第四章:~作家達の動きとMIKAの過去
夕方、紡木が事務所へと戻って席に着くなり、陽菜の後を通って佐藤が歩み寄った。
「おい、MIKAに関して、何か判ったことはないのか」
前振りなしでいきなりの発言に、彼は頭にきたのか皮肉を効かせて言い返していた。
「何もありません。こっちが聞きたいですよ。彼女の生みの親でもある元担当編集者さん。何かそちらに連絡はございましたか?」
「今の担当はお前だろう! まだ連絡はつかないのか!」
「つきません。今日は岐阜の病院へ戸森さん夫妻と田端さんの様子を見に行ってきました。でもその前に彼女のマンションへ寄りましたが、まだ帰って来た様子はありません」
「マンションに寄っただけか」
「両隣の方や管理人の方にも話を聞きました。ですがその後も見かけていないそうです。新たな情報も得られませんでした。警察にも問い合わせましたが、その後の巡回の様子でも変わったことはないようです。MIKAさんと思われるような身元不明の人の情報も入ってないとのことでした。以上ですが何か?」
そこで真鍋が席から立ち上がり間に入り、MIKAの話を終わらせて話題を変えた。
「なんだ、岐阜にまで行ってくれたのか。ご苦労さん。彼女も心配だが、もう少し様子をみるしかないな。ところでどうだった? 戸森さんや田端さんの様子は。奥さんはまだ意識が戻らないんだろ」
おかげでそれ以上何も言えなくなった佐藤は、軽く舌打ちをして自分の席へと戻った。その背中を見送りながら、おそらく心の中で舌を出し中指を立てていただろう紡木は、外出先で得た情報等の報告をし始めた。
そこで漏れ聞こえてきた内容を耳にしていると、陽菜には少しきな臭い感じが漂ってきたのだ。その為こっそりと椅子を移動させた。
戸森の家の経済事情が苦しく、賠償金の先払い請求をしている事に触れた時は、珍しく真鍋が怒った。
「勝手に話を進めるようなら、今後の対応も考えなきゃいけないな。これ以上我儘なことをし始めたら、自分で事故対応するよう言ってやれ。紡木さんは田端さんのことだけ対応してくれればいい」
彼が余りに厳しい結論を口にした為、紡木が慌てて宥める。
「いえ、事故対応は引き続きやります。黙っていたのも余り聞こえがいいことじゃありませんから、言い難くかったのだと思います。田端さんすら知らなかったようですから」
「紡木さんがそう言うならいいが、目に余るようなら本当に突き放してもいいぞ。退院できなくても、それ位はできるだろう」
だがその後に田端の件について話し出した時、彼は険しい顔をさらに歪めていた。
「隠している事ってなんだ」
「分かりません。ただ、何かある事は間違いないと思います」
「それは今までの経験上、っていう意味か」
そう問われ、紡木の表情が変ったように見えた。何かに気が付いたようだ。
「真鍋さん。本来の業務と外れてしまうかもしれませんが、調べて見てもいいですか」
その言葉に少し考えていたが、まずは確認しておきたかった事を尋ねていた。
「今抱えている、編集関係は問題ないか」
「はい。年末進行で厳しいスケジュールでしたが、なんとかなりそうです。MIKAさんの件を除いて、ですが」
「ああ、そっちもあったな。寺坂さんの方はどうだ」
「しばらく放っておいて欲しいと言われてしまいましたし、取り急ぎの案件でもありません。ですからそのままにしていますが。少し突いた方がいいですか」
「そうだな。四階の部屋に入ってから今日で三日目か。そろそろ一回突いて、その後のことは反応を見てから考えよう。少しイレギュラーな件が重なって忙しいだろうが、気になるなら調べてみた方がいいかもしれん。やれるか」
紡木が即答する。
「やります」
「分かった。私に手伝える事があれば、何でも言ってくれ」
「ありがとうございます」
彼に頭を下げると、何か言わずにはいられなかったのだろう。同じく話を聞いていた佐藤が席に座ったまま、わざと聞こえるような声で文句を言いだした。
「寺坂なんて奴は放っておけばいい。問題はMIKAだ。そっちをちゃんとやれよ。余計なことばかりしてないで」
しかし負けずに反論した。
「担当外の人に、とやかく指図される筋合いはありません。私は支店長である真鍋さんの指示に従います。あなたは自分の仕事をやってください。ちゃんと、ね」
感情的になった彼が席を立った。
「なんだと!」
しかし真鍋がそれをたしなめる。
「こら、ここは職場だぞ。喧嘩をする所じゃない。まず佐藤さんは作家さんのことも含め、社員に対してもきっちり、“さん”付けで呼びなさい。それが会社のルールだ。いくら一時的な応援要員とはいえ、そういう態度をとり続けるようなら、本社に戻ってもそれなりの評価しかもらえないよ。直属の上司では無いが、紡木さんはこの会社の初期メンバーの出資者で役職もあることを忘れないように。君の態度は社会人として許される範囲を超えている」
だが返す刀で紡木に対しても注意した。
「紡木さんもいちいち喧嘩腰にならない。自分の考え方と違うからと言って、その都度感情的になるようなら、役職者としても失格だ。もっと冷静になりなさい」
まさしく正論を言われた二人は揃って彼に頭を下げて謝った。
「すみませんでした」
「謝る相手が違うだろ」
そう言われたらしょうがない。とても心から謝ることなどできなかっただろうが、
「すみませんでした」
紡木が佐藤に謝罪すると、彼も同じく嫌々ながら頭を下げていた。しかし二人が完全に和解した訳では無い。ただその場限りのことだと、誰もが思っていたはずだ。
「もういいから各自仕事に戻ってください」
真鍋の指示に従い、二人とも席に座った。陽菜も仕事を再開する。そこで紡木が内線電話をかける音が聞こえた。おそらく相手は寺坂だろう。しばらくして彼女が電話に出たようだ。極力明るい声で話しかけている。
「紡木です。今大丈夫ですか? 何かお困りのことはありませんか?」
だが相手の反応は芳しくないようで、声のトーンを落とし会話を続けようとしていた。
「分かりました。すみません。ただ一つだけ。進捗具合の方はどうですか? そうですか。では失礼します」
そう言い終わるが早いかすぐに電話を切られたらしく、深い溜息をついていた。
「取りつく島もないようだな。しばらく放っておくしかないか」
横で聞いていたらしい、真鍋の声が聞こえた。
「はい。なんとか書いているとは言っていましたから、少し時間を置いて待つしかないですね。再度突くとしても一週間後くらいでいいですか」
「その方がいいな」
「そうします」
早速キーボードを叩く音が響く。おそらく行動リストの中に寺坂へ連絡、とでも入力しているのだろう。
「彼女、ほとんど外出はしていないみたいだな」
真鍋は自分の席に戻り、パソコン画面を見ながら再び話しかけていた。ビルの入出記録を確認して言ったようだ。
このビルのセキュリティーはしっかりしている。入出時にはそれぞれが持つ入社証のセキュリティカードが必要だ。後は寺坂が入室した時のように、中にいる社員が許可して入口のドアを開けるしかない。
また彼女には部屋へ入るカードキーを渡している。彼女がビルから出入りする場合はそれをかざせばいい。入出状況は支店長である真鍋のパソコンにより、全て確認できるようになっていた。その為ビルを出入りしたなら記録が残る。そのデータを見て、彼女がほとんど出入りしていないと判ったのだろう。
二人の会話を聞いた陽菜は、パーテーション越しに顔を覗かせて伝えた。
「彼女は食事も全て、下の定食屋から出前を取っているようです。一度下のコンビニで見かけましたが、お菓子とか飲み物とか夜食に出来るような食べ物や、日持ちするものを選んで大量に買っていました。完全にカンヅメ状態に入っているからじゃないですか」
「それで集中して執筆が進んでいるなら、言うことはありませんが」
紡木が呟き、陽菜も頷いた。
「相当買いこんでいたから、しばらくは一歩も外に出ない覚悟って感じだった。だから大丈夫じゃないかな」
「分かりました。教えていただいてありがとうございます」
彼の礼を笑って受け、顔を引っ込めた。
「それじゃあ、さっき言った通りでいいだろう」
「そうします」
確認し合っている二人を余所に、パソコン画面に表示されている時間を見ると十七時は過ぎていた。
「保険会社へ電話しても繋がらない時間ですから、そちらの確認事項は明日にします」
紡木は真鍋にそう告げてまた行動リストに入力している様子だったが、突然席を立って斜め前の席にいる鳥越の顔を覗き込んだ。
「ごめん、鳥越さん、今ちょっと話しかけていい? イノさんのことだけど」
パソコン画面から顔を上げた彼女は首を傾げた。
「戌亥さん、ですか。なんでしょう」
「この前、モタさんに色々言ってきた話があったけど、あれから何か聞いてない?」
そういえば二日前に連絡を下さい、と彼は留守番電話にメッセージを入れていた。思い出した陽菜が会話に割り込んだ。
「そういえばどうなった? 戌亥さん、あれから連絡してきた?」
「ありません。こちらも特に督促していません。ですがあれから二日経ちます。あの時行動リストに二日後確認と入力していたので、こちらから連絡してみようと思い付きました。でもその前に鳥越さんが伊藤さんから何か聞いてないか、確認したかったので」
彼の説明に頷き、彼女の方を向いた。しかし陽菜達の顔を交互に見ながら、首を横に振った。
「何も言ってきませんね。伊藤さんにはあの日確認しますと言いましたが、戌亥さんと連絡がつかなかったのでまた分かったらご連絡しますと電話しました。伊藤さんには、“じゃあ何か判ったら教えて”と言われてそれっきりです」
「そう。こっちにもあれから連絡ないなあ。いつもならそろそろ外線にかけてきて、どうでもいい話を私にしてくる頃だけどね」
嫌なことを思いだし、自然としかめ面になっていた。その表情を横にいる鳥越が覗いて複雑な顔をしている。それが余計面倒で、さらに気分が悪くなった。
「それならいい。情報のすれ違いがあるといけないと思っただけだから」
戌亥の件について報告を受けた真鍋も思い出したらしく、話に加わった。
「そういえば確かに最近、森さんが戌亥さんの電話に捕まっているのを見てないな。僕も電話を取ってないし。佐藤さんはどうですか。戌亥さんから電話がかかってきて出たりはしていませんか」
そう尋ねたが彼の答えは素気ない。
「いえ。彼がどうかしましたか」
「ちょっとね。佐藤さんは支店に来てから、戌亥さんと揉めたりしたことはある?」
彼は心外だと言わんばかりに大きく首を振った。
「揉めてなんかいません。電話も会社にいた時一回だけ取ったことはありますよ。その時、あなた誰? と聞かれたので、田端の代わりに来た佐藤ですと答えたら、ふ~ん、って言われただけです。そう言えばその時も担当の紡木じゃなく森さんはいるか、と言っていましたよ。両方いないと答えたらじゃあいい、って電話を切られました。不思議に思って後でスタッフさんに聞いたら、その理由が分かりましたけどね」
答えながら、訳知り顔で陽菜を見た彼はにやりと笑った。
「だったらいい。紡木さん、今からちょっと電話してみたら」
「はい、そうします」
彼は真鍋の指示に従おうと携帯を取り出したが、考え直して会社の外線を使うことにしたようだ。担当からの電話と分かれば、出ない可能性があるからだろう。数コールしてから、相手は電話に出たようだ。ここで戌亥の声が皆にも聞こえるようスピーカーのボタンを押した彼は、努めて明るく話しかけた。
「紡木です。こんな時間にすみません。今よろしいですか。戌亥さんが私や当社に何かご不満があると聞いたのでご連絡したのですが。二日前にもお電話いただけるよう留守電に伝言しましたけど、折り返しの電話をいただけなかったものですから」
一気に告げられた彼は、ぐっとのどを鳴らして一瞬黙ったが、平静を装った声で答えた。
「誰がそんなことを? 別に何もないですよ。留守電を聞いて折り返しをしなかったのは申し訳なかったです。ちょっとバタバタしていて忘れていました」
それでも動揺している様子は、声の調子で分かった。やはり担当者には言えない何かを、伊藤に告げた事は間違いなさそうだ。
「それならいいですが、ご不満な事やご要望がありましたら、直接言って頂けると担当者としては有難いですね。作家さんとの間には信頼関係がないといけませんから」
「そうですね。ああ、別に要望って訳じゃありませんが、森さんや真鍋さんにも聞きましたけど、新しく来た担当者の歓迎会をしたらいかがですか」
「その件ですが、今日田端の見舞いに行ったところ、近々退院できるそうです。年明けの半ば頃には出社できるようなので、佐藤も引き継ぎが終わればすぐ東京へ戻ることになるでしょう。彼は一時的な応援要員ですし、今は年末進行なので年明けも何かと忙しくなります。だから作家さん達を呼んで歓迎会をする予定は無いですね」
以前話したことを事前に説明しておいたからか、陽菜達と同様の回答をした。
「そうですか。まあ仕方ないですね。年末年始は皆さん忙しいですから」
彼はわざとらしくこちらを
「あとボーリング大会も面白そうではありますけど、年明けに新年会を開く予定はありませんね。そうだ、年明けに直川賞の候補作が発表されますから、支店所属の作家さんの作品が候補に挙がれば、お祝いを兼ねてやる話が出るかもしれません。例えば何度か候補に挙がっている、伊藤さん辺りがノミネートされるといいですけど」
彼女の名を出してどう反応するかを試したようだが、彼は判り易く動揺した様子で、
「も、もうそんな時期ですか。伊藤さんだったら可能性はあるかもしれませんね。ああ、ちょっと今バタついているのでもういいですか。何かありましたらまたメールでご連絡ください。それと僕は不満なんて何もありませんから。じゃあ」
そう言い残し、電話は一方的に切られた。
「何、あいつ。絶対なんか隠しているでしょ」
陽菜が怒りの表情を浮かべて言うと、紡木は可笑しかったらしく噴き出しながら頷いた。
「モタさんの名前を出した途端、アタフタしていましたから、何か後ろめたいことがあるのは間違いないですね」
「戌亥の奴、何考えているのかな? 紡木さんや会社の悪口を言っていたんでしょ? 伊藤さん以外の作家さん達にも変な噂とか広めてないかな。私の担当からは聞いてないけど」
鳥越や佐藤の方を見ると、彼女が先に首を横に振って答えた。
「伊藤さんからしか聞いていません。全員じゃないですけど、一応あれから直接連絡を取った方からは何気なく聞いては見ましたが、戌亥さんと何か話した人はいませんでしたよ」
「直接問い質した訳じゃないですけど、引き継いだ俺の担当からもそんな話は聞いていませんね。でも最近のことなら担当作家とは全員直接会って話していますから、何かあれば雑談の中で出てきてもよさそうですけど。ほら、俺なんか特に余所から来た応援要員だし、紡木さんや支店への不満があるなら言いやすそうじゃないですか」
佐藤が彼女に続いて答えていたが、その意見には納得できなかった。
「逆に来たばかりだから、下手な話はできないとも考えられるよ。田端さんが担当していた福井の作家さんは違うかもしれないけど、後は京都と名古屋在住の作家さん達だったわよね。余所者にはすぐ心開く人達じゃないから、言わないと思うな」
埼玉出身の陽菜からすれば、京都や名古屋の人達は保守的で他地域の人に対しなかなか打ち解けない傾向が感じられる。田端に言わせると岐阜もそうだという。だからお客様でも最初は家の中に入れず、外で話をするための場所として使用される喫茶店が重宝され、その文化が栄えたとの説もある程だ。
地元の人や歴史研究者の一部では、戦国時代から多くの武将達の勢力争いに巻き込まれた土地柄が理由だという。戦が起こる度に領主が次々と変わった為民衆同士の結束が固くなり、他地域から来る者に対して警戒心が強いとも語られている。しかし本当の所は良く分らない。
「私の担当でも聞かないな。まあ、余り気にしなくて良いと思うよ」
真鍋はそう言って慰めていた。もちろん紡木も担当作家からそんな話は耳にしていないという。それはそうだろう。会社については別だが、直接当事者である担当者に対して不満を言う事は、余程揉めない限りあり得ない。
「それにしても、なぜモタさんだったのかな。イノさんとはあまり接点がないはずなのに、わざわざそんな人に私とか会社の陰口を言う意味が不明です。確かに二人とも同じ“この小”出身ですけど、他にも年の近い交流がありそうな作家さんはいると思いますが」
「支店所属じゃなくても本社所属の“この小”出身の作家さん達や、特に戌亥さんと同期かその前後、あと年の近い作家さんなら可能性はあるけどね」
紡木の疑問に陽菜が答えたが、その可能性は低いらしい。“この小”出身の作家達は、同じ回の受賞者や最終候補に残った人達の中でデビューした作家達を同期と呼ぶ。その前後に受賞した方達との縦の繋がりもある。その為個人主義的な人種の割合が高い作家達の中では、比較的仲の良い集団だと業界内では見られているようだ。
しかし紡木によると、戌亥は他の作家との交流はほとんど無いという。というのも彼は受賞作こそヒットを出したがその後は伸び悩んだ。しかも高校在学中にデビューした後に早稲田へ進学した肩書があるせいか、プライドも高い。また社会人経験の無いまま専業作家になったからか、空気を読めない発言をする等人間関係を築くのが苦手のようだ。
彼は他の出版社との関係を上手く築けない点が伸び悩みの原因の一つと考え、紡ぎ家と契約したらしい。それでも紡木が担当してから一度だけヒット作を産んだが、それから再び低空飛行を続けている。だからこそ大賞を受賞し華々しくデビューした彼が、今の状況で他の“この小”出身者と交流するとは考えにくい、というのだ。
そう説明を受けた陽菜達は頷き、真鍋も同意していた。
「だったらなぜ伊藤さんなのかな。彼女と戌亥さんとでは年齢も離れている。それよりも伊藤さん自身が極端な人見知りで“この小”出身には珍しい、ほぼ覆面作家みたいな人だからね。それに今の話からすれば、戌亥さんがこの前からやたら佐藤さんの歓迎会をしないのか、支店の忘年会や新年会はしないのか、他の作家との交流も必要だと言ってくること自体、おかしくない?」
陽菜が新たな疑問を投げかけたが、ここで佐藤が口を挟んできた。
「そういえばさっき直川賞のことを話題にしていたけど、来月の年明けの中頃には候補作が発表されて、受賞作はその十日後辺りに発表されますよね。でも候補に挙がった作家にはマスコミ発表より一カ月程前から打診があるはずです。だからそろそろだと思いますよ。伊藤さんには連絡は無いよね。他の作家さんのところはどうですか?」
話題を変えた彼が鳥越の方を向いて尋ねてから、陽菜達の方をぐるりと見渡した。
「そういえば、そろそろよね。
陽菜の担当の矢尾
受賞作がミリオンセラーとなり、その後も順風満帆でコンスタントにヒット品を書き続けている。彼が受賞作でミリオンを記録したため、立ち上げたばかりの“この小”の地位が高くなったとも言われていた。
元銀行員出身で学生時代に会計士の試験を受けたが不合格だったため、その後銀行に就職したがしばらくして退職。再度会計士を目指し合格してその後作家にもなった経歴の持ち主でもある。
その彼はデビューした頃から出版業界の慣例に不満を持っており、紡ぎ家が立ち上げられた時にも積極的に参加し、社長の京川と同様会社出資者の一人でもあった。
小説の他にも会計士向けの実務書や自己啓発書も執筆している。彼の小説、ビジネス書が紡ぎ家を通して出版されることで得られる収入が、今や京川や鴨井の著作権管理で入ってくるものと匹敵するほどの稼ぎ手となっていた。支店の設立も矢尾が名古屋在住であることが大きな要因だとまことしやかに囁かれる程だ。
超真面目で融通が利かず、時折ルーズな出版関係者とトラブルになり、偏屈でいつもいろんな不満、愚痴を言っていた。彼は担当者やその上司だろうと、歯に衣着せぬ物言いで直接電話や面談でクレームをつけるため、設立当初に関わった真鍋も相当苦労したと聞く。
ただ元サッカー部の体育会系で上下関係に厳しい環境で育ったせいか、京川には逆らえないらしい。酒好き、女好きな点を利用されたのか、途中で陽菜に担当が変わった。
最初は戸惑ったがうまく矢尾と意思の疎通ができるようになると、周りから陽菜は彼にとって京川に続き頭が上がらない存在だと噂された時には困惑する一方、とても嬉しかったことを覚えている。
だが未だに真鍋や紡木、田端に対して超強気な性格は変わらないようだ。会計業も忙しいので、締め切り前になると支店の部屋を使い徹夜をする人でもあった。ちなみに子供は二人いて恐妻家らしい。
奥さんは地元の医者の娘で、美人な方だ、何度か挨拶をしたことがある。彼は高長身ですらりとしているが、顔は決してイケメンとは言えない。だからかチビでも顔の整った戌亥には、隠れたコンプレックスを持っていると聞いたことがある。
出版業界とは別の畑から来た陽菜は、彼から直川賞の候補に挙がるまでの段取りやその後の流れ等を教えて貰った事があった。元編集者なら当然知っている話でも、陽菜や紡木には分からない業界の慣習がまだ多くある。
「普通なら直川賞を主催している
真鍋が確認するように話しかけると、彼女は表情を曇らせて頷いた。
「まだ連絡は来ていません。私もそろそろだとは思っていました。伊藤さんもご存知なので一昨日もその件で少しお話ししましたが、結構意識している感じでした」
「多分明日か明後日ぐらいじゃないかな。色々段取りがあるし、そろそろ連絡しないと間に合わない。事前に打診しておかないと、たまに拒否する作家もいるからね。それが一人位ならいいが、複数出ると候補作が少なくなり過ぎて追加選考する可能性もある。それに候補作が決まったら先にある程度増刷しておかないと、マスコミ発表する頃までに書店への配布が間に合わなくなるからね」
佐藤の説明はより具体的だった。そういえば彼の以前の職場は、春夏秋冬社だったと思い出す。詳しくて当然だ。鳥越も頷いた。
「そのようですね。今回は伊藤さんの他に、紡ぎ家の担当作家で可能性がある人ってどの方だと思います?」
「MIKAさんの“あの冬の夜には”なら、可能性はあると思う。あれは春夏秋冬社から出版した作品だ。それに彼女はあの会社がデビューさせた作家でもある。どう思いますか」
佐藤は真面目な顔で答え、紡木では無く真鍋に顔を向けた。すると彼は頷いた。
「あるね。彼女もデビューして十三年。そろそろ候補作に挙げてもおかしくないし、遅いくらいだ」
佐藤は彼の発言を踏まえた上で、視線を移した。
「担当の紡木さんはどう思う」
「あの作品は評判も良くノミネートされるかも、と担当編集者とは話をしていました。しかし、いきなりの受賞は難しいでしょう。それでも重版がかかったり、取材の問い合わせも増えたりするのでは、とも考えていました。実はMIKAさんと連絡を取ろうとしていたのは、この件についても話をしておきたかったのです。それなのに連絡がつかないので困っていたら、こんなことになってしまって」
彼は答えながら、最後の方は俯いて声が小さくなっていた。その様子から、実はずっと心配していたと理解できた。しかしここにきて現実問題が近付き、彼女と連絡がつかないことの重大さが増した。佐藤には強気で反抗しているが、心中は追い詰められていたのだろう。
「この間から俺がMIKAさんを気にしていたのは、そうした噂を耳にしたからだ。もちろん春夏秋冬社の担当者だって、候補作が確定するまでは全く知らされない。でも社内で噂され始めたから、確率は低くないと思う。だから早く連絡がつかないとまずいんだ」
ここで気が付いた。二日前、急に彼からMIKAのことを尋ねられた。その時は単に、かつての担当作家を気にしているだけだと考えていたが、そうでは無かったようだ。
そこで真鍋が、落ち込んでいる紡木の肩をポンと叩いて言った。
「大丈夫、まだ時間はある。それに一昨日彼女の異変に気づいてから、何も手を打ってない訳じゃない。引き続き何か手掛かりがないか、聞いて回るしかないだろう」
陽菜がこの会社にいられるのは、紡木のおかげでもある。だからなんとかこの件について、力になれることはないかとしばらく考えた。
といっても担当外だから余りよく知らない。その為作家の情報を管理しているキャビネットの中に、MIKAの個人情報等が書かれたものがあるはずだと思い出して席を立った。
詳細な情報は本社の総務・人事部の人や一部の人だけが閲覧できるデータファイルを見ないと分からない。だが大まかな情報は、紙ベースでファイリングされている。
そこには現地の担当者が新たに付け加えるべき情報が発生した際、本社のデータベースへ追加入力してもらう為の申請用紙のコピーもファイルされているはずだ。そこに何かヒントはないかとMIKAのホルダーを引きだし、ざっと資料に目を通す。
そこで気になる記述が目に入った。印刷された用紙が追加で差し込まれていて、その中に“実の父が存在する?”と書かれていたのだ。その為ホルダーごと取り出し、紡木にこの用紙の文言は何かと尋ねた。
しかし彼女は目を丸くして言った。
「え? 実の父が存在? 私はこんな用紙をホルダーに入れていません」
基本的に作家の個人情報など、担当者以外触ることはない。可能性があるとすれば支店長の真鍋くらいだ。しかし彼も首を横に振った。
だがその言葉に、佐藤だけが反応した。
「その用紙は知らないが、実の父に関して聞いた事がある」
紡木が食ってかかるように尋ねた。
「何ですか? 佐藤さんは何か知っているんですか?」
すると彼は急に頭を掻きながら、机の向こうから真鍋に近づきながら言った。
「実は少し思い出したことがあります。いや、これも確かな情報ではありませんが」
「なんだ、思い出したことって。何を気づいた?」
問われた彼は、小声で話し出した。
「MIKAさんが小さい時に、両親を火事で亡くしたのはご存知ですよね」
突然昔話が始まり、真鍋だけでなく周りにいた陽菜達もキョトンとしてしまった。
「ちょっと話が長くなるので、ここに座っていいですか」
彼はすでに帰社して空いているスタッフの席を指さした。
「いいよ。では座って聞こう」
佐藤と真鍋が椅子に腰掛け、向かい合う形になった。その周りを陽菜達が取り囲むようにそれぞれの席に着いた。そこで彼は彼女の過去を話し出した。
「彼女が三歳の時です。あれがただの火事では無く、放火殺人だったことはご存知ですか」
ある程度は担当外の陽菜さえも知っていることだ。しかし彼の口から話される内容は、改めて聞いても背筋が凍る話だった。
MIKAの両親は彼女の兄によって殺された。彼女が産まれてすぐに障害があることが判った両親は、育てる自信がなかったのだろう。激しく言い争うようになったという。そこで妻やMIKAとの暮らしに嫌気が差した父親が、彼女より七歳年上の健常者である兄を連れて家を飛び出し、別居し始めた。
それから母親による、MIKAへの虐待が始まったらしい。近所の人からの通報でそれが表沙汰になり、父親は離婚しようとした。しかし母親が納得せず激しく揉めたようだ。そこで双方弁護士を入れ、ある時母親の住む家で話し合うことになった。
その最中、同席していた兄は母親がMIKAを虐待する時に使っていたと思われる手錠を探し出し、父と母の手を食卓に繋いだ。その上石油ストーブを蹴飛ばした為に、家は火事になった。一緒にいた弁護士達は、燃え盛る部屋から逃げ出すことが精一杯だったようで、手錠に繋がれた両親は逃げられずにそのまま焼死したのだ。
兄は当時十歳だったこともあり、弁護士立ち会いの元で家庭裁判所に連れていかれ、そのまま観察処分を受けた。一人残されたMIKAは障害があることも関係し、引き取ろうとした親戚知人はおらず特別養護施設に預けられ育つことになったのだ。
そんな彼女は友達もできない施設の中で一人本を読み自分の世界に浸り、自分で物語を書き始める楽しみを知った。そして高校を卒業する頃に出した作品が春夏秋冬社の主宰する新人賞を取り、今に至る。
「そのお兄さんは、今何しているか判らないのよね」
話は途中だったが、陽菜が確認の意味を込めて尋ねると少し間を置いてから彼が答えた。
「未成年の起こした事件ですが大きく騒がれたことで、今は名前を変えるなどしてどこかで暮らしているはずです。ただ問題はそこではなく、事件が起きた背景にあると思います」
ここで紡木が口を挟んだ。
「事件の背景? 確か動機は妹を苛める母親のことを憎み、障害のある妹を捨てた父親をも憎んでの犯行と報道されていたと記憶していますが、他に何かあるんですか」
「ある。報道はされなかったが、火災で死んだ父親は彼女の本当の父親じゃない」
「え?」
これには紡木だけでなく、真鍋さえも知らなかったようだ。そこにいた佐藤以外の全員が固まった。彼は口調を改め、話を続けた。
「それが今回の件と関係するか不明です。ただ彼女が特定の人物を調べていたと聞いて、気になりました。彼女は、本当の父親について調査していたのかもしれません」
「待って。事件を起こし姿を消した兄の可能性はありませんか」
確かにあの事件で、兄は自分の両親を殺してしまった。とはいえ、十歳の子供が衝動的に起こした行動だと情状酌量もされている。虐待をしていた母親から妹を救い、育児放棄した両親への怒りがもたらした結果と考慮されたのだろう。
紡木の言葉の後に真鍋も賛同し、佐藤の顔を見て尋ねた。
「俺も同じ事を考えていた。あれから二十八年経った今、MIKAさんも作家としての生活は安定している。だから精神的にも余裕が出き、唯一の肉親である兄を探していたとね。それなら探し出せるか分からないし、心配させてしまうから担当である紡木さんに黙っていてもおかしくない。そう思っていたが違うのか。なぜ佐藤さんはそう思った?」
彼は何度か頷きながら答えた。
「俺もその可能性は考えました。でも違う気がして。それなら別の可能性があると気が付いたのです。それが本当の父親の存在です」
説明によると、彼女の母親は死んだ父親に隠れて浮気していたらしい。その結果障害を持って生まれたのが彼女だったという。それを知った父親が激怒し、実際に血の繋がった兄だけを連れて家を出たようだ。
その為離婚調停に発展し、最終的に母親は浮気を認めた。だが相手の名だけは頑として言わなかったらしい。色々な事情があったからだろう。そんな様々な要因が重なってストレスが溜まった母親は、彼女を虐待したと思われる。それで揉めている最中、あの事件が起こったという。彼は話を続けた。
「だから本当の父親は生きています。兄とは異父兄妹ですが彼女の肉親といえば、血の繋がった本当の父親の方が近い。彼女はその事をどこかで知り、調べていたのかもしれません」
「どこかって?」
陽菜は思わず会話に割って入った。彼は嫌な顔をしながらも答えた。
「ストーカー騒ぎがあったでしょう。この会社の周りを調べている怪しい奴らを見かけたことがあるって。確かに彼女が雇った調査員もいたかもしれませんが、紡木さんがこの間調査会社に連絡した時、一週間前に見たのは違うと言っていたよな」
「言ったわね」
「つまり別の人間が、この周辺を嗅ぎまわっていたことになります。それが彼女の本当の父親が雇った調査員かもしれません。その事に彼女は気付いたのかもしれない。だから自分も調べ始めたのではないか、と」
しかし何となく腑に落ちない為、質問した。
「なぜそう思うの? 火事の後彼女が一人になった時、本当の父親は名乗りでなかったのよね。つまり彼女を見捨て、焼死した父親と同じでしょ。それが今になって、彼女を調べているって何故思うの?」
「今だからですよ。焼け死んで見捨てた父親と同じ、いやもっと性質が悪い。不倫の末生まれた子が障害を持っていると知って名乗らず見捨てた奴だからこそ、彼女に近づいた可能性は高い。今話していたじゃないですか。彼女は直川賞の候補に挙がるかもしれないって」
陽菜は彼の言う意図を知り、言葉を失った。本当の父親だと名乗って近づき、作家として安定し始めた彼女から、
しかし真鍋が厳しい目で、再び問い詰めた。
「でも可能性の問題だよな。それとも佐藤さんには何かそう思う確信があるのか」
彼は首を横に振った。
「確信はありませんが、それぐらいしか思いつきません。あのMIKAさんが俺だけでなく、信頼してきた紡木さんに黙って姿を消したのです。しかも誰かの調査をしていたなんて、普通じゃない。何か特別で、他人に言えない秘密が無い限りは、です」
「父親でなく兄の可能性もあると思うが、佐藤さんは違うと思うのは何故だ」
「誰かを調べていただけなら、兄の可能性もあると思います。でも姿を消したとなれば辻褄が合いません」
「どうしてだ」
「兄なら例え近づいてきたとしても、姿を隠す必要が無いからです」
彼の説明によると、金銭を要求されれば兄は元犯罪者なので、担当に相談すれば済むという。法的にも接近禁止命令を出してもらい、跳ね返すことはそう難しくないからだろう。会社が法的手段に訴えれば、名前や住所が世間に知られて困るのは兄の方だ。確かにそんなリスクを冒してまで近づく可能性は薄いかもしれない。
ただ父親なら話は別だ。実の父親ですと名乗られれば、会社としても相手が明らかな違法行為に及ばない限り、彼女から遠ざける法的根拠はない。父親かどうかを証明するには、DNA鑑定をしない限り無理だろう。
そこまでやるかという問題もあるが、騒ぎ立てられれば知られたくない過去が表に出る。しかもMIKAが直川賞候補に挙がるかもしれない、マスコミから注目を浴びやすいこの時期と重なれば、どんな影響が出るか予想がつきにくい。
真鍋は納得したようだ。
「そうだな。作家として衝撃的な彼女の過去に、更なる隠されたエピソードが加わればプラスになることもあるだろう。しかしマスコミが面白おかしく騒ぎ、マイナスに働くリスクもある。むしろ後者になる公算が高いかもしれない」
「そうです。ある人物を調査していた件と、このタイミングで姿を消したことを考えれば、もしかしてと思いました。もちろんこれも可能性の問題ですが」
二人の会話を聞き終えた紡木が、口を開いた。
「それなら、私に相談なく動いていた理由も理解できます。本当の父親がいると、彼女から打ち明けられたことはありません。調査で明らかになってから、私に相談しようと思っていたのかもしれません」
「俺もそう思う。彼女は間違いなく紡木さんを心から信頼していた。彼女が本当の父親がいると知っても、関係ないと考えていたって不思議ではない。本人すら忘れていたから、何も言わなかったとも考えられる。それが何かのきっかけで父親が動き出したから、まずは調べて見ようとしたのかもしれない。そこで何かが起こり紡木さんに相談する間もなく、緊急避難した可能性だってある」
真鍋が慰めるように賛同していたが、文句を言わずにはいられなかったらしく呟いた。
「相談してくれればいいのに。そうしたら皆でどうすればいいか考えて対応できたのに」
「いや、彼女だってそう考えたかもしれないが、もしかすると佐藤さんの話通りなら直川賞候補に挙がらなければとりあえず問題を先伸ばしできる、と思ったのかもしれない。そうすれば相談する時間もできる。もし候補に挙がれば、連絡を取れなくなると辞退せざるを得ない。だから姿を隠したとも取れる。もし連絡が取れたら彼女の立場で辞退するとは、担当の紡木さんにとてもじゃないが言えないと思ったのかもしれない。だから止む無くそんな行動を起こした可能性もある」
確かに直川賞の候補になることは凄いことだ。特別の事情がない限り、候補作を辞退するなんて担当者としては考えられない。父親の件を打ち明けられていたとしても、なんとかして候補の辞退だけは避ける道を探し説得するのが普通だ。そうなれば断れないと考えたとしても無理はない。だから身を隠したのだろうか。
紡木は彼女が姿を消した責任の一つが、自分にもあると思ったらしい。傍から見ていても落ち込んだ表情をしていた。今までできる限り作家の立場で考え行動してきたから余計だ。それでも彼女に辛い決断をさせてしまったのかと想像しただけで、担当者としての力不足を痛感したのかもしれない。
そんな彼の考えを見透かしたように、佐藤が冷や水を浴びせた。
「うぬぼれるな。百%作家の為に動くことなんて、できる訳がない。おまえ、いや紡木さんは、あくまでエージエント会社の担当者だ。出版社の編集担当者やマスコミからは、ある程度作家を守ることはできるだろう。作家が煩わしいと思うことを除いてやるのも確かに仕事の一つだ。しかしそれはあくまで、作家が売れる作品を書き上げさせる環境作りの為だろう。そうして完成した作品を、できるだけ売るのが一番の目的なはずだ。けれどそれが必ずしも作家の想いと一致しない場合もある。時として販売部数より大切にしたいものがあって、意見が分かれる事もあるだろう。どちらが良い、悪いじゃない。あくまで担当と作家は違うんだ」
しかし陽菜は、紡木を援護する為に異を唱えた。
「ちょっと待って。理由はとにかく、彼女が姿を消したのは自らの意思だと決めつけているけど、本当にそうなの。どこかで事故に合っているとか誰かにさらわれたとか、それこそ本当の父親に捕まって監禁されているかもしれない。結論を早く出し過ぎてないかな」
だが彼は首を横に振った。
「彼女がいなくなって時間が経ち過ぎています。彼女は少なくとも十日前から姿を消していると言ってましたね。そうなると事故の可能性は低い。警察に届け出していますから、彼女の特徴と一致すれば、とっくに連絡が入っているでしょう。誰かに連れ出されている可能性も低い」
「確かに事故には遭っていないかもしれないけど、連れ去られていない根拠は何?」
さらに食い下がると、彼は説明を続けた。
「彼女は二、三日出かける準備をした状況で姿を消しています。もしその後誰かに拉致されたとしたら、今まで会社に金銭の要求等が無いのはおかしいでしょう。また目的が金銭でなければ、障害者の彼女を拉致する理由がはっきりしません。それが本当の父親なら尚更です。拉致しただけでは得をしない。もちろん何かの間違いで殺され、まだ死体が見つからないという最悪な場合もありえます。しかし俺が言ったことの方が可能性は高いでしょう。あくまで確率の問題で、希望的観測と言われても否定はしませんけどね」
ようやく納得したが、紡木への攻撃を避けようとさらに陽菜は尋ねた。
「言われてみれば佐藤さんの言う通りかもね。だったらどうすればいいかだけど、それはどう考えているの」
「自分から姿を消したとなれば、どこに隠れているかを考えればいい。彼女の所持金からすると、安いホテルや簡易宿泊所のような所にいる可能性はあります。漫画喫茶とかも。ただし彼女はこれから後、そう長く隠れるつもりはないと思います」
ここで真鍋が口を挟んだ。
「どうしてそう思う」
「先ほど説明した理由で隠れたとすれば、直川賞の候補から外れたと判明した時点で出てくるでしょう。もし候補に入っても、最長で一週間以内には回答しないといけません。そうなるとその間は、出てこないかもしれない。逆に言えば、その後に出てくる可能性は高い。いなくなった日から換算して、最長三週間くらい姿を隠しているつもりだった。つまり残りあと十日くらいです」
「なるほど。所持金からすれば三週間位は過ごせるお金を持って出ている訳か。じゃあ、どこを探すか、または探さないで出てくるのを待つかを考えればいいってことだな」
「ちょっと待って下さい。出てくるのを待つってことは、もし明日か明後日に直川賞候補作に入ったとの連絡があったら、辞退するってことですか」
鳥越が初めて会話に入ってきた。伊藤さんの件もあるからか、とても考えられないと驚愕した表情で声を上げる。
「しょうがない。彼女はそう覚悟して、失踪したとも考えられる。連絡がなければそれで終わりだが、あれば速やかに辞退すると答えれば彼女は早く出てくるかもしれない。そうすれば紡木さんも安心だろう。それにその後の事も、早く打ち合わせをして対策を取らなければいけなくなる。それなら結論は早く出した方がいい」
「真鍋さん、ちょっと待って下さい。まだ可能性の問題ですよね。今の状態で直川賞の候補作の連絡が来て本人の確認を取らずに辞退するとなれば、もし佐藤さんの推理が間違っていたら取り返しがつきませんよ。紡木さんがこれまで懸命に彼女と一緒になって取り組んできた作品を、今の段階の推測だけで決めるのは余りにも乱暴です。鳥越さんもそう思うでしょ。伊藤さんの確認を取らずに、可能性だけで直川賞の候補作に挙がったことを辞退する電話が、あなたにできる?」
「森さん、それはできませんよ。考えただけでも恐ろしいです。だって辞退したら過去の例からして、その後候補に挙がることはありませんよね。そうじゃないですか、佐藤さん」
「そうだな。まず一度辞退すれば、その後も直川賞を必要としない作家として判断されるだろうし、最初の時点で選考対象から外されるかもしれない。そんなことはこの業界にいれば誰だって知っている。それはMIKAさんだって同じだ。彼女が今、この時期に自らの意思で失踪をしているとすれば、それを覚悟してのことだと思う。つまり余程の強い意思か、そうせざるを得ない理由がないとできないことだ」
彼の言う通り、過去に辞退した作家さん達は直川賞の候補に何度も挙がったことがあるか、受賞しなくても十分に売れる固定ファンを持っているレベルの人達だ。または川本賞のような、他で大きな賞をもらった作家が大半だった。
それがまだこれといった賞を受賞したことも無く、候補にさえ挙がったことのないレベルの作家がいきなり候補に挙がった時点で辞退するなんて前代未聞だろう。
しばらく黙っていた紡木が、不本意な表情を浮かべながらも彼の意見に賛同した。
「そうですよね。担当者として彼女がそこまで追い込まれる理由は何かと考えたら、佐藤さんの推理が私も一番納得できます」
「俺もそう思う。だから候補に挙がった時は、辞退する覚悟を持っておいた方がいい。紡木さん、MIKAさんとメールは通じているよね」
「はい、真鍋さん。一方的に、ですが。彼女が既読しているかどうかは分かりません。既読が分かるメールを一度送りましたが、警戒しているのかそれは開かれていません」
「それなら一度、こういう文面で彼女宛てに至急メールを打ってくれないか。“まだ連絡は来ていませんが、もし直川賞候補に挙がったと連絡が来たら辞退していいですか。もし駄目なら急ぎ連絡ください。いいのなら連絡をしなくても結構です。”と。読まれないと困るから、既読確認できないメールがいい」
「え? 逆じゃなくて、ですか?」
「鳥越さん、真鍋さんの言う通りです。今まで散々連絡しても返答がない。佐藤さんの推理が当たっていれば、担当の私が賞を辞退することを拒むと思っているはず。それなら彼女の考えに従うと連絡すれば、安心して返事を返してくれるかもしれないから」
「それはそうだと思うけど、やっぱりリスクが高すぎないかな。全く違うことで身を隠していたとしたら、それこそ取り返しがつかないわよ」
「じゃあ、森さん、ちょっと待って下さいね」
紡木はその場で外線を使って電話をかけ、以前話した担当者の名を告げてスピーカーボタンを押す。しばらくして電話に出た相手は、明らかに不機嫌そうな口調で話しだした。その声をその場にいる全員が聞くこととなった。
「しつこいですね。前回以上のことは守秘義務があるから言えないと伝えたはずです」
「率直に伺います。あなたが調査していた人は、調査依頼主の本当の父親ですね。または本当の父親かどうかを確認する調査だった。違いますか。違うなら違う、とお答えいただければ結構です」
電話の相手である調査会社の担当者は、しばらく沈黙していた。少し待っていたが、痺れを切らしたのか再度紡木が尋ねる。
「その沈黙はイエス、と取っていいですね」
そこでようやく相手が口を開いた。
「守秘義務により相手の名や、調査結果は言えませんからね。では失礼します」
一方的に切られたが、聞いていた皆の意見を確認するように紡木が告げた。
「お聞きのように、違うとは言いませんでした。あれは限りなくイエスに近い反応と思われます。つまり佐藤さんの推理通り、本当の父親が絡んでいると思って良さそうですね」
「やはりそうか」
だが彼は自らの予想が当たったことを、まるで残念がるように呟いた。過去の大きな秘密を口に出してはみたものの、当たって欲しくなかったと言わんばかりの態度だ。紡木は真鍋と目で確認を取り、納得しない意見を出した陽菜に向かって言った。
「これで確率が大きく上がりました。もちろん調査相手が父親だっただけで、失踪と直川賞の件は別かもしれません。でも真鍋さんが言った通りの文面でメールを今から送ります。早いほどいいですから」
止む無く頷くと、彼は早速キーボードを叩いた。しばらくして真鍋にパソコン画面を見せ、内容確認した上でメールを送信したようだ。
これで彼女が何らかの行動を起こしてくれればいいが、電源を切っていたりメールを見ないようにしていたりしたら、反応はもっと後になるかもしれない。
ただ彼女のホルダーにあった謎の言葉から派生した佐藤の発言により、打つべき手が見つからないままの状態から、一歩前進したとも言える。そのためか紡木は先ほどより落ち着いた表情をしていた。その為少しでも力に慣れた気がしてホッとする。
すると気を引き締めた彼が新たな提案を口にした。
「真鍋さん、会社としてMIKAさんの父親の件を調査依頼していいですか。今後のことを考えれば必要だと思います」
「え? それは余りにも突っ込みすぎではありませんか?」
意外なことに鳥越が心配してそう尋ねたが、紡木はそれを否定した。
「大丈夫。会社の契約では彼女が結婚したり子供が生まれたりしなかった場合に限り、万が一の事があれば遺産や著作権等全て紡ぎ家に寄付するとの文言が入っています。ただ相続で揉める可能性がある場合、会社で調査した上対処するとも書かれていますから」
「それは知りませんでした」
彼女の血縁で一番近いのは兄だ。しかし相続だと兄妹に遺留分はない。よって彼女の遺産を、全て会社が引き取る事に支障はないという。契約した時点では、他に遺留分が認められる直系卑属や直系尊属が彼女にはいなかったからだ。
「でも念の為に彼女の親戚の方々とは、弁護士を通じて今後相続権に関して一切関わらないと一筆を貰っています。実は契約書を結ぶ際、彼女が作家になった事は隠した上で手を打ちました。まあ実際には彼女が亡くなってから、改めて対処することになると思うけど」
「そんなことまで!」
「鳥越さんからすれば大げさに聞こえるかもしれないけど、そんなに手間はかかってないよ。だって他の親戚達は過去に彼女との関係を持とうとしなかったせいで、彼女は特別養護施設に預けられたから。後ろめたい過去を持っている皆さんは、すぐに一筆書いたと弁護士が言っていました」
だがその人達とは別に、血の繋がった実の父親がいるとなれば話が変わる。現在は戸籍上に載っていないが、親には遺留分の権利がある為いざ相続が発生した場合、揉める可能性があるからだ。よって会社も調査した上で対処するとの大義名分が立つ。
そこで真純は真鍋に改めて確認した。
「調査会社はMIKAさんが依頼したところと同じでいいですよね。その方が話は早いですし、調査費もそうかからないと思いますから安く済むはずです」
「いいだろう。調査会社は既に調べた内容と同じ事をこちらに報告書として出すだけだからな。調査にかかる実費もそれ程必要ないはずだ。しかし彼女の時にかかった分と同じ金額を請求してくる可能性はあるが」
「それは交通費等の領収書を出してもらうようにします。そうすれば日付が判るので、二重請求はできません」
「まあ、細かいことで調査会社と揉めてもいけないから、その辺りは上手くやってくれ」
「分かりました。では早速連絡してみます」
そこで真純は調査会社へ四度目の電話をかけ、こちらで新規の調査をお願いしたいと伝え、先ほど話した同じ担当者を呼び出していた。今度は相手の声が聞こえない状態だ。
電話口に出た相手に経緯を説明して調査依頼をお願いすると、明らかに呆れたという反応が返ってきた。だが先方としては悪くない依頼と判断したらしく、了承された。今日は遅いため、詳細は明日の朝こちらの事務所で打ち合わせをすることになった。
「早く調査報告書を下さいね。明日でもいいですよ。振り込みもすぐしますから。調査にかかった実費は日付の入った領収書を出して下さい。今日以前の物には払えませんから」
最後にそう念を押すと、相手は苦笑しながら電話を切った。いきなり明日の打ち合わせで最終報告書が出てきはしないだろうが、ある程度の情報は教えてもらえるだろう。
真純の立場としては、明日か明後日には春夏秋冬社から直川賞に関して電話が入るかもしれない為情報は早く手に入れたかった。候補に挙がれば本来なら大変喜ばしいが、今回だけはそう単純でない。逆に悩ましい問題と直面することになる。
できるなら辞退する前にMIKAの実の父親との問題を解決できれば一番いいが、それには時間が余りにも足りない。だから明日にでも、彼女に渡したものと同じ調査結果を手に入れたかった。そうすれば父親とやらに接触し、彼女との関係を絶つ手はずが取れる。
また真純は、田端と戸森の件にも手をつけなければならない。さらに戌亥の問題もある。年末進行でそれなりに忙しいが、それとは別の仕事が余りにも多すぎた。だからこそ優先順位をつけながら、手際よくこなさなければならないのだ。
朝一番に訪れた調査会社の担当者、
先方もMIKAが失踪しており、こちらが警察へ届け出している事情を理解した上で言った。
「御社から依頼された人物について、当社では過去に調査をした資料が残っていました。事情から察するに緊急を要すると考え、今お伝えできることをご報告します。ただ以前の調査から時間が経って状況が変化している可能性のものは省いています。その点については改めて追加調査の上、ご報告させていただきます」
表向きは中間報告書という名目で、おそらく宛先を変えただけだろう。中身はMIKAに出したものとほぼ同じと思われる内容を説明してくれた。二部用意されていたので、真鍋と真純がそれぞれ手にして中身を見ながら話を聞いた。
調査対象者の名は、MIKAの本当の父親と名乗る男で
藤河は彼女の母親の高校時代の同級生で、浮気していた当時は大手生命保険会社に勤務し、現在はその関連会社に勤めているという。過去にその男の勧めで保険に加入したことがきっかけで、肉体関係を持ったと思われる。藤河も当時妻子持ちであり、お互い軽い気持ちから始まったのではないかということだ。
石橋が報告書を見ながら説明した。
「二人は彼女が生まれるより前に別れていたことから、そう推測しました。藤河が転勤で大阪に異動が決まり、彼女達が当時住んでいた東京から遠く離れたことがきっかけでしょう。その証拠に、それ以降二人が接触していた形跡は見当たりませんでした」
その後MIKAを妊娠していることが分かった母親が、夫との間に第二子が出来たと周囲に話していた事、さらに彼女が産まれた後もそう振る舞っていた様子から、藤河とは意識して連絡を絶っていたはずだ、と見解を述べた。
「また藤河も浮気相手が自分の子を産んでいた事など知らず、各地を転々としていたと思われます。その根拠は、大阪に異動してすぐに他の女と浮気をしていた形跡があり、その後も転勤先で色々な女に手を出していたからです。もし過去に浮気相手が子供を産んだと知っていれば、少なくとも生後しばらくは警戒して多少女遊びは控えていたはずでしょう」
その後二十九年前に福岡へ異動になった藤河は、他の女との浮気がばれて二人の子供と共に奥さんに出ていかれ、結局離婚したという。それから現在まで結婚はしていない。
現在六十一歳の彼は一度保険会社を定年退職し、その後関連会社に再就職したようだが、あまり使える人材とはいえず、会社から肩を叩かれ始めているようだ。
「大手保険会社に勤めていた頃は、給料も良かったのでしょう。ですが別れた妻と子供への慰謝料や養育費の支払いがあり、それでも懲りずに女遊びは激しかったようです。だから貯蓄は減る一方で、ある時期は周りの友人達に借金をしていたほど窮状だったと聞きました」
ただ別れた子供達が成人して養育費の支払いが終わりお金に余裕ができた頃には、年を取ったこともあるのか懲りたのか、女遊びはほとんどしなくなっていたようだ。しかし代わりに嵌ったのがギャンブルや投資だったらしい。
「最近藤河は名古屋の子会社に出向が決まり、こちらへ来ました。そこでどうやってかは不明ですが、MIKAさんの存在を知ったのでしょう。お金を強請ろうとしたのか、彼女の身辺調査をしていました」
しかしその途中で、藤河自身が彼女をつけまわしていた事を本人に気づかれたらしい。そこで警察を呼ばれそうになった彼は、実は本当の父親だと彼女に告げたそうだ。そこから石橋達に、事実かどうかの調査依頼が来たとのことだった。
「本当の父親かどうかはDNA鑑定をしてみなければ分かりませんが、可能性は高いと思います。そう記載した調査結果を彼女にお渡ししましたが、彼女は恐らくそれより前に姿を消す計画をしていたと思われます。どこかへ身を隠さなければ、というようなことをおっしゃっていましたから」
期待はできないが、それでも真純は尋ねた。
「それはどこだか聞いていますか。それかどうやって身を隠そうとしているかを推測できるようなことを、何か彼女は言っていませんでしたか」
「はっきりとは知りません。でも普通のホテルだと目立ってしまいすぐにばれるから絶対見つからない、しばらく外に出なくても平気な場所にしなければ、と独り言のように呟いていたのは聞きました。ですが、それ以上我々は何も」
「そうですか」
案の定の回答に落胆しながら考えた。話を聞く限り、佐藤の推理がほぼ正しかったようだ。彼女が姿を消した理由は何となく理解できたが、結局彼女の居場所の手掛かりは掴めなかった。今朝の時点で、昨夜彼女に送ったメールにはまだ何の反応もない。
まだ見ていないのか、それともどう返事をしようか迷っているのか、それともメールが見られない状況に置かれているのか。
今日か明日には春夏秋冬社から連絡が入るだろうから、余り時間はない。心配事は尽きず、動悸が激しくなり軽く頭痛がしだした。体も少しだるい。悪い前兆だ。ストレスが溜まり、うつ病にかかって以前勤めていた会社を休み始めた頃の体調変化と同じ症状だった。
これがひどくなると集中力が無くなり、起きていることも辛くなり、いくら寝ても寝たりなくなる。といって寝すぎないようにするといつまでもだるさや頭痛や動悸が止まない。その辛さから逃げる為、また眠ってしまう。その行動を繰り返す悪循環に嵌ると、なかなか抜け出すのに時間がかかるのだ。
幸い自殺を考えたことは一度もない。それは過去のある出来事から、それだけはしてはいけないと心に刻んだ経験があるからだ。
「紡木さん、大丈夫か。顔色が悪いぞ」
報告書に目を通しながら話を聞いていた真鍋が顔を上げ、小声で言った。異変に気づいたようだ。
「少し調子が悪いですね。原因は分かっていますから大丈夫です。ストレスでしょう」
真純の事をよく知る彼だからこそ、下手に隠さず正直にそう告げた。
「無理するな。ちょっと横になるか。この件は俺が引き取るから」
「有難うございます。本当に駄目な時は言いますから」
真壁に礼を言ってから、石橋に質問をぶつけた。
「ちょっと伺っていいですか? どうしてその藤河がMIKAさんの父親の可能性が高い、と判断されたのですか。確かに母親と浮気をしていたとの調査結果は出てもそこまでは不明だ、という結論を出すのが普通ではないですか」
過去に自分が浮気をしていた女性が焼け死んだ事件について、藤河は当然知っていただろう。もしその時点で生き残った女の子が自分の子の可能性があると気付いたとしても、当時妻子のいる藤河が名乗り出られなかった事も理解できる。今頃父親だと名乗り出たのは、作家として成功している彼女に近寄り金をせしめようとしたことも想像はつく。
だが本当の父親では無く、かつて母親と交際していたからそう名乗っただけかもしれないのだ。真実を知っているだろう関係者は、ほとんど誰もいない。例え事実で無かったとしても、そういうスキャンダラスな噂を流されるだけで彼女にとってはマイナスイメージになる。だから金を出せ、と脅しているだけなのではないか。
確かに、と頷きながら彼は説明し始めた。
「MIKAさんの血液型はA型でこの調査書にも記載していますが、母親と一緒に亡くなった父親ともA型です。藤河はO型ですが、O型とA型からA型の子は生まれます。それだけではありません。藤河には、離婚をした妻との間に生まれた子供が二人います。ここには今回あえて記載しませんでしたが、その内一番下の子が彼女と同じ障害を持っています。つまりそういう遺伝子を、藤河が持っている可能性が高い」
これには真純達も驚き言葉を失った。彼は続けて説明した。
「これは確率の問題です。藤河の一番上の子に障害はありませんから。ですが、彼女と藤河の間に血縁関係があるかを調べて欲しいと調査依頼されたら、ここまで条件が揃っていれば可能性は高い。そう報告すべきと考えました」
不明です、では余りにも無責任だが血縁関係があるとも断定はできない。よって彼らは可能性が高いと告げる事で、調査会社としての誠意を見せたのだろう。だからこそ、真純達に出した報告書には記載しなかったようだ。
その証拠に彼は言った。
「センシティブな情報ですから、話の流れの中で説明すべきと判断した時、お答えしようと思っていました。そこはご理解ください。意図的に隠していた訳ではありません」
二人は頷いた。確かに書かれていないが、石橋は口頭でも最初から藤河が実の父親である確率が高い、とこちらにしっかり告げているからだ。
そこでもう一つ思い浮かんだ疑問を投げかけてみた。
「実の父親だとして、藤河はどのタイミングでMIKAさんと血が繋がっていることを知ったのでしょうか」
「これも推測になりますが、彼女のご両親が亡くなった事件は全国でも大きなニュースになりましたよね。その際生き残った彼女に、障害がある事も報道されています。十歳の子が犯した悲惨な事件に加え、虐待されていた妹に関しての情報は、大衆の関心を引くもってこいの話題でしたから」
マスコミは話題性を第一に考える。よってプライバシーも何もあったものじゃない。おそらく藤河もそのニュースを見ていたのだろう。そこでもしかすると、と思ったのかもしれない。その頃には、彼の一番下の子が既に生まれていたという。同じ障害を持った子が、かつて浮気した相手の子なのだ。子供の年齢から逆算すれば、浮気していた時期と重なる事に気付いてもおかしくない。
「そうか。その可能性があると知りながらも、本人は名乗り出るはずもない。藤河自身も下の子が障害を持っていたことで苦労していたでしょうから」
真鍋の言葉に、石橋は大きく首を縦に振った。
「そうです。調査して判りました。ただでさえ浮気性の藤河は、障害を持つ下の子の育児で苦労する妻に冷たく当たっていたそうです。帰宅時間もどんどん遅くなり、その間他の女と浮気をしていました。その後福岡に転勤しても女遊びが続き、とうとう奥さんにばれて愛想を尽かされた訳です。たんまり慰謝料と養育費を請求されたそうですよ。当然ですが下の子に障害がありますから、養育費は普通の子供より相当多く請求されていました」
ここで真純は疑問を呈した。
「ちょっと待って下さい。報告書には子供が成人して、養育費の支払い義務が無くなったと書かれています。でも障害者の子供の場合、養育費は成人したら支払う必要がなくなるとは限りませんよね。その後の自立状況を考慮して、再請求されるケースもあると聞きますが」
「よくご存知ですね。厳密に言うと養育費を支払い終わったのは、上の子が成人し大学を卒業してからです。実はそれより少し前に、下の子は亡くなりました。よって支払い義務も無くなり、藤河は経済事情が厳しい環境から抜け出すことができた。それが十四年前です」
MIKAのような障害を持つ人でも、長生きする方は数多くいる。だが藤河の子は違ったらしい。十四年前なら藤河は四十七歳。経済的に苦しい時は、女遊びもできなかったかもしれない。だが当時大手保険会社に勤務していた彼は独身だ。その後はかなり余裕のある生活を送れたのだろう。
しかしいざ自由になるお金を持っていても、以前のように女遊びを再開するほどモテなかったらしい。そこでギャンブルに嵌ったようだ。
彼は説明を続けた。
「保険会社に勤務していたので、金融知識もあったのでしょう。株などにも手を出していたようです。大きく儲けたこともあったでしょうが、失敗して損もしていました。その点の詳しい調査内容については、今回の報告書に乗せておりません。以前から時間も経っていますから、状況も変化している可能性がありますので」
石橋という男は商売上手のようだ。追加調査をさせる為、わざと変動しているだろう結果は報告していない。知りたければ、新たな経費がかかる事を匂わせていた。彼としても当然改めて再調査するだろうが、実際に必要な実費はそれほどかからないはずだ。
しかし新たに調べるとなれば、人件費を上乗せできる。前回の調査と重なっていても、こちらは請求されれば文句が言えない。依頼内容は同じでも、あくまでMIKAとは別口の依頼だからだ。
真鍋と視線を交わし、その件の報告書については保留とした。父親と名乗る人間の素性が分かれば、今の時点では十分だ。藤河の現在の経済状態までは、必要としない。
それよりも動いて貰いたいのは、彼女が依頼していない別件でありそちらが先だった。その為真純は告げた。
「代わりに調べて欲しい件があります。今現在、藤河が彼女を拉致している可能性があるかどうか。そうでなければ彼もまた私達同様、彼女を探しているはずです。藤河が調査会社を使って彼女の事を調べていたのなら、おそらく同じ会社が動くでしょう。どこの会社かご存知ですよね。その人達の動きも調べて下さい。頻繁に動いていれば、藤河に捕まっていないことが判りますし、彼女の行方を先に知られたとしても対処できますから」
「判りました。早速動きましょう。私達も彼女が心配です。元依頼人が、私達の調査結果を持って姿を消した訳ですから」
彼女と連絡が取れなくなった事に、石橋達も少し責任を感じたのかもしれない。時間がないことも理解している。早速打ち合わせを終え、彼らは早々に会社を出ていきながらどこかに連絡を取っていた。すぐに依頼した調査を開始したのだろう。
MIKAが真純に相談もせず、どのように調べて石橋達の調査事務所へ依頼することになったのかは分からない。だが幼い頃から好奇の目に晒されてきた彼女は極端な人見知りで、簡単に他人を信用しない。
その彼女が依頼を任せたのだから、信用が置ける人間だと判断したのだろう。真純はその目を信用した。彼達なら親身になって、しっかりとした成果を上げてくれるに違いない。後は良い報告がくるのを待ち、加えて自分達は自分達で出来ることをやるだけだ。
そう考える事で、心を落ち着かせることができた。動悸は徐々に治まり、頭痛も体のだるさも軽くなっていた。少しだけだが希望が見えてきた為、心理的ストレスが軽くなったのだろう。真鍋も気がついたようだ。二人で会議室を出て事務所に戻る途中、声をかけられた。
「顔色が少し良くなってきたな。落ち着いたか」
「はい。彼らにある程度任せたことで、少し肩の荷を下ろせた感じです」
「そうだな。藤河という奴に捕まっているなら、彼らが早々に探し出すだろう。しかも以前からの行動は、彼らが調査済だ。これまでと違う動きをすれば、直ぐに判るだろう」
「そうですね。でもそれは余り期待できません。あらゆる可能性を潰す為に依頼しましたが、藤河が彼女を監禁までするとは思えませんから」
彼もまた頷いた。
「そうだな。それより藤河も彼女を探している可能性が高い。それならばこちらより、もっと早く捜索を開始しているはずだ。向こうが依頼した調査会社の持つ情報量の方が多いだろう。それが判ればあとは消去法だよ。彼らが捜し切れていない場所を探せばいい。彼らが知らない、探していない、または探せない場所をね。探せていない場所は石橋さん達が調べてくれる。後はこちらだけが知っている場所、彼らが知らない場所を私達が探せばいい。そうすれば捜査網は、全てを網羅する。後は会社として、藤河とどう接触するかだ。それは後でまた打ち合わせをしよう」
「判りました」
頷いた真純は、彼の言葉を小さく繰り返した。こちらだけが知っている、彼らが探せない場所。そう呟きながら事務所のドアを開け、中に入った。時間は朝の十時を過ぎていた為、部屋にはスタッフが三名とも出社し席についている。各自の机を囲んでいるパーテンションのせいで、反対側にいる佐藤や鳥越や森の姿は見えない。
入口にあるホワイトボードの行動予定欄に書いた“A会議室”という文字を消す。同時に各担当者の欄を見ると、鳥越だけが外出をしているようだ。行先は伊藤宅と書かれていた。もしかして、直川賞の件で電話があったのだろうか。それとも別件だろうか。
そう思いながら自分の席に近づくと、席に着いてパソコン画面を見ている森の姿が見えたため声をかけた。
「鳥越さんが伊藤さんの所へ出かけたようですが、直川賞の件で電話があったか聞いています?」
「聞いてない。伊藤さんから呼び出しがあったみたいで急遽出かけたけど、その件かどうかは知らないわよ」
すると席にいた佐藤が横から口を挟み、説明してくれた。
「直川賞の件でかかってくるなら、朝一はない。例年通りなら夕方以降のはずだ。通常は選考委員が集まって夕方かその日の夜までに決め、それから各編集担当者に連絡、または直接作家さんに問い合わせ、という流れだ。うちと契約している作家の場合は担当者経由だから、今日明日の夕方以降の電話は要注意ってことになる」
「じゃあ夕方までの電話なら、心配する必要がないと思っていいですか」
「そうなる。だができればそれまでに、MIKAさんの所在は知っておきたい。調査会社との打ち合わせはどうだった」
彼はそれが気になっていたらしい。だから外出もせずに真純達を待っていたのだろうか。いや、元々作家等への用件は省力化するタイプだから外出が少ない人だったと思い直す。
「驚くべき話が聞けた。二人には伝えておこう。時間があればあっちへ行こう。私達はちょっと奥の会議室で打ち合わせするから、何かあれば第一の方へ内線してください」
真鍋が真純に代わり、佐藤達だけでなくスタッフ達にもそう指示した。二人は頷いて立ち上がり、奥の部屋を指さして向かう。彼の言葉に、はいとスタッフ三人が返事をした。
事務所内には、急な来客時の応接室や社内打ち合わせに使う部屋が二つと書庫がある。真鍋は窓際に面している方の第一会議室に入った。その後を真純、森、佐藤の順で入りドアを閉める。私的情報が含まれる話の為、スタッフ達には聞かれない方がいいからだろう。
部屋の中央には長机が一つ、奥に一人、左右に三人、手前に一人の計八人が座れるソファが置かれている。真鍋は窓際の、三人が座れる横長のソファの奥に座った。真純は少し間を開けその隣に坐ったので、反対側に森と佐藤が腰を下した。
真鍋が調査会社の出した中間報告書を正面に座る森に手渡すと、彼女は表紙をちらりと見てから佐藤との間に書類を置く。二人で内容が見えるようにゆっくりと開いて中身を読み始めた。真純は自分の分を真鍋との間の机の上に置き、最初のページの部分を開いた。
「いきなり中間報告書ですか。昨日調査依頼したばかりなのに」
森が当然の疑問を口にし、佐藤は調査書をめくりながら皮肉めいた口調で呟いた。
「そりゃあ、MIKAさんと同じ調査依頼をかけた訳だから、これくらいはすぐ出せるでしょう。とはいえ、彼女に出した物と同じではないはずです。ここに書かれていない内容も、結構あるんでしょうね」
彼の鋭い指摘を受けて真鍋は頷き、打ち合わせで話された内容を要約し二人に聞かせると、森は目を丸くした。特に藤河には彼女と同じ障害を持つ子がいて、その子がすでに亡くなった話には、複雑な表情を浮かべていた。
対して佐藤は冷静に話を聞いていたが、途中で怒り始めた。
「そうか。この男が彼女に不用意に近づき、自分から実の父親だと口にしたから調査会社に頼んだのか。亡くなった父親が本当の父親でないといつどうやって知ったのか疑問だったが、そういうことだったんだな。その時俺達に、少なくとも担当の紡木さんに一声相談すれば良かったのに。チクショウ」
彼女が担当に相談できない理由を推測し、教えてくれたのが彼だ。だが内心では納得しておらず、悔しかったのだろう。加えて藤河という男に対しての
「会社として捜索依頼をかけた。こちらも別の線で動く必要があると思うが、皆年末進行で忙しいだろう。動ける範囲内でいいから、何か情報があれば皆で共有し合って欲しい」
「分かりました」
森が返事をし、佐藤も強く頷いた。
「有難うございます。よろしくお願いします」
そう頭を下げると、佐藤が厳しい口調で言い返してきた。
「お前の、紡木さんの為に動くんじゃない。もう一担当者の作家の問題ではなくなっている。礼を言われる筋合いはない。だが一番に動くのは担当者だからな。俺達が集めた情報は、全て報告する。それを受けて他の担当者へフィードバックをしながら、真鍋さんと相談をして次々と打てる手は打っていけ。時間がないぞ」
「分かっています」
そこで再度頭を下げた。真鍋がパンパンと手を叩き、
「早速仕事に戻ってくれ。本来業務を疎かにして、担当作家や先方の担当編集者達に迷惑をかけることがないように。いいな」
「はい!」
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