第二章:新たな問題~真純の過去

 真純は森と一緒に最寄りの警察署に行き、MIKAの失踪届けを出した。届け出は受理されたが、障害者とはいえ成人で仕事を持っている社会人だ。その為担当者によると、しばらく様子を見ることしかできないという。

 ただ彼女の住所近辺を担当する交番勤務の方々には、念のため近隣の見回りと情報収集をして貰えるよう依頼しておいた。携帯の発信履歴や彼女の部屋に残されていたパソコン、またはコピー機の情報を複製するなど、その他細かな捜査は事件性が無い限りできないとも言われる。そこで渋々了承した二人は警察を後にした。

 彼女の部屋の鍵を一度管理人に戻し森と一緒に事務所へ帰った。そして早速阪田調査事務所の連絡先をネットのHPで確認し、連絡を取ってみた。しかし先方からは、

「そちらの会社が身元引受人になられていると言われましても、具体的な調査内容までは本人の承諾が無い限り明かすことは、守秘義務によりお答えできかねます」

 との冷たい回答を受けた。だがそのまま引き下がる訳にはいかない。

「では確かにそちらへ調査を依頼して、お金を振り込んだのは間違いないのですね」

「はい。確かに当社が鈴元様から依頼を受けて調査結果をお渡しし、調査にかかった実費も含めた金額をこちらから請求しました。先日それが振り込まれたことは確認しています」

「ということは、調査は終了して調査報告書は彼女に渡されたわけですね」

「はい。確かに本人にお渡しし、調査に関しましても追加の依頼は受けておりません。よって当社としましても当該案件に関しては、すでに終了したものと考えております」

「内容は教えられないにしても、どういった類かだけでも教えて頂けませんか? 例えば人探しであるとか、浮気調査とか身上調査など、調査と言っても色々あると思いますが」

 しばらく沈黙があった上で、相手はこう答えた。

「お名前は言えませんが、ある人物の調査依頼であった、ということだけはお伝えしておきましょう。これ以上はお教えできません」

 そこで電話は一方的に切られてしまった。まだ真鍋は外出中で事務所には戻っていない。そこで森に探偵事務所との会話を説明した。

「つまりMIKAさんがある人物について調査依頼をしていたことには間違いない訳ね。そして調査は終了して報告書は彼女の手に渡った。一週間前に調査費を振り込んでいるから、それより前に受け取っているはずよね。振込票がごみ箱に捨てられていたところをみると、彼女は少なくとも一週間前まではあの部屋にいたことになる」

「でもあるはずの報告書は部屋に無く、両隣の住民の話からはちょうどその頃から彼女の姿を見かけなくなったと聞いています。ということはその調査報告書を持って彼女は姿を消した」

「しかも担当者の紡木さんに何も相談し無かった。身内もいない、彼女の唯一と言っていいほど頼りにしているあなたにまで、秘密にしていることがあったことになる。その人物が彼女の失踪と関係していることは間違いなさそうね」

「誰かを調査していたってことは、ストーカーのような人がいたのでしょうか」

 真純達の話を聞いていた鳥越が話に加わった。だが首を振って答えた。

「私は聞いていません。それに単なるストーカーなら必ず相談があったと思います」

「そうよね。紡木さんに担当して貰いたくて東京から追いかけてきたくらいだから、その程度のことなら彼女が相談しないはずがない」

「そう言われれば森さんの言う通りですね。でも紡木さんにも内緒にしてまで調べていた相手って誰なんでしょう。しかも黙っていなくなって、連絡も取れないんですよね」

「その人物から逃げるために姿を隠し、かつその人物のことを私に隠していたということは、何か会社か私に迷惑がかかると思って黙っていたとしか思えません。そうでなければ辻褄が合わない。私の知っているMIKAさんは、こんなことをする訳が無いから」

「そうね。紡木さんの言う通り、頼りたくても頼れない事情があったと考えると説明がつく。その人物に紡木さんの事や会社のことが知られると、迷惑がかかると思って姿を消した可能性は高いかも」

「なるほど。でも会社としては連絡が取れないことも迷惑ですよね。紡木さん、MIKAさんは何か差し迫った締め切りはあるんですか?」

「そういえば少し前から私に彼女と最近連絡が取れなくて困るって言っていたわよね。何か急ぎの用件でもあったの?」

 真純は首を振った。急いで督促しなければならない締め切りはない。連絡が取れなくて困っていると言っていたのも、新しい執筆依頼の件があったので少し打ち合わせをしたかったからだ。

 しかしその件もメールで伝えている。だから特別緊急性はないけれども、ただ今まで連絡が取れない何て事が無かった。だから驚いているのだと説明すると、二人は納得した。

 森は頷きながら、表情を曇らせた。

「そうね。連絡が取れないって言っても、一週間前までは部屋にいたようだし。それぐらいの期間、担当者と連絡が取れなくても普通は不思議じゃないから。一カ月以上連絡してない担当作家だっているよね。担当者に内緒でふらっと旅行に行っていた、なんて作家さんもいるから。でも彼女はそういうタイプじゃないし、部屋の状況から見て一週間も部屋を開けるような感じじゃなかったから、余計心配よね」

「そうなんです。パスワードがかかっているので中は見られませんでしたけど、普段執筆に使っているデスクトップのパソコンは部屋にありました。でも外出先で執筆できるよう持ち歩けるタブレット端末は無くなっています。通帳は置いてありましたけど、財布や携帯、お泊りグッズと衣服は持って出ているようですし、見た限りは二、三日出かけてこよう、って感じで部屋を後にしたとしか思えない状況でした」

「じゃあ本当は二、三日で返ってくるつもりで出かけたのに、何かあって帰ってこられなくなって連絡もつかない状況になった、ってことですか?」

 鳥越が心配そうな表情を浮かべた。

「そうでなければ二、三日出かける振りをして、長期間どこかに潜むつもりでいたか」

「え、どういうこと? 紡木さん」

 森が驚いた様子で質問してきたため、自分の推理を説明した。

「私にも内緒で誰かのことを調査していたのですから、その人から逃げるか一時期身を隠す必要があって、悟られないようちょっとした荷物だけ持って外に出て、そのまま家に戻らない、ってパターンも考えられます」

「つまりその調査していた人に、彼女は見張られていた可能性があるってこと?」

「やっぱりストーカーですか?」

「調査していた人がストーカーだったとしても、ただのストーカーじゃないと思います」

 三人はそこで考えたが、その先は全く想像がつかなかった。そしてどうすればいいのかも判らない。結局その場では、これ以上考えていてもしょうがないという結論になった。

「MIKAさんの携帯は電源が入っていないようですが、引き続きこちらから定期的にメールや電話を入れて、SNSでも連絡が欲しいというDMを入れるようにします」

 そう彼女達に告げると、二人は頷きそれぞれの仕事に戻った。真純も他に溜まった仕事が山ほどある。MIKAのことは心配だが今できることをやるしかない、と自分に言い聞かせた。席に戻ってパソコンを開き、to do listに沿って少なくとも今日中にやらなければならない仕事を一つ一つ潰すことにする。

 お昼は一階の定食屋から出前を取り、自分の席で食事を済ませることにした。佐藤以外の誰かが席にいれば、誘って一階の店や駅周辺の店に出かけたりする。だが今日はMIKAのこともあり予定外の仕事が舞い込んだ分、忙しくなった為しょうがない。

 森と鳥越は四十代の女性スタッフの高畠たかはたを誘って一階のブックカフェで食事をすると言い残し事務所を出ていった。真鍋と佐藤はまだ戻ってきていない。打ち合わせを兼ねてどこかで食事しているか、食事を終えてから帰社するかのどちらかだろう。

 事務所には二十代の女性スタッフである篠田しのだと、同じく二十代の男性スタッフである臼田うすだが残ってくれていた。高畠が戻れば交代で二人が食事に出るのだろう。社員は事務所に自分一人だったため、外線の電話に出てくれるスタッフがいると大変助かる。

 担当作家達なら直接携帯にかけてくることが多い。その為携帯で作家と話している間に他の出版社などから外線がかかってくると、対応できないからだ。

 この時期は出版社の担当編集者から締め切りを抱えた作家達への督促、進捗状況の確認依頼が多くなる。エージエントを通していなければ、出版社の担当編集者が電話なりメールなりで直接作家と連絡を取るのだろう。

 しかし紡ぎ家と契約している作家達へのその手の連絡は、基本的に全てエージエントの担当者を経由することとなっていた。メールによる連絡・督促だと、内容を確認した上で担当作家へ転送するだけで済ませる場合もある。だが状況によって対応を変えなければならないケースもあった。

 例えば余りにもしつこく連絡をよこす出版社の担当編集者からだと、作家が怒りだすことがある。その為二回督促があれば、一回にまとめて連絡をするなどの調整が必要なのだ。

 逆に編集者が余りにもほったらかしで、締め切り直前になってから思い出したように連絡を寄こすことで揉めるケースがある。そうならない様、こちらで把握している締め切り状況を見て担当作家に様子伺いをし、進捗状況を出版担当編集者に知らせたりもした。

 出版社と作家の両者が仕事を円滑に進められるよう、エージエント担当者は存在している。しかし基本は作家側に重心を置いていることは確かだ。よって作家を守るため、出版社の編集担当者と激しくやり合うこともあった。

 例えば印税などについては特に出版社ごと、担当作家ごと、作品ごとと、一つ一つシビアな交渉を行う。内容によってエージエントが行う仕事や報酬も変わってくるからだ。

 かつて作家の印税は一律十%とほぼ固定されており、多少の例外はあってもほとんどが慣習に則って決まっていた。だが今は古い慣習が通用しなくなった為に契約内容も複雑化している。その分エージエントの出番が増えたと言っていい。

 紡ぎ家は出版社との交渉においての幅が広い、という特徴を売りにしていた。というのも元は出版社が母体だったため、編集、校正、装丁に関してのノウハウを持ち、やれと言われば印刷の発注、つまり紡ぎ家が出版社として本を出せる体制も取れていたからだ。

 例えば作家が出版社の発行する文芸本に連載していた作品で、いざ本にしようと交渉する際に揉めたとしても、最悪自らの会社で出版する手が打てた。そこが他とは一味異なっていた点であろう。またエージエント担当者は担当作家に執筆依頼してきたものを、出版社とどのような役割で仕事を進めるかに線引きをする。そこで印税の割合を初稿段階までに決めて契約書を作成することになっていった。

 その分エージエント会社の人間達の働き方にしわ寄せが来た。売れなければ会社は赤字であり、出版社から多くの仕事を押し付けられる。そのため今の年末時期のような繁忙期は、正規の勤務時間以上に働かざるを得ないことも多々あった。もちろん労働基準法は会社の規模に関わらず適用される。しかし大企業に比べて中小企業においては自殺者が出るか内部告発者が出ない限り、社会の厳しい監視の目から漏れるという現実があった。

 それでもこの紡ぎ家では繁忙期を除けば一定の有休は取れ、フレックス制度を利用できる。働き方にメリハリがつけられたので、ブラック企業と呼ばれるほどひどいものでは無い。以前真純が働いていた保険会社の方が、よっぽどブラックだったと思う。表向きは残業撲滅などとお題目を並べ、強制的に会社の照明を消され退社を促されたこともあった。しかし仕事量が減る訳でもなく結局短時間で仕事を終わらせるか、家に持ち帰るしか方法がなかったのだ。

 そして仕事の質が落ちた皺寄せは取引先や顧客に及ぶ。また社外に書類を持ち出すことで重要な個人情報の漏えいなどの問題が発生するリスクが高まった。それで問題が起こると現場の社員が叱責され、仕事で力を抜く要領の良い奴が評価されるのだ。また比較的楽な取引先を担当している社員が得をするようになった。さらに自分の評価が下がることを恐れる上司が残業禁止と口を酸っぱく言っても、社員の意識が改革されなければ職場環境も良くなるはずがない。残業せずには仕事が回らないと開き直り、朝早く出社して夜遅く帰る社員達は相変わらずいて、仕事のやり方も簡単には変わらない。

 挙句の果てに大企業ならではの社内営業というものが、仕事の効率化を左右することとなる。本来なら取引先や顧客の方を向いて仕事をするべきだが、社内の人間とのやり取りに重きを置く人達は、仕事の比率を内向きに変えて外向きの仕事には手を抜く。おかしいと思っても、現実問題として仕事が回るならその方が評価されるのだから仕方がない。

 どれだけ厳しく理不尽な事を顧客や取引先に言われても、それが仕事だと思うことできれば耐えられたが、社内の人間に対して神経を使うことにどうしても納得できなかった。そうしたストレスが真純の精神を蝕んだのだろう。様々な体調異変が起こり、複数の病院で検査しても悪いところは発見されず、結局下された診断がうつ病だった。精神の拒否反応が体に現れてしまっていたらしい。そこで会社を長期休職した後に退職した。

 だがこの紡ぎ家では今の所どんなに忙しくても全く苦にならない。遣り甲斐のあるこの仕事についてからも、クリニックへの通院は続けていて薬も処方されてはいる。しかし再発する事態には至っていない。脳の病気とも言われ、一度かかると簡単に完治することは難しいとされているが、改善させることは可能だと思うし、真純はそう信じている。

「ただ今戻りました」

 森と鳥越と高畠が昼食を終えて戻ってきたようだ。その声を聞いて、スタッフの篠田と臼田は席を立ちあがり、

「じゃあ、お昼に行ってきます」

 と高畠に声をかけて外へ出ていった。

「お帰りなさい」

 パソコンの画面を見たままそう返事をすると、鳥越が何か言いたそうに隣で立っていることに気付く。座ったまま視線を上げると、彼女は困ったような表情をしてこちらの顔を覗きこんでいた。

「どうしたの? 何かあった?」

 そう尋ねると、彼女は意外なことを言い出した。

「紡木さん、何か戌亥さんとトラブルがありました?」

「え? イノさん? 何も無いけど。どうしてそんなことを?」

 すると前の席に座っていた森が椅子を移動させ、話し出した。

「それがね。鳥越さん達とお昼の後お茶を飲んでいたら、伊藤いとうさんから電話があったのよ」

「伊藤さんってあのモタさん? 鳥越さんの担当ですよね」

 伊藤茂太と書いて、いとうしげたと読ませる、社内外で通称モタさんとも呼ばれ、彼女が担当している歴史・時代物を得意とする女性作家だ。

 第五回“この小”特別賞受賞作家で、紡ぎ家と契約する前にあの直川賞候補に一度、契約後に一度と二回候補に挙がった売れっ子でもある。しかも多い時には年に十冊出すほどの多作家で発行部数も多く、名古屋支店の稼ぎ頭の一人だ。

 このビルからほど近い星ヶ丘に住んでいて、名古屋大学国文科を卒業したが就職せず、しばらくニートのまま地元名古屋で作家を目指し続けた方だと聞いている。そして二十六歳の時にデビューを果たして売れてからは、今や大きな豪邸に住む専業作家だ。

 しかし自宅に編集者を入れたくない彼女は、時々紡ぎ家の宿泊施設や会議室を使って編集者と打ち合わせをするので、真純は担当ではないが何度かお顔は拝見したことがあった。超がつくほどの人見知りで、メディアへの顔出しはほとんどしない方らしい。確か年齢は森さんより二つ上でずっと独身だと伺っている。

 小柄で細く、小説家の中で“自称”二番目に小さい、というキャッチフレーズが表に出している彼女の数少ない情報だ。ちなみにプロフィールを明らかにしている作家の中で一番小さいと言われているのが、モタさんも憧れる大作家で文芸界重鎮の倉田くらた真冬まふゆである。だが紡ぎ家と提携してないこともあり、その方とは会ったことがなかった。

 伊藤も本人には会ってみたいと言っているようだが、出版社主催のパーティー等へ行かない限り顔を合わす機会は無い。ただ一度だけ雑誌での対談企画のオファーがあったらしい。しかし余りにも好き過ぎて至近距離で会うことが恥ずかしく断ってしまった、というエピソードがあるほどシャイな方だ。

 直川賞を取ったらメディアを避け続けることは諦め、積極的に取材は受ける事、と社長の京川他、紡ぎ家の社員達と約束しているが、本人はあまり乗り気では無いらしい。

 そんな彼女が戌亥とどう関係するというのだろうか。話が見えない。ようやく彼女が、口を濁していたことを思い切って切り出した。

「それが、ですね。先ほど伊藤さんからの電話によると、どうもSNSのDMを通じて戌亥さんが、担当者の悪口とか会社批判を伊藤さん相手にしているようです。伊藤さんと戌亥さんはほとんど面識がないそうですが、同じ支店に所属している作家さんなので適当に、そうですか、それが本当だったら酷いですね、なんて取りあえず返していたらしくて。でもあまりにそんな話題が続くので心配になったらしく、本当のところはどうなの、って先ほど私に尋ねてこられました。でも戌亥さんとのトラブルなんて会社としては無いですし、紡木さんからもそんな話は聞いていません。そう説明して、ただ一度確認してみます、と電話を切ったのですが」

「イノさんが私や会社とトラブル? ない、ない。今だってそれなりに仕事依頼は出版社から取ってきているし、あるとすれば最近売上が伸びなくてなかなか結果が出ないくらいかな。でもそれが会社のせいだとか私のせいだとか言われたことはないよ。でも戌亥さん本人が悪口を言っているとすれば、そういう不満があるってことなのかな。その話って伊藤さん以外の他の作家さんからも聞いていたりします?」

 鳥越と森の二人に聞いたが、二人とも首を横に振った。SNSで個人的にやり取りをしているなら、SNSの運営会社から特別な許可を得ない限りその内容を知ることはできない。

 伊藤だけでなく佐藤の担当作家にもそのような悪口や愚痴を言っているとすれば、彼なら鬼の首を取ったように必ず絡んで攻撃してくるだろう。だが今のところそういったことはなく、全く心当たりがなかった。あるとすればいいがかりであり、誤解があるのならそれを解かなければならない。

 森が補足するように話をしてくれた。

「午前中に紡木さんが外出している時戌亥さんから会社に電話があったけど、私が取ったのね。でもいつものようにどうでもいいことを喋りだすから、途中で真鍋さんに電話を変わってもらったの。だけどその時は何も紡木さんへのクレームとか会社への愚痴とか全く言ってなかったのに」

「戌亥さんって私と打ち合わせしたい時は携帯にかけてきますけど、大した用事が無い時は会社の外線にかけてきて、森さんが電話に出ると長話をしたがりますよね。分かりました。連絡してみます。文句があれば直接言えばいいのに。あの人ってそんな性格だっけ」

 そう呟きながら、スマホを取り出し彼の番号を呼び出して電話をかけた。だがしばらくコール音が鳴った後、電話に出られませんというアナウンスが流れ留守電に切り替わった。 

 しょうがないので、

「午前中にお電話いただいていたそうで。席をはずしていてすみません。急ぎの案件ではありませんが、少しお話したいことがあるのでお電話いただけますか。お待ちしています」

とメッセージを入れて電話を切った。

「何、あいつ留守電なの? 電話に出ないの? 私からかけてみようか?」

 森が少し怒った顔をし、鳥越は間に挟まれて困惑した表情を浮かべている。戌亥が森に好意を持っていて、彼女はそれを知った上でスルーしている。そして鳥越は彼に対し思いを寄せていることは、おそらく佐藤以外の事務所の誰もが知っていた。彼女本人は気付いていないようだから、みんなそっとしているだけだ。

「いえ、メッセージを残したので、いつかはかかってくると思いますよ。別に急ぐ話でもないでしょうし。大丈夫です。喧嘩なんかしませんから。心配しないでください」

 陰口を叩いているという戌亥が許せないのだろう森は、まだ怖い顔をして真純のことを睨むように見るのでそう言って宥めた。

「でもなんだろう、伊藤さんに言った悪口って。鳥越さんには具体的な内容まで教えてくれなかったの?」

 そう尋ねると彼女は頷いた。

「はい。内容を聞いたらそれはちょっと、って口を濁されたので問い詰められなくて」

「それはそうだね。伊藤さんは心配して鳥越さんに電話をかけてきてくれたのだろうから、巻き込まない方がいいと思う。でもなぜ戌亥さんはそれほど接点があるとは思えない伊藤さんに言ったのか分からないな。他の人に同じような悪口をどれだけ広めているか知らないけど、私と戌亥さんと場合によっては真鍋さんも含めて一度話し合ってみる。だから鳥越さんは安心していいから」

「そうだね。そうしたほうがいいわよ。なんなら私も加勢するから」

 森はまだ怒りが収まらないようでこちらに向ってそう言い放ち、どすん、と勢いをつけて自分の席に腰かけた。

 しばらくして真鍋が帰社したのでMIKAのことを報告し、戌亥の件も耳に入れた。彼も会社として戌亥と揉めた心当たりはないと言い首を傾げた。

「もし話し合いの場を設けて私も同席した方が良ければするから、その時は遠慮せず声をかけてくれ。紡木さんも一人で抱え込まないように。なにか誤解があるだけだと思うから、あんまり心配しないで」

「分かりました。私もそう思います。ありがとうございます」

 頭を下げ、自分の仕事に取り掛かった。真鍋は会社立ち上げ当時からの付き合いだ。真純のことはメンタルの件も含め気を使ってくれている。仕事に対する評価もできたことはしっかり褒めてくれるし、至らない分は編集者の先輩として厳しく指導してくれるとても有難い上司だ。その想いに報いるためにも、そして自分自身の為にも今やるべきことをしっかりとやるだけだと自分に言い聞かせた。

 夕方近くに佐藤が帰社した。本社時代もそうだったが、効率重視で普段はめったに外出することない男だ。作家と会うにしても会社の会議室や近くの喫茶店に呼び出すなど、移動する時間を惜しむかのようにこちらから出向くことを極力に嫌う、というか避けていた。それが彼の仕事スタイルなのだろう。

 だが今日は珍しく午前中の早い時間から出ていき、夕方遅くに帰ってきた。滅多にない行動だが、この支店にきて間もないからだろう。田端から引き継いだ新たな担当作家もいるためやむなく出向き、人間関係を作ろうとしているのかもしれない。

 確か引き継いだ担当は京都と福井在住の作家が一人ずつで、他の二名は名古屋市内在住の作家だったはずだ。ということは、この近辺に住んでいる二人の内のどちらか、または二人の所を一日で回ってきた可能性もある。

 出かける際、事務所の出入口のホワイトボードへ行き先を書くことになっているが、彼は絶対そういうことをしない。打ち合わせとしか記入せず、帰社予定時間の欄さえ書かないのだ。

 めったにないが、京都や福井、そして本社時代から担当している沼津と山梨にいる作家達のような遠方の担当先へ行く時は、打ち合わせに加えて出張と記入する。そして帰社時間の所には大抵NR、つまりノーリターンと書いて帰社せず直帰することが多かった。

 今の時代、急ぎの用件があれば携帯にかけて連絡できる。だから行き先を書かなくても不都合がある訳ではない。しかし真純からすれば情報を共有する意識に欠けていると思えて仕方がなかった。

 同じ出版業界出身の真鍋や鳥越、そして今は入院している田端に対して佐藤のような印象を持ったことがないので、個人的な問題だろう。どうしても彼にはチームで働いているという意識が薄い、というイメージを拭えないでいた。

 彼のような人種はかつての会社にもいた。担当している相手に対してビジネスライクな接し方しかしない。なるべく面談を避けてメール、電話などで用件を済ませることで省力化に励むタイプの担当者だ。

 真純は必ずしもその仕事スタイルを否定してはいない。ただ自分とは違うタイプだと思っているだけだ。仕事のやり方は相手方が違えば、それに応じて対応も異なるのが自然であり、人それぞれであることはやむを得ない。

 ただ決定的に異なるのは業績が上がらない作家に手をかけることを嫌がり、早々に提携を解除すべきとの意見を持っている点だ。加えて自分の考え方を他人に押しつけようとすることも真純とは違う。そこは本社で一緒に働いていた時代から、何度も衝突を繰り返してきた。

 確かに作家を担当してきた職歴では、大手出版社出身の彼に勝てない。出版社を通さない電子書籍の装丁にも着手し、編集・校正にも携わってきた彼の編集者としての経験値は高かった。それは一目置かざるを得ないし認めてはいる。

 ただ担当作家を取引先と考えれば、真純には保険会社時代に代理店という保険を直接販売する取引先を担当していた経験値があった。多い時には五十以上の代理店を担当し、全てではないが定期的に訪問していた。そして仕事上で困っていることがないか尋ね、あればアドバイスをし、トラブルが起これば一緒に顧客へ頭を下げに行くなどしていたのだ。

 また保険を販売する上で必要な年間計画を立てたり、営業方針の打ち合わせを行って企画書を作ったりもした。さらには顧客先への訪問に同行し、保険提案の内容説明を行ったりしてきた実績もある。

 仕事内容は異なるが、まず人間関係を形成して担当している取引先の売上が上がるよう様々な手を打ち、業績の向上を妨げる要因の排除に動くことは、今の仕事と共通していた。そう考えればエージエント担当者として、佐藤に劣る経歴では決して無い。

 さらに言えば以前の会社でも業績が上がらない、会社として非効率と判断された多くの代理店に取引解除の通告をしてきた経験も少なからずある。それこそ彼が言うように首を切る行為だ。その過程で罵られたことなど何度もあった。それでも歯を食いしばり、会社の方針に沿って関係を絶ってきたのだ。

 そうした経験があるからこそ、目先の一時的な数字だけを見て安易に取引を解消することはしたくなかった。相手と良く話し色々手を尽くした上で、それでも先に展望が見えない、または先方に数字を伸ばす気力が無いと判断した結果、契約解消の手続きを行うことが筋だと思う。

 そうでなくてもこの業界では毎年多くの作家が誕生するが数年の内に大半が消え、生き残る作家はほんの一握りだ。それだけ厳しいことは理解している。だからせめて所属作家には少しでも長く続けて貰いたい。

 だが彼は彼で真純の仕事の進め方が生ぬるいと感じるらしい。自分と同じく仕事の考え方、取り組み方が正反対だと思っているのかやたら突っかかって来る。過去の経験から決して分かりあえない相手であれば、出来る限り関わらないようにするのが一番なことは分かっている。しかしどうしても許し難い発言には、我慢できず反論をしてしまう。

 しかも同い年だが文芸出版業界では先輩だという自負が彼にあるからだろう。すぐにお前呼ばわりしてくるから余計に腹が立つ。その為ついこちらも感情的になってしまうのだ。

 この会社では担当作家も含めて年齢問わず“さん”付けで呼ぶと決まっているが、彼は時々その方針を無視する。だからわざとこちらはですます調で言い返してやるのだが、本当ならこちらもタメ口でやり込めたいくらいだ。

 それにいくら経験者であっても、彼は途中入社してきた人間である。会社立ち上げ時から出資者の一人として参加している真純の立場からすれば、厳密に言うと普通の社員とは役職が違う。それでも彼は厳しい態度をとり続けてくる。それが最近日々のストレスとして蓄積していた。

 真純は前の会社が体質に合わなかったせいか、うつ病を発生させ休職をしていた時、リハビリを兼ねて数多くの小説を読み、物語の世界にのめり込んだ。幼い頃から大学受験をする頃まで読書好きだったはずの自分が、就職して多忙となってからは仕事関係以外の本、ましてや小説など読むような心の余裕さえ無かったことに気づかされたからである。

 入社後も難関大学を突破した受験勉強など楽に思えるほど勉強をした。保険知識はもちろんFPの資格、銀行業務に関する窓口販売資格、生保資格などに加え税理士資格まで取った。毎日忙しく働きながら睡眠時間を削って土日も勉強を続ける辛さは、学生時代と比較しようが無い。そんな状況で趣味の読書等できるはずもなかった。

 しかしそれがまずかったようだ。馬鹿が付くほど真面目に、しかも要領が悪いためか息抜きもせず仕事と勉強ばかりしていた事が祟ったのだろう。時には力を抜くことの大切さを、自分が倒れるまで全く理解していなかったのだ。

 うつ病の人は眠れないという良く言わるが、真純は違った。体の倦怠感と動悸と頭痛がひどく、その状況から逃れるために食事やトイレや風呂の時間以外はずっと眠り続けていた。そこで担当医の忠告もあり少しでも起きている時間を増やし、規則正しい生活を送るよう心掛けた。六時半には目を覚まし、十一時までには眠るというリズムを作り、起床している時間は朝夕に散歩、夜はニュースやお笑い番組を中心としたテレビも見たが、昼間はできるだけ読書する時間を持つようにした。このリハビリ方法は自分に合っていたらしい。様々な小説を読むことで多くの作家達が紡ぐ、それぞれの物語に心は救われた。

 最初は読みやすいエンタメの物語を選んで読んでいた。それが徐々にハラハラさせるアクションやミステリー、サスペンス、ファンタジーと手を広げた。そして社会派や歴史・時代小説などの重厚な物語や切ない恋愛小説、涙なくしては読めない人情物まで読んだ。

 そうして一人部屋に籠り人と話すこともほぼ無くなっても、物語の中では怒ったり叫んだり喜んで笑ったりできた。時には泣いて悲しむことで大きく心を揺さぶられ、人として生きるための大切な何かを取り戻しつつある感覚に陥ったものだ。

 真純は感動していた。多くの作家達がそれぞれ違った作品で、取材や文献などを調べて得た現実の知識と限界の無い想像力とを融合させる。そうして紡がれた物語が脳を、体を、そして心を刺激するのだ。

 また休職中で時間だけはあった為、多読家達が一度は陥る病にかかった。自分で物語を書きたいと考え始めたのだ。しかし誰もがそう上手く書ける訳もない。何作かは書きあげ新人賞に投稿したが、結果は良くて二次通過止まりだった。

 だが現実は予想もしない方向に進むものである。執筆をしている間に息抜きと情報収集の為に始めたSNSで、同じく小説家を目指す人達と交流をするきっかけを掴んだ。そして月日が経つにつれ、その人達の中からデビューしてプロになる方が出始めた。

 そんな中、プロとなった作家を通じて編集者とも繋がりができ交流を続けているある日の事だ。エージエント会社を立ち上げるための仲間に入らないか、と誘われたのである。

 それまでに呟いていた内容からFP資格や税理士の資格を持っていたことと、業種は異なるが気難しい取引先を担当していたことで、前職の経験が生かせるのではと思われたらしい。仕事内容に興味を持った真純は少しずつ体調が回復してきた頃を見計らい、会社には復職せず退職する決意をした。

 そして貯金や退職金だけでなく、すでに亡くなっていた両親からの遺産やさらに義理の兄に頭を下げ借金をしてまで用意した資金をつぎ込み紡ぎ家の出資者となり、自らも働くことで協力してきたのである。そして会社設立時には本社で各担当作家の税務事務や会社の経理も任されるようになっていた。

 後に同じく創設時の出資者の一人である真鍋と組み、名古屋支店の立ち上げに尽力することとなり、支店を無事設立させると彼が支店長として先に赴任した。真純が彼より一年遅れての赴任となったのは、もう少し本社で作家を担当する仕事の経験値を上げ、出版社とのやり取りを覚えた方が良いと会社が判断したからだ。

 もちろん自分は出資者であることを振りかざすつもりはない。だが佐藤の余りにも傍若無人な振る舞いがどうしても感情を逆撫でした。だから支店への異動が決まった時は、ようやく離れることができると心底ホッとしたものだ。それが何の因果か一時的とはいえ、また彼と同じ職場で働くことになったおかげでストレスが増した。ここ最近は再び揉めることが多くなり、欝憤が溜まり出してきたことも確かだ。

 事務所には十五時から十六時には帰社するスタッフの姿はすでに無く、佐藤の帰社により正社員の五名が揃っていた。退社時間は基本十八時だが、年末進行のこの時期ならおそらく皆遅くまで仕事をする予定だろう。効率良く、をモットーにしている彼でさえ仕事が溜まっているのか、今日は始業時間の一時間半前に出社してきていたほどだ。

 そういう自分は二時間前に出社していたが、出資者特権を利用してビルの四階に住んでいることもあり、通ってきている他の担当者よりは早く事務所に入ることができる。それに昔から朝型であるため、早朝出勤した方が仕事は捗った。その分夜は真鍋達よりも早く帰ることが多い。

 出版業界出身の担当者は夜型の人間が多いらしく、真鍋などかつては朝十時過ぎや昼前に出社し、夜中二時、三時まで仕事をするという毎日だったようだ。それでも当然のように一日十二時間以上働いていたというのだから、労働基準局が問題視するのも無理はない。

 以前いた保険業界も九十年代まではそれ位の労働は当たり前だったという。会社に寝泊まりする社員もざらだったらしい。それが二〇〇〇年代を少し過ぎた辺りから、内部告発などによりサービス残業、違法残業にメスが入った。そのおかげもあって広告業界で起きた問題よりずっと前に、表向きは違法残業をしない体制がとられるようになったのだ。

 それでもしばらくの間、本社や大都市にある部署以外の地方では当たり前のように朝早くから夜遅くまで仕事が続いていた実態がある。だが周囲の監視の目がより厳しくなったことで、近年では広告業界や出版業界よりも早く改善されつつあったことは事実だ。

 そんな中で真純がうつ病にかかってしまったのは、労働時間だけが問題だったわけではない。体と心に疲労を溜めないバランスの良い働き方が必要であり、かつ時間を費やしたなりの遣り甲斐や自信を持つことができるかどうか、が大切なのだと思う。

 成果もそうだがその過程も評価され、さらに自分の仕事が客観的に見て評価できるようになれば病にかかることはなく、またはかかっても深刻な状況に陥る手前でなんとか踏み止まることができたのではないか。今のところ再発せず長い時間働いていられる現状から考えると、そんな想いがとても強くなる。

 真純はパソコン画面で今日のやるべき仕事リストを見直し、九割方こなしていることを確認し、ほっと溜息をつく。突発的な案件があった割には今の所なんとかこなせている。

 リストに残った仕事の中で、どうしても今日中にやっておかなければならないものは後わずかだ。その他は明日以降に繰り越しても問題はない。ここまで目処が付くと気が楽になる。残りの僅かの仕事の一つに取り掛かり、パソコン画面を凝視していた。

 そうして集中していたので気付くのが遅れたが、斜め後ろに人の気配を感じ振り向いた。すると険しい表情をした佐藤が立ったまま、こちらをじっと見下ろしている。何か用件があるようだが、向こうからは何も言ってこない。

 しばらく見つめ合う形になったが、先に口を開いた。

「何?」

 思わず尖った口調になってしまったからか、彼も喧嘩腰で返してきた。

「何、じゃないんだよ。さっき鳥越や真鍋さんからMIKAの話を聞いた。お前、何やっているんだ? 失踪だって? 担当者として失格なんじゃねえの?」

 人の事をお前呼ばわりするのは毎度のことだが、年下だからと言って鳥越や作家まで呼び捨てすることが許せず、思わず立ち上がった。それでも身長の高い彼を見上げる形になったが、負けてはいられない。

「鳥越、さ、ん、ね。MIKA、さ、ん、のことを真鍋さんから聞いたのなら、何やっていると言われても、そのままです。いつも通りに接していたけど、彼女が私に内緒で特定人物を調査していて連絡がつかなくなりました。それが担当者失格というのなら、元担当だったあなただったらどうしていました? 一日中、監視していました? 何か隠し事がないか盗聴器でも仕掛けていたら良かったのでしょうか。参考までにお聞きしますけどこういう場合、ベテラン編集者ならどうしました? ちなみに誰かさんより私の方が担当作家と密に連絡を取っているとは思いますけど」

「何だって! どれだけ頻繁に連絡を取り合っていても隠し事をされ、逃げられちまったら意味無いだろ!」

「だ、か、ら、どうすれば良かったと言うのですか? 元担当者さん。ちなみにお伺いしますが、あなたにも彼女から相談は無かったのですか。MIKAさんはあなたが前にいた出版社の主催する新人賞でデビューした。そうですよね。その時からお付き合いがあったあなたにだったら、何か言っていてもおかしくはないと思いますけど」

 彼も彼女から何も聞いていなかったのだろう。それまで強気だった態度を変え、ぐっと押し黙った。そこでさらに畳みかけた。

「無事デビューを果たして新人賞を取った作家のノルマと言われる三冊の作品を彼女は出したけれど、その後が問題だった。彼女は生まれつきの障害に対するコンプレックスから、他の出版社との付き合いに消極的だった。このままデビューさせた出版社一社だけの付き合いだと、彼女の可能性を狭めてしまう。そういう理由でこの会社とエージエント契約を結んだ。そうでしたよね。しかもサブから正担当に昇格した佐藤さん、あ、な、た、の後押しで。違いましたか。担当者失格の私には内緒でも、そんなあなたには何か伝えたりはしなかったのですか」

「な、何も聞いてない」

 絞り出すように彼がそういうので、とどめを刺すように続けた。

「当社と契約を結んで私が担当するようになり、他の出版社からの依頼も受けられるようになって彼女は順調に活躍してきました。その後当社へ転職してきたあなたもその事はご存知ですよね。しかも私が名古屋への異動が決まり、担当者が変わってしまうと聞いた彼女はそれを嫌がり、名古屋に転居までした。その時本社にはあ、な、た、もいましたよね。私が名古屋へ異動する時に担当作家の振り分けを考えましたが、当初はあなたに担当して貰うことがいい、と会社では決まっていました。彼女にもそれは伝えましたよ。でも彼女は私を選んだのです。そのことはご存知でしたか」

 しばらく沈黙していた彼がようやく頷いた。

「ああ、知っている」

「それなら結構です。彼女の行方を掴めない責任の一端が、担当者の私にあることは認めます。だからと言って、あなたに担当者失格と言われる筋合いはありません。それよりも問題はこの後どうするか、そしてどう動くかでしょう。私の次に彼女のことを知っているのは、おそらくあなたです。あなた以外のここにいる人達に心当たりがあるか聞きましたが、今のところ何も出てきません。あなたには何かありますか。最近気づいたことはありませんか。あったら教えてください。これは私だけの問題ではありません。支店全体の問題です。彼女のことを心配しているのは、あなたも同じでしょう」

 真純の言葉に俯いてしまった彼は何か考えているようだったが、しばらくして顔をゆっくりと上げて答えた。

「MIKAのこと、いやMIKAさんのことで今のところ特に気づいたことはない。ただ関係しているかどうかは分からないが、気になることは一つある」

「気になること?」

「最近、このビルの近くでやたら見かけるようになった男達がいたのは確かだ」

「男達? 一人じゃなくて、ですか?」

「ああ。俺が気付いた限り二人はいる。このビルの一階のテナントに来るお客にはどうも見えなかった。なんて言っていいかちょっと分からないがそういう奴等がいるな、と時々感じていたことはある。俺がここに来てしばらく経ってからかな。このビルの前の道で見かけたり、たまにここの窓から何気なく下を覗いた時にも見かけたりした。刑事じゃないだろうが、イメージ的にはそういう張り込みをしている感じ、といった方が近いかもしれない。それが彼女のことと関係あるかは知らねえけど」

「張り込み、ですか」

「いやイメージだぞ。そうじゃなければストーカーとか。でも男二人でストーカーって言うのも違うような気はするが」

 彼の口調がやや大人しくなった。だが情報としては聞き逃せない。

「MIKAさんが依頼していた阪田という調査事務所に連絡した時、担当者は守秘義務があると言いながら、それでもある人物に対する調査をしたことだけは教えてくれました。ある人物であって、ある人物達という言い方ではなかったことから、調べていた対象者は複数ではなく一人だと思います」

「なるほど。そうだな。支払った金額からしても調べた期間や難易度にもよるが二十万ちょっと、ということは複数というより一人、と考えた方が確かに信ぴょう性はある」

 彼が頷いて納得したところに、横の席にいた真鍋が会話に参加してきた。

「ストーカーだったら怖いな。だけど俺は全然そんなことに気付かなかったよ」

 向かいに座っていた森も聞き耳を立てていたらしい。席から立ちあがって喋りだした。

「私も、です。よく気づきましたね、佐藤さん」

「ああ、たまたまですけどね。それでも二、三回ですよ」

 二人にそう答えていた彼に、真純は尋ねた。

「二人組、というならもしかするとその人達はMIKAさんが依頼した阪田事務所の人、とも考えられますよね。それか別件でうちの会社を調べているような人達がいるか、かな。佐藤さん、この一週間でその人達のことを見かけました?」

 しばらく視線を斜め上に向けていた彼は、何とか思い出したようだ。

「えっと、最近だと一週間くらい前かな」

「そうですか。それだと別件かもしれませんね。彼女が調査事務所に振り込んだのはちょうど一週間前です。ということはその前に調査自体が終了しているはずですから。調査報告書を作成して彼女に渡すまでにも時間が必要ですし、少なくとも十日位前には調査が終わっていたのではないでしょうか。だから一週間前にも見かけたのなら、佐藤さんが見た二人組は阪田事務所の人達ではない可能性が高い。でもその前に見かけた人達は調査事務所の人達だった可能性もありますが、同じ人だったと言えますか」

 彼は自信なさげに否定した。

「いや、二人組の男がいるなあってくらいで、また同じ奴らがいたと言えるほど顔をしっかり見た訳じゃない。何となく怪しいというか、気になる人達がいると感じた程度だ」

「なんだろう。そんな話聞いちゃうと怖くて気持ち悪いです。帰り道、気をつけないと」

 鳥越まで真剣な顔をして同意を促すよう森に話しかけていたが、

「大丈夫だって。ここから駅までの道はそれほど暗くないし、最終の電車くらいまで遅くならなければ人通りもあるから」

 肝が座った彼女にさらりと否定されたため、鳥越は口をつぐんで下を向いた。森の口調は彼女のようなまだ若い三十一歳の独身女性と一緒にされても困る、と言わんばかりだったため、それ以上何も言えなかったに違いない。

 鳥越は入社以来文芸担当をしていた中堅出版社の元編集者だ。それがある日突然総務課に異動させられたことに不満を持ち転職も視野に入れていたところ、当時担当していた紡ぎ家担当作家から、名古屋支店ができるという話を聞いて興味を持ったという。

 前の出版社でも紡ぎ家に所属している西日本在住作家を多く担当していたことと、三重県出身で作家の伊藤と同じ名古屋大学国文科出身だったこともあり、名古屋支店勤務を希望してそのまま転職してきた人材だ。文芸が大好きなオタク系女子で、日頃は大人しいが、こと小説のことになると熱く語るタイプである。

 対して森は今年四十三歳になる離婚経験者で子供が一人いるが、元夫は千葉在住の資産家の会社社長だ。離婚時に跡取りが欲しい相手の実家と親権争いをして敗れ、子供を奪われた過去がある。離婚後はなかなか子供に合わせてもらえないらしく、元夫は離婚が成立した一年後に再婚したらしい。よくある話だろうが、彼女にとっては残酷な現実だった。

 離婚理由の一つとしては、彼女が妊娠中も仕事をしていて流産の危機に陥ったことがあったそうだ。無事出産はできたがその後も早く仕事に復帰したいという彼女に、とうとう舅姑を激怒させ夫婦仲も険悪になったから、と聞いている。

 彼女の過去のことを詳しく知っているのは、真純の姉の夫、つまり義理の兄である雅史まさしが彼女と同じ芸能事務所の先輩として在籍していたからだ。二人は所属しているタレントのマネージヤー業務を主に仕事としていた。

 そんな彼女が離婚トラブルで会社の仕事に支障をきたしていた頃、真純が紡ぎ家に出資して転職をした話を知っている義兄が、会社に居づらくなっていた彼女に対して紡ぎ家への転職話しを持ちかけたという。そこで話に興味を持った彼女の相談に加わり、仕事内容の説明などをしたのだ。

 当時真純が名古屋支店の設立に向けて動いていた頃でもあったため、彼女は様々な思い出がある関東から思い切って引っ越しをした。名古屋に勤めた方がいいのではないかと話が進み、結局転職することになったのである。そして後ろ髪をひかれる思いで子供達のいる関東から離れ、こちらへと移り住む決意をしたのだ。

 紡ぎ家では作家のスケジュール管理や各出版社への営業なども手掛けている。彼女は文芸作家を担当する編集者としての経験はなくとも、それ以外のエージエントとしての経験があったため、会社の大きな戦力となっていた。

 また元主婦でとても料理が得意だったため、時々紡ぎ家が経営しているビル一階のバーで食事を作って出したりもしている。京川のお気に入りとも言われ、彼女がバーで料理を作るようになったのも彼の声かけによるものらしい。

 社長が本社から離れ名古屋にきたのも森目当てではないかと噂されるほどだ。だから彼女がバーで料理を作る時は必ずと言っていいほど彼は顔を出すらしい。

 MIKAの件に加えて様々な話が飛び出したので、すぐに昼間話した調査事務所の担当者に電話をかけて確認をすることにした。

「昼間おかけした件ですけど、そちらの方達が当社のビル周辺を探っていたことはありますか。あればそれはいつ頃が最後でしょうか。こちらの別の社員に確認したところ、一週間前に怪しい二人組の男を見かけたと言っていますが、そちらの方達では無いですか」

 調査していたこと自体を非難するような口調で突いた所、

「あなたもしつこいですね。確かに調査の一環でそちらの会社周辺に伺ったことはありますが、確か二週間前からは伺っていませんよ。ですから少なくとも一週間前に見かけた二人組というのは私達ではないでしょう。それに素人から見て怪しいと思われるような調査員はうちにおりません。しかも二人組なんて下手な警察の張り込みじゃあるまいし。よろしいですか。これ以上調査関係については守秘義務もありますので何も言えませんから」

 昼間同様、それだけ言うと一方的に切られてしまった。だが情報は得られたので満足していた。調査会社との会話を真鍋達に説明した。

「どうも佐藤さんが見た人は調査事務所の人達とは別件のようです。つまり佐藤さんの見間違いでないとすれば、どういう意図かは判りませんがこのビル周辺を嗅ぎまわっている人達が他にいることは確かでしょう」

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