第六章~陽菜の過去と新たな動き

 陽菜は午後三時になったことを確認し、ネット回線を使って担当作家の矢尾と打ち合わせを始めた。彼の事務所は同じ市内にある。よって普段なら直接訪ねる所だ。しかし今月はそちらも忙しいだろうから、往復の移動時間が勿体ないと彼が言いだした。その言葉に甘え、事務所にいながら画面越しで用件を済ませることにしたのだ。

 単純に電話やメールだけの連絡と比べ、ネット回線でのテレビ電話を使えば相手の顔を見て会話できるので、互いに細かいニュアンスを伝えやすいというメリットがある。

 また西日本が担当エリアの為、九州・沖縄地区にいる作家と会うには行き来する往復の移動時間も馬鹿にならない。そう考えるとテレビ電話での打ち合わせなら時間も短縮でき、ネットさえ繋がれば大雪や大雨で中止になることもまずなかった。

 さらにはお互いが事務所にいながらできるので、別の仕事連絡が急に入っても相手に少し待っていてもらえば対応できる。相手が別の案件をしている間は、こちらも別の仕事に手をつけることができた。

 陽菜はマイク付きのイヤホンをつけた。こうすると相手の声は自分にしか聞こえないので周囲に迷惑がかからない。こちらの話す声は、小声でもマイクが拾ってくれる為、相手にはちゃんと伝わる。音声の調子が悪ければチャット形式でも会話ができ、机に坐りながら静かに打ち合わせできるのだ。

 今回の内容は、小説の件では無い。会計士としての経験と知識に基づいたビジネス書の執筆についてで、締め切りがもうすぐなのだ。しかも中身はビジネス書で専門知識が必要な為、編集や校正などのチエックは全て執筆依頼した出版社側ですることになっている。 

 よってこの段階での陽菜の仕事は、編集者が督促や指示してきたものを彼に告げる程度の、お使い的な役割しかなかった。

 それに陽菜は真鍋や佐藤、鳥越のような編集者としての経験がないため、編集や校正に深く関わらなければならない作家や作品については余り担当していない。逆に言えば編集等は全て出版社側と打ち合わせる、と契約を結んだ作家達を多く担当していた。こちらで編集等が必要なケースが出てきた時は仕事の性質上、真鍋や鳥越達に手伝ってもらうのだ。

 それでも彼のような作家活動以外の本業を持つ人達にとっては、窓口担当が間に入ってくれるだけで助かると言う方が多い。特に彼の場合、出版社と一口で言っても連絡してくる相手が小説であれば文芸関係の編集者、ビジネス書ならその手の専門編集者が相手だ。

 出版社の編集者達にとって大事なのは、自分達が依頼した仕事を一定レベルの質を保った上で、締め切りに間に合うよう書いてくれるかどうかだ。その分その他ことにはあまり気遣いできない場合があるらしい。

 例えば文芸出版の編集者にとって矢尾の本業である会計士の仕事は当然として、ビジネス書の執筆に時間を取られて忙しい等と言われても言い訳にしか聞こえないようだ。逆にビジネス書担当の編集者達も、文芸の仕事で忙しいと言えば同じ態度を取るという。

 そんな一部の心無い編集者達が相手の都合を考えず、直接矢継ぎ早に督促の連絡をしてくる態度に彼はとても耐えられなかったらしい。特に会計士として顧客から直接問い合わせがあり、相談している最中ならば尚更だ。

 会計士の顧客からの連絡は、会計事務所の事務員達が対応してくれるからいい。しかし出版関係に関しては事務所の宣伝にもなる会計士向けの著書があるとはいえ、基本的には彼個人の仕事だ。会計事務員の手を煩わせるわけにはいかない。

 そこで出番になるのがエージエントだ。督促など煩わしい案件は一度担当者の手で集約し、作家と連絡を取り優先順位をつけ出版社側にフィードバックしていく。

 真鍋達のような元編集経験者が担当するものは、作品自体のプロット段階から関わる。編集や校正や装丁、さらには最後の出版にまで携わることもある為、自分のキャリアではまだそこまではできない。

 それでも陽菜には、他の元編集者達が持っていない武器があった。紡木は前職での知識を生かした保険や事故の相談に加え、税理士やFPの資格を持っていることから税務や経理、金融関係の相談まで幅広く対応している。対して陽菜の場合は営業等を含めた、マネージメント業務が得意分野だ。

 前職の芸能事務所では、担当しているタレントをテレビ番組等でいかに使って貰えるか働きかけ、仕事を受ければ他の仕事との兼ね合いも考え、細かいスケジューリングをしてきた。

 その能力と人脈を活かし、作家達の出版する作品がより売り上げが伸ばせるよう書店に働きかけたり、前職でのコネを使ってマスメディアを通じ、作品を取り上げてもらえるよう依頼したりするのだ。

 広告宣伝費を抑えつつ行動をしながら、他の出版社へ営業をかけて作家への執筆依頼を自分の担当如何に関わらず取ってくる。それが陽菜の主な仕事だった。

 宣伝しなくても売れたり、出版社からの依頼が頼まなくても向こうからやってきたりする売れっ子や大御所には必要のない能力だ。しかしなかなか増刷されずに苦しんでいる作家達には、そういった行動力が重宝されていた。

 会社もそういう陽菜ならではの働きを期待してくれていると思う。現に担当外の作品であっても、販売強化したいので手伝ってくれないかとの依頼をは店内だけでなく、本社から受けたりする事も少なくなかったからだ。

 矢尾の場合、小説の方は直川賞作家であることから固定ファンも付いていて、陽菜の営業力を発揮する機会はほぼ無い。しかしビジネス書や自己啓発書等の場合、そう上手くいかなかった。

 そこで顔馴染みであるテレビ局のプロデユーサーに依頼し、彼をコメンテーターとして出演させるついでに作品の宣伝をさせてもらったり、雑誌の編集者に連絡を取って推薦してもらうよう依頼をしたりもする。

 その辺りの調整を矢尾と相談し、また世話をしてくれたプロデユーサーや雑誌の編集者には見返りとして、東京でも名古屋でも、紡ぎ家と契約している作家であれば局が出したがっている作家への出演依頼を取りつける仕事も行っていた。

 雑誌編集者は欲しがっているが、なかなか手に入らない作家のインタビューやエッセイ等の仕事を代わりに斡旋したりもした。そうしてお互い貸し借りを作りながら進めていく営業のバランスはとても難しい。他の担当者が一朝一夕で真似出来るものではなかった。

 陽菜はこの会社に来たことで、自分だからこそできて期待される喜びを強く感じるようになった。もちろん異業種の知識が必要なため、至らない部分も多く日々勉強の毎日だ。しかし忙しくても充実している。しかし前職は全く違うものだった。

 当時は家庭を持っていたこともあるが、女である自分が担当しているタレントを売り出すために動きまわって成功しても、同じ事務所でありながら別の担当マネージャーから妬まれたり、やっかまれたりするのがとても嫌だった。

 事務所としてトータルで所属タレントが売れれば、会社の業績も上がるからいいなどとは思わないらしい。ただ自分の担当タレントが売れることだけを考え、自分のマネージメントが評価されることを第一としている人達が多くいたからだ。

 特に上昇志向の強い男性マネージャーにはそういう傾向が強い。男の嫉妬は女よりも厄介である、といわれるのは本当だとあの業界にいて痛感した。同じ会社にいながらもベクトルは同じ方向を向かず、足の引っ張り合いをする業界だ。よって所属する会社が違えば、マネージャー同士の醜く激しい争いが繰り広げられるのも当然だった。

 そんな愚かな男達に負けないよう頑張り過ぎたせいもあり、妊娠中であっても仕事を優先してきたツケが流産騒ぎだった。幸い子供は無事生まれたが、仕事に支障をきたしたこともあったのだろう。普段から陽菜を疎ましく思っていた同じ会社の男性マネージャー達は、ここぞとばかりにこれだから女は、と非難した。

 また他の会社のマネージャー達も、あんな女は使えないとくだらない噂を流す。それが悔しくて早く仕事に復帰したいと焦ったことが逆に仇となり、夫の両親の怒りを買ってしまったのだ。そして結局夫から離婚を切り出され、子供の親権まで奪われる破目になった。 

 そんな時、社内で唯一と言っていい理解者だった紡木の義兄である雅史先輩の口利きで、この会社を紹介されて転職したのだ。それが幸いして今の充実した生活があった。

 子供と会えない寂しさは消えないものの、この会社では他の担当者や担当している作家と衝突することもあるが、以前の職場に比べると可愛いものだ。陰湿な足の引っ張り合いなどほとんどない。風通しの良い会社だし、何より自分の働きが正当に評価され、社内外からも喜ばれることほど嬉しいことはなかった。

 今の自分があるのは雅史先輩のおかげであり、紡木がこの会社の立ち上げに関わってくれていたからこそである。だから陽菜は今彼が抱えているの厄介事に関して、是が非でも力になりたいと思っていた。

 そこで矢尾との打ち合わせが一段落した際に、雑談の中で試みようとした。

「ところで矢尾さんは、この支店所属の作家さん達の中で交流があるというか、知っている作家さんってどれだけいます?」

「当然京川さんのように以前からお世話になっている人はいるよ。でもどうして?」

 陽菜はもっともらしい理由をつけて言った。

「年明けに直川賞候補作の発表がありますよね。それでもしここの作家さんの中で候補者が出れば、作家さん達を集めて新年会を兼ねたイベントでもしようか、という案が出たものですから」

 すると彼は話に乗ってきた。

「そう言われれば、ここ最近は大きな賞の候補作家が出てないね。もし直川賞候補に挙がったら、集まる機会としてはうってつけかもしれないな。ただ授賞式には出ないけどね」

 最近の彼しか知らないが、そういえば賞の集まりは全て断わっている。それは何故か聞くと彼は顔をしかめて言った。

「それでも招待状だけは懲りずに来るよな。俺は直川賞を取った時に懲りたよ。あの賞のおかげで作家としては成功して今の俺があるけど、大変だぜ。まあ、他人の授賞式は気楽だろうけど、あの時のトラウマがあるからかどうも苦手なんだ」

 そう言えば、以前彼から聞いたことがあった。受賞が決まった途端、作家には取材やお祝いと称するものがどっと押し寄せる。当時は彼の会計士事務所に、バンバン電話がかかってきて大変だったようだ。

 ファックスも大量に送られてきて、仕事に相当支障をきたしたとも聞く。あの当時に、紡ぎ家があればよかったと嘆いていた。そうした経験があった為、紡ぎ家設立の話が出た時に彼は京川さんの声かけに賛同したらしい。あの時頼りになるエージエント会社があれば、相当な契約料を払っていただろうとも言っていた程だ。

 陽菜は思い出しながら言った。

「かなり大変だったようですね」

「大変なんてもんじゃないよ。今俺に接触してくるのは、出版社の編集者がほとんどだろ。それでも偶に、おかしな業界関係者と名乗る輩から連絡があるじゃないか。森さんはすぐ見抜いて、話を打ち切り連絡してこないようにするのが上手いから助かるけど」

「ああ、ありますね。前の業界でもそう言う人達はいましたから」

 大きな賞を取ると、大量の取材依頼や執筆依頼に交じり、そういう奴らが山ほど湧いてくるという。加えて有名な会社なのに、小説を全く理解していない門外漢が出てきて、意味不明な質問をぶつけてきたりしたそうだ。

 それは今でも余り変わらないと聞く。だから機会があれば後学の為に、実際現場に行った方がいいと京川社長や真鍋からも言われていた。

「でも紡ぎ家の名古屋支店の担当作家だけで集まるのなら、参加してもいいよ」

 話が戻ったので、陽菜は尋ねてみた。

「でも作家さんって一匹狼的な人もいて、そういう集まりを嫌う方もいますよね。私も支店所属の作家さん達と全員顔を合わせていませんから。SNSでの繋がりは多少ありますけど、矢尾さんは誰なら知ってますか」

「伊藤さんとは挨拶したことがある。彼女は“この小”の第五回で特別賞を貰っていたから、表彰式へ出た時に会っているよ。それ以降、数回くらいは顔を合わせたことがあるかな。そういえば彼女なら今回、ノミネートされる可能性はあるんじゃないの」

 ちょうどいい名前が出た為、さらに続けた。

「そうなんですよ。過去二回候補に挙がっていますからね。そろそろじゃないかと、私達の間でも期待している所なんですよ」

「じゃあ一カ月位前に連絡があるはずだから、そろそろだよ。まだないの?」

「はい。うちでも今日か明日の夕方には連絡があるかも、という話をしていたところです」

「そうだろうね。確か今の担当は鳥越さんか。そうだ。以前春夏秋冬社に勤めていた佐藤という担当者が、田端さんの代わりに来ているよね。彼なら内情を良く知っているだろ」

 いい感じの方向に進んだ為、少し踏み込んでみた。

「はい。彼からも、直川賞の裏側を少し教えて貰いました。あと紡木が担当しているMIKAさんも候補に挙がるかもと話しています。矢尾さんは彼女の事をご存知ですか」

「名前だけは知っているけど、会ったことも喋ったこともないね。でも最近良い作品を出しているらしいね。京川さんもこの支店で期待している、ホープの一人だって言っていたな」

「京川社長と伊藤さん以外で、交流のある作家さんや面識のある方はいらっしゃいます?」

「他は渋井しぶいさんか。あの人は“この小”第六回大賞受賞者だし。後は戌亥がいたな」

「戌亥さんとも面識があるのですか」

 すると再び彼の表情が曇り、不機嫌な声を出した。

「あるよ。あいつは確か“この小”の第七回大賞受賞者だったね。その回から俺は授賞式に出席しなくなったが、別の機会でシラカバ出版に出向いたことがあったんだ。その時あいつも打ち合わせで来ていたらしくて、当時の担当編集者から紹介されたよ。あの頃からあんまりいけ好かない。チビの癖にちょっと顔がいいからって何か偉そうだから。デビュー作が売れたから余計調子に乗っていたからかもしれないけど、こっちの支店と契約してから、担当でもないのにやたら森さんと話したがって電話してきたりするらしいじゃない」

「どこからそんな話を聞かれたんですか」

 本当の事だから苦笑するしかなくそう尋ねると、彼は意地悪な顔をして言った。

「色々だよ。京川さんの耳にも入っているからね。森さんは京川さんのお気に入りだから余計気に入らないんじゃないかな。普段は飄飄としている人だけど、怒らすと粘着質だから結構厄介だよ、あの人は。あと変な噂も聞いたな。伊藤さん辺りに担当の紡木さんや会社の悪口を吹きこんだりしているってさ」

 これには陽菜も驚いた。

「え? 矢尾さんの耳にもそんな噂が入っているんですか」

「京川さんだって気づいているさ。おかしな連中が近づいて、そいつらから焚きつけられているんじゃないかって話だよ」

「おかしな連中、ですか?」

 そうした情報は自分の所に入っていない。

「ああ。最近支店の周りをうろついている怪しい奴らがいたらしくて、一階のテナントに入っている人達に、それとなく注意してもらうよう京川さんから言ってあったらしい」

 なるほど。京川はこの会社の上に住んでいるし、ある意味このビルのオーナーの立場だから、佐藤のように何か気付いていてもおかしくない。でもその人達はMIKAと彼女の父親と名乗った男が雇った調査会社の人達ではないか。

 そう言おうとした時、思わぬことを聞かされた。

「そしたらその中で、京川さんが知っている連中を見つけたんだってさ。紡ぎ家と同じ東京に本社があるエージエント会社の奴らで、最近その会社も西日本方面の作家達を担当する為に、大阪へ支店を出す予定らしい」

「名古屋じゃなくて、大阪ですか。あっちだと地価は高くないですか」

 彼は東日本を東京で担当するなら、西日本だと大阪辺りに支店を構えるのが普通だと言った。確かに紡ぎ家が名古屋に出したのは、シラカバ出版が持っていた物件がたまたまあったからだ。新たに物件を探すなら、やはり東京に次ぐ大都市の大阪がいいのかもしれない。

 地価についても、名古屋はリニアが数年後に通る。だから良い場所は地価もどんどん上がっていた。大阪に通るのはもう少し先だが、将来的な事を考えると東京大阪間の移動距離がぐっと近くなることは間違いない。西日本全体を管轄するのなら大阪、もしくは京都や神戸辺りでもいいんじゃないか、というのが彼の見解だった。

「そういうものですか。でも大阪に支店を出そうとしている人達が何故、うちの支店の周りをうろついているのでしょう?」

 陽菜の問いに彼は当然のように答えた。

「それはターゲットがいるからさ。西日本を管轄に置くのなら、それなりに売上を見込める作家を抱えていないと、新たに支店を構える費用対効果がない。つまり引き抜きだよ。うちの支店と契約しているのは西日本に住む作家達だから、その中で目ぼしい人を狙っているんじゃないかってさ」

「引き抜きですか? 京川社長がそうおっしゃっていたんですか?」

「ああ。そう考えれば大阪に支店を出そうとしている商売敵のエージエント会社の奴等が、この辺りをうろついている説明がつくだろう」

「でもたまたま名古屋に担当している作家さんがいて、そのついでに、ってその考え方は無理がありますね」

 話しながらも自分の言葉を否定した。明かに彼の説明の方が理に適っている。

「京川さんも伊達に色んな推理小説を書いてきた作家じゃない。俺だってそんな話を聞いたら、京川さんの推理に一票いれるさ」

 つまり紡ぎ家所属作家の誰かが、狙われている事を意味する。それは誰なのか。矢尾さん達は既に気付いているのか。そう尋ねると彼は笑った。

「推測すれば判るじゃないか。この話、何から始まったんだよ」

「えっと、そうです。最近おかしな連中がこの辺りにいて、」

「もっと前だよ」

 もっと前。そうだ。最近戌亥が紡木や会社の悪口を言っているとの話から、おかしな連中に焚きつけられているのではと言い出したことをもい出す。

「そうか、戌亥さんを引き抜こうとしているんだ」

 だがそれは速攻で却下された。

「それは違うだろ。もちろん戌亥にも、声はかけていると思う。でも考えてみろよ。あいつはデビュー作こそヒットしたが、今は伸び悩んでいる。そんな作家をわざわざ引き抜こうとするか? 他社は紡ぎ家ほどの余裕は無いぞ」

 確かにそうだ。それならまだエージエント会社と契約していない、将来有望な若手、中堅作家を狙って新規開拓した方が見込みはある。名古屋支店でだって、そういう活動はしていた。だが他のエージエント会社と違って、それ程ガツガツしていない。

 何故なら紡ぎ家は、従来のエージェント収入以外に鴨井先生の印税という大きな収入源があるからだ。さらにシラカバから格安で手にした本社や支店のビルの中にテナントを誘致して、そこから家賃収入を得ている。他には一階にあるブックカフェやバーの経営による収入もある。

 ちなみに陽菜は時々人手が足りない時、バーに応援で入ったりしていた。会社としては系列だが、紡ぎ家における業務契約の中には料理を作るとの項目はない。だが自分の仕事が忙しい時でなければ、系列会社が人手不足で困っているからと頼まれれば、仕事が終わった後で手伝いに行くことがあった。

 その件について、彼に言われたことがある。

「京川さんは森さんの手料理を、すごく気に入っているようだね。あの人が支店の所属に変わった理由の一つじゃないかって噂されているくらいだから」

 それは言い過ぎだが、確かに京川社長の指名で呼ばれることはよくあった。もちろん別途手当は支払われる。陽菜は一人暮らしの為、そこで作った料理の余った分を賄いの名目で持ち帰り、自分の食事にすることもあった。

 そうした経済的に助かる面も色々あるので、頼まれた時はなるべく手伝うようにしていたのだ。

 そんな事を頭に浮かべていると、彼が話を続けた。

「紡ぎ家は別収入があるから、作品の売れ行きやエージエント収入が大きく変動しても、比較的安定的な経営ができている。だけど業務内容として作家の新規獲得も入っているだろ。これからの経営を考えれば、質のいい作家をもう少し増やした方が良いと思うな。厳しい事を言うようだけど」

 単純比較はできないが、昔の出版社の文芸編集者だと一人で三十名前後の作家を担当していたと聞く。紡ぎ家だと今は一人平均七、八人くらいだ。その為、彼は出資者の一人としてそう言ったのだろう。

 社員の一人として恐縮してしまった陽菜は頭を下げながら言った。

「すみません。もちろん担当作家を増やすことは、私達の仕事の一つです。ノルマと言うほどの厳しい目標はありませんが、基盤の拡充は必要ですからね。特にこの支店で私や紡木は、編集者の経験が無い分営業力を期待されています。だから新規開拓は他の担当者よりも多く時間を割くように言われていますが、なかなか思うように動けていません」

「でも昔と比べて、業界も変わった。エージエント契約を結ぶ作家も、珍しくなくなったからね。でも結んでいない作家も、まだ多い。なりたての若手はある程度売れて軌道に乗るまでは、当然だけど個人で活動している人が大半だ」

「そうですね。だから新たに関西へ支店を出すなら、既に契約している関西出身の作家達を担当するだけじゃなく、新たに契約する作家も獲得しないと割に合わなくなるのは当然だと思います。この支店を立ち上げる時も、田端が二人、鳥越が一人、真鍋と紡木は三名ずつ作家さんと新規契約を結んだと聞きました。私だけですよ。自分で新たに契約を取ってきた作家さんがいないのは」

「森さんはまだ経験が浅いからしょうがないよ」

「でも経験の無さから言えば紡木も同じですから」

 違うと思いながらも、拗ねずにはいられなかった。

「紡木さんは設立当初から真鍋さんと組んでいるし、森さんとは単純に比べられないよ」

 彼は慰めてくれたが、それは自分でも頭では理解していた。それでも己の不甲斐無さと経験の浅さから目の前の仕事をしっかりやることに優先順位をつけ、言い訳していることも分かっている。本当はもっと新規開拓を頑張らなければいけないのだ。

「少し話がずれたな。要は大阪に支店を出す連中が新たな作家を本気で獲得するなら、戌亥のような奴に普通は声をかけないだろう。それなら若手に期待する方がましだ。それでも彼に接触したって事は、別の意図があるからだと思うよ」

「別の意図? それが紡木や会社の悪口を広めている件に繋がる訳ですか」

「それだけじゃない。その悪口は全員の作家に言っている訳じゃないだろ。最初にそう言う話を聞いた、という作家は誰だった?」

 そうか、伊藤さんだ! 狙いが彼女だとすれば、戌亥は一緒に移籍しようと誘うつもりなのだ。その為に紡木や会社の悪口を広め、他の会社の方が魅力的だとかアピールしているに違いない。

 そう告げると、彼は頷いた。

「おそらくそれが狙いだろう。本命は伊藤さんだ。彼女は西日本地区の中でも、これからの伸びが期待できる作家の一人だ。現に来月発表される直川賞に、ノミネートされる可能性もある。候補に挙がれば今回で三回目だ。他の作品がどんなものかによるけど、今回取れなくても近い内に受賞する可能性が高い作家なのは間違いない。だから他のエージエントからすれば、喉から手が出るほど欲しい人材だ。戌亥は伊藤さんを引き抜く為に利用されている、かませ犬だよ」

「かませ犬?」

「伊藤さんは“この小”出身だけど、人見知りが激しいから紡ぎ家と契約することになった人だし、今の担当は鳥越さんだ。それほど深い付き合いじゃない。他の売り上げが見込める作家の多くは、紡ぎ家の立ち上げから付き合いがあるから、余程会社とトラブルを起こさない限り引き抜くのは難しい。だから比較的付き合いが浅く、売上が見込める作家を狙うのは当然だろう」

「だからって、戌亥さんを巻きこんだのはどうしてでしょうか」

「それは普通に声をかけたくらいじゃあ人見知りの伊藤さんが、はいそうですかなんて言うはずがないからさ。それで内部から、火の無い所に煙をたたせる人間が必要だったんだろ」

 そこで目をつけられたのが、伸び悩んでいる戌亥だろうと彼は言った。売れないのは担当者が悪いからと吹き込み、移籍時の条件を高く提示して、その気にさせたんのかもしれない。さらに伊藤さんと一緒に移れば、もっといい条件をつけるとか何とか、上手く誘導したのだろうとまで言い切った。

「すごい推理です。まるで聞いてきたような口ぶりですけど、実は同じ話が矢尾さんのところにもあったとか言いませんよね」

 冗談でそういうと、彼は笑った。

「言い読みだね。確かに軽く接触はあったよ。でも即撥ね退けた。その後は何も言ってこないから諦めたらしい。だから伊藤さんを狙っていることは間違いないだろう。俺が奴らだったらそうする。戌亥のおかしな言動を聞けば、あいつも巻き込まれたって判る」

 さすがは作家だ。想像力と推理力がすごい。ベテラン編集者なら同程度の能力を持っているのかもしれないは、陽菜にはそこまで到底及ばない。この会社に入ってから以前よりは本を読んでいるが、絶対的に足りないからだろう。

 紡木は編集経験がないけれど元々読書家で、作家になろうとしていた程だ。矢尾さんの話についていけるに違いない。思わずそうぼやくと彼は慰めてくれた。

「これから勉強していけばいいじゃない。推理小説とかミステリーものを二、三百冊くらい読んだら、ある程度の推理力とか想像力は付くと思うよ」

「二、三百冊、ですか。ああ、いつになることだろう」

「焦らなくていい。それに森さんには、森さんの経験値がある。その武器を生かせばいい。ただ足りない部分は、少しずつ勉強すればいい。人生は学ぶことが多いから、学びすぎるってことはないでしょ」

「そうですね。ありがとうございます」

「ああ、雑談が長くなったね。でも伊藤さん達の件は、真鍋さんに相談した方が良い。もしかすると、京川さんから既に聞いているかもしれないけど」

「分かりました。念のため、話は耳に入れておきます」

「じゃあ、今日の打ち合わせはこれで」

「はい、ありがとうございました」

 そう言ってネット回線を切りイヤホンを外し、席を立とうとした所で声を掛けられた。驚いて振り向くと、いつの間にか報告しようとしていた当の本人が立っているではないか。

「矢尾さんとの話は少し聞いた。悪いと思ったが、途中から気になって後ろから画面を覗きながら、森さんの喋り声に聞き耳を立てていたんだ。申し訳ない」

 真鍋は頭を少し下げ、空いている紡木の椅子に坐りこちらを向いた。

「いいえ構いませんが、どこからお聞きになっていました?」

「おかしな連中がこの辺りをうろついている、って言葉が耳に入ってからかな」

 念の為矢尾とのやり取りを説明した。MIKAについても聞いてみたが、目ぼしい情報は得られなかったことも伝えた。彼は話を全て聞き終わってから尋ねて来た。

「どこのエージエント会社かは聞いた?」

「すみません。聞きそびれました」

「それはいい。京川さんから聞いて知っているから」

「え? 何という会社ですか?」

 彼が口にした会社は、何度か耳にしたことのある名だ。業界内では最近精力的に動いているらしく、その分良い噂は聞かないという話だった。どうやら少し前から、この支店の担当作家を狙っているライバル社がいるとの情報を耳にしていたらしい。

 その為彼は黙っていた事を謝った。だが今の時期、年末進行でただでさえ忙しい。それに狙われるような作家とは、各担当者とも関係を上手く築いている。よってまず動くことはないと考えていたようだ。

 繁忙期で作家もピリピリしている時期だからだろう。どこかの会社に移ろうとしていませんか、なんて疑う話をするのは逆効果になると思い黙っていたらしい。

「でも矢尾さんの推理は当たっているだろう。まさか戌亥さんに接触して、そんな行動を取ってくるとはね。俺の判断ミスだ。少なくとも他社が動いていることだけは、伝えた方が良かった」

「いえあながち間違ってはいなかったと思います。私達が事前に話を聞いていたら、担当作家の言動を疑っていたかもしれません。この時期、締め切りや何やらいつもとスケジュールが違いますから、なかなか思うように動いてくれない時があります。そんな時、こちらの言う事を聞かないのは他社と契約するつもりなのか、と疑心暗鬼に陥っていたでしょう」

 エージエント契約は専属で結ぶことが多いけれど、そうでない場合もある。例えば執筆に関しての窓口はA社、映像化やマスコミなどの対応はB社、海外版の出版に関してはC社、等とエージエントを別けている作家もいた。

 または取り引きする出版社ごとに得意不得意、パイプが太い細い等があるので窓口を分けるケースもある。さらに仕事内容は同じでも、良い条件を提示するエージエントを採用しようと、複数の会社と契約している作家も少数派だが存在していた。

 だから今契約している作家達が、契約更新時に別の会社と取引したいと言い出せば止める権利はない。それを防ぐには、日頃から信頼関係を築き繋ぎ留めるしか方法はなかった。

「そうなんだよ。俺もそれを心配したんだ。例え口にしなくても、担当者の取る態度の変化は相手にも伝わるからね。そういう所に敏感な作家さん達も少なくないから」

「そう思います。これから他の作家さん達と話す時、疑いを持たず平然と会話する自信は正直ありません。気を付けますが、無意識の内に出てしまうかもしれません」

「そうだろうね。だからこそ、相手もこういう繁忙期を狙って仕掛けてきたのだろう。おそらく新規開拓専門チームが動いているんじゃないかな。相手の会社も担当作家を抱え忙しいのは同じだから、兼任だとこうした動きはできないはずだ」

 確かに陽菜達も、新規開拓をしなければいけないと理解している。だが既存の担当作家との仕事が忙しいと、ついそちらを優先してしまう。今日は新規開拓をする日と決めても、実際は突発的な仕事や遅れがちの仕事を入れてしまい、なかなか動けないのが現状だ。

 前職で、担当タレントの仕事を取る営業はしていた。だが緊急性が違うからだろう。作家の新規契約は取れなくても、既存の担当作家との仕事で売上を伸ばせばいい。だから今いる担当作家への執筆依頼を取る仕事の方を、つい優先してしまうのだ。

 担当タレントの新規の仕事は、一つ終わればまた次とどんどん取らなければ売上にならない。よって必死になる。その差はかなり大きい。そう話すと、彼は言った。

「そうか。同じことを紡木さんも言っていたよ。営業の得意な森さんでもそうなんだね」

「紡木さんも、ですか?」

「彼の前職は保険会社だろ。営業時代は保険を販売する代理店を担当して、既存担当店の売上を伸ばすと同時に、新規取引先の開拓もやらなければいけなかったんだって」

「今の私達の状況と似ていますね。既存の担当作家と仕事をしながら、作家の執筆依頼を取って売り上げを伸ばし、かつ別の作家との新規取引もしないといけないんですから」

「そう。だから前職と似ている部分があるってね。こんなことを支店長の俺が言ってはいけないのだろうけど、編集経験しかないから営業なんてしたことが無かったし、正直今でも苦手なんだ。編集者時代だと、取引の無い作家へ執筆依頼をして作品を書いてもらう仕事が新規獲得の動きに近いとは言える。けど少し違うんだよね」

 確かにそうだ。執筆依頼を取ることは、今でもやっている。ただ編集者は、新しい作家を育てることもするはずだ。経験の浅い作家に執筆依頼し、業界のよく知らない部分を教え成長させると聞いたことがある。

 しかし現実はイメージと多少異なるらしい。出版者出身の編集者が完全な新規の作家と取引する場合、自分の出版社で新人賞を開催しておけばそれで済むという。入賞者に優先して書いて貰えばいいのだ。また他所が開催する新人賞を獲った作家も、毎年次々と出てくる。その中から選んで依頼をすればいいから、どちらかというと受け身になるというのだ。

 そこで彼は続けた。

「でも紡木さんがしていた新規取引先獲得は、両方を経験しているから強みなんだ」

「FP採用制度と既存の代理店と契約を結ぶ制度があると、聞いたことがあります」

 他の担当者以上に営業力を期待されている紡木と陽菜は、以前互いの営業経験について意見交換したことがある。その時聞いたのは、将来保険を取り扱うプロを育てる為に、新卒や他の業種からの転職組も含めたファイナンシャルプランナーを採用・育成するコースについてだった。

 作家で言えば有能な才能を持つ作家に新人賞を取らせ、育成することと似ている。異なるのは、FP採用制度は募集をかけて集める受け身の場合もあるが、社員が自ら適した人材を探す攻撃的な面がある点だろう。既存の取引先から紹介を得たり、転職セミナー等に顔を出して興味のある人材に声をかけ、制度説明をしたりするようだ。

 もう一つは既に作家として活動している人とエージエント契約を結ぶ営業と同じく、既に他社商品を扱う代理店へ自社商品も扱うよう依頼をかける新規開拓のケースだ。代理店新設と呼ぶようだが、取引先を広げ保険の販売量を増やし、成績を上げる事が営業に求められる仕事の一つだという。

 だが現在の陽菜達が新たな作家達との契約活動になかなか時間が割けないように、保険の営業もすでに担当している既存の取引先との仕事を優先したり、取引先の中でも他社との競争を優先してしまったりする等、新規開拓に時間をかけることは難しいらしい。

 作家のエージェント業務と似ている部分もあり、また大きく異なる部分もあるが、新規契約が簡単で無いのは結局どの業界でも同じだと思った記憶がある。

 そこで真鍋が、他のエージエント会社の件に話を戻した。

「新規開拓専門のチームを作るのは、保険会社でもあるらしいよ。今回動いている奴らは、一時的に作られた西日本方面の作家をかき集める専属チームなんじゃないかな」

「私も紡木さんから聞いたことがあります。ある一定期間、ある目標人数を集めるために限定期間動く、というのならあり得る話ですよね。既存の担当している作家さんを別の担当者に渡して、期間限定で集中して動いた方が成果は出やすいかもしれません」

「そうだな。そう言う俺や紡木さんだってこの支店を立ち上げる時も、一時的に担当作家を他に預けて一緒に新規開拓していたからね。そんな時、田端さんや鳥越さんが転職してくる際に新たな作家を連れてきてくれたおかげで、この支店も何とか形になったんだよ」

 紡ぎ家と既に契約している作家だけを相手にしていては、新たに支店を立ち上げても余計な経費がかかるだけだ。

 しかし紡ぎ家は名古屋にビルを所有していたため、有効活用するためにも会社設立当初から西日本を担当する支店を立ち上げる予定だったらしい。それでも企業である限り、できるだけエージエント業務で得る売上を増やす必要があり、新規取引を増やしたのだろう。

「話が少しずれたね。伊藤さん達の件は、鳥越さんと紡木さんが戻ったら一度話をしておく。佐藤さんにも伝えよう。偶然かもしれないが、色々この辺りを探っている人間が重なっているから、皆混乱しているだろう」

「そうですね。調査会社だけでも、二社の人間が探っていたようですし。他の会社まで動いていたとなると、気付く人が見れば怪しげな人がうろついていると思うのも無理はないです。私は全く気付きませんでしたが」

「俺もそうだ。京川さんに言われて、初めてそうだったのかと思ったから」

「しかし矢尾さんがMIKAさんのことで何か知っている事があるか探るつもりでしたが、全く別の話になって驚きました」

 そう言って頭を掻くと、意外な言葉が返ってきた。

「そっちはいいよ。昨日は分かったことがあれば教えて欲しいと言ったが、止めていい」

「え、どうしてですか?」

「うん。紡木さんから先程連絡があって、少し思い当たる事があるらしい。それで直川賞の候補になるかがはっきりしてから動いても遅くは無い、という話になってね。それが良いと俺も判断した」

「そう言えば、先ほど電話が入っていましたね」

 矢尾との打ち合わせ中に彼のスマホが鳴り、紡木と話していた事には気づいていた。

「ああ。夕方には会社に戻るらしい」

 そこで時間を確認した。もう少しで五時になるところだ。

「もうそろそろでしょうか。そもそも今日なんですか。佐藤さんも前にいた会社に、今日か明日かぐらいは探れないのかな」

 一日外に出ずにいることの多い彼だが、今日もまた珍しく外出している。お昼過ぎまでは自分も外出していたが、今事務所にいるのは真鍋と陽菜だけだ。

「いや聞いてくれたようだよ。少し前に佐藤さんからも連絡があった。明日の夕方、早くて五時過ぎ、遅くて八時前には連絡があるだろうって。直川賞候補の件は社内でも一部にしか知らされない極秘事項だから、苦労したようだ。それで連絡が今日か明日になるかぐらいは教えろと、なんとか元同僚の口を割らしたらしい」

「だったら今日は大丈夫ですね。しかし明日伊藤さんかMIKAさんに電話があるかどうかで、かなり変わってきますから覚悟しないと」

「そうだな。二人がノミネートされたら、鳥越さんも紡木さんも相当忙しくなると思う。本格的に動き出すのはマスコミ発表されてからになるが、エージエントとしてそれまでに準備しておく仕事はあるからね。問題はMIKAさんだな」

「私の担当は先が見えてきましたから手伝います。突発的なトラブルが起こらない限り、少し余裕ができると思いますから」

「頼む。私も今のところ順調だから、なんとかなるだろう。もし受賞者が出たら忙しくなるぞ。マスコミ対応では、森さんに頼ることが多くなると思う。その時はよろしく」

 真鍋は矢尾が受賞した時の、担当編集者だったと聞いている。その為、既に経験済みだ。大変だったが、それ以上に喜びの方が大きかったという。また紡ぎ家になってからは本社勤務時代、伊藤さんが候補に挙がった時に担当している。よってエージエント会社側の苦労も良く知っていた。だからいざとなれば、彼に頼ることも出来るので心強い。

 ただ当時、彼女のノミネート自体が二回目だったこともあり、喜びより大変さの方が大きかったという。また紡ぎ家になってから直川賞を受賞した作家は、本社も併せて誰もいない。つまり今回受賞すれば、前例もノウハウもない初めてのケースとなり、多少は混乱するだろう。

「分かりました。今から覚悟しておきます」

「でも緊張するな。まずかかってくるかこないか、だ。もし候補に挙がれば、受賞した時に備えての準備で忙しくなる。さらに受賞するかしないかで、一カ月余りはずっとハラハラドキドキするだろう。嬉しい悲鳴だけどね」

「でも伊藤さん達の件はどうしますか」

 他社の動きを思い出し、再び不安になった。しかし彼は苦笑いして言った。

「甘いかもしれないが、俺は彼女を信じている。それに鳥越さんとの関係も上手く言っているはずだ。といって放っては置かないよ。でも変にバタバタするのもどうかと思ってね。それにお互い腹を割って話し合い、それでも彼女が相手の提示内容に心動かされて契約すると言うなら、受け入れるしかない。それより問題は戌亥さんだな」

「そうですよね。条件提示に心動かされたから、変な噂を立てたのでしょう。でも紡木さんとの関係が上手くいってなかったとは思えません。それこそ佐藤さんが怒っているように、担当作家に対してやり過ぎるくらい気を使って動き回っています。それでも戌亥さんには不満だったのでしょうか」

「提示された条件が、相当良かったんじゃないかな。それにいくら担当と信頼関係ができていても、結局作家は書いて売れてなんぼの世界だ。その根本が揺らいでいる戌亥さんを、相手は上手く乗せたのだろう。しかも伊藤さんを巻きこむ為だとは、本人も気づいていないはずだ。作品が売れない事で、それほど追い詰められていたんだな。冷静に物を判断できなくなるのも無理はない。だけどそういう場合、問題が大きくなる前に早く気づかせてあげないと」

 彼はそう言いながら椅子を回して振り向き、窓の外を眺めた。ガラスに移る彼の表情からは、何か別のことを考えている様子が伺える。

 そんな時事務所のドアが開いた。

「ただ今帰りました」

 真鍋が席を立ちあがり、入ってきた佐藤の方に声をかける。

「お帰り。お疲れ様」

「お疲れ様です。あれ、何かありましたか。紡木さんの椅子なんかに座って」

 コートをかけ終えた彼は真鍋に声をかけ、陽菜を見て軽く会釈しながら自分の席に着き、カバンからノートPCや書類等を机の上に置きながら言った。

「森さんと何かの打ち合わせですか」

「ああ、矢尾さんからちょっとした情報が入ってね」

「MIKAさんの件で何か判りましたか」

 彼は陽菜と真鍋の顔を交互に見ながら尋ねた。

「彼女の情報は何も得られなかったが、別件で気になる話を聞いて少し話していたんだ」

「どういう話ですか」

 明かに落胆して興味を失った態度に変わった彼は、引き続き机上のものの整理をしだす。そんな様子にも構わず、真鍋は他のエージエントの動きを説明した。

 だが彼は全く真鍋を見ず、黙々と自分のパソコンを立ち上げ、取り出した資料に目を通している。そのそっけない態度に陽菜は腹を立てた。

「ちょっと、話を聞いている?」

「聞いていますし、その話、実は俺も昨日の夜、色々情報を仕入れて知りました」

「え? そうなの?」

「だから少しムカついたんで、外出ついでにあの会社と契約している作家の事務所へ行ってきましたよ。前担当者達はあなたを今の担当に投げて放置し、自分は余所と契約している作家へ茶々を入れるので忙しいって。そうしたら新担当者とたまたま揉めていたようでした。それで会社がその程度の扱いをするのなら考えがある、と怒りだして紡ぎ家とエージエント契約する仮契約書にサインをくれました」

「え? なんて言う作家さんと?」

 彼が口にした名は、今まさに問題視している会社と契約している作家だ。陽菜も一度だけ新規開拓工作をした際に会ったことがある。その時は今の会社に満足しているし、他と契約する気はないとにべもなく追い払われた。そう告げると、彼は知っていると頷いた。

「この支店でも紡木さんが作成した新規開拓リストがありますよね。各担当者が訪問した作家名や他のエージエント契約の有無、有りならどこか、取引状況の不満の有無等、会話のやりとりや結果を入力して情報共有するあのリストですよ。そこに以前森さんが訪問した日や、その時の経緯も書いてありましたから」

「あのリストを見て訪問したの?」

「そりゃそうです。俺も名古屋に来て間もないですし、この近辺の作家がどうなっているか、あれを見ないと分かりませんから」

 彼の言うリストは、紡木が前職の経験を生かし本社にいた頃作成したものだ。徐々にバージョンを変えながら更新し、本社と支店で活用されていた。 

 そこには真鍋達が支店の立ち上げ時に新規開拓で訪問した多くの作家名と住所はもちろん、様々な情報が載っている。支店の担当者共有ファイルに保存され、担当者はいつでも更新でき、また閲覧できるようになっていた。

 陽菜も支店へ配属されて新規工作に力を入れていた時は、それを頼りに一通り訪問している。そして書かれている情報が古くなっていないか、新たな状況変化があるかないかを確認した記憶があった。

「悔しいですけど、あれは確かに使えましたね。エクセル表だから、地域や取引先の有無でターゲットを簡単に絞り込めますし。それであの会社と取引している作家を抜きだし、外出先から寄れる近場に絞って三軒ほど回ってみましたが二軒は駄目でした。そこは担当変更されてなく、担当者や会社と揉めてませんでしたし。その情報も外にいる時、リストへ追加入力しましたよ」

「でも一人から仮契約をもらったのは凄いよ。さすがだね」

 真鍋が褒めるとさすがに照れくさかったのか、彼は苦笑いしながら謙遜した。

「いえ、たまたまです。ちょっかいをかけてきている会社名でリストをソートして当たってみただけですから。それで前の情報と変わっていないか確認していたら、一人担当者が代わったって言うので鎌をかけたら、前の担当者が新規開拓要員として選ばれたから今の担当者に変えられた、とぼやいていましたよ」

「なるほど。それで突っついてみたら新しい担当者と相性が良くなかった訳だ」

「その人は元の担当に戻してくれって会社の上に言ったらしいです。そうしたら担当変更は一時的なもので、大阪支店を立ち上げられれば戻すという回答だったそうで、だったらいつになるんだと文句を言ったら、色々宥めすかされ誤魔化されたようです。その挙句、担当者への不満を告げても改善されるどころか、告げ口されて気分を害した担当者の態度が冷たくなって、余計険悪な関係になったと散々愚痴を聞かされましたよ」

「それはチャンスだったね。でも仮契約書まで持参していたのはさすがだな」

「これも受け売りですから。しかしここまで上手くいくとは思っていませんでした。突っつく相手にこっちが手を出したら、多少慌てると思っただけなんですけどね」

 紡木はリストを作るだけでなく、営業経験がほとんどない元編集者達にも判りやすい開拓ノウハウ集を作成していた。前の職場のものを活用したらしいが、営業経験のある陽菜から見てもそれは良くできている。

 いつでも見られるようにデータとしてパソコンに入っており、プリントアウトしたものを何度か熟読したことがあるので、彼の言う意味がすぐに理解できた。確かその中で、いつでも仮契約書を持って置くようにという一文が書かれていたからだ。

 ノウハウ集の一例を上げると、

“例え担当者や会社との関係が円滑で不満が無いと断られても、諦めてはいけない。担当者は必ず変わる。人付き合いが難しい作家達が相手だからこそ、その時がチャンスだ。以前は関係が良好でも、次と相性が悪い場合が良くあるからだ。

 会社との関係も同じで、いつ何時関係が悪化するか分からない。そのタイミングを逃さないため、定期的に顔を出すことが重要だ。そうすればいざ何か起こった際、仮契約書を結ぶ行為が鍵となる。その為常日頃から携帯しておくことを忘れてはいけない。“

 ただ仮契約書に絶対的な効力はない。あくまでエージエント契約を結ぶためには、事細かな条件を打ち合わせし、納得して決められた内容を正式な契約書に記載する必要がある。 

 よって仮契約書は本契約の前段階として結ぶものでしかない。その為契約するつもりが無ければ、直ぐに取り消しが出来る。しかし一度は条件をすり合わせる話し合いの場を設けなければならないので、他社と契約を結ぶ可能性があるとの脅しには使えた。また会社の態度によっては、本格的に交渉を開始する足掛かりとしての大事な契約書となり得た。

 仮契約書は新規開拓の武器にもなるが、逆に他社から攻撃される際にも当然使われる。よって守りの為にも日頃から作家とのコミュニケーションや信頼関係を築くことが大切だ、とノウハウ集には記載されていた。

 その点で佐藤と紡木は担当作家への対応の仕方が異なるため、良く衝突するのだろう。それでも彼が紡木の作成したものを活用し、書かれている通りに行動していたことが驚きだった。だから言わずにはいられなかった。

「それにしても佐藤さんらしくない動きね。効率良くがモットーなのに紡木さんのノウハウ集を参考にするなんて珍しい。しかもこの忙しい師走の時期に」

 彼はむっとした顔を見せたが、これに対しては開き直ったように答えた。

「ノウハウ集には業界が忙しい時こそ開拓のチャンスであり、逆に攻撃される危険があるとも書いています。今回戌亥さんが攻撃されたのはそこを突かれた。書いた本人が油断していたのでしょう。自分の担当作家を狙われたんだから、言い訳はできませんよね」

 戌亥が狙われたことを皮肉る態度を見て、彼がこの件を利用して他社の作家を攻撃した理由は、紡木の失態をより鮮明にするためだったのかと思えた。彼を見直しかけたがやっぱり嫌な奴だ、と考え直す。

「それは一度戌亥さんと話してみなければならないけど、俺は油断したとは思えない」

 真鍋がすかさずそうフォローしていたが、彼の反応はそっけない。

「どちらにしてもこれで相手を揺さぶり返す武器は手に入れましたから、戌亥さんはもちろん、伊藤さんともしっかり話をしておかないといけないでしょう。鳥越さんが帰ってきたら、真鍋さんも同席して膝詰の話合いをした方がいいと思いますよ」

「そのつもりだ。伊藤さんさえ押さえれば、戌亥さんは後でもいい。紡木さんが今抱えている案件が落ち着いたら、俺も同席してどんな経緯で言いくるめられたのか聞くつもりだ。事の次第ではこちらから契約を切ることも考えないといけないからな」

 冷静に話す口調からは似つかわしくない厳しい言葉が発せられたため、佐藤の方が驚いていた。陽菜も思わずギョッとする。その空気を察知した彼は、溜息をつきながら説明してくれた。

「だってそうだろ。俺は決して紡木さんが油断し、対応が疎かになっていたと思わない。会社としても、決して上げ足を取られる対応はしていないつもりだ。もちろん戌亥さんの言い分を聞いた上で判断するが、今回の件は俺だって腹が立っている。もし良い条件提示に目が眩み、紡木さんの悪口や会社とのトラブルをでっちあげたとすれば、制裁を考えないといけない。でないと他の作家さんへの示しがつかないし、今後のことだってある。これからもトラブルを起こす可能性のある作家を、抱えている必要はないからね」

「そうですね。話を聞いてから、判断すればいいでしょう。その場に森さんを立ち合わせた方が、彼も素直に話すと思いますが」

 厄介な作家や売り上げが見込めない作家はすぐに首を切ってしまえ、と口癖のように言っている佐藤には珍しく、戌亥をかばう発言をした。

 気づいてはいるが、戌亥は陽菜に好意を持っている。冷静な振りをして心の中では怒りが煮えたぎっている真鍋だけを紡木と同席させるより、陽菜を入れた方が揉めずに話が進むはずだ。彼の考えは、あながち間違いでは無い。

「いいですよ。私がいた方が戌亥さんも正直に話してくれそうですし、今後のこともありますからいい機会です」

 彼の電話攻撃には困っていたので、契約を存続させるのなら今までのような行為を辞めさせる絶好のチャンスだ。それに好みじゃないが、彼は根が悪い奴とも思わない。だからこのまま契約を切ることは、なんとなく可哀そうな気がしていた為、陽菜はそう言った。

 もちろん慈善事業ではない為、甘い感情論だけで考えることは間違いだろう。作家は作品を書き、売れて結果が出なければ次の執筆依頼が来なくなることだってある。そして毎年のように多くの作家が消えていく。それだけ厳しい職業だ。

 しかし陽菜が言うのもおこがましいが、彼を今後も書けない、売れない作家と判断するには早い気がする。かつて売れた実績もあり、その後低迷したが紡木とコンビを組んで一時期復活したことも確かだ。

 だからこそこの機会をバネにし、これからもう一度本気で取り組めばいい結果が出るかもしれない。そんな期待が持てる作家だと思う。

「そうだな。森さんに同席してもらったほうがいいだろう。紡木さんと二人で腹を割って話をしたほうがいいかもしれない。そこでどういう話が出るかによって最後の引導を渡すか、継続させるかを判断しても遅くはない。そうしよう」

 真鍋は自分がやや感情的になっていることに気付いたのか、言い聞かせるようにそう結論を下した。陽菜達がその意見に賛同したところで、事務所のドアが開く音がした。

「ただ今帰りました」

 紡木がそう言いながら、入口でコートを脱いでいた。その後ろを同時に帰社した鳥越が同じく挨拶をして入ってくる。時間を見ると五時を少し回っていた。

「ああ、いいところに帰って来た。少し落ち着いたら奥の会議室で打ち合わせをしよう。直川賞のこともあるからね。佐藤さんによると電話があるとすれば、明日の夜の八時頃までにはかかってくるようだから」

 真鍋が二人にそう伝えると、紡木が先に返事をした。

「分かりました。少しだけデスクワークしてからでいいですか。こちらからも報告することがありますので、三十分ほど時間をください」

「私も少し片付けたい仕事がありますから、その後でいいですか?」

 鳥越もまた席に戻り慌ただしくPCを机上で開き、鞄から書類を取り出しながら答えた。

「よし、では五時四十五分に奥の会議室で始めようか。報告と打ち合わせはその時にしよう。それまでは各自、今日中にやっておく必要のある仕事をできるだけ片付けてくれ」

「分かりました」

 四人が返事をすると、真鍋も自分の席に戻った。先ほどまで彼が座っていた椅子に紡木が腰をかけ、カバンの中身を取り出し机上に広げている。パソコンを立ち上げパタパタと何やら入力し始めているその様子をパーテーション越しに感じながら、陽菜もto do listを確認して残りの仕事に取り掛かった。

 さあ、今のうちだ。これから忙しくなるだろう。やるべきことをやっておかないと、いざという時動けなくなる。気合を入れ直し、負けていられないとキーボードを叩いた。

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