第一章:衝突~事件の匂い
師走に入り、朝の最低気温も一段と低くなった。晴れていて日差しが当たる場所を歩いている分にはまだいいが、日陰に入るとひんやりする。
名古屋市営地下鉄東山線の駅から歩いて三分の場所にある、閑静な住宅地の中に佇んだ四階建てのビルに
駅周辺には大きな動植物園がある為、週末は特に多くの人が訪れて騒がしくなるが、そこから少し離れただけで途端に緑が広がり、静寂した空気が流れる場所でもある。
入り口で入社証のカードキーを通し中に入り、エレベータには乗らず横にある階段を使って二階の事務所までゆっくり上った。
事務所のドアを開けた途端、パタパタとキーボードを叩く音が聞こえる。始業時間の九時よりまだ一時間も早いというのに、部屋の中はすでに暖房で十分温まっていた。
ダウンジャケットとマフラーを脱いで入口のハンガーラックに掛けたが、すでに四人分のコートやジャケットなどがぶら下がっている。
振り返って部屋の中央に視線を向けた。事務所中央にはパーテーションで区切られた八つの机が固めて配置されている。入口からは二人の背中が見えた。窓際の席で最も大きな音を響かせ、懸命にパソコンと格闘しているのが
今年で四十三歳になった陽菜よりまだ五歳若いからだろうか、それにしても働き過ぎだといつも思う。以前いた会社をうつ病で退社したとはとても見えない彼は、自分と同様前職が今働いている業界とは全く畑違いな職場出身である。
その分日々学ぶ事は多く、他の元出版社出身者達のようには要領よく仕事がこなせない。その為日頃の遅れを取り戻そうと必死なのだろう。ただ彼の場合、労働時間が長くなる理由はそれだけではない。だからそう簡単には改善されないだろう。
その右隣に座っているのは支店長の
二人の背中に向けて、「おはようございます」と声をかけると、「おはよう」「おはようございます」と返ってきた挨拶の中に、こちらを振り向かず発せられた二人以外の声が混じっていた。入口からは見えない、パーテーションの向こうで後二人が座っているからだ。
ドアを閉めて壁に置かれたキャビネット沿いに歩く。職員用のPCや社有車の鍵など重要保管物が入っている棚の一つへと向かいながら左を向くと、真鍋の正面に当たる席に
陽菜が出社したことにより“株式会社
今日も忙しくなりそうだと溜息をつき、施錠ができる棚の扉を開けた。当然鍵はかかっていない。会社から与えられた自分専用のノートPCを取り出した時、同じく会社から貸与されたスマホの着信音が事務所内に響いた。
どうやら紡木のものだったらしく、いつもの甲高い声で電話に出る。世間ではいわゆるアニメ声と呼ばれるものだ。セーラームーンに出てくるキャラクターとそっくり、と誰かが言っていた。そんな彼は声と姿のギャップが激しい。
残念と言ってしまうと失礼だが、可愛らしい声とは正直相反した顔をしている。身長は陽菜よりも低く、団子鼻にギョロリとした大きな目をしており決して愛嬌のある顔ではない。
その声から声優になればいいと幼少の頃から言われ、“ツムキ”をもじって“声優のツムコ”とあだ名され、男女問わず同級生からよく苛められていたという。その反動もあってか、小学生の頃から習い出した空手は黒帯で段持ちだと聞いたことがある。
陽菜の真向かいの席で嫌でも聞こえてくる高い電話の声と、懸命に宥めて励ましているその様子から推測するに、担当作家の
自動車事故を起こしたらしく、落ち着かせる為に色々なアドバイスを懸命に伝えている。その甲斐あってか彼は落ち着きを取り戻したようだ。後はしばらく緊迫したやり取りが続いていた。
幸いなことに両者共怪我は無いらしい。話す内容とは全く似つかわない甲高い声が、しばらく事務所中に響き渡っていた。
元保険会社勤務の経験を持つ紡木は、事故が起こった後の流れを親切かつ丁寧に説明をしている。それだけではない。途中から先方の運転手と代わったようで、相手に怪我はないと知りながらも慣れた口調で改めて
「お怪我はないですか?」
などと優しく声をかけながら事故状況の確認をしていた。先ほど戸田にも同じ質問をしていたため、双方の言い分を聞くことで実際の状況を正確に把握しようとしているらしい。
互いの主張に食い違いは無く、どうやら片側一車線の直線道路を走行していた彼の車と、コンビニのある敷地から出てきた相手の車が接触した事故だと判った。それなら過失は双方にあるが、戸田の過失が少ないでしょうと彼は説明しだした。
だが相手は気に入らなかったのだろう。声がこちらまで漏れ聞こえる程の関西弁丸出しの大声で怒鳴り始めた。事故場所が戸田の住む家の近くだと話をしていたため、場所は京都のはずだ。
関東出身の陽菜なら、男性に関西弁で怒られた時点で震え上がってしまう。しかし紡木は全く動じず毅然と対応していた。相手側に加入している保険会社へ連絡するよう伝え、詳細な過失交渉は双方の保険会社同士で行うことになるでしょう、と告げている。
電話の相手が再び戸田に代わり、初めて起こした事故でプチパニックに陥っていた彼にはとても感謝されていたようだ。いえいえそんなことは、などと話した上で今後の事故処理の流れを再度判り易く説明して電話を切ると、直ぐに本来の事故対応窓口となる、彼が加入している保険会社へと連絡を入れていた。
紡ぎ家では作家に関わる本業以外の専門知識が必要な事案は、弁護士や税理士、保険等も含め全国に支店を持つ大手に業務委託している。社員や担当作家などの自動車保険はもちろん、傷害保険や火災保険、生命保険に至るまでほとんどその会社で管理し、車の車検等も面倒を見てくれるよう手配されていた。おそらくそこへ電話をかけたのだろう。
そこまで内容が推測できるボリュームで話していた為、内容は事務所内の全員が理解できたはずだ。その証拠に話を聞いていた佐藤は、彼が電話を切った途端真っ先に文句を言い始めた。
「紡木! お前がそこまで対応する必要があるのか。お前はもう保険会社の人間じゃない。作家のエージエントが本来の仕事だ。事故処理は俺達の仕事じゃない。そんな仕事をする為に、朝早くから会社に出てるのか。そうじゃないだろ。余計な仕事に時間をかけるから、朝早くから夜遅くまでかかるんだろう。要領が悪いんだよ、お前は」
しかし彼も負けてはいない。ただし同い年でもタメ口では無く、ですます調で応戦する。このアンバランスな争いもまた周りから見ていると奇妙に映った。
「担当作家が困っているから手を貸しただけです。少しでも煩わしい事があれば、担当者としてそれを取り除くのも仕事でしょう。そうすれば作家さんは作品を書く事に集中できます。現にたいした事故ではないのに、彼は初めて起こした事故で今にも泣きそうになっていたんですよ。四十九歳で奥さんやお子さんが二人いる立派な大人なのに。落ち着かせて何でもない事だと安心させてあげれば、その後の執筆に与える影響も少なくて済むじゃないですか。担当者としてできることがあれば、私は何でもやります。佐藤さんに非難される筋合いはありません」
「だからってお前はやりすぎだ。担当者は作家の御用聞きじゃないと言っているんだ」
日頃から対応が丁寧かつ熱心な紡木とは違い、彼のスタイルは良く言えばクールでビジネスライクだ。この二人は東京本社でも顔を合わす度に争いごとを起こしていたと聞いている。
「まあまあ。戸田さんに怪我が無かくて良かったじゃないか」
仲裁に入ったのは名古屋支店長の肩書を持つ真鍋だ。陽菜より一つ上の四十四歳で、同じバツイチの独身仲間である。この二人を黙らせられるのはこの支店で彼しかいない。陽菜や鳥越はいつも静かに見守るしかなかった。触らぬ神に祟りなし、だ。彼の仲裁により二人はようやく自分の席へと戻り仕事を始めた。
溜息をつきながら陽菜は窓際の机に移動した。本来なら一番上座に当たるこの席は真鍋が座るべきだが、彼はそんな事に頓着しない人だ。入口に近く、それでいて社員とスタッフ達の両方に接している席を自ら選んで座っていた。
ノートPCを置いてコンセントに挿し電源を入れる。その合間に左隣りの鳥越へと視線を移すと、彼女もまた紡木に負けないほど懸命に画面を凝視しながら作業をしていた。対称的に彼女の左隣で座っている佐藤は、早くから出社している割には淡々と仕事をしている。
事情により先月東京本社から臨時の応援要員としてきたが、これまで見る限り彼の通常のスタイルはいつもこうだ。そして彼が来てから先程のような諍いが度々起こっていた。
それぞれに与えられた席は、それぞれ高さ一mほどのパーテーションで区切られている。陽菜は彼との間に鳥越がいてくれて正直ホッとしていた。先月まであの席には
そのギャップが大きいからか、はたまた二人のバトルが激しいからか、ただでさえ忙しい会社の雰囲気はここ最近よろしくない。
再び溜息をつきPCが起動するまでの時間を利用し、事務所内に設置されたドリップコーヒーの機械を動かす。常備しているマイカップに熱いコーヒーを入れて席に戻ると、パスワードを入力する画面に変わっていた。
そこに八桁の英数字を入力して画面を開き、アイコンの一つをクリックする。現れたto do listを見ながら、担当作家への督促や昨日連絡が取れなかった相手先の名を確認した。前日からの繰り越し案件を含めて優先順位を決め、今日一日の行動をチエックしながら頭の中で整理し始める。
その後主なスケジュールにざっと目を通した後、メールボックスを開く。そこには出版社の編集者から作家に連絡が取れない、連絡が取りたい、原稿の進捗確認、取材の依頼、執筆依頼等の件名がずらりと並んでいる。
陽菜達の仕事は主に小説などを書いている作家のマネージメントだ。出版社との交渉やマスコミ対応、税務処理等小説を書く以外の仕事が余りにも多く煩わしい作家達の為に、一括してそれらほぼ全てを代行している。通常の会社勤めに向かない、またはクリエイティブな事には長けていてもそれ以外の一般常識がない作家は割と多い。だからこそ小説等という作品を紡ぐことが出来るのかもしれない。
しかし作家達の多くは通常個人事業主に分類され、自ずと様々な雑務も生じるのが現実である。会社員に向かないから小説家を目指したという多くの人達が、確定申告を代表とした会社員であればしなくて済む多くの面倒な作業に追われる羽目に陥いるのだ。そんな仕事を代わりにやってもらえないものかと思い悩む人は意外に多い。よって個人事務所や、小数の作家達が集まって会社を設立しスタッフを雇い任せるケースは今までにもあった。
だがそれは多額の収入が定期的に見込めるベストセラー作家達に限られる。実態は年によって収入の浮き沈みが激しく、他人を雇える収入が得られない若手、中堅作家達の方がはるかに多い。とはいえ彼らも生活の為にできるだけ多くの作品を書かねばならず、執筆に集中したいと思っている。海外ではそんな問題を解決する為、当然のようにエージエント制度が確立している。ただ日本では出版社と作家との間にある昔からの慣習などの諸事情が重なり、いくつかの例外を除き十年ほど前まではそれほど普及していなかった。
けれども時代は大きく変わった。きっかけは業界最大手の広告代理店の社員が違法残業を原因として自殺したことである。その後かつてから社会問題だった日本企業における労働者の働き方を見直す動きが本格化し、出版業界の不況と働き方問題の深刻化がそれに拍車をかけたのである。作家と編集者の関係も大きく変わった。今まで編集社員がしていた仕事の多くを、作家自身がやらなければならなくなったのだ。そうした動きにより作家はますます執筆時間を確保できず、とてもじゃないができないと悲鳴を上げ始めた。
そんな中で止めを刺したのが準大手であったシラカバ出版の経営不振による倒産危機だ。長く続いていた出版不況の煽りに加え、生き残ろうとして行った幹部による不正経理が発覚し、倒産寸前の状態に陥った。この一件が出版業界全体に激震を走らせ、世の風潮に従って業界全体で様々な制度改革が行われた。そして注目を浴びたのが、エージエント会社である。出版社ができなくなった仕事や作家にとって煩雑な仕事をこなし、出版社と作家の間をつなぐ役割を担うニーズが一気に高まり多くのエージエント会社が乱立し始めた。
そんな中、他とは違った成り行きで“株式会社紡ぎ家”が設立された。これまでシラカバ出版が主催してきた「この小説がいいね!大賞」、略して“この小”を受賞し作家デビューした作家達が中心となり、倒産しかかったシラカバ出版に出資し買収したのである。そして本社建物と名古屋の研修所兼保養施設を除いた不動産を全て売却・整理し、文芸部門以外の部署の多くを切り離し他社へ譲渡したのだ。
そして再建され生まれ変わった会社は㈱紡ぎ家と名乗り、“この小”を受賞した作家達、またはシラカバ出版と古くから取引をしていた作家達を主に守るエージエント会社へと生まれ変わった。と同時に会社に所属していた優秀な文芸編集者や営業、さらには校正に携わる者達の働き先は確保されたのである。
紡ぎ家の社長にはベテラン作家の
有名な作品を多数抱える彼の著作の中で、特に“道の駅シリーズ”は数多く映像化されているロングベストセラー作品である。その印税、テレビ放映料などがいまだに大きな収入となり、これらの財源が多大な貢献をした。さらに今年七十五歳になる社長の京川自身が、
この二人と多くの作家達や編集者、また新会社の意義に賛同する人達から出資を募り、協力を仰いで紡ぎ家は業界における新しい形の作家エージエント会社として設立されたのである。そして最初に元シラカバ出版の社員達が中心となり東京本社を立ち上げ、次いで研修所兼保養施設のあった名古屋に支店を作った。東京には大小様々な出版社の本社が多く集まっている。その為仕事の打ち合わせ等がやり易いよう、関東周辺に住む作家達は少なく無い。しかし会社の創設に賛同した作家達の中には、西日本在住の方も少なくなかった。その為本社設立から二年遅れで、中部圏から西に住む作家を担当する名古屋支店が設立されたのだ。
この名古屋支店はシラカバ出版社の元編集長で営業経験もある真鍋隆文と、元保険会社勤務で元作家志望の紡木、中堅芸能界事務所の元マネージャー出身の陽菜、中堅出版社で元編集者だった鳥越みなみ、そして大手出版社の元編集者だった田端の五名の正社員とスタッフ三名で、二十七名の作家を担当していた。
田端の代わりに来た佐藤も大手出版社の元編集者だ。ちなみに本社では元シラカバの編集者を中心とした正社員二十名、スタッフ十二名で約百二十名を担当している。東日本を中心に北は北海道までを担当エリアとし、一階には喫茶店とバー、二階以上に事務所の他トレーニング施設と宿泊施設も作られた。
ここでは名古屋支店担当分を含む校正作業や総務・人事を行う部署があり、さらに最上階には社屋所有者の一人である京川の自宅まであった。しかし彼は妻と死別し子供もいないため一人暮らしで、会社設立当初はそこで執筆活動も行っていたが、今は名古屋支店の最上階にある別邸に移り住んでいる。そこで何故か名古屋支店扱いの作家となり、担当は支店長の真鍋となっていた。
紡木は会社創設時から在籍している出資者の一人で、名古屋支店の立ち上げに携わった経緯から、三年前に開いたこの支店へ二年前に配属されてきた。一方の佐藤は東京本社が設立して間もなく、大手出版社から作家を何名か引きつれやってきた転職組だ。紡木が名古屋に異動が決まった時など、本社では争いの絶えない二人の喧嘩を見なくて済むと多くの社員が安堵したらしい。だがその彼が先月からこの支店にやってきた。この水と油の二人による対立が、新たに名古屋で始まったのである。
もちろん支店への一時的な応援要員として派遣される打診を受けた際、彼はかなり難色を示したらしい。だが田端が軸による重傷で長期入院を余儀なくされた為、一時的ではるものの代替要員が必要となったことから渋々承諾したという。指名された理由は、彼の担当作家が静岡の沼津に一人、山梨に一人いたからである。名古屋支店へ一時的に異動しても対応できる作家がいることから、北海道や東北、北関東、東京在住の作家担当者に比べ、担当変更による影響が少ないと判断されたようだ。
しかしよりにもよって彼が田端の代わりに来たことは、紡木にとっても災難だったに違いない。彼が来てから二人の争いはほぼ毎日のように繰り返されている。耳障りな高い声と大きな怒鳴り声を聞かされる身としては、迷惑この上なかった。
陽菜がリストに沿って抱えている仕事を一つ一つ潰し始め、ようやく本来の始業時間を過ぎた。そんな時一階からの呼び出し音が鳴った。どうやら作家の
紡木がその画面へ視線を移した。陽菜も椅子を移動させ首を伸ばして覗きこむと、そこには元社会人バレーボールの選手だったという大柄な彼女の姿が確認できた。それこそかつて使っていたであろう、ボールが六個は入る大きなバックを肩にかけている。
「寺坂さん、おはようございます。今開けます。部屋は四〇一号室を取ってますから、そこへ入って下さい。部屋に入る為のカードキーをお渡ししますので、こちらの事務所に寄って下さい」
そう告げた彼はボタンを押し扉のロックを解除した。彼女がビルの中に入り、再び扉にロックがかかったことを確認してから通話を切った。
この名古屋支店ビルは元々研修所兼保養所であった四階建ての建物を改装したものだ。会社では一階の一部を使ってブックカフェを経営している。そこでは担当作家達の著作本はもちろん、作家達へ出版社等から送られる大量の献本等の一部を利用した展示コーナーを設置し、来店客が飲み物を飲みながらいつでも読めるようなっていた。
ただし発行から四カ月未満の新刊は、宣伝用の展示のみで読むことはできない。だが紡ぎ家と契約している作家の新刊はもちろん、そうでない作家の作品でも小さな書店だとなかなか見かけない文芸書が多数展示されていて取り寄せ販売も行っているからか、周辺地域の住民達にはとても好評だ。
またコアなファン達にとって、このカフェに時折作家自身が現れたりサイン本が置かれたりするので、全国から人が集まる隠れた名物店としても人気である。これは本社と同様の形態を取っており、宣伝と販売の両面に加えて作家達が抱える大量の献本在庫を保管する役目も果たしていた。他にも大量の本や資料等を保管する書庫があるため、作家には大変評判がいい。要望があれば書庫から探し出して作家宅に郵送したり、また返送してもらって保管し直したりするサービスも行なっている。
上空から見るとロの字をしているこの建物は、一階部分にはブックカフェだけでなく本社同様の会社直営バーもあった。他に定食屋、コンビニ、銭湯、美容院、クリーニング&コインランドリー、スポーツジム、猫や犬を預かるペットホテル付きのペットショップと様々な形態の業種がテナントとして入居している。そのテナント収入も会社にとっては大事な収入源だ。
ビルの二階以上が会社の専有部分で、陽菜達が働いている事務所の他は二階と三階に打ち合わせ用の会議室がある。他は所属する作家達への福利厚生の一環として作品を書く為に揃えた資料や、作家達自身が所有する本、またはシラカバ出版時代から会社で所有していた書籍全般を保管できる書庫だ。また四階部分には保養所時代の宿泊室を改装した住居部分がある。そこは地方在住の作家達が打ち合わせの為に支店へ来た時や、東海圏周辺を取材する際に宿泊できるよう準備された部屋だ。さらに締め切りが近づいて苦しんでいる作家達がカンヅメをする際の使用も可能で、他に紡木、真鍋、そして京川の住居もその階にあった。
ちなみに田端や陽菜と鳥越、佐藤は近くに借りた別のマンションに住んでいる。そんな構造から、このビルのセキュリティーはとても厳重になっていた。ビルの内部には防犯カメラがいたるところに設置している。
事務所の防犯カメラは勤務中の行動まで監視することになる為、通常時は出入口付近のみを映していた。しかし非常時や退社時には真鍋の席にあるボタンを押すと、部屋全体を映すことができる仕組みになっている。事務所内には原稿やゲラなどの重要書類が保管されているためだ。
また一階の防犯ロックがかかった二か所しかない入り口を通らなければ、二階より上には行けない。出入口はロの字をした建物の南側と北側に一か所ずつで、北側は非常用で普段は滅多に使用されることはなく、通常は社員も南側からしか出入りできないのだ。
北側と南側には中庭に通じる入り口があるけれど高さは一階部分の天井までで、車二台分がぎりぎりすれ違える程度の横幅だ。中庭はビルの内側の壁に沿って十八台分の駐車スペースがあり、中央部分には大きな太い木が生えていた。その周辺に緑があって休憩所として利用できるようになっている。
北と南にはその入口の片側にある扉を開けないと入れない。社員は各自が持っている社員証を通せばロックが解除されて扉が開くシステムだ。その他の人が入るには入口にある呼び出しボタンを押し、中にいる社員かスタッフにロックを解除して貰わないと入れなくなっている。北側の入口にはそれがない。あくまで非常時のみで外からは入れず中から社員証を通す、または停電やシステムエラーで使用できない時に備えた手動ハンドルを回さない限り出られなくなっていた。
寺坂は作品を書き上げるため、少なくとも一カ月はカンヅメをしたいと担当の紡木に依頼してきた。その為四階にある部屋の一室を借りられるよう事前申請をしており、真鍋に相談して企画書、プロットに目を通して貰った上で了承を得たと聞いている。寺坂が一カ月間生活する為に必要な他の荷物は、既に郵送され部屋へ運ばれているらしい。本人は今日から入室して執筆に取り掛かる予定だという。
事情は真鍋達から聞いて知っていたが、ここで再び佐藤が絡んで罵倒しだした。
「寺坂に部屋なんか貸しても無駄だ。あんな作家はさっさと首を切っちまえ」
神戸在住の彼女は、名古屋支店ができる前まで東京本社に所属していた。その時の担当者が佐藤だったらしい。
その頃から相性が悪かったのか、または彼女が書いた作品が思うように売り上げが伸びなかったからだろう。二人の間ではいつも紡ぎ家と契約を切る、切らないと揉めていたようだ。
その間に支店が出来たので彼女の所属は名古屋に変わり、佐藤の手から離れた。そして当初は真鍋が、今は遅れて異動してきた紡木が担当している。二人の相性は悪くない。それでもヒット作を出せず悩んでいる彼女を粘り強く励ましアドバイスをするようになって、最近少しずつ成果が出始めていた。
特に今回執筆している作品には思い入れが強いらしく、なんとか集中して完成させたいと彼女が要望した為、紡木は部屋の使用許可を取り付けたのだろう。
しかし部屋の使用は紡ぎ家所属の作家なら、いつでも簡単に使用できる訳では無い。ビルの所有者が会社である為部屋代はかからず、しかも一階には様々なテナントがあるため、生活環境は抜群だ。
防音壁が設置された部屋は静かで執筆にも集中でき、アメニティも充実していて評判も良い。本社所属の作家達も取材の途中で立ち寄る等、皆が何度も使いたがるほど人気だ。その分部屋数に限りがある為、時期によっては競争率が高く使用できない場合があった。
そこで規則として、会社立ち上げ時に出資した作家達がまず優先的に使用でき、その他の作家達が使用するには、事前申請をして許可を得るようになっている。その使用許可を出す際に優先順位として上げられるのが会社への貢献度、つまり作品の売り上げが高い作家ほど優先されやすくなっていた。それは当然の権利だろう。
だから佐藤が噛みつくのだ。寺坂のような作家に競争率が高く維持費も馬鹿にならない部屋を一カ月以上も貸すリスクは高い。他のベストセラー作家が使いたい時に一杯では困るではないか、というのが彼の主張だ。
あながち間違った言い分では無いだけに、厄介な横槍が入ったものである。
「今回の作品はプロット段階から真鍋さんと打ち合わせをし、十分可能性が見込めると踏んで許可を取りました。あなたがここに来る前からの決定事項です。口を出さないで貰えますか。しかも今の所年末年始に利用する予定は他にないので、部屋は空いています」
紡木が強気で反論し、再び口論が始まる。これで今日は二回目だ。皆が再びうんざりし始めたところで外線電話が鳴った。鳥越が出ると相手は保険会社からの電話だという。しかも先ほどの戸田の事故では無く
作家の戸森は本来田端の担当だから、通常だと代替要員の佐藤の仕事だ。しかし戸森は重傷により入院中で作品が書ける状態ではなく、編集者としての仕事は今のところない。やることといえば事故対応に関わることしかない為、彼の件だけは紡木に押し付けたのだ。
それ以外の田端が担当していた四名の作家と、東京本社時代からの作家二名を佐藤は担当している。そのことは真鍋も了承していた。事故対応に関して紡木は専門知識もあり、他の誰よりも詳しく適任だからしょうがない。
電話の相手は事故を起こした相手方が加入しているA保険会社の担当者だった。
「お電話変わりました。紡木です。何かございましたか? 戸森さんの奥様の容体に何か変化がありましたか?」
「A保険の
事故状況は相手のセンターラインオーバーで、相手が一〇〇%悪い事故とみなされている。その為過失がない戸森が加入している保険会社は基本的に動けない。
そう言う場合は先方の保険会社が、直接被害者と賠償に関して話し合いを進めるのが本来の流れだ。しかし一人は意識が無く二人が重傷で入院中の為、紡木が窓口となっていた。
ちなみに相手の運転手は二十歳の若者で、即死だったという。日頃から事故現場を中心とする峠を利用していた走り屋だったらしい。彼の乗っていたスポーツタイプの車は大破しており、現場には彼の車のスリップ痕が多数残っていたようだ。
そのことから運転を誤りセンターラインオーバーし、対向車線を走っていた加奈子が運転する車と正面衝突したらしい。その為運転していた彼女は意識不明の重体、助手席にいた戸森と後部座席に乗っていた田端も骨折や打撲がひどく重傷で、未だに入院している。
ただ二人には意識があった為事故状況を確認した所、助手席にいた戸森はスピードを出して対向車線を走っていた相手の車が急に飛び込んできた、と証言したようだ。しかし田端は事故時、後部座席で居眠りをしていたらしく衝突の瞬間を見ていなかったという。
衝突して互いの車が止まった箇所が戸森達の走行車線側で現場のスリップ痕などから、相手の過失一〇〇%の事故として判断され、保険会社による事故対応が始まった。田端や戸森夫妻の入院費は相手保険会社が直接病院に支払っているので問題ない。しかし重傷で入院中の二人の賠償額を算出する為、収入補償の計算に必要な資料が欲しいと高林は言い、それに対し紡木が答えていた。
「田端は当社の社員ですから、昨年度分の給与証明をお出しできます。ただ戸森さんの場合は、昨年度分だけだと正直難しいですね」
紡木は高林が田端達の見舞いの為に病院に来ていた際顔を合わしていたようだが、最初からその点がおそらく揉めるのではないか、と話していたという。というのも作家は年によって収入の差が激しいからだ。多く貰う年もあれば極端に少ない年もある。作品の刊行のタイミング等にもよるが、本の売り上げが大きく影響するので大きく変動することは珍しくない。
例えば同じような職業に漁業などを営む人達も含まれる。大漁の時は収入も多いが、不漁だと極端に収入が減る。よって会社員のように昨年度分の収入はいくらだった、と証明を出しただけでは休業補償の計算も実態にそぐわない。それがトラブルになることが多いという。収入の少ない年で補償額を算出されれば、賠償金が少なくなってしまうからだ。
しかし実際の賠償問題は退院してからでも遅くはないという。聞いた話によると収入補償の他にも、慰謝料の計算は入院日数やその後の通院日数によって変わるらしい。よって一部の例外を除き、通常は通院も終わり怪我が完治してから示談の話をし始めるそうだ。その為通常慌てて賠償額の計算をする必要はないらしい。
「分かりました。高林さんからの書類が届き次第、こちらで用意できるものは早目に提出いたします。戸森さんの分は過去五年分に遡って提出させていただいた方が、示談を円滑に済ませるためにも、そちらが賠償額の算出に必要な数字が出しやすいと思いますので」
その様子を聞いていた佐藤がまた文句を言っていた。
「だからそれがやり過ぎだって言っているだろうが。賠償金をたっぷりせしめて、その内の何%かを成功報酬の名目でバックして貰うつもりか」
保険会社との電話を終えた紡木が、聞き捨てならないと食ってかかった。
「そんなことできる訳ないでしょう。私達はあくまでアドバイスしかできないし、最終的に示談をするのはご本人です。第一、会社と作家との契約にそんな条項はありません。あくまで印税の中で決められた額をいただくだけです」
「だ、か、ら、会社との契約に無い事をお前がやるんだ。それが無駄働きと言うんだよ」
彼は珍しい事に外出しなければならないらしく、準備をしながらまだ文句を言っていた。紡木はそれを無視し、別のところへと電話をかけ始めた。今度は自分が担当している別の作家が出す作品について、出版社の担当編集者と連絡を取っているらしい。
これは間違いなく本来のエージエントの仕事だから、佐藤も文句が付けられない。チッ、と舌打ちした彼は事務所を去ろうとしたが、何か思い出したらしく戻ってきて陽菜に近づき尋ねてきた。
「最近MIKAの話題を耳にしていませんが、今どんな様子か聞いていますか」
紡木に対する言葉使いと違い、年上の陽菜に対しては一応丁寧な言葉を使って話しかけてくる。女性作家であるMIKAの担当は紡木だ。しかし彼は以前勤めていた大手出版社の編集者時代に彼女を担当していた。だから気になるのだろうが、紡木に聞けばいい所を陽菜に尋ねてくるところが彼らしい。
そう言われれば、確かにここ最近MIKAと連絡が取れていない様子だったことを思い出す。だから困っていると紡木がこぼしていたと彼に伝えると、また怒りだした。
「どうでもいい奴の面倒ばかりしやがって、肝心な相手とは連絡を密にしていないのか。だから駄目なんだよ、あいつは」
そう捨て台詞を残して打ち合わせに出かけたのだ。その背中を見送りながら、陽菜も急に気になった。そこで最近のMIKAの行動を把握するため、SNSで作家や担当者同士がグループを構成し、意見交換しているサイトを開いた。
そこには相談事や日頃の疑問や打ち合わせなど、仕事に関することも書き込まれるが、執筆の合間の気晴らしに使われることも多い。日常のちょっとした出来事を呟いたり、面白いニュースや動画を見つけたとその情報を張り付けたりと気分転換やとりとめもない情報交換にも活用されていた。
担当者もそのグループに入っていて作家達の動向を知ることができるため、定期的に覗くようにしている。だが陽菜が確認したところここ一週間、MIKAがアクセスして何か書きこんでいる様子は無かった。SNSの使い方は作家によって多種多様で、毎日のように書き込む人もいれば、ほとんど使用しない作家もいる。だが彼女の場合、今まで多い時は一日二、三回、間を空けたとしても二、三日に一回は何かしら書き込みする作家だった。その為最近連絡がとれないとの情報も合わせて考えると、何かしらの行動を起こした方がいい気がした。
紡木が電話を終えたため、彼女のことを確認しようと声をかけたが、すぐに事務所を出ていこうとしていた。先ほど保険会社との電話中に、寺坂が四階の部屋のカードキーを取りに訪れていたため応対ができなかったからだろう。代わりに鳥越が渡していたから、部屋に入室したであろう彼女の元に行こうとしているようだ。そこを呼び止めてMIKAのことを尋ねた。すると彼も心配になったのだろう。少し考えた後、まずは寺坂の入った部屋に内線電話を入れて入室の確認を取り、挨拶することにしたようだ。
「寺坂さん、先程は電話中でお相手できず、すみません。何か打ち合わせなど必要ですか?」
だが電話に出た反応は冷たかったようだ。
「執筆に集中したいので、何かあればこちらから連絡します。だから緊急な件以外はそっとして貰えますか」
通話はすぐに終え彼女から切られた。元々今回の作品を書き上げる為に部屋を取りカンヅメになりたい、と申請を上げてきた時から少し神経質になっているらしい。紡木とさえメール、または短時間の電話のみのやり取りしかせず、接触することを極端に嫌っていたという。
今回の作品に賭けているから専念したいという主張は理解できる。だからそう言われてしまえば、担当者は従うしか他ない。だが作家と親密に連携することを信条としてきた彼には、そんな態度がショックだったようだ。
それでもなんとか気を取り直し、MIKAのことを真鍋に報告していた。そこに陽菜も加わり三人で相談した結果、一度彼女のマンション兼仕事場へ直接訪問し確認しようとの結論に至った。そこで早速紡木が彼女の家へと向かった。
それから間もなく作家の
「担当の紡木は、現在外出しております」
だが陽菜と話したがっていた彼はそれでも構わないと喜び、話を続けた。といって内容は他愛もないことばかりだ。
「ところで新しい担当者が来てかなり経ちますが、歓迎会はやらないのですか」
戌亥
受賞作はヒットして三十万部を超えたが、その後なかなか芽が出ない時代が続いた。紡ぎ家と契約してから一度だけ十万部越えを記録したものの、再び増刷のかからない初版作家となり現在に至る。
外見は整っているが、背の低さは本人も認めるコンプレックスらしい。社交的な性格だが時折空気の読めない発言をする為、中身は残念な奴とも思われている。
実は九歳も年上の陽菜に好意を寄せていた。その事に気づいているが、残念ながら全くタイプでない。だが厄介な事に鳥越が戌亥の隠れファンで、いつも彼が担当外の陽菜と話をしたがる為嫉妬しているのだ。そこで面倒だと思いながら、彼に差し迫った締め切りがないと知った上で冷たく突き放した。
「佐藤はあくまで応援要員で正式な赴任ではありませんから。田端が退院して仕事に復帰できればすぐに東京へ戻る予定です。今は年末進行でいつもよりスケジュールが前倒しになってバタバタしていますから、歓迎会をしている時間はないですね。戌亥さんだって忙しいんじゃないですか?」
彼はそれでも引き下がらない。
「書くことはいくらでもあるので僕も暇ではないですけど、確かに年末進行だから他の作家も編集担当者達も忙しいでしょうね。仕方がありません。では新年会はどうですか?」
「まだ決まっていませんね」
「そういうのって必要だと思いません? 作家と担当者との交流も大事だと思うな、僕は。そうそう前にもいいましたが、ボーリング大会なんてどうですか? 新年会も兼ねてやるのがいいと思いますけど」
こんな電話など早く切ってしまいたかった。横で鳥越が羨ましそうな目で、先ほどからこちらをちらちらと見ている。これでは仕事にならない。
「じゃあその辺りの話は支店長の真鍋に相談して貰えます? 今代わりますから」
強引に電話の保留ボタンを押して助けを求めた。彼も状況を把握しているためにしょうがないと言った顔で、電話を代わってくれた。
「お電話変わりました。真鍋です。すみません。森は今、別件で来客対応がありますので代わりにお話を伺います」
そんな予定は無いが、寺坂が来ていることでそれを言い訳に使った彼は、適当に戌亥の話を聞き流して電話を切った。
「全く困った人だね、戌亥さんは。森さんも担当じゃないのに毎度毎度、お疲れ様」
彼は苦笑しながら労ってくれた。同じく苦笑いしながら、いえいえ、といつもの調子で答える。横で鳥越が微妙な表情をしながら聞き耳を立てて仕事をしていた。
ちなみに紡ぎ家では、社長の京川による方針で作家に対し“先生”と呼ぶことを禁止している。よって年上だろうが下だろうが、全て“さん”づけで呼ぶこと、と社内規則で決まっていた。
彼自身は古くから各出版社の編集者達から先生と呼ばれ続けてきている。しかしある時を境に“いまどき、世の中で先生と呼ばれる輩は碌な奴がおらん”と言いだして嫌気が差すようになったそうだ。
その流れに準じて社員同士も年齢、肩書に関係なく“さん”付けで呼ぶことが習慣となり、支店長の真鍋に対しても年下の鳥越に対しても陽菜はさん付けで呼ぶし、二人からは森さんと呼ばれている。
戌亥との不毛なやり取りを終え、改めて今日行うべき仕事に取り掛かった。そんな時、今度は真鍋の携帯が鳴った。相手は紡木からのようだ。
市内に住んでいるMIKAのマンションに着いたがどうやら本人は部屋にいないらしい。心配になってマンションの管理人に連絡し両隣の住民にも話を聞いた所、ここ最近みかけていないと誰もが口を揃えて答えたようだ。
「何? 失踪かもしれないだと? 話が飛躍しすぎじゃないか。警察に届けるかどうかは管理人に事情を話して、部屋の中を確認してから判断したほうがいい」
そう指示し、一旦電話を切った彼が言った。
「この後、俺は出版社の編集者とアポがある。申し訳ないが森さんに時間があればMIKAさんの部屋に行って、紡木さんと合流してもらえないかな。二人で彼女の部屋に入って何か分かれば連絡して欲しい。電話には出られるようにしておくから」
「大丈夫です。それではすぐ向かいます」
失踪と聞いたからには放っておく訳にも行かない。彼と同時にビルを出た後社有車が全て出払っていたため駅前まで走り、タクシーを捕まえて向かった。これだけ彼女の事を心配するのにはそれなりに訳がある。
MIKAの本名は
そんな彼女は施設で一人の世界に入り込み、本を読むことで物語の世界に魅了され小説を書くようになったという。そこで高校を卒業する年に応募した作品が、当時佐藤の勤めていた大手出版社の新人賞を獲得し、小説家としてデビューすることになったのである。
高校卒業後は施設を出て働かなければいけなかった彼女は、これで食べていけるかもしれないと喜んだという。佐藤が当時の出版社側のサブ担当編集者となり、プロになる道筋を作ったと聞いている。
彼女の作品はデビュー後も順調に売れていたが、自分自身の障害に対するコンプレックスもあったのだろう。他の出版社との付き合いは消極的だった為、その後サブから正担当となった佐藤による後押しで、紡ぎ家とエージェント契約を結ぶこととなったのだ。
その時の紡ぎ家の最初の担当者が、当時本社にいた紡木だ。その後彼が名古屋に異動すると聞いて、MIKAは担当を変えて欲しくないと強く主張したらしい。我儘を言わないで欲しいと説得されたが彼女はそれでも諦めなかった。名古屋へ移住してでも、担当にこだわったという経緯がある。
彼女に身内はおらず、住む場所はどこでも良かった事情も味方した。そこまで覚悟があるならと名古屋での部屋探しも含めて紡木が手伝い、彼女の要望通り名古屋支店所属で彼が担当者となったのだ。
また身寄りがない彼女に万が一のことがあれば、会社が身元引受人となって対応するとの契約が結ばれている。その為管理会社に理由を説明すれば、鍵を開けて部屋に入ることも可能だった。紡木一人で対応できなければ、陽菜のように別の社員が応援のため駆けつけることは、会社として当然取るべき行動なのだ。
MIKAの部屋に着いた時には、すでに紡木が管理人と一緒に入室していた。
「どう? 何か分かった?」
部屋に入って周りを見渡したが、中は荒れている様子もない。そしてそれまで把握した状況を報告してくれた。
「部屋の中を一通り探してみましたが、彼女の携帯と財布がありません。それと彼女が一、二泊程度の取材時によく使っていた、歯ブラシ等の入った化粧ポーチも見つかりません。かといって長期の取材で使用する大きな旅行ケースは残っています。着替えなどもクローゼットを見た限り、大量に無くなってはいないようです。私が気付いた範囲では二、三枚ほど、よく彼女が着ているお気に入りの服が見つからない程度です」
「じゃあ、どこかへ出かけている可能性もあるってこと?」
「はい。ただ出かけているとしても、せいぜい二、三泊程度ではないかと思います。気になるのは管理人さんやお隣の方々の話によると、一週間ほど前に見かけたきりだという点です。少なくともこの数日は部屋から物音がしない、静かな状況だとも伺いました。銀行の通帳も私が把握しているものは残されていました。彼女の引っ越しを手伝ったりしたので知っていますが、彼女は印税振込用と生活用に使用している通帳二つだけしか持っていないはずです」
「じゃあ、後で通帳記帳してみた方がいいわね。記帳だけだったら、暗証番号を知らなくてもできるでしょう。おかしなお金の出し入れがあれば分かるはずだし」
「そうですね。近くに銀行のATMがあるので行ってきます。その間、ここで待っていてくれませんか?」
「いいわよ。管理人さんはどうされますか。このまま一緒にいますか」
そう尋ねると首を横に振った。
「いいえ。鍵はお渡ししておきます。後で戻していただければ結構です。こういった場合、そちらの会社にお任せする契約になっていますから問題ないでしょう」
管理人は紡木と一緒に外へ出た。その間、部屋の中を確認してみようと歩き回ってみたが、確かに特におかしな形跡は見つからない。
室内は奇麗に整頓されたままだ。そこで気になって部屋のごみ箱を覗いてみた。するとその一つから二十万円余りの金額を、一週間前にATMで振り込んだ用紙を見つけたのだ。
宛先は
改めていろんな場所の引き出しなどを調べてみたが、どこからも調査事務所が作成した報告書のようなものは見つからない。これはおかしなことだ。それなりの金額を振込済みならば、何らかの調査が終了した報告書、または途中経過報告書の一つでも受け取っているはずである。
そう考えていると、紡木が帰ってくるなり通帳を開いて見せた。
「森さん、見て下さい」
そこには先月末に二十万円が引き出されていた他、一週間ほど前に振り込みされていることが記帳されていた。まさしくその金額とあて先は、先ほど見つけた用紙に記載されているものと日付が一致している。その用紙を彼にも見せて話し合った。
「調査事務所へ振り込みなんて、何を調べていたのでしょうか」
「さっきネットでこの会社を調べたら、市内の探偵事務所だった。何か調査依頼をしてその費用を振り込んだようだけど、部屋の中から報告書の類は一切見当たらない」
改めて記載された通帳の他の部分に目を通した。二十万円を下している以外、特に目立った引き出しや引き落としは無い。普段の生活費用に使う分なのか月に一度は五万から八万程度下ろしているため、二十万はいつもの月より少し多い気がした。
となれば通常とは違うお金の動きだ。紡木は彼女から調査について全く聞かされていないという。担当者に隠してまで、彼女は一体何を調べていたのだろうか。
「紡木さん、真鍋さんに連絡して。状況を説明して警察へ連絡するかを相談した方がいい」
「分かりました。連絡してみます」
彼はスマホを取り出して電話をかけ、これまでの経緯と判った事実を報告して話し合い、最寄りの警察署に一応届け出と相談だけでもしようという結論が出された。
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