前が書かれていた。しかも肩書が部長であったために驚いた彼は、何故近づくのかと聞いたところ、

「私は彼女の実の父親だ。理由があってこれまで名乗れなかったが、事情が変わって最近の彼女の活躍を知って名乗り出ようかと悩み、鈴元涼子を見守っていただけだよ」

 そんな秘密を打ち明けられたものだから、店の外で待つよう言い残した青年は、店の中にいた彼女に藤河が説明したことを告げ、どうしますかと尋ねたようだ。

 彼女はその話を耳にしてとても信じられなかったが同時に驚いたという。自分の父親は焼死したはずだ。しかし涼子という本名は世間に公表していない。その名を知る人はごく限られている。近所でも鈴元という名字すら一部の親しい方だけしか知らない。

 しかもこの近所で作家であることを知っている人はほとんどいないはずだ。近所の人はごく普通の小人症という障害を持つ、体の小さな大人という認識しかない。細々と内職をしながら、時々知り合いが訪ねてくる女性だとしか思っていないはずだった。ちなみに時々尋ねる知り合いというのは真純のことだ。

 なぜ男は自分の名を知り、かつ実の父親だと名乗るのか。その意図が判らず、私の父親は死んでいますと、彼女はパン屋の青年に告げたそうだ。そこで青年は怒り、もう一度問い詰めようと外に出たら、すでに男の姿は消えていたという。

 名刺は見せられただけで受け取っていなかった青年は、本物かどうか分からないと言った。しかし彼女は念のため名刺に書かれていた内容で覚えていることを紙に書いてもらうよう依頼してお礼を言い、後はこちらで対処しますと告げて店を出たらしい。

「それでその名前と名刺から得た情報で調査事務所に調べてもらったら、実在している人物だと分かった。さらに先方もMIKAさんのことを調査していて、実の父親だということもまんざら嘘ではないかもしれないという報告書を受け取った、ということですね」

「はい。そうです。でも最終報告書を受ける前に、私の周りを別の調査員が調べて監視しているようだという話は聞いていました。だからしばらく身を隠そうと考えていたんです。そんな時寺坂さんがカンヅメをしてでも書き上げたい作品があると呟いていたのを思い出し、ここの宿泊室なら安全だと思いついて協力して貰おうと考えたんです」

「それで彼女に連絡をつけて、了承して貰ったんだ。でも彼女にはなんと言ったんですか? それほど親しくなかったはずですよね」

「寺坂さんには遠い親戚の人がしつこく付きまとって来るので、しばらく身を隠したいから協力してもらえませんか、とお願いしました。ちょうど“あの冬の夜には”が発売されて、売り上げも順調で評判が良かった時期でしたから。それを知った人がお金目当てで近づいてきているんだけど、しばらく隠れていたら諦めるだろうと説明したら、喜んで協力すると言ってくれました」

 寺坂も新人賞を獲った時、貰った賞金目当てに近づいてきた人が何人かいたらしい。嫌な目にあったから、彼女の事も理解できたのだろう。バックに入って抜け出すトリックは、他の小説で読んだことがあったそうだ。

 彼女達の間では実際にやったら面白そうとか、宿泊室で一緒に過ごすのなら執筆で詰まることがあったらアドバイスを貰ってもいいかな、なんて話が盛り上がったという。寺坂にとっては少し冒険感覚というか、遊び感覚だったかもしれない。

「なるほど。彼女は少し能天気なところもあるから、ちょうど良かったのかもしれないですね。基本は真面目な性格で体育会系だから、正義感も強くて口も固そうだし。宿泊室の中ではどうしていました? 窮屈じゃなかったですか?」

「寺坂さんには狭く感じたかもしれませんけど、私は大丈夫でした。基本的にやることは自分の部屋にいる時と同じで、執筆して、食べて、寝て、トイレに行って、お風呂に入って、という単純な生活ですから。私は事前に持ち込んだお布団を床に敷いて寝て、起きている時はテーブルと椅子を使って、タブレットでプロットを書いたりしていました。食事は寺坂さんが一階のお店へ注文する時多めに頼んだり、事前に持ち込んだカップ麺とか即席麺やパスタ、パスタソースもありましたので、自分達で料理したりしていました。私は元々小食ですし、寺坂さんも見た目ほど食べないので、問題ありませんでした」

 少しずつ喋っている間に彼女の強張っていた口調が和らぎ、雑談に近い話をしたせいか緊張が徐々にほぐれてきたようだ。そのためそろそろ話を核心に近づけようとした。

「自分の家を出た時はどうやったの? 寺坂さんを呼んでバッグに入って家を出た?」

「いえ、それだと私がいなくなって騒がれた時に寺坂さんだと大きくて目立ちます。また身辺調査している人に見つかると思ったので、私が京都駅まで出て行きました。事前に打ち合わせしていたホテルの女子トイレで待ち合わせをして、個室でバッグの中に入ったのです。その後寺坂さんに運んで貰って彼女の家に匿って貰いました」

 大きなキャリーバックだと、人が入っている可能性があるとばれてしまいそうなので、わざと肩にかけられるバッグにしたらしい。しかも寺坂は神戸で一人暮らしをしている。尾行する調査員がいても、彼女達の取ったやり方ならそう簡単には見破れなかっただろう。

「身を隠す予定が早くなったのは、報告書の内容を読んだからですね」

「はい。ショックでした。両親は私が三歳の時に亡くなりましたからあまり覚えていませんが、母から暴力を受けていた記憶はうっすらと残っています。でもその程度でした。両親のことや私を見捨てた親戚の人達のことはどうでも良く、私は一人で生きていくのだと心の中で割り切っていましたから」

 あの事件を起こしたのが兄だと知ったのは、もう少し大きくなってからだという。妹の自分を助ける為に火事を起こしたとも、理解できるようになった。だから今どうしているのかと時々考えたりはしたようだ。

 しかし何か困って兄から名乗り出てこない限りは、今のままがいいと思っていると彼女は言った。だが実は父親が別にいたなんて、全く想像していなかったので驚いたのだろう。しかし実の父親でも碌な男じゃないと思ったので、関わらない方がいいと思ったそうだ。

「それは理解できます。でも何故それを私に相談せず、黙って姿を消したのですか」

 なるべく責めるような口調にならないよう気をつけて、淡々と疑問を口にした。だが途端に彼女の表情が固まり、口を真一文字に結んだ。それでも構わず質問を続けた。 

「その後も何度か連絡をくれるようメールしましたよね。時期からして直川賞のことが関係しているのではないかと思ってその旨も書きましたが、それは読んでいませんか?」

「読みました。本当にごめんなさい。何度も返信しようと思いましたが、できませんでした。心配をおかけして申し訳ございませんでした」

 彼女は小さな体を折り曲げ、深々と頭を下げた。だが謝って欲しいのではなく理由が知りたいのだ。彼女は自分をもっと信頼してくれていると思っていた。それは自惚れだったのか。こんな大事な事を相談されない自分は、彼女にとって一体どんな存在なのか。  

 そんな考えが頭をよぎったため、冷静な顔を保てなくなり、顔が歪んだ。

「もしかして紡木さんには詳しい嫌な過去を知られたくなかった、ってことかな」

 それまで黙って聞いていた真鍋が横から口を挟んだ。彼女はハッとした表情をし、そしてゆっくりと頷いた。その仕草に愕然として、我慢していた感情を吐き出して尋ねた。

「知られたくなかった? 何でも話し合ってやってきたと思っていたのに?」

「落ち着きなさい。信用していなかった訳じゃない。そうですよね」

 彼が真純を宥め、そう聞いた。彼女は強く頷いた。

「そうじゃないんだよ。信頼しているからこそ彼女は自分の過去を、こんな言い方は何だが恥ずかしい過去を知らたくなかった。なんとか姿を消している間に藤河を追い払おうと思った。そうだろ。それができれば、今まで通りの付き合いも続けられると考えたんだろう。でもそれは間違いです。私達の仕事はあなた達作家が執筆に専念できるよう万全な態勢を整え、邪魔なものを取り払う役目です。それを作家が担当者に気を使い、自分で厄介事を片付けようとするなんて、それこそ契約違反だ。かえって担当の紡木さんに失礼な行動だとは思わないかな。そう思いませんか」

 真鍋は彼女の行動を理解した上で、取った行動は誤りだと叱った。

「はい。申し訳ありませんでした。私の考えが浅はかでした。もし紡木さんが知ったらそれこそ必死になって、色々やって下さるじゃないですか。それが申し訳ないと思っちゃったんです。ごめんなさい」

 そう言って涙目で謝られたため、何にも言えなくなった。自分のことを思っての隠し事だった、と言われてしまえば許さない訳にはいかない。だから別のことを尋ねた。

「ではどうやって藤河を追い払おうとしていたのか、教えてください」

「はい。最初は私が一時的に姿を消せば諦めると軽く考えていました。でもそうじゃないと思ったのは、予定より早く身を隠して寺坂さんの家にいた頃、会社の周りに怪しげな人がまだうろついているという報告を調査会社の方からメールでいただいたものですから」

「調査会社と連絡を取っていたの?」

「はい。追加調査はしていませんが、何故かそんな連絡が来たので、不思議に思っていたんです。紡木さん達が調査会社に依頼したのはいつですか?」

「正式な依頼は、寺坂さんとあなたがこのビルに来た後です」

「メールが来たのは神戸にいる時です。だったら親切で教えてくれたのかも知れません」

「あの担当者、そんなこと一言も言ってなかったけど」

 思わず小さく舌打ちをして呟いた。

「でもそのことを知って身を隠すだけじゃなく、きちんと追い払わないといけないと思いました。そこであの男の勤め先は分かっていましたから、内容証明で手紙を送りました。寺坂さんと一緒に神戸から名古屋に向かう日です。寺坂さんに手伝ってもらって出しました」

「なんて書かれました?」

「これ以上付きまとうなら、警察にストーカー行為だと通報します。加えてそちらの会社の上司に困っている旨やあなたのしてきた過去も詳しく書いて報告します、と書きました」

「なるほど。ではすでに藤河はその内容を読んでいる訳ですね。それで相手がどうでるか、様子を見ていた」

「はい。そんなことをしている間に、紡木さんが探しているというメールをいただいたり、直川賞のことを書かれたメールが届いたりして、どのタイミングで出ていったらいいかと寺坂さんに相談したんです。そしたら本当に候補作として連絡があれば、紡木さんだったら勝手に辞退なんかしないと思うし、必ずもう一度メールを送ってくるはず。その時でいいのではという話になり、今まで出ていかなかったんです」

「じゃあ直川賞のタイミングはたまたまだったんですね」

「はい。候補に挙がるなんて、考えてもいませんでしたから」

「そう。じゃあ、これからどうするかをちゃんと打ち合わせをしましょう。まず候補作になったことは間違いありません。“あの冬の夜に”が、伊藤さんの作品と一緒にノミネートされたという連絡を、先ほど春夏秋冬社から受けました」

「伊藤さんも、ですか! “彼方へ”ですよね。私も読みましたけど凄かったです! 伊藤さんは確かこれで三回目ですよね。今度こそ獲れるんじゃないですか?」

 能天気にはしゃぐ彼女を制して言った。

「伊藤さんの件はいいんです。それは横に置いといて。まず候補作に挙がったということは、直川賞の選考に入るということです。そのことを了承されますか」

「喜んで! 受賞は無理だと思いますけど、ノミネートされただけでも夢みたいです!」

「良かった。安心しました。でも別の心配があります。もちろんまだ候補に挙がっただけですけど年明けに発表されれば、あなたの注目度はこれまで以上に上がるでしょう。ただでさえ、“この冬の夜には”の評判は高く、取材依頼もかなり来ていましたから。今まではその中でも厳選して写真や詳しいプロフィールは一切載せない、という条件に応じてくれる媒体だけに限って受けてきました。でも今後同じようにはいかないでしょう」

「はい。それは理解できます。これまで以上に注目されますよね」

「そうです。MIKAさんは年齢と出身地だけは公表して、後は本名、身長などプロフィールは不詳、ただ写真だけは胸から上だけのものを受賞時に著者近影として掲載して以降、出していません。もちろん障害に関しても春夏秋冬社でデビューした当初から取材をした人達にかん口令を引いてきました。でも今回のノミネートで、ある程度は公表していかなければならなくなるかもしれません。完全な覆面作家ではないので、今までも私の間ではその可能性が将来的にはあるという話をしてきました。そうですね」

「はい。ただなかなか思い切れず、これというきっかけを作れずに今までやってきましたけど、覚悟をしなければならない時が来たのですね」

「そうです。これを機にどこまでプロフィールをオープンにするか、どこまで取材を受け、そしてこれまでやってこなかった積極的な営業をこちらからやって行くかどうかを打ち合わせしなければいけません。それを年明けのマスコミ発表までに決めましょう。今日はその覚悟だけはしていただいて、後日お話ししたいと思います」

「分かりました。私もその打ち合わせまでに考えておきます」

「よろしくお願いします。あともう一点ですが、藤河という男の件はどうしますか? とりあえず引き続きMIKAさんにはここにいていただいてかまいません。寺坂さんと同じ部屋では無く、この四〇三号室を使っていただきます。あなたの言う通り、しばらく向こうの出方を見ることにしますか。それとも私達で藤河に合い、話をした方がいいですか」

「いえ、もうこちらの意向は伝えていますので、紡木さん達が動く必要はないと思います。これ以上会社に迷惑をかけたくありません。でもこちらの部屋を使っていいんですか?」

「かまいません。最初から私に言っていただければ、きちんと手続きしましたし、ここを使う権利も相当な理由もありますから。それにあなたが手紙を送ったことで、この件は向こう次第です。後は相手がどう返してくるかを見極めてから動くという考えも悪い方法では無いでしょう。会社が動くことで相手に付け入る隙を与えてしまう可能性もありますから。もちろん今まで通り藤河の監視は続けますが。どうですか、真鍋さん」

「俺も紡木さんの言う通りで良いと思う。MIKAさんが考えた行動は間違っていないと思う。俺達とも連絡がつかなくなったのは困ったけれど、今となってはこちらから慌てて動く必要も無い。後は言うまでもなく候補作になったことを、マスコミ発表があるまで絶対外部には漏らしてはいけないよ。いいですね」

「はい。それじゃあ、寺坂さんの部屋から自分の荷物を持ってこないといけませんね」

「そうですね。じゃあ、行きましょうか。しばらくはこの部屋でプロットを練るなり、どこまで自分の情報を出すかについて考えて置いてください。連絡はこの部屋に連絡するようにします。MIKAさんも何かあれば部屋の電話を使って、私の携帯にでも連絡してください。あと、マンションから運び出したいものがあればそれも言って下さいね」

「はい。そうします」

 真純達は一旦、四〇三号室を出て再び寺坂のいる部屋を訪問し、MIKAが別の部屋に移る旨を告げた。彼女も手伝ってくれ、MIKAの私物や彼女が用意したものを運び出し、再び部屋へ移す。それほど多くはなかったので、作業はすぐに終わった。

「それじゃあ、今日はゆっくりノミネートされた喜びをかみしめながら休んでください」

 そう声をかけて部屋を後にした。MIKAはにっこりと笑い、いつもの明るい彼女に戻っていたことが真純の心を軽くした。

 さてこれで懸案事項の一つは片付いた。まだまだ取り払わなければならない障害や解決せねばならない問題はいくつもあるが、一つ一つ潰していくしかない。

「紡木さん、さあ会議室に戻ろう。佐藤さん達も心配しているだろうから。伊藤さんの件もあるし、色々話しておくことが多いからな」

「それじゃあ今日は徹夜で打ち合わせですか、真鍋さん」

「そこまではしないよ。詳細は明日以降でいい。今日のところは現状報告と今後の方向性の確認だけにしておこう。彼女の無事を確認できたことと、伊藤さんも含めて、この支店担当作家が二人も直川賞にノミネートされたことを素直に喜ぼう」

「そうですね。今日は乾杯したい気分です」

「じゃあ打ち合わせが終わったら、京川さんでも誘って下のバーで飲もうか」

「いいですね。そうしましょう!」 

 二人で階段を降りながら交わす会話は上ってきた時とは全く違い、明るく笑いを含んだものになった。笑うことで心も体もすっと楽になり、自然と足取りも軽くなっている。

 二階の事務所に戻り、奥の会議室のドアを軽くノックしてからドアを開けた。真鍋も後ろからついて部屋に入ったが、中にいた三人が一斉にこちらを向いた。

「四階で何をしていたんですか!」

 佐藤が最初に怒鳴るように尋ねてきた。だがあえて平然と答えた。

「MIKAさんに会ってきました。今、四〇三号室にいます。直川賞のノミネートを喜んで受けるとのことでした。ですから打ち合わせの前にここから一本電話していいですか」

 彼が口をパクパクさせてまだ何か聞こうとしていたがそれを手で制し、全員の前でスマホを取り出して時間を見る。まだ八時前であることを確認し、入口近くに立ったまま電話をかけた。その間に真鍋はゆっくりと奥の席に進み、腰をかけた。

「紡ぎ家の紡木と申します。池下さんはいらっしゃいますか。はい。分かりました」

 保留音が鳴り、しばらくして池下が出た。

「紡木です。先ほどは失礼致しました。MIKAさんと連絡が付きました。喜んでお受けいたします、とのことでした。いえいえ、こちらこそ。できればバンバン重版していただけると助かります。それと池下さんもご存じでしょうが、これまで彼女は人前に出ることを極力避けてきました。でもこれからそうは言っていられなくなるかもしれません。はい、そうです」

 池下は困った声を出していた。候補作は春夏秋冬社が出版している作品だ。彼女のデビューも同社の為、出版社はこの作品をきっかけにして積極的に売り出していきたいという。

 担当編集者としてもそう考えているが、彼女に関しては取材や情報を制限している事情も理解しているため、会社側と板挟みになることは予想していたらしい。

 そこで真純から今までのようだと営業がし難くなるため、来年のマスコミ発表の前までにプロフィールを含めてどこまでオープンにするか、今後本人と打ち合わせをする予定だと伝えた。さらに本人も理解していて前向きに検討してくれる気でいるが、改めて彼女には複雑な事情があることを簡単に説明する。

 池下もそこは考慮してくれると言うので、今後はまず彼女とで話し合って方向性を決め、池下とも打ち合わせの場を設けて協力していきたい旨を告げた。すると電話の向こうで大変喜び何度も頭を下げる様子が見えるほど、お礼を繰り返し告げられて電話を切った。

「という訳でMIKAさんとは今後、話合って進めますのでよろしくお願いします」

 改めて会議室にいる全員に告げて頭を下げ、ゆっくりと自分の席に座った。内容を聞いていた森達もある程度事情を把握したようだが、佐藤はそれだけで許してくれなかった。

「おい、だいたいは分かったが、今の電話の話だけじゃ説明不足もいいところだろ。ちゃんと最初から話せ。何故MIKAがここの上にいる。前から知っていて黙っていたのか」

 彼は真純が話している間、小声でその疑問を真鍋に尋ねていたが、電話中だからと質問に答えて貰えなかった。そのため真純に対して抱えていた不満と共にぶつけてきたのだ。

「前から知っていた訳でも、黙っていた訳でもありません。ただ色々考えていた時にそうじゃないかと思っていたら、真鍋さんも同じ推理をしていました。その話をしたのは昨日です。昨日の朝一番で調査会社と打ち合わせをした後、真鍋さんがこういったんです。“向こうが依頼した調査会社の持っている情報量の方が多いはずだ。それが判れば、あとは消去法だよ。彼らが捜し切れていない場所を探せばいい。彼らが知らない、探していない、または探せない場所をね。探せていない場所は石橋さん達が調べてくれるだろう。後はこちらだけが知っている場所、彼らが知らない場所を私達が探せばいい。”と。そこで頭の中に浮かんだのが、四階の宿泊室でした」

「俺も自分でそう口にしながら思い浮かんだのがその可能性だった。ただ確信はなかったんだ。紡木さんが同じことを考えていると聞いてその確率は上がったが、確認をするのは今日か明日でも良い、と考え直した。直川賞の件で連絡があってからでも遅くないとね。いや候補作にノミネートされるかどうかが判明してからの方がいいと考えたんだ。その方が話を進めやすくなると思ったからね」

 真鍋がそうフォローを入れてくれた。

「でも、どうやって彼女はこのビルに? セキュリティー上、無理がありますよね」

 鳥越が首を傾げながら疑問を口にし、森も同じく首を傾げた。だがさすがは佐藤だ。これまで様々なミステリー作家を担当し、ともに頭を悩ましてきた優秀な編集者だけある。すぐにからくりを見抜いたようで、悔しそうに呟いた。

「寺坂か。あいつが一枚噛んでいたってことだな」

 まだ不思議がっている二人の為に、真純の口から彼女達が使った入室トリックを教え、四階で話した内容を簡単に説明すると、森は深く頷いていた。

「なるほど。そうだったのね。じゃあ後は相手の動き次第ってことか」

「そうです。先ほど四階から降りてくる間に、調査会社の方には彼女の無事が確認できたことと、彼女と話した内容を伝えて藤河の動きを引き続きマークするようお願いしておきました。今の所は藤河が依頼していた調査会社は手を引いているらしく動いていないそうです。藤河自身にも特に動きがないので、もしかしたら彼女による警告の手紙が効いて諦めたのかもしれない、と言っていました。でもそこは油断せずにしばらく見張ってもらうよう念を押しておきましたから」

「おい、調査会社に彼女の居場所を教えたんじゃないだろうな?」

 佐藤がすごんできたが、冷静にいなした。

「いいえ。伝えていませんよ。こちらが無事を確認し、連絡は取れたので彼女の居場所を探す必要が無くなったことと、居場所は言えませんと伝えてあります。ご安心ください」

 それを聞いて彼はようやく納得したらしく、のけぞるように深く坐り直した。彼も彼なりに彼女を心配していることは分かっていたため、それ以上何も言わなかった。

 そこで真鍋が話題を変えた。

「という訳でみんなには心配かけたが、MIKAさんの件は今後紡木さんに任せて大丈夫だ。四階にいることは秘密にしてもらって、彼女に関することは今まで通り全て担当者を通してくれればいい。連絡がつかない急ぎのことがあれば俺に言ってくれ。ところで伊藤さんの件はどういう話になったのかな」

「あ、はい。それはですね」

 真純達が不在の間に佐藤達からアドバイスを貰った鳥越が報告をし始めた。伊藤もMIKAほどではないが、人見知りが激しくメディアにでることを極端に嫌がっているため、その辺りについての対策を主に話し合っていたようだ。

 その内容は今後の彼女との打ち合わせにも役立つ。しっかり参考にしようと真剣に報告を聞きながら、改めて喜びの余韻に浸っていた。

 九時過ぎに伊藤の件についての打ち合わせを終えた五人は、残っていた仕事の切りを付けた後、真鍋が提案したように社長の京川に電話をかけた。伊藤とMIKAの作品が直川賞にノミネートされたことを報告するとひどく喜び、予定通り一階のバーに集合して祝杯を上げることになった。しかも京川のおごりと聞き、皆でさらに盛り上がったことは言うまでもない。

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