第七章:報告~告白

 横に座っていた真鍋が立ち上がった。時間を見ると先ほど指示された五時四十五分だ。まだ途中になっている所は打ち合わせが終わった後か、明日以降でもできるだろう。

 そう割り切ってノートPCの画面を閉じ、手元にいくつか書類を持って立ち上がった。正面に座っている森も立ち上がり、彼の後について奥の会議室へ歩いて行く。その後を佐藤が追いかける形でついて行った。

「すぐ終わりますので」

 鳥越は仕事のきりが悪いのか、慌ただしくキーを叩きながら最後尾の真純を見た。

「了解。会議室で待っているから、それを終わらせてからでいいよ」

 そう一声かけ、佐藤の後ろについて部屋に入る。今日は一番奥に真鍋が座り、窓際の横長のソファに森が詰めて座った。その向かい側へ佐藤が腰を下したため、真純はドアを開けたまま森の隣に腰をかけて鳥越が来るのを待ちながら、手元の資料に目を落とした。

 春夏秋冬社からの電話は明日のようだから、今日はそれほど緊張する必要が無い。会議室の中はしばらく沈黙が続いた。それぞれ手元に持った手帳や資料を読みながら、全員が揃うのを待つ。

「すみません、お待たせしました」

 タブレットと資料を抱えた彼女が会議室に入り、ドアを閉めて佐藤の隣に座った。

「それじゃあ始めようか」

 真鍋の声かけに真純と彼女が同時に頷く。

「それでは、まず戌亥さんと伊藤さんの周りに起こっている話から始めるか」

 彼は今日森が矢尾と話した会話の内容や、京川から仕入れた情報から他の会社が二人の引き抜き工作をしていること告げ、さらに佐藤が独自に動いた成果を報告し始めた。

 恥ずかしながら全く他社の動きに気づいていなかったため真純は驚き、そして恥じた。戌亥がどんなに良い条件を出されたとしても、自分の担当作家に他の作家を巻きこむような愚かな行為をさせてしまった自分を責める気持ちが湧きだし、心が痛くなる。心理的ストレスだろう、またもや動悸と頭痛がし始めた。

 正面にいた鳥越もまた動揺している。佐藤から連絡を受け、直川賞候補になっていたら明日中にかかってくることを知った彼女は、その話題には触れずそれとなく伊藤の様子伺いの電話をしたようだ。それでも他社から接触があったような様子を全く感じ取ることができなかったという。そんな話は一切聞いていないと恥ずかしそうに報告していた。

「それは仕方が無い。伊藤さんには直接的な接触がなかったのかもしれないし、あったとしても冷たくあしらってそれっきりで、担当に言う価値もないと思っている場合もある。だから戌亥さんを使って卑怯な手を使ったんだと思うよ」

「そうそう、真鍋さんの言う通り、余計なことを言って鳥越さんに変な誤解を持たれちゃいけないと伊藤さんは思ったんじゃないか。それより問題は戌亥だよ。どうするんだ、これから。真鍋さんは首を切る覚悟で話せって言っていたんだぞ」

 佐藤がここぞとばかりに真純を攻撃してきた。だが彼の言う通りだ。何があったかまず言い分を聞く必要はあるが、相手の返答次第では契約解除の覚悟もしなければならない。

「分かっています。伊藤さんとの話しが終わった後、こちらへ呼び出してでも話をします」

「その時は私も同席するから。戌亥さんには真鍋さんとじゃなく、最初は私と紡木さんの二人で正直に事の経緯を白状して貰った方がいいだろうって話になったから」

 森の顔を見て、それから奥の真鍋に視線を移した。それだけで意図は理解できた。真鍋は顔には出さないが、彼の言うように腹の底では怒っているのだ。

 だからまず戌亥が好意を寄せている彼女を同席させ、隠し事一切なしで喋らせてから、その内容によって処分を考えることにしたのだろう。いきなり支店長で最終決定権を持つ彼を出さず後に控えさせることで、少しだけ戌亥に猶予を与えるつもりだ。

 とはいっても単に軽い処分を下すことは担当者として失格だ。将来の支店全体のことも考え、担当者としての決断を試されているとも取れる。

「まあ、難しいことは考えるな。こちらから話をぶつけて、相手の言い分を聞く。それから判断すればいい。先に俺が鳥越さんを交え伊藤さんと話をする。そこさえ押さえておけば、戌亥さんの件はその後でいいし、慌てることはない。MIKAさんの件もある。他にも動かなければいけない優先課題があるから、それらを片付けてからでいいよ」

「はい。真壁さんの言う通り、色々な課題を片付けてからにしたいと思います」

「それでいい。ただ今回は俺の判断ミスだ。情報を得ていながら話さなかったのは、余計な負担をかけたくないと思ったからだが、相手はそこを突いて来た。だから他の担当作家にどこまで話が広がっているか不明だが、各自その点を確認して欲しい。ただし慎重に」

「俺の所は全員にはっきり状況説明をして確認しましたが、確かに一部連絡はあったようですがすぐに断った、と聞いています」

「私もさっき、矢尾さん以外の担当四名の内二人の作家さんに連絡しましたけど、接触があったと話してくれたのはそのうち一人。もちろん即断ったって言っていましたし、相手はそれほどしつこくはなかったそうです。それと悪い噂も耳にしているから少なくともあの会社と契約することはあり得ないから安心して、とも言われました。後の二人は明日中に確認しておきます」

 佐藤と森がそう報告すると、鳥越は頷き、

「私もさっそく明日中には、伊藤さん以外にも全員確認しておきます」

 というので、真純もそうしますと答えた。

「俺の担当も確認したが、接触があったのは渋(しぶ)さんだけのようだ。でもあの人のあの性格だから、先方も途中で諦めて帰ったらしいよ」

 真鍋の話に何が起こったのか、皆が想像できたようで小さな笑いが起こった。

 作家名が渋井しずか、通称渋さんと呼ばれ、本名は静井渋代しずいしぶよという女性作家だ。確か今年で五十歳迎え、子供三人を抱える京都在住の方でご主人は中学の先生をしている。

 純文学風エンターテイメント作品を書き、そのほのぼのとした小説は人気で、第六回“この小”大賞受賞作家だ。支店が無い頃は東京から遠いので出版社との打ち合わせ時に上京した際の宿泊先が欲しいと要望があり、紡ぎ家と契約した。その後支店が立ち上がった際に真鍋が引き続き担当し、本社だけでなく支店の宿泊施設もよく利用している方だ。

 社交的で人当たりはいいが、のんびりしていて超ずぼらな性格らしい。締め切りを忘れたり契約書類をよく紛失したり、打ち合わせをすっぽかしたり、ダブルブッキングをしたりと酷いので、シラカバ出版時代から彼が最もケアしていた作家として有名だったと聞く。

 作風なのか賞の候補などにはなかなか挙がらないが、シリーズ化しているファンタジー小説“ジャノメ”などコアなファンが多くいる。そのためコンスタントに部数を伸ばせる作家で支店の稼ぎ手の一人だ。

 自分に甘くて男性には優しく女性に厳しい性格でもあり、そのため森や鳥越などは真鍋の不在時に電話に出て対応すると、とても厳しく当たられたとぼやいていたことがあった。真純も本社時代に始めて電話対応した時、とても冷たい態度をとられた経験はあるが、実際に会って男と分かり親交を深めた後は真鍋に次いで相性が合う方だと思う。

 さらにいたずら好きで有名だから、おそらく他社から接触した際に面白そうだと家に招いて色々わがままを言ったのだろう。彼女の性格ではまず紡ぎ家を、というより真鍋を裏切って他社と契約することなど考えられない。それに万が一契約したとしても、あの方の自由奔放なスタイルに他社は相当苦労するはずだ。

 おそらく先方も接触したはいいが編集者として素人では無いため、途中でその辺りの性格に勘づいたのだろう。脈がなくさらに契約したら大変そうだ、と逃げ出したに違いない。そんな様子が想像できてしまうから、皆が思わず苦笑したのだ。

 少し緊張した空気をそこで和ませた真鍋は、皆に改めて指示した。

「それでは各自明日までに各担当となるべくなら直接会える人には膝詰めで、駄目な人はできるだけ表情が見えるネット回線のテレビ電話で、慎重に確認して貰えないかな」

 四人が全員頷いたことを確認した彼は、こちらを見て話を促した。

「直川賞の件は明日にしよう。何か報告したいことがあったら先にしてもらっていいよ」

 真純は彼の意図を組んで口を開いた。

「はい。それではまだ確定事項ではありませんが、一応大事になってからだと困りますから、前もって皆さんに覚悟をしていただくために報告いたします」

「なんだよ。えらく脅かすな。もったいぶってないでさっさと話せよ」

 佐藤が茶化すように話を促したが、内容が内容なので全く笑えなかった。その真剣な表情を横から覗いた森が心配そうに聞いてきた。

「何なの? 誰の件? MIKAさんの件じゃないよね」

「はい。違います。これからお話しするのは、戸森さんと田端さんの事故の件です」

「なんだ? もしかして奥さんが亡くなったのか?」

 佐藤が面倒臭そうに性質の悪い冗談を言った。だが淡々と答えた。

「いいえ、まだそんな連絡は入っていません」

「だったらなんだ?」

「今回の件で、私が窓口となり保険会社とやり取りをしているのはご存知ですよね」

「ああ。そこまでやる必要があるのかってくらい動いているけど、それがどうした」

 やたら絡んでくる為、真純は彼と対話をしながら皆に状況を把握して貰うよう説明した。

「私が窓口になったのは、相手方のセンターラインオーバー事故として先方の保険会社が動いているからです。しかしその前提自体が間違っている可能性が出てきました」

「どういうことだ?」

 これには彼だけでなく、他の全員も驚いていた。

「つまり戸森さん側に過失が出る可能性があります。相手の運転手は死亡していますので、下手をすると最悪の自体も考えなければいけません」

 そう考える根拠を列挙して伝えた。さらにその亡くなった友人の連絡先を聞いて調査会社に依頼したところ、当時の走り屋の仲間との連絡が付き、母親や彼女の証言が嘘でないことの裏付けもとれたことを併せて報告した。

「調査会社って、そんなこといつの間に頼んだ」

「今日です。MIKAさんの件で依頼をかけていた担当者に、別件ですが追加で調査するよう連絡しました。するとすぐ調べていただけたようで、私が車で帰ってくる間に先程、このような報告をメールで受けました。正式な報告書は後日届くと思います」

 持っていたスマホを操作してその画面を呼び出し、真鍋の前に差し出して机に置いた。そこに森や佐藤が一緒に覗きこんで読もうと身を乗り出す。正面に座っていた鳥越は、真純に視線を向けて訪ねてきた。

「どういう内容ですか」

 メールで受けた報告の内容を簡単に説明していると、森が意外な事を言い出した。

「そう言えば以前、田端さんが戸森さんの家に出かける時、ちらっとそんな話をしていたことあるわ。だから嫌だなあ、ってぼそっと口にしていたことがあった」

「森さん、それは本当か? 私はそんな話、聞いていないぞ」

「すいません。真鍋さんに報告するほどのことでもないかと思いまして。田端さんに、何か言った? と聞いたら慌ててなんでもないって言い訳していましたし、彼はそれ以上聞いてくれるなって感じでしたから、放っておいたんです」

 真純は森の話に付け加えた。

「事故前の田端さんは、かなりの頻度で外出していました。私が事故の窓口になった関係もあり、田端さんの案件を佐藤さんに引き継ぐまで担当の引き継ぎ整理をしています。しかし頻繁に打ち合わせするほどの案件はありませんでした。そうですね、佐藤さん」

 彼は報告内容に衝撃を受けながらも、何とか口を開いた。

「確かに俺が引き継いで挨拶回りをしたけど、彼がそんなに通っていたような担当作家や仕事があった様子は無かった。戸森さんの案件だけは紡木さんが引き継いでくれたよな」

「はい。調査会社に依頼した部分があるとは言え、一日調べてこれだけの話が出てきました。保険会社が本格的に調べ出したら、もっといろんなことが出てくるでしょう。だから最悪のことを考えておいた方がいいと思います」

 そこで佐藤が食ってかかってきた。

「そんな簡単に言うが、ものすごい問題だぞ。そんな調査をこの会社の人間がやるなんて、おかしな話じゃないか」

 真純は彼に反論した。

「ちょっと待って下さい。それはどういう意味ですか。私が調べ始めた事自体が間違っているとでも言うんですか。身内が罪を犯しだとしても、知らん顔していればいいとでも? そんなことをすれば、見逃した私達だって同罪です!」

 亡くなった相手の若者は、まだ二十歳の学生なのだ。何なら彼の遺影を見て来ればいい。どんな子でどんな顔をしていたか、母親がどれだけ悲しんでいるかを知った上で、同じ事が言えるのか。

それに亡くなった若者の彼女は、自分が呼びだしたから事故に遭って亡くなったと今でもずっと自分を責め続けている。それでも黙っていた方がいいと言うのか。調べない方が知らなくて済んだから、良かったと言うのか。

 話をしている内に、ますます怒りが湧いて真純が思いの丈を吐き出すと、その迫力に押されたのか彼は押し黙った。真鍋がそこで間に入り、静かに呟いた。

「いずれにせよ真実は一つだ。紡木さんが調べていなくても、遅かれ早かれ警察や保険会社の調査が入り、事実確認をしていた可能性は高い。紡木さんの推測が事実なら、少しでも騒ぎが大きくならないよう会社としても早期に動いた方がいいと思う」

 彼は明日にでも直接田端さんと戸森さんに会って、真相を話して貰うように説得すると言い出した。経緯を確認した上で、警察に連絡する必要があるならするし、会社として亡くなられた方へ、頭を下げに行こうと話し合った。

 戸森の加入している保険会社や相手の保険会社への連絡は、話を聞いてから紡木がするようにとの指示も受けた。

 興奮して大声を出したことで動悸が激しくなり、真純は痛くなりだした頭に手を当てながら頷いた。これほど自分の推測が外れて欲しいと思ったことはない。だが揃っている情報によれば、どう考えても厳しい現実から逃れられるとは思えなかった。ならば少しでも被害を、会社としてのリスクを最小限に抑えることを考えるべきだ。

 しかしそれ以上に一日でも早く真実を突き止め、亡くなった翔の母の千恵子と彼女の香奈に伝え、詫びる方が先だ。真純達がどれだけ頭を下げても、亡くなった若者が生き返ることはない。だが自分達に出来る精一杯の誠意は、それしかないと思う。

 残された人達が誤った認識のまま生き続けるのは、余りにも酷だ。真実を知ることが正しい事ばかりだとは限らないかもしれない。それでもこの事故に関して言えば、真相を明らかにする事で。心が救われる人達は必ずいる。

 もちろん戸森や田端の将来を考えれば、彼らは大きな罪を背負うことになるだろう。それでもこれだけ大きな事故を起こして死者を出していながらも、真実から背を向けたまま生き続けることが今後の彼らにとって幸せだとは思えない。

 戸森は罪を隠したまま、今後作家として読者の心に届く作品を書くことができるだろうか。そして田端は心に大きな秘密を抱えたまま、彼の書く作品を多くの人に読んでもらおうと努力することができるものだろうか。

 少なくとも真純にはできない。罪の意識に潰されて心が崩壊し、生き続けることが苦しくなるだろう。だが戸森と田端の本当の胸の内は分からない。彼らはこれまで病室にいて何を思い、そして今何を考えているのだろうか。

 翌朝真純は事務所で真鍋と落ち合い、軽く打ち合わせをしてから一階の中庭に出て社有車に乗りこんだ。目的地は当然、戸森達が入院している岐阜の病院だ。

 高速を使って一時間もかからず着いた二人は、病院内の駐車場に車を止めて病棟の入口へと向かった。歩きながら車中で事前に話し合った内容を二人で確認する。

「まずは田端から、ということでいいかな。紡木さん」

「はい。まず彼の口から真相を聞きださないと、戸森さんへの対応が変わってきますから。田端さんには、真鍋さんから話を聞くということでいいですか」

「そうしたほうがいいだろう。支店長としても彼の対応次第では、今後の処遇を決めないといけない。紡木さんには状況に応じて調査した内容を説明して貰うことになると思うから、それまでは傍で聞いていて欲しい」

「分かりました」

 戸森の病室の前に付き、扉を静かに開けた。病室の一番右奥の窓際のベッドの周りにはカーテンがかかっていて、田端の姿は見えない。六人部屋の病室は退院したのか二人分の空きがあったが、他の三人の患者さんもカーテンを引いて横になっているようだ。

 時間は九時を少し回っていた。病院の朝食時間が終わり、患者は皆一休みしている時間帯だ。その為静かに病室へ入って奥に進み、窓側から回り込むように彼のいるベッドを覗き込む。そこには窓から入る外の光を浴びながら、横になって本を読んでいる田端の姿があった。

 彼の枕元には様々なジャンルの小説が山積みされていて、ベッドの下にも大量に置いている。退院が間近に迫るほど体の調子も良くなり、入院中の時間を使ってこれまで読み切れなかった小説を読みこもうとしているのだろう。

 元編集者で小説が大好きな勉強熱心の彼らしいが、これから話すことを考えれば素直に感心できる心境では無かった。

「どうだ、体の調子は」

 声をかけそびれていた真純の代わりに、真鍋が話しかけた。彼はそこでこちらに気づいたようだ。手にしていた本を閉じて体を起こした。

「お早うございます。真鍋さんもいらっしゃったんですね。体調はだいぶ良くなりましたけど、皆さんお忙しい時なのに、朝早くどうされました?」

 二人の顔を交互に見て頭を下げながら、眉をひそめている。年末の繁忙期で真純は先日来たばかりだ。それなのに真鍋まで連れ再び訪れたので、不自然に思ったのだろう。

「朝一番で悪いが、外の談話室に出て話がしたい。今いいか」

 他の患者に聞かれてはまずいため、真鍋がそう切り出した。一瞬表情がこわばったが、断るわけにもいかない彼は頷いた。

「分かりました。すぐに着替えますから、先に行って待っていていただけますか」

「そうするよ」

 そう言い残しすぐに離れた。自分も真鍋の後を追うとした時、田端と視線が合った。彼が何か言いたげそうな表情をしていたが、ここで話すわけにはいかない。すがるような目を振りほどくように、病室を出た。

 談話室は病室から左に出た先にある。テーブルとイスがいくつか置いてあり、朝早いせいか手前に一組の患者と身内らしき人達が話をしているだけだ。真鍋は一番奥の席に腰を下し、険しい顔をしている。遅れてきた真純を心配したのかすぐに尋ねてきた。

「何だ、あいつ、何か言ってきたか?」

「二人で来た事を警戒している様子でしたけど、何も言わず出てきました」

 答えながら横の席に座ると、彼は頷いた。

「それでいい。話は俺からここでする」

 真純は頷き、二人で田端が来るのを待つ。しばらくして松葉杖をついてやってきた彼は、パジャマの上に厚手のジャンパーを羽織って、下は厚手のスウェットを穿いていた。 

 十二月も終わりに近づいたこの時期、暖房の効いた病室以外の仕切りのない広いフロアではどうしても寒い。少し身震いしながら、彼はテーブルを挟んで真鍋と真純が並んで座っている正面の椅子に腰かけた。彼は明らかに緊張している様子で、少し早口に喋った。

「話ってなんですか」

「慌てるな。何か飲もう。何がいい?」 

 真鍋に間を外された彼は、じゃあコーヒー、というので、

「ホットでいいですよね」

 真純は二人に確認して立ち上がり、設置してある自販機で三人分のホットコーヒーを購入して席に戻る。それぞれが蓋を開けて一口飲み、机に缶を置いた所で真鍋が口火を切った。

「この間、紡木さんが保険会社の担当者とここへ来たよね。あれから動きがあったようで、会社でも事故の件を独自で調べてみた。だからもう一度君から、聞いておきたいと思って今日は二人で来た」

 そこで一旦言葉を切り、田端の目をじっと見つめた。彼は目を泳がせて視線を逸らして俯く。そのため真鍋はゆっくりとした口調だが、厳しい表情で話を続けた。

「正直に言って欲しい。あの事故の時、何が起こったのか。君は寝ていてよく知らない、と言っていたが本当は起きていたんだろ。しかも事故の瞬間を見ていた。違うかい?」

「い、いえ、そんなことは、」

「正直に話してくれないか」

 否定しようと首を横に振った彼の言葉を遮り、真鍋ははっきりとした口調に変え、問い詰めるようにして彼の目を睨んだ。

 しかしこういう状況になることは覚悟していたのか、それとも以前からシミュレーションをしていたのか、急に開き直ったような態度をとり始めた。

「これまで話した通りです。それ以上のことはありませんよ」

 彼が簡単に白状するとは思っていなかったが、余りの態度に思わず横から口を挟んだ。

「田端さん。事故を起こして亡くなった若者が、峠の元走り屋だった話はご存知でしたか」

「そのようだね。本当に不運な相手とぶつかったものだ」

「不運? 好運の間違いじゃないですか」

「おい。何言いだすんだ。こっちは大怪我させられたんだぞ。しかも戸森さんの奥さんは未だに意識不明の重体だっていうのに、幸運な訳ないだろ」

「田端さん。落ち着いて下さい。よく聞いて下さいよ。私は亡くなった若者が、元走り屋だと言ったんです。つまり彼は走り屋を、あの事故より半年前に辞めているんです。その事を知っていましたか」

「何?」

「昨日、私は彼の母親に会って聞きました。確かに亡くなった彼は一時期あの峠を走っていましたが、最近は辞めて大学のサークル活動で忙しくしていたのです。しかもあの日の彼は大学で付き合い出した彼女と会う為、車で出かけました。ですから彼が峠でスピードを出し事故を起こしたと聞いても信じられない、とおっしゃっていましたよ」

 そんな事かという口ぶりで、彼は腕を組んで言った。

「母親なら、そう言うのは当然だろう」

 真澄は構わず話を続けた。

「私は彼の家に伺いましたが、あの家から事故が起こった峠を通ったとすれば、その先は主に田端さん達がプレーをしたゴルフ場しかない。つまり彼は彼女がバイトしていた、あのゴルフ場に向かっている途中でした」

 彼女のバイトは土日だけで、普段はゴルフ場が手配するマイクロバスに乗り、市内を朝早く出て帰りも夜遅く他のバイトの方達と一緒に市内へ戻ってくる事を説明した。

 あの日は夕方から雨が降ってバイトが早く終わりそうだ、と彼女から連絡を受けて彼が迎えに行った事。彼女のバイトが早く終わっても、他のバイトの仕事が終わらない限り市内へ向かうバスは走らないので、無駄にゴルフ場で時間を潰すことになる。その為過去にも同じようなことが何回かあった事。あの日も彼女からの電話を受けて彼は迎えに行き、そのままドライブデートをしがてら、自分の家に呼ぶ予定だった事を伝えた。だが彼は全く表情を変えない。

「それがどうした。その途中でスピードを出し、危険運転をしたから事故が起こったんだ」

「本当にそうでしょうか。私は事故報告を受けた後、相手の若者が峠の走り屋だったと聞いてずっと不思議に思っていました。事故が起こったのは夕方の時間でしたね。そんな時間に走り屋であったはずの若者が、なぜあんな場所を通ったのだろう、と」

 走り屋が峠を攻めるとしたら、もっと交通量が少なくなる夜間を狙うはずだ。暗いアップダウンの激しい夜道をライトで照らしながらスピードを出して走ると、ジェットコースターにでも乗っているようなスリルを味わえるらしい。走り屋を題材とした小説や漫画の中で読んだことがあった。

 しかし事故の起こった時間は、日が落ちる前だ。何故そんな時間に若い彼がゴルフ場に向かっていたか、その理由までは入手した事故報告書に記載されていない。ただそれは当然で、警察が書く本格的なものと違い、保険会社の報告書は直接事故に関係しない詳細なプライベート部分など割愛されるのが通常だからだった。

 けれどもその理由が今回の調査で分かった。開き直り不機嫌な顔で話を聞いていた彼が、貧乏ゆすりをしながら抵抗した。

「夜だろうが夕方だろうが、走り屋だったんだろ? そいつがいつも走っている峠道を通ったから、思わずスピードを出したんじゃないのか」

「言いましたよね。彼は元走り屋だった。彼は辞めていたんです。その理由も伺いました」

 そこで先方の運転手の家で聞いた話を告げた。田端達との事故より半年前の春先に、あの峠を一緒に走っていた彼の親友が自損事故を起こして亡くなっている。田端達の乗った車と事故を起こして亡くなった金城翔が香奈と付き合いだしたのは、彼の親友が亡くなる少し前らしい。そこで絶対峠を走ることは辞めるよう、彼女から言われていたという。

 それまで親御さん達も、何度か注意していた。しかしなかなか言うことを聞かなかった翔は親友という身近な存在の死を経験して、ようやく理解したようだ。死ぬという事はどういうものなのかが判ったと、両親の前で涙を流したらしい。そして家に彼女を連れてきた時も、二度と走り屋はやらないと断言していたという。

 若い時に近しい人を亡くした時の心の傷は、大きく残るものだ。真純自身も二十代の時、自殺によって近しい人を失った。その際には人目もはばからず泣き崩れた経験がある。その時の経験からいかなる理由があっても自死を選んではいけないと心に誓った。おそらく翔の走り屋を辞めるとの宣言は真純の時と同様に、とても強い決心だったに違いない。

 翔は大学のスキーサークルに入っており、そこで彼女と知り合った。だがスキーをするにはお金がかかる。そこでオフシーズンである夏から秋までサークルの学生達は、みんなバイトに明け暮れて忙しく働いてお金を溜めるそうだ。

 大学の入学祝いで翔にねだられ両親が買ったのがスポーツカーだった為、昔からの友達と一緒に走り屋の真似事をしていた。しかし親友の死を機にこの冬からは自分でバイトをしたお金を貯め、スキーの為に雪山を走行しやすい四輪駆動の中古のRV車へ買い替える予定だったらしい。

 実際に中古車屋とは数日後に、スポーツカーを下取りに出してRV車を買う段取りを組んでいたという。事故はそんな矢先に起こったのだ。

「何が言いたい。だからってそいつがスピードを出してなかったって言えるのかよ」

 そういう彼の声は震えていた。そんな彼に畳みかけた。

「聞いて下さい。あの事故後、翔さんの彼女はとても落ち込んでいました。呼び出したのは自分だからという理由です。私は彼女とも直接会って話をしました。翔さんは親友を亡くし、とてもショックを受けて走り屋を辞めました。その走り屋の友達の人達の中にも、何人かが彼と同じようにグル―プを抜けたそうです。一部の人達はいまだに走っているそうですが翔さんとは疎遠になり、全く交流は無くなっていました。翔さんに峠を走ることを誘ったのが亡くなった親友だったそうですから。その彼がいなくなった事も、走らなくなった理由でしょう。これはかつての仲間や、今も走っている人達から調査会社の人達が事情を聞いて確認しました。だから言っていました。彼女のバイトが早く終わり、迎えに来てくれようとしていたあんな時間帯に、彼が危険な運転をするとは思えないと」

「だ、だからなんだ。親も彼女も、そう信じたくないと言っているだけだろう」

 調査会社と聞いて動揺した彼だが、まだ隠そうとする態度に腹が立ち、さらに続けた。

「それだけじゃありません。事故当日のゴルフ場での様子を聞き込みしたところ、戸森さんと奥さんは大変揉めていたらしいですね。かなりヒステリックに怒鳴り散らし喧嘩を始めたので、ゴルフ場の人達もよく覚えていたようです」

 さらに調査会社の話では戸森の近所での話によると、最近夫婦喧嘩が絶えず四六時中怒鳴り声が聞こえていたらしい。その事を田端が知らない訳が無いと告げた。

「以前田端さんが戸森さんの家に出かける時、奥さんと揉めているから嫌だなあ、と呟いていたと森さんから聞きました。そろそろ正直にお話ししていただけませんか。そもそもおかしいでしょう。事故が起こった瞬間は後部座席で寝ていたので知らないと言いますが、それは余りにも不自然じゃないですか」

 ゴルフ場で奥さんと戸森さんは、一カ月以上経った今でも周囲の人達が良く覚えているほど大声で口論していた。そんな状況の車中で、いくら疲れたからといって担当者が後部座席でのんびり寝ていられるだろうか。

 帰りの車内は、ピリピリした空気が漂っていたに違いない。そんな時に真純達が知る田端なら、放っておくはずがなかった。二人の間を取り持ったり、話題を逸らしたりして何とかしようとしていたはずだ。そこで何かが起こったのでないか。そう真純は詰め寄った。

 すると彼の体が、急に震え出した。もうひと押しだ。

「事故前の田端さんは、かなりの頻度で外出していましたね。一体戸森家で何があったのですか。よく考えて答えて下さい。事故の相手は死亡しています。これ以上隠しだてをすれば、罪が重くなるだけです。正直に話をして下さい!」

 観念したのか彼は肩を落とし、テーブルに顔をうずめて泣きだした。

「しょうが無かった。俺だって、俺だって、」

 その後ぽつり、ぽつり、と事故があった当時の状況を告白し始めた。何度か聞き返して話に矛盾が無いかを確認し、これが真相だったと確信をした。真鍋と視線を交わすと、彼は頷いてから田端の方を向いて立ち上がった。

「これから戸森さんの所に行こう。彼からも真実を話して貰わないと。その上で改めて、事故について再調査しなければならない。君達の処遇はその後に決める」

 有無を言わさぬ強い口調に田端は怯えていたが、構わず彼の腕を取って立たせた。真純がその反対側に回り、彼の体を支えながら三人で戸森の病室へと向かった。

 彼の病室の前で真鍋が先頭に立った。その後ろで怖気づいている田端の背中を真純が押す形になる。真鍋がノックをして入室し、田端、真純の順で中に入った。

「失礼します」

 真鍋がベッドに近づくと、彼は電動ベッドを起こして目を覚ましており、驚いた顔で三人を見つめた。再び他の患者達に迷惑にならないよう真鍋は小声で話しかけた。

「すみません。急に伺ってなんですが、少し外の談話室でお話しできませんか」

 その真剣な表情と後ろで怯えている田端の姿を見て、ただ事じゃないと感じたのだろう。彼は黙って頷き、その場で上着を羽織ってゆっくりと立ち上がった。彼もまだ松葉杖をついた状態でしか歩けないようだが、移動は一人で大丈夫そうだ。

「じゃあ、行きましょう」

 今度は四人揃って病室を出て、先ほど田端と話していた談話室に移動し、再び同じテーブルに着いた。ただし今度は奥に戸森、その横に真純が、手前に真鍋と田端が座った。

「なんですか。こんな午前中の早い時間に」

 田端の方をじろりと睨みながら、彼は真鍋に向って不機嫌そうに言った。しかし明かに虚勢を張っていることが分かる。もともと田端もこの人も根っからの悪人ではないのだ。

「お話は事故の件です。先ほど田端から、事故がどのように起こったのかを改めて聞きました。当初私達が報告を受けていたものと、かなり違っていますね。そこで改めてご本人から事情をお伺いしたいと思いまして」

「おい、田端君、何を話したと言うんだ!」

 怒り出した彼を抑えるように、隣にいた真純は耳元で伝えた。

「全てです。田端が事故当時に寝ていたというのは嘘で、事故の瞬間を見ていたことです」

 彼は目をかっと開いて田端を睨みつけた。だが当の本人は、先程からずっと視線を合わさないよう俯いたままだ。そこで彼の正面に座っていた真鍋が口を開いた。

「田端にも話しましたが、この件は保険会社も警察も再調査の為に動きだしている可能性があります。ですから正直にお答え頂きたい。戸森さんは奥様と揉めていたそうですね。その辺りを、詳しく教えて頂けますか」

 そこで真純から田端にも話した内容をかいつまんで説明したところ、彼は反論しようとした。しかし警察という言葉が効いたのか、それとも真鍋の力強い眼力に押し負けたのか、ぐっと口をつぐみ押し黙った。

 しばらく沈黙が続いたが、ようやく諦めがついたのか肩を落とした彼は喋り出した。

「あいつが悪いんだ。事故を起こしたのは俺じゃない。俺は止めようとしたんだよ。田端だってそうだ。なのに、なのにあいつは、」

 事故が起こった瞬間を思い出したのか、彼は両手で頭を抱えて震えだした。

「あいつ、というのは奥様のことですね。奥様がどうされたのですか」

 真鍋が落ち着いた声で話の先を促した。

「あいつは以前から俺のことを気に入らなかったんだ。最近、なかなか書けなくなった俺のことを馬鹿にしやがって。あの日だって急に雨が降ってきたから早目に帰ろうとした。そしたら車で迎えに来てくれていた出版社の奴らが、急に用ができたので帰ると言いだしやがったんだ。そこで仕方なくあいつを呼んだんだよ。あんなことになるんだったら、田端君に車を出して貰えばよかった。そうすればこんなことにはならなかったんだ」

「すみません、戸森さん、すみません」

 田端は頭を下げたまま、何度も謝った。真鍋は隣に座る田端の肩を叩き、その話はいい、と小さく話しかけて再び彼の方を向いた。

「それで迎えにきた奥様と口論になった訳ですね。ゴルフ場にいた多くの方が、大声で叫ぶ奥様の姿を見ていたそうですから」

「そうだ。俺は大恥をかかされた。しかし車で迎えに来てくれただけでもいいと我慢し、なんとかあいつを宥めて車に乗り込んだ。あいつは文句を言いながらも自分でそのまま運転席に座ったから俺は助手席に、後後部座席へ田端君を座らせて車を走らせたよ。それが間違いだった。あいつは最初から俺を殺すつもりだったんだ」

「殺すつもり、ですか」

「ああ。あいつは車の中でも俺のこと罵り、殺してやる、自分も一緒に死んでやると叫び出した。それを田端君と二人でなんとか謝り許して貰おうとしたが、あいつは聞く耳を持たなかったんだ。そんな時、峠に差し掛かる手前で対向車が来た。そうしたらあいつは、急にハンドルを切ってその車に向かって走り出したんだよ」

「それでどうしました?」

「俺はハンドルをなんとか動かして走行車線に戻そうとしたが、抵抗したあいつはなかなか手を離さず、対向車に向かって自分からぶつかろうとしたんだ。すると相手も驚いて、何とかこっちの車を避けようとハンドルを切ってブレーキを踏んだんだが遅かったよ。俺もハンドルを奪って何とか車線に戻した。そして運転席に右足を伸ばしてブレーキを踏みながらハンドブレーキも引いたが間に合わなかったんだ」

「それで結局戸森さん達の走行車線でぶつかったんですね」

「気付いた時には相手の運転席とこっちの運転席同士が衝突していて、グシャグシャになっていたよ。俺も田端君もぶつかった衝撃で一瞬意識を失ったくらいだからな」

 彼の怪我が体の左側に集中していた意味が、これで判った。妻の暴走を止めるために、助手席から体を捻って阻止しようと、衝撃する最後の瞬間まで奮闘した結果だったのだ。

「それからどうしました?」

「二人とも事故の衝撃から目を覚まし、体全体に走る激しい痛みに何とか耐えながらドアを開けて外に出た。外は雨が降っていたが、事故の衝撃でガソリンに引火して、車が燃えだしたら危ないと思ったからな。だが加奈子を引きずり出すだけの体力はなかった」

「外に出た時、運転していた相手の方はすでに亡くなっていたんですか」

「確かめたわけじゃないが、死んでいると思ったよ。車のフロント部分が完全にひしゃげていて、フロントガラスもバリバリに割れていた。エアバックは開いていたけど、どこかに頭をぶつけたんだろう。血がそこら中に散っていて、ピクリとも動かなかったから」

「奥様の様子はいかがでした」

「あいつも出血はひどかったが、かすかに息はしていたから何とか生きていると思ったよ。だから急いで田端君にお願いして救急車と警察を呼んで貰ったんだ。後部座席にいた分、彼の方が怪我の状態は軽かったらしく、まだ俺よりも動けるようだったから」

「救急車を呼んで待っている間に、二人でどんな話をされたんですか」

 そこで彼は息を飲んだ。ここからの話が核心に迫るところである。彼もそれを意識してか、少し間を置いてから再び説明をし始めた。

 車から少し離れ外で待っている間、雨でびしょ濡れになりながら、ぼんやりと二台の事故車両を見ていたらしい。事故場所は山の中だったからだろう。他に車も通らないし、なかなか救急車は来なかった。

 結構な時間があったから、その間警察が来たらなんて話をしようと考えていたそうだ。そこで路面の状況を見て、自分達の車がつけたものではないブレーキ痕やタイヤ跡がそこら中についていることに気が付いたという。

 それと二台の車は戸森達の走行車線で止まっていた為、相手がセンターラインオーバーし、こちらの車線に飛び込んできたようにも見えると思ったそうだ。

「だからそう証言しようと考え付いたのですね」

「ああ。それですぐ田端君にそう言ったよ。相手は死んでいるようだし、加奈子も瀕死の状態だ。加奈子が俺達を巻き添えにしようと事故を起こしたと知れたら、どれだけの騒ぎになるかを考えたらそうするしかない、と」

「その時田端さんはどう答えましたか」

「こいつはなかなか首を縦に振らなかった。だったら黙っていろと言った。後ろの席で寝ていたことにすれば、余計なことは喋らなくていい。事故の瞬間は見ていないと言うだけでいいと説得した。こいつは何とか了承してくれたよ」

 相手が亡くなり、運転していた加奈子は意識の無いので証言できない。事故現場の状況から雨も激しく降っていて、スリップ痕などもはっきりしなかった。だから車の衝突箇所場所から見て、唯一事故についてを証言できる戸森の嘘を警察は信じたのだろう。

 さらに彼らにとって幸いだったのは、相手の若者が走り屋の一人だったと警察が知っていたおかげで、あなたの嘘に信ぴょう性を持たせてしまったに違いない。

「そうだ。なぜ警察は相手の若者が走り屋だと知っていたのかは分からなかったが、それを聞いた時はラッキーだと思ったよ。相手は話すことができない。こっちは二人重傷とはいえ生きていたし、加奈子が意識不明の重体だったおかげで警察も同情してくれたからな。だが紡木さんの話を聞いて理解できたよ。警察はあの事故の半年前に自損事故で死んだ走り屋の件があったから、その仲間だった相手の若者のことを知っていたんだな」

 彼が話を振ってきたので答えた。

「そのようですね。警察は自損事故により死亡した件で、当時一緒に走っていた複数の仲間達から事情を聞いていたようですから。その時、事故の相手だった翔さんも入っていた。車のナンバーなどの情報も残っていたのでしょう。あなたの証言を信じた警察は、翔さんの仲間が起こした過去の件もあり、彼がその後走り屋を辞めていたことなど碌に調べもせず、そのまま彼のセンターラインオーバーによる事故として事故証明書を発行した。そうなると保険会社も内容通りに動かざるを得ませんから」

「だから俺の考えた筋書き通りに話は進んでいたんだ。それを何故警察や保険会社が再調査し出した?」

「再調査しているか定かではありません。先程は動きだしている可能性があると言っただけです。動いているか、いないかは知りません。でも私は動いていると読んでいますが」

 目を剥いた彼はそれまでの態度を急変させ、怒鳴り出した。

「何! 俺を騙したのか!」

 だが落ち着いて言い聞かせるように話した。

「騙したなんて人聞きの悪い。可能性が出てきたので、大事になる前にこちらで調査したと所、先程お話しした事実が判明しました。調査と言ってもたった一日ですよ。別件で依頼していた調査会社にも手伝っては頂きましたが、それでもその程度で色んな事実が出てきました。保険会社や警察が本気で調べたら、あっという間に真相は明らかになるでしょう」

 そこでその前に自ら告白し、少しでも罪を軽くした方がいいと彼らを説得した。今ならまだ間に合う。事実誤認だったと言えば良い。事故の衝撃でパニックになっていても、おかしくはないからだ。

 相手が飛びこんできたように信じ込んでいた。だけど落ち着いて思い出せば、実際は違ったと、警察に説明すればいい。あくまで事故を起こしたのは加奈子だ。揉めていたとはいえ、戸森や田端は被害者でもある。それなりに情状酌量はされるだろう。

 それ以上に、今回の事故の真相を明らかにしなければならない最大の理由がある。それは亡くなった翔が加害者で無く、最大の被害者だと告白し、残された遺族の方や事故時に翔さんを呼び出した恋人の心を救う事だ。

 真澄は祈るような気持ちで言った。

「嘘と告白しても、亡くなった人は戻りません。でも苦しんでいる残された方々の心の痛みを、軽くすることはできます。戸森さん。あなたは作家です。物語を生み出すことで多くの方を楽しませること、その物語を読むことで一人でも心が軽くなったり、救われたりする方がいればと思って、書き続けているのではないのですか。そんなあなたが自分の保身の為に嘘をつき、人を苦しめても良いとお思いですか」

 彼は怒りが治まったのか再び肩を落とし、俯いた。じっと何かを考えこんでいる様子だ。それを見た真鍋は、真純に眼で合図をして立ちあがった。

「お二人から真実が聞けて良かったです。あとは戸森さんと田端さんがどう行動するか。私達から今すぐ警察や相手の保険会社に連絡することはしませんので、二人でゆっくり話し合ってから、今後どうするかを決めて下さい」

 そこで真純も遅れて席を立ち、談話室に二人を残して立ち去った。戸森達は茫然としてこちらを見ていたようだが、そのことに気づかない振りをしてそのまま病院を出た。

 帰りの車中、運転をしながら真純は確認した。

「あれでよかったんですよね」

「ああ。後は二人が警察などに連絡をして話すのを待つだけだ。田端の処分や戸森さんの処遇も、警察がどういう判断を下すかを見極めてからでも遅くはないだろう」

「これで翔さんのご遺族や香奈さんの心が、少しでも救われればいいんですけど」

「人の心の中を覗き見ることは誰にもできないが、決して悪い方に転がることはないと思うよ。確かに嘘をつかれたことで、遺された人達の心の中に戸森さん達を恨む気持ちが生まれるかもしれない。でもそれ以上に、親御さん達にとって信じていた息子は間違っていなかったと分かるだけで、心の傷が少しは癒されるんじゃないかな。それに恋人は真実を知った後でも、自分が呼びだしたから事故に巻き込まれたことには変わりない、と考えて自分を責めるかもしれない。でも真相を知り、信じていた彼の姿を知ることで、今以上に彼への思いが悪くなることはないと思う。まあ、俺達はそう願うことしかできないが」

「はい。私はそう信じています。ただ心配なのは警察がどう動くか、ですけど」

「それは俺達が今考えてもしょうがない。判断を待とう」

 その後病院から戸森加奈子さんが亡くなった、と知らせを受けたのは二人が会社に戻ってからしばらく経った時のことだった。真純達が病院を出た後、談話室で戸森と田端が相談している時に、加奈子の容体が急変したらしい。

 看護師から告げられた二人が慌てて駆け付けると、一瞬だけ彼女の意識が戻ったという。だが目を覚まして戸森の姿を見た彼女は、憎しみをこめた顔をして呟いたらしい。

「あなた、生きていたのね」

 その言葉を最後に、彼女は息を引き取ったと後で教えられた。

 月末でただでさえ忙しい時期ではあったが、真鍋だけがすぐ折り返し病院に駆け付け、お悔やみを申し上げた。そして事故による死亡者が新たに出たことにより、病院から連絡を受けた警察が駆けつけたという。そこで戸森達は改めて、事故時における真実を告げたそうだ。

 真純達が去ってから、最初は今更警察に告白することに躊躇っていたらしい。しかし突然訪れた加奈子の死と最後の一言を聞き、彼らは決心したのだろう。その後相手方の保険会社と彼の車が加入している保険会社に連絡をし、事故の検証が改めて行われた。

 結果は当初とは全く逆の、加奈子の運転していた車がセンターラインオーバーしたことにより起こった事故として処理された。相手とこちらの運転手の両名が死亡、加奈子の車に同乗していた戸森と田端は巻き添えになった被害者として、戸森が加入していた保険会社から治療費などが支払われる手続きが行われたのだ。

 もちろん今まで相手保険会社が支払っていた治療費も、戸森側の保険会社から返金手続きがなされ、死亡した金城翔に対する賠償交渉が改めて始まることになった。当然のことながら後日真純は真鍋を伴って田端の会社の人間として、また契約している作家のついた嘘により多大なる迷惑をおかけしたことに対し、お詫びを告げるため金城家を訪問した。

 だがそこには翔の両親の他に香奈も同席してくれ、逆にお礼を言われた。真純が真っ先にこの事件の真相を探り、戸森達への自白を促したことを警察から耳にしていたようだ。特に母親の千恵子と香奈さんからは涙を流して頭を下げられた。その瞬間が今回の事件で唯一心が救われたと思える時だった。

 加奈子が無理心中を図るに至った経緯は、主に経済的な問題による夫婦間でのトラブルから発展したようだ。デビュー当時は売れっ子作家だった戸森が、中学の同窓会で出会ったかつての同級生の加奈子と大学卒業後に結婚した。二人は子供に恵まれず、また少しずつ作家としての所得が減り始め、近年はスランプに陥って書けなくなっていた。

 そんな彼に対し加奈子はきつく当たるようになり、それに対しプライドが高かった戸森は、取材と称して各出版社の担当編集者相手にゴルフや麻雀などに明け暮れたらしい。そしてそれまでの印税で溜めた貯金を切り崩しながら生活していたという。

 そんな夫に嫌気がさしていた加奈子だが、田舎町でお互い同窓生でもあり、古くからの共通の友人達がいることや近所の目もある。その為彼らを気にしてか見栄を張った彼女もまた収入に見合わない生活を送っていたらしい。そんな暮らしが続いたため、疲れ果ててしまった加奈子は不眠症に陥り、精神内科へ通うようになるまで追い詰められていたようだ。

 二人の家庭での不協和音をよく知る田端としては、何とか戸森に新たな作品を書かせ、ヒットを飛ばすしか解決方法はないと連日戸森家に通い詰めたらしい。しかしあまり効果はなかったようだ。相変わらず書けないでいた彼だが遊びは止められず、ついには借金までするようになったという。

 そのことを知った加奈子はさらに激怒し、夫婦喧嘩は日々激しくなったそうだ。そんな状況にもかかわらず、戸森が他の出版社の担当編集者を誘ってゴルフをするというのでやむを得ず田端も同行した。

 だが雨に降られてゴルフを早めに切り上げて帰りの足も無くなったことからタクシーを呼ぼうという田端に対し、お金をケチった戸森は加奈子に迎えに来させようと連絡したという。

 激怒した彼女は迎えに来る間の車中で決心したのかもしれない。ゴルフ場に着くや否や怒鳴り散らし、宥める田端らと一緒に車を発車させた加奈子は、車中でも夫婦間で激しい口論となった。その結果無理心中を図ろうとして対向車線を走っている車にぶつかろうとハンドルを切り、今回の事故に至ったようだ。それが今際の言葉を残した加奈子の、あの一言に集約されていた。

 後は警察が当初嘘の証言をした戸森達をどう処遇するかが焦点となった。しかし最終的には自発的に証言したことと、彼らは無理心中をしようとした加奈子の被害者であることも考慮され、逮捕されることもなく情状酌量の上、厳重注意処分で済んだ。

 このことを受け、会社としては田端を減給処分とした上で支店の担当者を続けることは望ましくないと判断し、本社の総務・人事部への異動を命じた。また戸森に対しては両者で話し合いを行った結果、会社との契約は存続させることにはなったが、三年間エージエント料を引き上げることで合意して折り合いをつけた。

 皮肉なことに加奈子が無理心中を図ったことで、結婚当初に夫婦で加入した生命保険から彼女の死亡保険金が支払われ、彼の借金は全て返済できたことで経済的には落ち着いたという。自殺でも一定期間経てば死亡保険金が支払われる商品だったことが幸いした。

 加奈子の死で一人身となった彼は、その後生活を改めるために所有していた家を売却し、身の丈にあった小さなマンションの一室を借りた。今は迷惑をかけた紡ぎ家に対して恩を返したいと思っているらしく、初心に戻り小説を書き始めているという。まさしく災い転じて、と言っていいだろう。

 だが残念なことも一つあった。田端のついた嘘は許されることでないと処分が下り、本社への異動が決まったことで、彼の一時的な応援要員だったはずの佐藤が支店へ正式配属となり、戸森を含めた田端の担当作家全てを受け持つこととなったのだ。

「あの天敵が支店に正式配属されるとはね」

 森に笑いながらそう言われた時には落ち込んだものだ。自らの行動がこの結果を招いたと思うと余計に腹が立った。

 しかし真純達の試練はこれだけで終わらなかった。

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