第五章:~別件調査

 真純を含めた三名が同時に答え、席を立って会議室を出た。早速自分の席に戻ってパソコン画面を開き、今日の仕事の流れを頭でシュミレーションしながら、彼女の件をどこでどう動くか、を考える。そして真鍋から言われたことを反芻した。彼女はどこにいるのか。

 そこである事に気づいた。そうか。その可能性はある。

 そんな時外線がかかってきた。電話を取ったスタッフがその電話を回してきた。相手は保険会社の高林からだ。早速変わると、先方がいきなり謝りだした。

「すみません。昨日の戸森さんからのご依頼の件ですが、少し時間をいただけませんか。先払いの承認に時間がかかりそうです」

「そうですか。どれくらいかかりそうです?」

 この件は戸森が勝手に進めた話だ。急かすつもりはなく、彼がどれだけ急いでいるか知った事ではない。それでも一応質問した。だが高林は口を濁し、はっきりと答えを言わない。

 その態度でピンときた。こういう場合、一担当者レベルで片付く話とは違うパターンだ。しかも真鍋に相談した件で悪い予想が当たっていたなら、それどころの話では済まない。

「了解です。その件は私から戸森さんに伝えましょう。もしそれまでに戸森さんから督促されたら、私に伝えたのでと言っても結構です」

 激しく追及されると覚悟していたのか、高林は意外な反応に戸惑っていた。だが助かったと思ったらしい。

「ではお願いします。また進捗があればご連絡します」

 そう言って電話を切った。ならば、と時計を見る。夕方までまだ時間があった。時間のかかる仕事は昨日の夜中までに済ませた為、特に急ぐものはない。行動予定リスト等を確認した上で、動くなら今のうちだと判断した。

「ちょっと出かけてきます。社有車、使いますので」

 真鍋に一声をかけバッグを持ち、鍵のかかった棚にある社有車の鍵を取って入口に向う。そこで自分の上着と黒いロングコートを着ながら、ホワイトボードにどう書こうと一瞬躊躇する。しかし正直に“岐阜”、帰社予定時間を“十七時”と書きこんだ。

「行ってきます!」

 後ろから何やら佐藤の叫ぶ声が聞こえたけれど、無視して出た。行先からMIKAに関する外出でないと勘づき、文句を言っていたに違いない。だが彼女の件は夕方でいいと思った。

 自分の考えが間違いでなければ、戻ってからでも手は打てる。だからこそ、今できることを今やるのだ。この件も放っておけない。いやこれこそ早く対応しなければ、取り返しがつかなくなるかもしれなかった。

 階段で一階の出口まで駆けおり外へ出た。ビュッと冷たい風が頬を叩く。今から向かう先は、この時期下手をすれば道路が凍結している可能性があった。

 名古屋地区周辺だと、余り雪は降らない。ただ年に二、三回程度は高速道路が通行止めになる事がある。その為先月の終わり、早めにスタッドレスを履かせた社有車の鍵を持ってきたのだ。

 中庭に向かい、車の扉を開けて中に乗り込む。道路が凍結していないことを祈りつつ、エンジンをかけナビに行き先を入力してビルの外に出た。最寄りの高速入口へ向うよう、電子音が誘導する。師走のこの時期、普段から運転マナーの悪さが有名な名古屋の道は、先を急ぐ車で適度に混んでいた。

 二時間程かけ目的地に着くと、一度Uターンして路肩が広くなっている場所にエンジンをかけたまま車を停車させた。お昼近かった為に途中寄ったコンビニで買った温かいおにぎりを車内で頬張り、同じく購入したホットウーロン茶のペットボトルを開けて口に流し込む。

 幸い道路は凍結していなかった。シーズンオフだからか、それともこの時間は元々交通量が少ないのかほとんど車は通らない。おにぎり二つを胃袋に収め、エンジンを切って車から降りる。冷え切った山の空気の中を、コートで身を包んで歩きながら道路を眺めた。

 事故報告書に書かれていた通り、この道路は主にゴルフ場へ向かう車が通るようだが、確かにいくつかのタイヤ痕が残っている。アップダウンが激しく、曲がりくねったこの山道が走り屋達にはたまらないのだろう。事故を起こした若者も、この場所を仲間達や時には一人で良く走っていたのだろうか。

 車が来ないか注意しながらじっくりと道路中央を歩き、実際に事故の起こった場所へと近づいた。車を止めた場所は、戸森と田端が事故当日に行ったゴルフ場のある方向だ。そこから歩いてゴルフ場から帰ろうとする加奈子が運転していたコースを辿り、真純は事故場所に実際立ってみた。

 このコースは事前にネットの地図情報を使い、立体映像で確認している。軽くカーブはしているものの、戸森達の走行車線から対向車線は比較的よく見えた。片側一車線で直線に近い道と言える。視界は決して悪くない。

 衝突した個所を通り過ぎ、今度は相手側が走ってきた道路を辿った。しばらくすると左に曲がりながら登る道に差し掛かる。そこで今度は後ろを振り返り、再び事故を起こした場所を眺めた。

 報告書通り、相手側から見れば峠を越えて下りながら右に曲がったのだろう。だがスピードの出し過ぎだったのか、運転操作を誤ったのかセンターラインをオーバーしたらしい。結果、対向車線を走る戸森達の乗った車と正面衝突したとの見解は、一見自然に思える。

 しかしこれは運転手側が即死だった為、あくまで戸森側からの主張と状況を照らし合わせて出されたものだ。

 もう一度引き返す形で事故場所に向かって歩く。ネットの画面からは判別し難かったスリップ痕を念入りに見た。これも報告書通り、峠の走り屋達が頻繁に通る道なので消えかかった痕もあれば、真新しいものも多数ある。

 事故当日は、夕方近くから激しい雨が降ったようだ。よって事故直後に警察が現場検証に訪れて検証したとしても、これだけ多数あればどれが事故を起こした車のスリップ痕か調べる事は、容易で無かったかもしれない。

 だが現場の状況と一方だけだが事故状況の説明と矛盾しなかった為、相手側のセンターラインオーバーと判断されたのだろう。警察が発行する事故証明書にそう記載されれば、おそらく相手保険会社もその通りに動いたはずだ。それは当然の流れだった。

 保険会社からすれば、運転手側はすでに死亡しているが、相手方の戸森達は一人が意識不明の重体、二人が長期入院するほどの重傷なのだ。その為示談交渉において素早く対応しなければ後々トラブルになると考え、迅速な初動が求められたと想像できる。

 しかし今になって相手の保険会社が賠償金の先払いを少し待ってくれ、と言いだしてきた。戸森達は、事故から既に一カ月以上入院している。その間の入院費は病院側が相手保険会社に請求をしいる事は間違いない。

 休業補償は別にしても、単純にそれまでの日数分の慰謝料を計算すれば、普通なら自賠責換算でも戸森夫妻二人分を合わせて最低三十万円位なら、先払いをしていてもおかしくはない。それなのに、だ。

 現場を実際目の当たりにしてもう少し調べる必要があると考え、車に戻った真純は相手運転手である金城の住所をナビに入力して車を走らせた。ここから三十分ほど走れば着きそうだと判り、車内のデジタル時計を見た。先方で少し話が長引いたとしても、夕方近くには会社に戻れるだろうと頭の中で計算する。

 突然訪問するのはどうかと思い、ハンズフリーのイヤホンを使ってスマホで先方の家に電話をかけると、金城の母親らしき女性が出た。真純は言った。

「突然で申し訳ございません。私、紡木真純と申します。先月金城翔さんが運転されるお車と衝突した際、後部座席に同乗していた会社の同僚です。まだ彼は入院中なので、代わりと言っては何ですが、お亡くなりになった金城さんにお線香を上げさせて頂きたいと思いお電話致しました。実は今お宅の近くまで来ているのですが、お伺いしてよろしいでしょうか」 

 戸森達の事故対応窓口担当者である事は伏せ、そうお願いすると向こうは警戒したのかしばらく黙っていた。何せ金城の親にとっては代行とは言え被害者側の人間が訪問に来るというのだ。どういう因縁をつけられるかと心配するのは当然だろう。

 それに普通の事故では、関係者同士による直接の接触をできるだけ避ける。保険会社が間に立っていれば、どこで感情的になるか判らない為、そう事前に忠告するからだ。

 だが真純は直接の関係者ではない。そこでさらに続けた。

「こちらに全く他意はございません。私の同僚も単に居合わせた身でして、若くしてお亡くなりになったお相手に、せめてお悔やみ申し上げたいと言っております。ただそれだけなのですか駄目でしょうか」

 かつての経験を生かした話術を総動員し、相手に考える余裕や保険会社に相談する時間を無くすほど畳みかけ説得したのだ。すると渋々ながら家に上がる許可を頂けた。 

 幸い普段から仕事の場合、紺やグレーなどシックな服装をするように心がけている。その為、お悔やみに来たと言っても失礼のない格好をしていた。これは前職の経験からだ。保険会社は金融関係だが、銀行ほどお堅いイメージはないかもしれない。しかし真純は入社当時に学んだことを肝に銘じている。

“君達は様々な職種、様々な人達と接する機会がある。中には堅苦しいのが嫌でラフな格好を求める人もいるが、一番厳しく服装にうるさい人に合わせた服装をする方が間違いは少ない”

 そう教えられ、入社以来シャツは白、スーツは紺かグレー以外着用したことがない。職が変わった今でもその習慣が抜けなかった。あれだけ体が拒否反応を示した前職で学んだ考え方や癖が、未だ体に染みついているとは不思議だ。

 しかし辛い思いはしたけれど、社会人としてまたは人間生活を送る上で無駄な経験でなかったと、再就職した今はそう思っている。 

 ナビの音声が車内に響き、目的地に近づいたことを知らせてくれた。町外れの、地方にはよく見られる集落の一画に金城の家はあった。割と大きな平屋建ての家で敷地も広いため、詰めれば車が三台ほど停められるスペースがある。

 このような地方都市で街の中心街から離れた世帯では、車が無いと生活できない。その為一家で車二、三台を所有していることは珍しくなかった。砂利が敷かれている駐車スペースに軽トラックが一台だけ停まっている。おそらく電話に出た金城の母親が、買い物や農作業などの足代わりとして使用しているのだろう。

 事前に仕入れていた情報によると、金城の父親は中学校の教師をしていて、家は兼業で農家もやっていたはずだ。バス停は少し離れた場所にあり学校からもやや距離があるため、おそらく父親が通勤の為に使っている車がもう一台あるはずだ。

 職場に乗って通っているのなら、ぽっかり空いたスペースにはその父親の車と、かつて金城が乗っていたスポーツタイプの車が駐車されていたのだろう。彼はその車を使って岐阜市内にある大学へと通っていたはずだ。しかし彼の車は事故で廃車となり、乗っていた人間はもうこの世にいない。

 その物悲しく空いたそのスペースに車を停車してエンジンを切り、途中で買っておいた茶菓子を持って車を降りた。そして玄関までわざとゆっくりと歩きインターホンを押す。砂利と車のエンジン音で、訪問客が来たとすでに察知しただろう金城の母親はすぐに出た。

「先ほどお電話した紡木と申します」

 その一言だけで相手から、どうぞお入り下さいという返答があった。

「それでは失礼します」

 一声かけてから鍵のかかっていない玄関の扉を横に開け、三和土に上がった。一段高くなった玄関先は広く、大きな木彫りの置物が置かれている。割と裕福な家庭のようだ。奥から金城の母親と思われる、四十代半ばとみられる女性が出てきた。

「突然で申し訳ございません。ただお線香だけでも上げさせていただければと思い、お伺いしました。お時間はとらせませんので」

 金城の母親は真純の顔を見て一瞬驚いていたようだが、動揺を隠しながら軽く頭を下げた。この手の反応は慣れている。電話やインターホン越しの声と実際の見た目のギャップにより、初対面で会うほとんどの方は彼女のようなリアクションを取るからだ。

「わざわざありがとうございます。どうぞおあがり下さい」

「それでは失礼します」

 簡単なやり取りを玄関先で済ませ、靴を脱いで上がり彼女の後ろをついて廊下を歩き、一つの部屋の襖を開けて中に入った。そこは広い仏間で大きな仏壇が置かれていた。年季の入った仏壇だ。新たにあつらえたものではなく、ご先祖様も祀られているものだろう。

 その横にまだ四十九日を迎えていないためか、別の祭壇がある。そこには真新しい写真立てが置かれ、中には若者の笑った顔が映っている写真が入っていた。そんな光景を見ただけで心が痛んだ。

 この時、事故死した相手の顔を初めて見た。峠を夜な夜な走っている若い大学生という先入観もあってか、頭の中では無意識にチャラそうで今時の若者というイメージを描いていたが、写真を見る限りとてもそうは見えない。 

 黒髪でさっぱりとした爽やかな青年らしい、それでいてまだ幼さが残っている、とても笑顔の似合った若者に思えた。

「それでは失礼して」

 金城の母親に断りを入れてから祭壇の前に置かれた座布団に正座し、焼香をして静かに手を合わせた。これまでも少なからず事故で亡くなった方のところへ伺い、何度も頭を下げてきた経験がある。

 ただ今回のように加害者宅を訪ねた事は一度も無かった。顧客が起こした事故の被害者宅に行き、針の筵に座る心持ちで手を合わせてきたことしかない。だから今回は若くして亡くなった人へ、素直に哀悼の意を込めて拝むことができた。

 下げていた頭を上げ、瞑っていた目を開けて横で静かに座っていた金城の母親の方を向く。再び頭を下げてお悔やみの言葉を告げると相手も軽く頭を下げたが、加害者側との意識もあるのか、彼女は少し緊張しているように見えた。

 そこで口調を変え、わざと明るめの声で彼女に話しかけた。

「とてもいいお写真ですね。これはいつ撮られたものなのですか」

 意外な質問に戸惑っていた彼女だが、遠慮がちに小声で教えてくれた。

「二年前、大学に合格した後に記念として取った写真です」

 それで二十歳にしては幼さがあると感じたのか、と心の中で納得する。だがここに映っている若者がおよそ二年後にはスポーツカーを乗り回し、死亡事故を起こしてしまったのかと母親の立場で想像すれば、大変心苦しくて仕方がない。

「確かお名前は翔さんでしたね。いいお名前ですが、どなたがつけられたのですか」

 彼女はまたおかしなことを聞くとばかりに眉をひそめていたが、再び小声で答えた。

「祖父です。初孫でしたものですから」

「失礼ですが祖父様はご健在なのですか。このお家でご一緒に生活されているのですか」

「はい。ここには主人の父と母と私達夫婦、そして一人息子の翔の五人で住んでおります」

 彼女は意図的に、過去形では無く現在進行形で喋ったのだと判った。少し先ほどより声が大きくなっていることに気付く。それでも重ねて話を続けた。まだ大事なことを聞いていない為、ここで帰る訳にはいかない。

「お祖父様達はもちろんのこと、ご両親も今回の事故のことをお聞きになった時はさぞ驚きになったことでしょう。写真を見る限り、とても素直で爽やかな青年のようにお見受けできますが、翔さんはどんなお子さんでしたか?」

 それまで表情の硬かった彼女の顔が歪み、思わずと言った様子で大きな声を出した。

「か、翔は、悪い子じゃありません!」

 目に涙を溜め、正座している膝を悔しいのか両手で強く掴みながら、睨むように真純と視線を合わせて話し出した。その内容は初めて耳にする情報で、とても聞き逃すわけにはいかないものだ。もっと詳しく聞きだすために、少し落ち着かそうと、

「足を崩しませんか。私も崩させていただきますので」

 先に祭壇の前の座布団から離れ、畳の上に足を崩して座った。間を外された彼女は強張った表情をやや緩めて同じく足を崩す。改めて先ほどの話で疑問に思ったことを尋ねる。

 しばらく質問を重ねる内に、他にも話を聞いておかないといけない人物がいると考えた。

「翔さんと付き合っていた方と連絡はつきますか? もちろん番号を教えて欲しいということではありません。よければお母様から彼女に連絡していただき、私に代わって話をさせていただくだけで結構です。翔さんがどんな思いをしていたか、お伺いしたいのですが」

 真純の依頼に、母親は顔をしかめた。

「私の話が信用できないとでも?」

「いえ、逆です。事実をしっかりと確認したいのです。今、お母様が言ったことと同じ話を彼女の口から聞いて、また新たな話があるようならば知りたいのです。なぜ息子さんがあの場所で亡くならなければならなかったのか、知りたくありませんか。警察はそこまで調べてくれていますか。お母様の話は聞いたとしても彼女の話まで聞いているでしょうか」

 まるで事故を起こした責任が翔に無いことを調べているような口調で話す真純を、母親はしばらく不思議そうに見つめている。しかし決心したのか立ち上がり、部屋の隅に置いてあった固定電話の子機を使って電話をかけ出した。

 相手が出ると、小声で何やら説明していた。おそらく翔の彼女に電話をしているのだろう。そこで真純と話す気があるかどうかの確認を取っているに違いない。

 じっと電話を代わってもらえるまで待っていた。しかし少しして電話は切られた。断られてしまったと唇を噛む。これ以上は別の角度から調べなくてはならない。だがそれでは時間がかかってしまう。

 母親が子機を置き、落胆していた真純に近づいて再び先ほどと同じ場所に座った。

「すみませんでした。急に知らない相手に話を聞きたい、と言われても困りますよね。当然だと思います。勝手言って申し訳ありません」

 気を取り直して先に詫びると、母親は首を横に振った。

「いいえ、香奈かなさんというのですが、彼女にあなたが話をしたいと言っていることを告げたら、電話では無くここに直接来ると言っていました。十五分もすれば来られるそうです」

 これには驚いた。一瞬諦めていたがこれで新たな情報を得られるかもしれない。心の中では喜んだが、そう悟られないよう慎重に確認の意味も込めて尋ねた。

「そうですか。ご無理なことを言ってしまったのではないですか? 彼女、バイトをしていたり、忙しくしていたりしませんでしたか?」

「先ほどお話ししたように、本来なら彼女はこの時期バイトを終えて、ずっとどこかのスキー場で滑っているはずでした。でも翔が亡くなってから、彼女はサークルを辞めたと聞いています。大学も試験が終わり休みに入っているようですから、今日は家でじっとしていたようです。ですからお気になさらずに。ただ彼女はまだ翔が死んだのは自分のせいだと思い込んでいて、落ち込んでいることは知っておいて下さい」

「分かりました。気をつけてお話しするように致します」

 予想以上の展開に胸を躍らせながら、しばらくの間は待つしかなかった。その間、母親は奥に一度引っ込んだかと思うと再び戻り、お茶とお茶菓子を持って畳に置いた。

 そのタイミングで渡しそびれていた菓子折を母親に渡す。逆に恐縮されたが受けとって頂き、祭壇に供えてくれた。用意して貰ったお茶を一口飲んだところで、今度は母親から質問された。

「紡木さん、とおっしゃいましたね。先ほどからあなたは翔を責めるような言葉は一言もおっしゃいませんが、どうしてですか。後部座席に座っていて巻き込まれたとはいえ、会社の同僚の方もお怪我をされて入院していらっしゃいますよね。しかもあの事故で運転されていた方は意識不明だと聞いています。それなのに、なぜですか」

 姿勢を正し、母親の視線を正面から受け止めて返答した。

「こう言っては何ですが、私は事故の当事者ではありません。同僚は入院していますが、応援要員が本社から来ています。ですから直接迷惑を被ってはいませんし、誰かを責める資格もありません。それに翔さんはお亡くなりになっています。私は死者に鞭打つ真似はしたくありません」

「それならなぜ、この事故のことを詳しく聞かれるのですか」

 もっともな疑問だ。そこで正直に身分を明かした。

「私はエージエント会社に勤めていますが、前職は保険会社に勤めておりました。訳あって転職したのですが、自動車事故などの担当をしたこともあります。例えばそちらが加入されている保険会社の高林さんのような仕事もやっていました。ですから普通の方より保険や事故に関して詳しいのです」

「そうですか。でもそれが、なぜ? 興味本位、ではありませんよね?」

 彼女の疑念を晴らそうと、真純は姿勢を正して言った。

「違います。確かに今の私の立場は、高城さんとは逆の立場にいる人間かもしれません。ですが過去の経験から、今回の事故に疑問を持ちました。なので、確かめずにはいられなくなったのです。その為真相を知るには、一方の話だけを聞いていてはいけない、と思いこちらにお邪魔しました」

そこから最近保険会社か警察が、事故前の翔さんの様子を確認していないかを尋ねた。事故直後に判断された事が、ある程度時間が経ちお互いに冷静になってから、新たな事実が出てくる場合は少なからずある。そうしたことは無いか、改めて確認をしたのだ。

 その間じっと母親の目を見続けた。だから真剣な想いが伝わったのだろう。

「そこまでおっしゃるなら、私も正直にお話しします。お気を悪くされるかもしれませんが、保険会社や警察からは何も言ってきません。だから私達から何度もお願いしました。もう一度事故の件をしっかり調べてください、と。先程お話ししたように、翔があの時間のあの状況で、危険な運転をしていたとはどうしても思えないのです」

 なるほど、保険会社の動きが急に悪くなったのは加害者側の母親が異議を申し立てているためだったのか、と納得した。だがその行動でどこまで保険会社や警察が動き出すか、動きだしているかはまだ不明だ。

「警察から連絡があって病院に駆け付けた時、事故について聞かされましたが、私は信じられませんでした。しかし翔が死んだというショックもあり、そんなはずはないとその場では言えなかったのです。相手側の運転手の女性が意識不明の重体で、同乗していた二人も重傷で入院していると教えられたので、余計口に出せませんでした」

 母親がそこまで続けた時、庭から原付だろうかバイクの音がした。エンジン音が消え、しばらくして玄関が開く音と声が聞こえた。

千恵子ちえこさん、香奈です。失礼します」

 千恵子というのは翔の母の名前だ。付き合っていた彼の母親を下の名で呼んだことで、二人がとても親しい間柄であることが判る。

 千恵子が返事をする間もなく、こちらに向かってドタドタと廊下を歩く音が近づいて来て、襖が開けられた。こちらは下から見上げる形だったが、現れた女性は一見して小柄でとても可愛らしい印象のお嬢さんだ。

 けれど彼女の顔は強張り真剣な顔をしていたので、こちらから座ったまま声をかけた。

「すみません、急に押しかけて話をしたいと勝手を言いまして。私、紡木と申します」

 頭を下げた真純に、彼女は虚を突かれたような表情に変った。こういう場合のアニメ声はとても武器になる。怒っている相手の沸点を一瞬だけ低くさせる効果があるようだ。 

 しかしその後は人によって対応が大きく別れる。甲高い声が逆に相手の神経を逆なでしてしまうケースと、怒りがそのまま納まっていくケースだ。千恵子もそうだったが、香奈が取った態度も後者だった。

「か、川上かわかみ香奈です」

 彼女が名乗って千恵子に視線を移し、その目配せにより千恵子の隣へ座った。

「ご足労をかけました。ありがとうございます。電話で翔さんのお母様からお聞きになったと思いますが、少しお話を聞かせていただけませんか」

 少し腰を浮かし、自分の名刺を差し出しながら下手に出てお願いした。彼女は手に取った名刺と真純を交互に見た後、口を開いた。

「どういったことでしょうか。翔くんのことだと聞きましたけど」

 先程までの表情に比べ少し柔らかくなっていたが、それでも警戒心は解けていない口調だ。その為ゆっくりと丁寧に説明した。

「先ほどお母様からも伺いましたが、翔さんは一時期峠を走る行為をされていたようですね。走り始めたきっかけからお伺いしたいのですが、その辺りの事情はご存知ですか」

「はい。翔くんは大学の入学祝いで車を買ってもらって嬉しかったのでしょう。高校時代の友達の影響を受けて、夜遅く峠を走るようになったそうです。私が翔くんと話すようになったのは大学一年の冬になってからなので、それ以前のことは聞いた話でしかありません。でも彼は大学を合格した後教修所へ通って免許を取り、すぐに車を乗り始めたと言っていました。車好きな昔の友人達と仲が良かったようです」

 彼女によると、翔は大学入学当初は峠を走ることに夢中になっていたが、大学生活で新たな友達もできたからだろう。香奈も加入していたスキーサークルへ一年の秋頃から所属したという。

 冬になると峠道が凍結し始めて走れない、または道路自体がクローズされる。だからその間は、別の遊びをしようと考えたのだろう。幼い頃からスキーをよくやっていた為、そのサークルを選んだようだ。

 香奈の出身は同じ岐阜でも市内ではなく雪が良く降る高山市で、翔と同様に小さい時から雪山を滑ることが大好きだったという。そこで大学へ入学してすぐスキーサークルに入ったらしい。高山から大学へ通うには、時間がかかる。その為香奈は実家を離れ、市内で一人暮らしを始めた。経済的な事情も重なり、積極的にアルバイトをしていたようだ。

 よってシーズン以外は、ほとんどバイトに明け暮れているサークルの体質があっていたのだろう。オフは稼ぐだけ稼ぎ、シーズンに入っても緩いサークルなので参加を強制されることはなく、自分が滑りたい時だけ滑る方針だから良かったらしい。

「そのサークルに途中で加入してきた翔くんと、一緒に滑る機会が何度かありました。そこで会話を交わすようになって、付き合い始めました」

 その後の話は大筋千恵子が話した通りだったが、より詳細に聞くことができた。ただ千恵子が心配していたように、事故が起こるきっかけを作ってしまったと自分を責める気持ちが出たのか、最後の方は消え入りそうな声で訴えていた。

「香奈さんは、保険会社や警察から何も聞かれていませんか」

 彼女は首を横に振ったが、千恵子が横から補足説明をしてくれた。

「先程言いましたように、私から保険会社や警察の方には抗議しました。その時私だけでは信用してくれないと思って、香奈ちゃんも一緒に同席して貰ったのです。相手は頷いてはくれたもののこちらが一方的に説明しただけで、向こうからは何も質問などされませんでした」

「それでは、峠で一緒に走っていたお友達の名前や連絡先は判りますか」

 千恵子の方を向いて尋ねた。

「二、三人くらいなら判ると思います。でもそんな事を聞いてどうするおつもりですか?」

 彼女は香奈と目を合わせ、逆に質問してきたので真純は答えながらさらに尋ねた。

「警察や保険会社が動かないのなら、こちらで調べます。もちろん費用等は当社で支払いますから問題ありません。万が一請求する事になったとしても、それは金城さんにでは無く保険会社へ回しますから、ご安心ください。それと、もう一つ伺ってもいいですか。香奈さんはあの日どこかにデートに行くとか、彼と約束などされましたか。前はこのお家に遊びに来たりしたこともあると伺いましたが」

 香奈は少し怯えた様子を見せたが、ポツリポツリと話してくれた。

「あの日は雨が激しく降って来ていたので、翔さんは少し車でドライブした後、家に行こうと言ってくれました。だからこちらの家にお伺いするつもりでした」

千恵子がさらに付け足した。

「そうです。だからなかなか迎えが来ない翔を心配して、香奈ちゃんは家に電話をくれました。その時確かにそんな話をしていたと思います。帰りにそちらへ伺う予定なのですがいいですか、と言っていました」

「分かりました。お二人ともお辛いことを思い出させてしまって申し訳ございません。それでは一人でも二人でも結構です。翔さんのご友人の名前や連絡先等を教えていただいたら、今日は失礼致します。個人情報なので、お相手の方に確認が必要であれば連絡は後日でも結構です。名刺にも書いてあります会社のメール先でも構いません」

 既に亡くなった友人の名前と住所は、地元の新聞にも載ったのでいいだろうとその場で教えて貰い、他の友人の連絡先は本人達に確認をしてからとなったので、真純は家を後にした。

 時間を確認すると、思った以上に過ぎていた。会社へ夕方までに戻るにはギリギリだ。運転しながらハンズフリーのイヤホンを使い、スマホから電話をかけた。相手はすぐに出た為、別件の追加調査依頼として用件と相手の名前と住所を伝え電話を切った。

 これでまずは十分だ。千恵子達からの連絡が少し遅くなったとしても、プロの調査員ならその先は自ら調べてくれるに違いない。もちろん他の友人の連絡先も判れば調査する時間は短縮できる。しかしそこまで急ぐ案件では無い。

 まずは一つ、懸案事項の方向性が決まった。後は明日以降に行動すればいい。今日はこの後MIKAの件で連絡があるかを社内で待ちながら、溜まったデスクワークをこなそう。その前にまだいくつか連絡しなければならない先がある。真純は事故に注意しながら会社へと戻る道を急いだ。

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