挑戦

 社会人二年目に入った巧の周りでは、様々なことが起こっていた。フットサルはオリンピック種目ではない。

 フットサル日本代表が目指すのは、二年に一回開催されるAFCフットサル選手権の優勝と、四年に一回オリンピックと同じ年に開催されるW杯への進出に加えメダル獲得、さらには優勝だ。

 今年の五月が、その大きな目標の一つであるAFCフットサル選手権の開催年に当たっていた。この大会に出場する為、各フットサルチームから日本代表候補の選手達が次々と選ばれ始めた。

 巧の所属チームからも代表のレギュラークラスの選手が二名、控えレベルでさらに二名が選ばれている。その中にはチームの正GKである田上たがみ先輩がいた。

 巧も何度か選抜の練習に参加したことはあったが、昨年はU-十九の代表に選ばれたものの、二十歳になった今年からA代表に呼ばれることはなかった。

 ただ年齢的には再来年に開催されるW杯の時、巧は二十二歳となりまさしく代表選手に選ばれやすい世代となる。その時がチャンスだと周囲からも期待され、励まされていた。 

 実際、田上先輩が巧の八歳上で今年二十八歳、同じクラブで日本代表レギュラーの笹崎先輩も田上先輩と同い年だ。同じく日本代表準レギュラーFPの河多かわだ選手が二十五歳、代表控え候補の二宮にのみや選手が二十三歳である。

 巧は次の世代でこそ必ず代表の選手になるんだ、と秘かに闘志を燃やした。

 千夏がU-二十一の日本代表候補に選ばれた頃は、巧にとって日の丸を背負うなど全く別世界のことだった。しかしフットサルを始めて代表選手が周りにいる環境の中で凌ぎを削り始めてからは、日本代表として世界と戦うことが決して遠いものではなく、狙えば手が届くと思えるようになった。

 それから心の片隅では千夏の無念な思いを晴らすためにも、自分が代わりに世界の舞台に立ってやるという野心が芽生えていたのだ。

 けれども千夏が巧の想像よりもずっと先を見据えていたことには驚かされた。巧がフットサルの日本代表候補入りを目指し練習に励んでいる間に、彼女はブラサカでまだ存在すらしていない女子日本代表になることを目標としているのだから当然である。

 だがここで新たな問題が起こり始めていた。巧が最終的に今年度の代表選手に選ばれる可能性が無くなる少し前のことだ。千夏が日本ブラサカ協会主催の女子ブラ練習会に参加するようになったことで、千夏の存在が世間の注目を集め始めたことが発端だった。

 日本ブラサカ協会の理事長は日本サッカー界で有名な、オリンピックで銅メダルを獲得した時のエースで日本代表のレジェンドである釜友選手の、実の姉である釜友美代子氏だ。 

 理事長自身も視覚障害者だが、そこは釜友という名が対外的に大きな役割を持つことで担ぎ出されたことは否定できない、と本人も公言していた。ただそれは決して悪いことでは無く、マイナースポーツにとっては必要なことでもあるのだ。

 ただでさえパラリンピック種目は、世間からマイナー視されている。その為日本ブラサカ協会は、少しでもマスコミから注目されるように全国各地で体験会を開くなどの努力をしていた。

 ブラサカへの関心や認知度が高まれば、競技を続けていく中でスポンサーを集めることが容易になる。男子サッカーなど、既に大衆から注目を浴びている競技には企業が多くのお金を支払われていた。そうした資金が選手の練習環境や待遇を良くし、また次世代の育成の為に運用されている状況を見れば判るだろう。

 だが巧のやっているフットサルも同様だが、マイナー種目ではそうはいかない。必死に企業から協賛金を集めつつ、選手は仕事を持って働きながら競技の練習を行わなければならなかった。

 その為マイナーである程、選手の待遇や練習環境などは悪くなる。スポーツを盛り立てていくには、二〇一一年のW杯で優勝した女子サッカー日本代表のようになることが最も良い例だろう。

 世界に通じる実力を備えて、世間の関心を呼び注目を浴びることが王道だとは思う。まだマイナー種目だった日本女子サッカーがあの優勝以降、国内リーグにおいても活気づいたことが何よりの証拠だ。

 ただ結果を出すことなど、そう簡単な世界ではない。だったら成果が目に見えないマイナー種目はどうするか。それは選手層を厚くして強化するという地道な行動を続けると同時に、様々な方法を使ってマスコミの関心を呼び、大衆の目を引くことだ。そんな環境の中、ブラサカ界で白羽の矢が立ったのが千夏だった。

 選手のビジュアルで関心を呼ぶ手法は、健常者の世界でも女子サッカーや女子バレー、ビーチバレーや女子体操等で何度となく使われてきた。美人過ぎる○○、美人アスリート○○と題して、テレビや雑誌等で特集を組み興味を引く。

 そこから競技自体に目を向けて貰い、多くのファンを獲得できればいいのだ。それに対し障害者スポーツの場合、時折障害を負った経緯や背景などを、お涙頂戴物語に仕立て上げ注目させる手法を取ることが多かった。

 だからだろう。女子サッカー元U-二十一日本代表で、視力を失った千夏が女子ブラサカ練習会に参加しているという話題は、その両方の手法が使えた。その為協会とマスコミが飛び付いたのだ。

 二〇一四年一月に開かれた、二回目の女子ブラサカ練習会に参加した彼女の元へ大勢のマスコミが集まり、一気に日本全国からの注目を浴びるほどまでの騒ぎとなった。

 U-二十一時代から、千夏はビジュアルの良さからマスコミ受けしていた。だがそれに加えて実父が事故で死亡。母親が再婚した義父の暴力を受け、視覚障害者となった彼女がそこから立ち直り、ブラサカ界でまだ確立されていない女子の日本代表を目指す。

 そんな大衆受けするストーリーが付加したとなれば、マスコミのネタにならない訳が無い。

 さらに当時のブラサカ界では、男子日本代表が前回のロンドンパランピックへの切符を逃したことでマスコミや大衆の関心を失いかけていた。東京パラリンピック前に開催される次のリオ大会で出場権を得られないと、東京大会は開催国枠で初出場することになる。 

 そうした厳しい状況も手伝って、協会にも焦りがあったのだろう。それに拍車をかけたのが、リオへの切符を手に入れるためのブラサカアジア選手権最終予選が日本で開催されることが決定したことだ。

 かつて男子サッカー日本代表も、二〇〇二年日韓W杯の開催前は同様の立場にあった。一九九八年フランスW杯に自力出場できなければ、出場経験無しで自国開催枠に入る。その為何としても、フランスW杯のアジア最終予選は突破しなければならないという圧力の中、マスコミから注目を浴びていた。

 その時と同じ状況にブラサカ日本代表は置かれていて、注目度も高まりやすいという条件が揃っていたのだ。

 そこでなんとしても次回のリオ大会への切符を手に入れるために、多くの企業から協力を得て資金を集めなければならない。また大衆の関心を高め、選手層を厚くして選手のモチベーションアップを図ろうと画策していた協会側として、千夏の登場は絶好の機会だったと言える。

 おかげでまだ日本代表でもない彼女の所には、連日のようにテレビや雑誌の取材が押しかけ大忙しになってしまった。女子ブラサカ練習会に参加するため、一緒に会場へアテンドしていた正男さんや朝子さんまでもがインタビューを受け、何度もテレビに映しだされる羽目になったのだ。

 そうなるとテレビや雑誌では、どうしても千夏の過去に起こった悲劇に触れないわけにはいかない。そのため観ている側の巧としては、注目を浴びて羨ましいなどとは全く思わなかった。

 彼女のことが取り上げられる度に痛々しくハラハラしたり、時にはマスコミの心無い質問や偏った編集に腹を立てたりすることの方が多かった。

 しかしそんな心配をよそに、彼女はずっとこの機会を狙っていたのだと後に聞かされた。将来このような脚光を浴びることでスポンサーを見つけ、あわよくばプロを目指し自分の生活の糧にしようと考えていたというのだから、逞しいとしか言いようがない。

 だがこの時点で彼女はあくまで日本代表でも無い、ただの女子ブラサカ選手だ。所属している八千草チームも、立ち上がったばかりの強いチームではなかった。現実は厳しく、彼女や協会の考えは甘かったようだ。

 一通り騒いだ後には何も残らず、あれほど群がっていたマスコミの数が減ったかと思うとまさしく潮が引くように、あっという間に人々の関心は去ったのである。

 それだけではない。本来一時的にでも注目を集めたことで、少しでも応援する人々が増えたのなら良かった。

 だが当初は千夏を応援していた人々の中から、ブラサカ協会は障害者である彼女を、広告として利用しただけじゃないかという協会批判をする意見が出始めたのである。さらに障害者を弄び、同情を引こうとするマスコミの姿勢への批判も激しくなった。

 そこまでなら巧にも理解できたが、当時はネット社会が拡大していく過程だったことが不運となった。匿名という名の隠れ蓑を使い、誹謗中傷したがる連中がはびこり出した社会環境が災いした。

 障害者であり犯罪被害者であることを利用してマスコミに顔を売り、同情して頂戴とばかりにでしゃばる女、などと千夏を個人攻撃する人達まで現れたのだ。

 それほど可愛くもないくせに、美人すぎる○○と呼ばれ調子に乗る女。死んだ親の残した財産や加害者から多額の賠償金を貰っている上に、さらに障害者として国から援助を受けながら働きもせずボールを蹴るしか能の無い女。障害者であることを利用して金儲けする女、と千夏に対する容赦ない誹謗中傷する意見まで出始めた。

 中には「義父からの暴行(性的な行為も?)によって光を失った、みじめに枯れたなでしこ」とまで書きこむ輩までいたのである。これには正男さん達が激怒し、警察に被害書を提出して、弁護士に依頼し書きこんだ相手を訴えるという法的手段が取られるほどの騒ぎまで発展した。

 だが結局書きこんだ相手を特定する所までは警察も本腰を入れてくれず、泣き寝入りするしかなかったらしい。それでも誹謗中傷する書き込みはその後減少し、削除され始めた。

 千夏が視力を失った事件は、裁判も行われていた。実際は義父からの暴行は殴る蹴る、暴言を吐くということはあったものの、性的な暴行はなかったと双方が主張している。

 巧は千夏本人からも、そのような行為が無かったことが不幸中の幸いだったと直接聞いていた。好き勝手言う奴らはどこの世界にもいるが、ちやほやされていた時期があった分、その嫉妬が後で数倍になって返ってくるという大衆の恐ろしさを間近で知った。

 人の悪意というものに底がないと感じる恐怖は、言いようのないほどの絶望感、虚脱感を伴わせる。現に千夏はしばらくの間、再び家の中から出られなくなった。

 七月に開かれた三回目の女子ブラサカ練習会への参加も取りやめ、家に引き籠る生活が続いたのである。

 ただ以前の暴力事件の時と同様、世の中は様々な事件が日々起こり、時が経てば人の関心もまた次から次へと移って行く。そうして誹謗中傷を書き込む輩の攻撃対象も、また別の人間へと向かったのだろう。

 完全に無くなりはしなかったが、書き込みの量は格段に減っていった。騒ぎが少し収まり、通常の生活に戻ることができた頃には季節は秋に変わっていた。

 注目を浴び始めてからバッシングまで半年以上の年月が経ち、その間巧は千夏と公園で練習することもできなかった。その為会社で働きながら、六月から翌年の二月まで続くフットサルのリーグ戦を戦うための練習に打ち込む毎日を過ごしていた。

 ようやく周囲が落ち着いて、肌寒くなり公園で遊ぶ子供達も少なくなり始めた頃、巧は千夏と二人で再び練習を始めるようになった。それからは以前にも増して彼女はブラサカの練習にのめり込んだ。

 朝晩の気温が下がり始め、練習の合間の休憩で体を冷やさないようベンチに坐って厚手のコートを羽織っている時、巧は彼女といろんな話をした。

「しかし大変だったな。やっと騒ぎが収まって静かになったけど、もう大丈夫かい」

「確かに今回の件は応えたわ。でもこの経験はええ勉強になった。後から冷静になって取材を受けた自分の話を聞いたり、雑誌の記事を音声で読み取ったりしたけど、確かに私自身甘かった。調子に乗っとる部分もあるなって反省したんや。そうはいうても、あんだけ叩かれたのは納得してへんけど。でも次は大丈夫。これで耐性もできて対処法も学んだから」

「そんなこと言っても、また騒ぐ奴らはでてくるぞ」

「それは何をしても、表に出たら多少はあるわ。でもそれで自分が好きなことを辞めるなんて理由にはならへんし、それこそそんな奴らのせいで逃げなあかんのは癪やろ」

「それはそうだけど。本当に大丈夫か?」

「大丈夫。今度はうまくやる。でもそれより大事なのは、本当の実力をつけて日本代表に選ばれるような選手にならんと。確かに私は客寄せパンダみたいに、利用されとった部分もあると思う。だけどやっぱり間違いなく世界に通用すると思わせるだけの実力は、ブラサカ界自体にはまだあらへん。それに私自身も練習に参加して指導を受けとるけど、まだまだ実力不足なんやってことに気付かされたことが一番悔しいんや。まずはそこ。マスコミとか、ネットの中のバッシングなんて二の次、三の次。それに私の場合、見えへんからわざわざ音声ソフトを通さんと、何が書かれとるのか判らへんし、スルーすることは簡単やから」

「そうだ。あんな馬鹿な書きこみや中傷は、無視するのが一番だよ。まともな理屈が通らない輩が多いから、相手にしてもこっちが損をするだけだからね。でもさ。本当に女子だけで、日本代表チームなんて作られるのかな? 男子の日本代表でさえパラリンピックに出られていないんだし、まだまだ選手層が薄いよね」

 巧は余計なこととは判りつつそんな心配をして口にしたが、千夏は首を横に振った。

「できるよ、絶対。それに男子は今度こそリオ大会に出場しようと頑張っとるんやから。男子だけやない。ブラサカ界自体がもっともっと底辺を広くして、全体のレベルアップが求められとる。私は少しでもそのお手伝いがしたいんや。その為には私自身がもっと上達して国内リーグで活躍するくらいにならんと、世界では通用せえへんからね」

「千夏は相変わらず強いな」

 巧が感心していると、彼女はそんなことないと否定した。だがそれは巧から見れば謙遜だ。彼女の負けず嫌いは筋金入りだと改めて感心した。

「そうとなったら、練習あるのみ。やっぱりちょっとした得意技というか、私にしかできん必殺技を持ってないと通用せんのよ。色々考えたんやけど、手伝ってくれる?」

 そう言ってベンチに座っていた彼女はコートを脱いで立ち上がり、ブラサカ用のボールを蹴り始めた。慌てて巧も後に続いて彼女の手を自分の右肘に誘導し、半歩前に立っていつもの練習している場所に移動した。

 今日は正男さんがいない日なので二人きりだ。公園も寒くなったせいもあって、遊びに来ている子供や親達は誰も居なくて静かだった。

 練習する環境に、静寂さはとても必要な要素だ。彼女のような視覚障害者にとって、音は様々なことを判断するためにとても重要で、周りでいろんな雑音が聞こえるとどうしても混乱してしまう。

 実際のブラサカの試合でも、観客はゲーム中に声を出したり騒いだしりないよう注意している。そうでなければ指示する人達の声や、ボールの音が聞こえなくなるからだ。

 ブラサカではボールの音や味方や相手選手と審判の声以外に、チームで三人の声が重要となる。まず攻撃している時は正男さんがやっていたように、相手ゴールの後ろにいるガイドの役割だ。

 コーラーとも呼ばれる人がゴールポストを叩いたり声を出すことで、ゴールの位置や相手選手の動きなどを知らせたりする。このガイドが声を出せる範囲は縦十二mと限られていて、コート全体の約三分の一に当たる相手陣地内のみだ。ボールがある時以外に声を出せば、反則が取られてしまう。

 コート中央部分の縦十六mのエリアでは、センターラインの延長線上にどんと構えた監督が声を出して指示を出す。残り十二mの味方陣地内での守備においては、味方キーパーが声を出して指示するのだ。それぞれが決められた位置以外で声を出すことは許されない。

 声を出す三人の位置も大切だ。選手達は三人の声を聞き分け、さらに声の聞こえ方から今いる自分の位置を把握する。だから基本的に監督やガイド、キーパーは定位置から声を出す必要があった。

 例えば監督があちこち動くと聞こえる距離が変わるために、自分のいる正確な位置が把握できなくなるからだ。

 このことだけでもブラサカでは声、という音を大事にしていることが判る。一定の位置で限定された人のみが声を出すことにより、選手が今いる場所やその時のコート内の戦況を選手に知らせる。

 不必要な声を排除することで混乱しないように考えられた、ブラサカ独自のルールと言っていい。だから選手は攻撃の際は味方のガイドと相手キーパーや選手同士の声、そしてボールの音に集中する。

 中央にいる時は相手味方双方の監督の声と、互いの選手の声とボールの音に耳を傾ける。味方陣地では相手チームのガイドと味方のキーパー、周囲の選手の声とボールの音を頼りに動くのだ。

 視覚障害者達にとって、その限られた音が試合を進めるために必要不可欠だった。それ以外の音は、プレーを妨害する邪魔ものでしかない。

 ただ例外があるとすれば、ゴールを決めた瞬間に起こる観客の歓声と味方コーチ達が喜ぶ声だろう。なかなか点が入らないサッカーと同様に、一点決まった時の喜びはそれまで静寂していた反動から、一気に爆発する分半端なものでは無い。

 時には健常者であるガイドや監督、スタッフがグランドに飛び込む。味方キーパーが前線まで走ってゴールを決めた選手に抱擁して喜びを表現している姿などは、健常者の観客としてとても感動的なものに映る。

 といっても巧はまだ動画でしか実際の試合を観たことがなかったため、肌でその感覚を味わったことはなかった。

「さて、こういうのはどうかな」

 正男さんがいないため、ゴール位置に着いた巧がゴールの両端に置いたコーンを叩く。すると千夏はゴールの数m先で背中を向けて後ろ向きにドリブルし、振り向き様にシュートを打ってきた。ボールはほぼ正面に飛んできたために、巧は軽くキャッチした。

「なるほど。後ろ向きのドリブルか。でももう少しドリブルスピードを上げないと、効果は薄いかも。ただ相手の守備を自分の体で防ぐやり方は、必要な動きだと思うよ」

 そう言ってボールを投げ返した。

「そうやろ。後こういうのも考えとんの。行くよ」

 彼女はそう言うと、ボールを自分の足の甲に乗せるように浮かせ、そのまま軽く押し出すように蹴った。先程よりもスピードがなく、まっ直ぐにボールは飛んできた。それを難なくキャッチした巧は千夏に聞いた。

「今のは何? ただのゆっくりとしたシュートにしか見えなかったけど」

「今のはシュートやなくパスに使おうと思って。どう? 音が聞こえんかったと思わん?」

 そう聞かれてピンとこなかった巧は、

「音か。気付かなかったから、もう一回やってみて」

とボールをもう一度投げ返す。彼女はボールをトラップすると、同じような動作で蹴ってみせた。すると確かにボールはわずかに回転しているが、中に入った鉛がほとんど音を出さずに飛んでくるのが判った。巧はキャッチして感想を口にする。

「なるほど、音のならないパスか。確かに音で反応する選手にとっては、ボールが一瞬消えたように感じて守り難いかも。でもそれはパスの受け手も同じだろ?」

「それは他に色々声の合図を決めておけばええのよ。選手のいる位置だって、暗号みたいなもので教える場合もあるんやから」

「なるほど。受ける方が音は聞こえないけど、パスが来ると判っていれば多少は反応できるか。でもトラップするのが難しそうだね」

「そこは選手同士の練習次第や。このパスが出せて受けられるようになったら、八千草のチームだけじゃなく代表選手達にとっても、世界との戦いで大きな武器になると思うんや」

「しかしそんなこと、よく考えたね」

「実は別の競技でも、こういう技があるんよ。ブラインドテニスっていうのがあって、ブラサカと同じでボールの音が鳴るんやけど、その種目でボールに回転をかけて音を出にくくする技があるんよ。そしたら相手選手は、ボールがどこへ飛んだか判らんようになるんやって。それを知って、私もやってみようと思ったんや。実はどうやって回転すれば音が出えへんか、マスコミの騒ぎがひど過ぎて外出できん時に、家の中でもずっと試しとったんや」

「へえ! ただ家の中に籠っていたわけじゃないんだな」

 巧は初めて聞いた。バッシングがひどくなり、外出を控えていたのはほんの一カ月程度だ。それ以外はこっそり大阪に出かけて、別のチーム練習に参加していたらしい。

 だからブラサカの練習はずっと続けていて、やっと騒ぎが落ち着いたことで遠征も堂々と行い、八千草でのブラサカ仲間とのチーム練習もできるようになったそうだ。

「当たり前やん。部屋におる間は、ずっとそんな研究をしとったの。何、巧はずっと私が落ち込んどるとでも思っとったの?」

「それはそうだよ。これでも心配していたんだぞ。電話では少し話せたから、連絡はしていただろ。声は元気そうだったけど、本音はどうだか判らないからね。千夏は強がりだから」

「それはどうも、ご心配をおかけしまして。でも大丈夫。あと別の技もあんの。今度は巧がゴールの逆側の方におって、そこから私に向かってボールを強く早く投げて欲しいんや。それをトラップして、振り向きざまに打つ練習がしたいから」

「やれと言われればするけど、そんな難しいことができるのかい?」

「難しいからやらんといかんのよ。ちょっとやってみて」

「判った」

 巧は千夏に言われた通りゴールの線を引いた逆側に走り、声を出して低めの早いボールをスローイングした。千夏は何とか反応してトラップはできたものの、すぐにはシュート体勢に入れなかった。ファーストタッチが上手くいかなかったからだ。

「ごめん、もう一回やって」

 そういってシュートせずにこちらへ蹴り返されたボールを巧は掴んだ。

「ボールの投げる速さは、さっきくらいでいい?」

「うん。まずはあの程度からでええ」

 そう言うのでもう一度声をかけ、先ほどと同じ速さで投げた。実は最初に投げた時も少し手加減して投げたのだが、千夏にはそれが判っていたようだ。

 しかし彼女の頭の中でイメージして実戦で使える技術は、もっと早いボールに反応できないといけないらしい。

 今度は上手くトラップできた千夏は、ワンステップで振り向きながらゴールに向かってシュートした。ボールは誰もいないコーンの間を通り過ぎ、ゴールの枠を捉える。ただキーパーが守っていたら、抜けたかどうかは微妙なコースだ。

「ナイスシュート。枠はキッチリ捉えていたよ」

 巧がそう教えると、千夏は全く納得していない表情をした。

「枠に入るだけやったらあかん。飛んだコースは? ゴール右隅を狙ったんやけど」

 さすが元日本代表にまでなった選手だ。求めるレベルはやはり高い。

「確かに右の方には飛んだけど、あれだと多分キャッチされていると思う。意表を突いてタイミングがずれたとしても、なんとか反応されてはじき出すくらいはされているかな」

 正直にそう答えた。キーパーが巧だったら、間違いなくキャッチしていただろう。

「そうか。やっぱりもうちょっと練習せんとあかんね。もう一回お願い」

 今度はボールが反対側にまで飛んで行ったので、巧は走って取りに行く。公園の隅の柵で止まっているボールを拾い上げ、駆け足で先ほどいた位置に戻ろうとすると、

「じゃあこっちへ戻る前に、もう一回ゴールの所からボールを投げて。振り向きざまのシュートを打って見るから。もう一回投げてもらって音の出ないパス、次に私の後ろから投げてもらってシュート。この三つをワンセットにして、何回かやりたいんやけど」

「了解。じゃあ、投げるぞ」

 巧がゴール位置について改めて両端のコーンを叩き、ゴールの幅を知らせてから千夏にボールを投げた。彼女は難なくトラップすると後ろ向きになり、少し左右にドリブルしてから振り向きざまにシュートを打つ。

 今度は右側のキャッチができない厳しいコースに飛んできたので、なんとか手の平ではじいてセーブした。

「ナイスコース。今のシュートは厳しかったな」

 転がっていくボールを追いかけながらそう言う巧に、千夏は

「決まらんと意味がないんよ」

と悔しがる。巧は苦笑いしてボールを投げ返す。彼女はきっちりトラップし、今度は静かな音のならないパスのようなシュートを打つ。それを難なくキャッチした。

「いいね。今のも音はほとんど聞こえなかったと思うけど」

「もう少し静かに蹴らんと、ブラサカの選手達はみんな耳がええから欺けんかな」

 これまた自分で高く設定したハードルを越えていないらしく、千夏は反省を口にした。

「じゃあ、今度は後ろから投げるよ」

 念の為もう一度ゴール端のコーンを叩いてから彼女の後方に回り込み、そこから声をかけて彼女に早いボールをスローする。すると見事なトラップをして、振り向きながらシュートを打った。今度はゴールの左隅に飛び、コーンを掠めるようにゴール枠を捉えた。

「ナイスシュート! 今のだったらキーパーも取れなかったかもね」

「そう? 手応えは良かったけど、どのあたりに飛んだ? 高さは?」

「コーンの左隅ぎりぎりに入ったから、ゴールがあればサイドネットに決まっていたと思うよ。高さは腰、いや膝上辺りかな? キーパーも取りづらいコースだと思う。僕クラスのキーパーだったら、横跳びして右手一本で何とかはじき返せたと思うけど」

「ほんま? 巧がそう言うんやったら成功かも。今の感覚ね。忘れんうちに、もう一回今のやってくれる?」

 巧の自慢を交えたユーモアは完全にスルーされ、笑顔でそう指示された。

「え? セットでやるんじゃなくて?」

「今の感覚を忘れんうちにもう一回! 早く!」

 巧はしょうがなく、千夏を通り過ぎてゴールの向こうまで飛んでいったボールを取りに走り、再び彼女を追い越して元の場所に戻った。これがなかなか疲れる。往復約五十mの距離を小走りとはいえ連続して移動することは、巧にとっても結構なトレーニングになっていた。

「じゃあ、行くよ!」

 無駄な文句も言わず、彼女に向って速めのボールをスローする。今度は少し先ほど投げた時より、スピードを上げて投げてみた。それでも千夏は奇麗なトラップをし、振り向きざまに先程とほぼ同じコースへ蹴り込んだ。打ってすぐに彼女は振り返り、巧に確認する。

「今のはどうやった?」

「ナイスシュート! 高さはほぼ同じだったけど、コースはさっきよりもちょっと内側だったかな。サイドネットにかかるほどではなかったと思う。それでもゴール隅には決まっていたと思うよ。僕がキーパーじゃなかったら、だけどね」

「はいはい。それはもうええから。じゃあ、元のセットに戻そか」

 今度はさらりと流された巧は、しょうがなく転がったボールを取りに戻りゴールラインの位置に立つ。再び両サイドのコーンを叩いて、千夏に声をかけてからボールを投げる。 

 同じくややボールスローのスピードを上げた。それでも千夏は難なくトラップし、振り返って後ろ向きにドリブルしながら、今度は左足でゴール左隅に打ってきた。

 意表を突かれた巧は少し反応が遅れ、なんとか左手を伸ばしてボールを弾いたが、キャッチできなかった。転がっていくボールを追いかける巧の背中に向かって、千夏が自慢げに言う。

「今のはええコースに飛んだやろ。さすがの巧でも弾くのが精一杯やった、ってところかな。あとちょっとずつスローイングのボールが速くなってきとるけど、もうちょっと速めでもええよ。トラップの練習にもなるから」

 そんな小憎らしい言葉に巧は嫌味で返した。

「はいはい、そうさせていただきます。確かに今のはいいシュートでした。でもシュートは決まらないとねえ」

 千夏はあからさまにむっとしていた。拾い上げたボールを持ってゴール位置に戻り、再度コーンを叩いて声をかけ、彼女に向ってさらに強めのボールを投げる。すると今度は少しトラップが乱れたけれど、すぐに態勢を立て直して音が出ないパスを蹴り込んできた。

「今のはいいね。ほとんど聞こえなかったよ」

「うん、今のはええ感じやった」

「どうする? 感覚が残っている間にもう一度同じのを蹴ってみる?」

 少しだけ頭を傾げて間を置いた後、

「うん、そうやな。もう一回投げて」

「判った」

 もう何度も繰り返していたため、巧は習慣のようにコーンを叩いて声をかけ、強めにボールをスローイングする。今度は先ほどよりも奇麗なトラップをした千夏は、足でボールの感触を確かめながら再び音の出ないパスを蹴り込んだ。

「うん。今のもいい感じ。コツを掴んできたんじゃない?」

「だんだんね。これが実戦で使えるようになるとええんやけど」

 確かに実際の試合では相手選手が周りにいて、千夏がボールを持っていると知れば声を出してプレッシャーをかけてくる。そんな圧力の中で音が出ないというデリケートなキックがまずできるか、というのが第一の課題だろう。

 さらに向かってくる相手選手のブロックを避けて味方選手へと蹴り込めるか、という問題をクリアしなければならない。これもなかなか難しい。

 だが一番の難題は、例え蹴り出せたとしても味方が無音のパスを受け取れるか、という点だ。選手は音を頼りにボールの位置を把握してトラップする。音が無い暗闇の中で、それこそ音のしないボールを止めることは至難の技だ。

 これをチーム内で習得するには、味方選手との間で相当息が合った練習をしなければならない。またチーム内でこの戦法が認められ、この練習に時間を割くことができるだろうか。この戦術は使えるとチームの監督が判断しなければ、試すことさえできない。それだけ高等な技術であるのは確かだ。

 しかしそんなことを今考えてもしょうがない。まず認められるためには、音の出ないパスを、千夏が常時どんな場合でも味方選手に通すという技術を習得するのが先だ。採用されるかどうかはその後考えればいい。この努力は決して無駄にならないと巧は思った。

「じゃあ、次は後ろから投げてシュート、でいいかな」

「うん、お願い」

 巧はコーンを叩いてからボールを持って小走りで千夏の後方に移動し、声をかけてスローイングする。彼女がトラップして振り向きざまに今回は左足でシュートを打った。今度は少しボールが高めに浮いたが、ゴールがあればキーパーの左上辺りに飛んで、反応しづらいコースに決まっていたかもしれない。

 何よりすごいのは、彼女は先程からゴール枠を全く外さずシュート出来ていることだ。普通のサッカーやフットサルのシュート練習でも、枠内を外れることはよくある。

 それなのに彼女はコース重視のために力を抜くような手加減をせず、フルスイングで蹴ってシュートを打ち、それでも枠を捉えていた。

 見えないのだから健常者のように、力を抜いてコースを狙うこと自体ができない。だからかもしれないが、力いっぱい打って高い確率で枠を捉えるためには、相当高度な技術が必要だ。

 そこが天性の才能を持った元サッカー少女たる所以なのだろう。千夏は音の出ないパス、後ろ向きのドリブルからのシュート、そして後方からのボールを受けて振り向きざまに打つシュート、この三つを秘密武器として習得したいと考えている。その日は合計二十セットほど、これらの練習を繰り返した。

 巧にすればあちこちへと移動し、狭い公園とはいえど二十回も繰り返せば走る距離だけでも一㎞以上になる。しかもただその距離を、小走りに走るだけではない。

 ストップしてボールを投げ、ボールを受けては投げ、また受けては走って投げ、また走って受けとストップ&ゴーを繰り返す。この動作はフットサルクラブの練習に組み入れてもおかしくないほど、ハードなトレーニングになった。

 時には正男さんが加わり、週に何度かこの繰り返し練習を千夏と巧は続けた。気付けば冬が近づき年末が近づいていた。

 その間巧は所属するフットサルチームで、日本代表でもある正GKの田上先輩が足首を痛めた時など代わりのキーパーとして公式戦に出た。そこで何度かファインセーブをして無失点に抑えるなど、それなりの活躍を見せる機会が増えた。

 それでも田上先輩が怪我や休養から復帰すると、巧は再び控えキーパーの座に戻った。日本代表でもある先輩の壁は、まだまだ高く巧も学ぶことは多い。それでもクラブ練習とは別に千夏との練習を繰り返していたおかげで、体力面でも反応面でもますます向上していることを自分でも実感していた。

 フットサルの世界では、来年二〇十五年は特別大きな国際試合が無い。だが次の二〇十六年には三月からW杯予選を兼ねたAFCアジア選手権が始まり、その秋にはW杯が開催される。

 そこで日本代表を新たに選出するために、いくつかの国際親善試合が組まれていた。その試合に参加できる、新たな日本代表候補が選ばれ合宿に入る年でもあった。だが今のところ巧には声がかかっていない。そんな時だった。

 二〇十五年一月に再度女子ブラ練習会が開催されたのだが、その後三月に二〇二〇年東京パラリンピックを目指し、若手を育成するという名目でU-二十三、ジュニアアスリート合宿というものが開かれるという連絡が入った。

 しかも二十三歳以下なら男女問わず、となっていた参加資格に千夏は反応した。これにぜひ参加したいと言い出したのだ。ただ募集人数は限られており、必ず参加できるとは限らない。

 話を聞いた巧の心境は複雑だった。千夏が今もブラサカを続け、新技まで練習しているのは、将来の日本代表選手に選抜されるためだ。今回の強化合宿に参加できて実力をアピールできれば、女子ブラサカ日本代表チームが発足した時に、召集される可能性は上がるに違いない。

 しかし再びマスコミが注目する場に立つことは、メディアから取材攻勢を受け、集客の為のマスコットとして協会から利用されることを意味する。よってマスコミやネットから、再びバッシングを受ける可能性が高まることでもあるのだ。

 そこで巧も大きな決断をした。もし応募に選ばれたら、彼女のアテンドの一人として合宿に同行しようと決めたのだ。その事を聞いた千夏は夜、巧のスマホに電話をしてきた。

「巧、お爺ちゃんから聞いたけど本気で言うてる? 強化合宿って土日やけど、あんたはフットサルの練習があるやろ。三月ならリーグ戦のシーズンは終了しているとは思うけど」

「大丈夫。例年だと自主練はあるけど、三月上旬ならシーズンが終わったばかりだから、休んでも問題はないと思うんだ」

 フットサルの国内リーグ戦は、例年六月から二月中旬ごろまで続く。その後上位チームによるプレーオフが開かれ、八千草は連覇を目指している時期だ。

 ただ千夏が参加する合宿の前の週に全日程が終了するため、次の週はオフシーズンに入っている。軽い自主トレは土日でも組まれていたが、休息をとる選手も少なくなかった。 

 そんな時期でなければ、さすがに千夏が心配だとしても、巧がついて行く訳にはいかなかっただろう。

「駄目やん。だって巧はフットサルチームに所属しとるんやから、今の会社におって働いとるんやろ。自主練やって、ある意味仕事とちゃうの」

「だけど決めたんだ。会社の方には事情を説明して、その週だけ休めるように申請をして了解は取れているから。さぼりじゃない。平日の練習は就業時間を削って練習する場合もあるから、怪我や体調が悪い時以外は基本的に休めないけど、他の選手だって土日に練習がある場合でも、家庭の事情で休むことは認められているんだ。事情によるけど、有休を取ると思えば会社も文句は言えないんだよ。特にオフに入ったばかりの時期は休みやすいんだ」

 実は巧が会社に事情説明して休みを申し出たところ、クラブの監督は同じ地域で活躍している千夏の存在を昔から知っていて理解が深かったために、応援もしてくれていた。

 さらに前回のマスコミの注目具合から大変になるかも、と心配している巧の話をとても親身に聞いてくれ、そういう理由なら是非付き添ってあげなさいと背中を押されてしまったほどだ。

 それでもオフとはいえ第二GKの若手の巧が、自主練に参加しないことは正直引け目を感じた。しかし千夏には、そんな素振りを見せないよう気をつけて説明した。

「オフとはいえ有休まで取るようなことして、なんで一緒に行きたがるの? 正直一緒に来てもろたら助かるよ。二日間とはいえ、東京への移動は同行してくれるお爺ちゃんかてさすがに疲れる。私のアテンドだけやなく協会の強化練習となったら、周りには今まで以上に沢山のボランティアの人達もおると思う。だから私が練習しとる間だって、お爺ちゃんが何もせん訳にもいかんようになって大変やとは思う」

 ブラサカでは日本代表の練習といえども、多くのボランティアスタッフの力によって支えられていることが多いと聞く。例えば会場の設営からボール拾い、練習外での選手達の誘導など多くの仕事があるらしい。

 練習中は代表スタッフの中に、選手達をフォローしてくれる選任の人はいるようだ。しかしそれ以外の仕事は、アテンドでついてきた人達がボランティアで手伝うという。強制では無いが、やらない訳にはいかないのだろう。

「だったらいいじゃないか。同行は二名まで参加OKなんだし。プライベートなフォローはおじさんに任せるとして、荷物を持ったりする力仕事やブラサカに関するボランティアだったら、体力のある僕がいた方が安心だろ。なんならキーパー練習も参加しようか?」

「それはあかんやろ。今回はあくまでFPの若手を育成する合宿なんやから。キーパーは協会スタッフ達で対応するやろうし、邪魔になるようなことしたらあかんで」

「冗談だって。それだけ色々手伝えるってことさ。じゃあ、そう言うわけでアテンドは僕も含めて行けるよう、手続きはおじさんにもお願いしてあるから」

「う、うん、判った。あっ、お爺ちゃんが電話、代わりたいって」

 電話口で正男さんの声が聞こえた。

「巧君、ありがとう。千夏も納得してくれたようで、正直安心したよ。実際大阪への同行なら慣れているけど、今まで女子ブラサカ練習会の為に東京へ行った時は、移動も大変だったからね。それ以上にマスコミやらが騒いで、正直怖かったから助かる」

「大丈夫です。僕がそういう奴らの楯になりますから、その間におじさんは、千夏のケアに集中して貰えればいいので。今回は必要以上の取材は、受けない方がいいと思います」

「千夏もそう言っているよ。前回の反省もあるし、今回は若手育成合宿だから女子が目立っても迷惑だからってね。千夏が言うように正式に女子の日本代表チームが結成されて、定期的にこれから呼ばれるようになったら、また考えなきゃいけないのかもしれないが」

「それはその時になって考えましょう。代表に選ばれるなら、千夏の目標が一つ達成されることになります。それはそれで喜ぶべきことでしょうから」

「そうだな。千夏はそのために、毎日頑張っているんだから。その生きがいがあるおかげであいつは障害者として、胸を張って生きていけるようになったんだからね」

 巧は電話を切った後で考えた。今まで疑っていた訳では無いが、千夏が目指している日本代表になるという夢は少しずつだが現実化しつつある。近い将来、彼女が日本代表入りを果たすことになったとしたら自分はどうするか。

 そこで巧は自分の将来についてもっと真剣に考え、その覚悟と決断をそろそろしなければならない、と考えていた。

 その後千夏は合宿への参加が認められ、巧の同行も決定した。ちなみに巧が所属する八千草フットサルクラブはプレーオフを勝ち上がり、優勝を決めて連覇を果たすことができた。

 優秀な成績でシーズンを終え、気持ち良く参加できたのは良かった。だがアテンドとはいえ、協会主催の強化合宿なるものに初めて参加した巧は、マスコミ対策以前の問題で千夏と共に遠出をすること自体にかなり神経質を使った。

 というのも彼女とは公園でブラサカの練習する時以外、外で会ったりどこかへ同行したりすることを手伝った経験すらほとんどなかったからだ。

 近所のコンビニに買い物へ出かける用事があり、たまたま千夏と遭遇して彼女の補助をしながら一緒に出かけた機会が数回ほどはあった。ただそれだけであり、彼女が視覚障害者になってから、二人で地下鉄に乗ったこともなかったのだ。

 彼女からは以前、怖い目にあったという経験談を聞かされたことがある。大阪への遠征の移動途中の駅でほんの少しの間、同行していた健常者と離れている間に突然腕を掴まれたという。驚いている千夏に対し、その人は腕を掴んだまま

「あんた、どこへいくの? ホームはこっちやで」

と声をかけられたらしい。よく聞けば相手は白杖を持つ千夏に対し、親切で誘導しようとしてくれたようだが、とても恐ろしかったという。いきなり手を出すのではなく

「どうされました? お手伝いは必要ですか?」

と軽く声をかけてから、必要に応じて手を貸してくれたなら助かるけどね、とその時言っていたことを思い出した。

 視覚障害者の誘導の仕方など習ったことのない人が、闇雲に手を出すことは返って相手に迷惑をかけることを、巧はそこで初めて知ったくらいだ。

 まして今回の目的地は、勝手知った場所では無い。東京という巧自身も土地勘の無い大都会への遠征だ。近くのスーパーや、八千草駅の百貨店まで買い物に付き合うこととは勝手が違う。巧自身の覚悟も異なる。

 全く歩いたことのない知らない街に行くのだから、自分一人で移動したとしても緊張しただろう。それなのに正男さんが一緒だとはいえ、障害者である千夏を連れて八千草とは比べ物にならない人混みの中を歩かなくてはならない。そう考えただけで前日の夜は心配と不安で、正直ほとんど眠れなかった。

 だから八千草の駅から新幹線に乗って東京駅まで行き、その後乗り換えをして強化合宿が行われる施設の最寄り駅に着いた頃には、巧はすでにぐったりとして疲れきっていた。そんな気配を察知した千夏には笑われてしまった。

「大丈夫? こんな所で疲れとるようじゃ、とてもやないけどマスコミ対策なんてできへんやろ。私の楯になる、とかお爺ちゃんには格好つけとったらしいけど。そんなんじゃ楯どころか、お荷物になりそうで心配になるわ。巧がそんなやったら、お爺ちゃんが困るんやからね」

「だ、大丈夫だよ。もう気合いは入れ直したから。慣れないことが多くて、少し余計な神経を使っただけさ。心配するな」

 やや強がってはいたが、慣れないことが多かったというのは本当だ。障害者をつれて移動することは、これだけ周囲に目を配り様々な所に注意しなければならない。そう初めて身をもって経験し、多くのことを学んだ。巧は改めてその大変さを思い知らされた。

 基本的に千夏と一緒に歩くのは、正男さんの役割である。彼女の左横半歩前に正男さんがいて、九十度に曲げた右腕の肘辺りに千夏は自分の左手をひっかける。右手には白杖を握って、歩道の右側を歩く。

 巧は正男さんに言われて二人の背後を歩き、後ろから来る歩行者や自転車、車に注意するよう心掛けていた。前方は正男さんが、後ろは巧が目を配るという役割分担だったのだが、ほとんど巧は前を向き二人の様子を見守っている時間が長かった。

 だから最も神経を使うのは正男さんだが、この時街には普段気がつかない多くの障害物があることを学んだ。例えば電柱やガードレール、用水路の蓋や歩道と道路が交差する道の段差、点字ブロックを塞いで停車している車やバイクや自転車等である。

 もっと悪質なのは歩道なのに自転車で走ってきて、我が物顔でどけと言わんばかりベルを鳴らすマナーの悪い人達だ。それは若者だけでなく、おじさん、おばさん、子供を乗せたママさんまで、と年齢層は様々だった。

 普段はそんなものだと思っていた日常の風景が、恥ずかしながら千夏と歩いて初めてそれらの行為がどれだけ危険なのかが判った。

 調べて知ったが、自転車のベルは歩行者をどかせたり、通りたいんですと知らせたりするものではないらしい。「警笛鳴らせ」という道路標識がある場所や、危険を防止するためにやむを得ない場合を除いて鳴らしてはいけないと、道路交通法で決められているという。

 さらに危険を知らす場合以外に使えば、警笛器使用制限違反に該当し、二万円以下の罰金または科料と罰則まであった。世の中には巧を含めて、この道路交通法第五十四条違反を知らない人達が多いと思う。

 車のクラクションも同様らしい。まだ免許を持っていない巧はそんな知識さえ無かった。いつの間にか周りがそうしているからと本来の用途以外に使いだし、それが正しいと思ってしまうことが多々あるということだ。

 警察もこういう行動をちゃんと取り締まって欲しいし、テレビでももっと啓蒙して欲しいと、自分の事を棚に上げ憤りを感じたほどである。

 それだけではない。歩道自体を自転車が通行可能な場合は限定されていることも、巧は認識していなかった。だが二〇〇九年の改正で自転車は一定の要件を満たす場合に歩道の通行が可能になった、と書いてある。

 ただそこには道路標識などで指定された場合、運転者が十三歳未満の子供、七十歳以上の高齢者、身体の不自由な人の場合、車道または交通の状況から見てやむを得ない場合、となっていた。

 つまり住宅地周辺など多くの場合、自転車が歩道を走ること自体が交通法違反になっていると言っていい。

 突然飛び出してくる車や自転車は当然として、相手が歩行者であっても晴眼者の巧でさえヒヤッとする場合がある。なのにこれが視覚障害者にとってみれば、恐怖以外のなにものでもないし、下手をすれば命に関わる。

 道路や駅にある点字ブロックも、視覚障害者が安全に通ることができるように設置されているらしい。だがそんなことを知らない人が多いのか、平気でそこに物を置いていたり、そこに立って歩行を妨害したりする人達が意外に多いことに気付く。

 巧同様ただの無知なのか、他人に気を使うということ自体をしない自己中の人達なのか、それとも気が使えないその人達自体が障害者なのか判らないところが厄介だ。よってむやみに注意もできない。

 そんな偉そうに思った自分でさえも、千夏に出会う前には視覚障害者達に迷惑をかける行動をしてこなかったかと問われると、正直自信が無かった。

 小心者の巧は自転車で歩行者にベルを鳴らすことはなかったけれど、点字ブロックは日常生活でほとんど意識したことさえない。だから知らず知らずのうちに迷惑な行動を取っていたかもしれないのだ。

 それに白杖を持っていたり、付き添いの人がいてサングラスをかけていたりと、明かに外見から視覚障害者と判る人達に出会う場合は気をつけることもできる。だが実は障害者と呼ばれる方でも全員が全員、判りやすい格好をしているとは限らないことを、正男さん達からの話を聞いて巧は驚いた。

 視覚障害者といっても様々なケースがあり、ぼんやりと見える方や、視力はしっかりしているが見える視野が狭いだけという方もいる。

 また病の関係で徐々に視力を失い始めているような、障害者としては初期段階の人に多いらしいが、自分が障害者だと思われるのが嫌であえて他人から見て判るような白杖を持たない、持ちたがらない方も少なくないという。

 だからもしかして巧の無意識にとっていた行動が、実はこちらが気付かない視覚障害者にとって迷惑をかけていたかもしれない、という可能性が今までにも十分あったということだ。 

 例えば道を歩いている時や電車のホーム、お店などで大きな声で喋ることもそれに当たる。耳から得られる音だけを頼りにする視覚障害者にとって、その唯一の情報の取得を邪魔していることになるからだ。

 もしかすると駅のホームで友人達と楽しく喋っている話し声の為に、次に来る電車に乗っていいのか判らなくなってしまった障害者がいたかもしれない。

 話し声だけではない。駅や乗務員のアナウンスでさえあちこちで色んな声が混ざり、健常者の巧達でさえ聞き取りづらいと思うことがある。多くの路線が入り乱れ、乗り入れしている駅などは特にそうだ。

 そんな状態では電車の中にいても、次で降りていいのか聞きそびれてしまうことだって障害者にとっては十分にあり得るだろう。

 後はニュースでも良く聞くが、駅のホームに転落する事故も多いと聞く。転落防止の柵を設置していればいいが、全ての駅にある訳では無い。これも混雑した中で健常者でも多くの人が落ちて、死亡したり怪我をしたりする程だ。

 その為視覚障害者にとっては、最も危険な場所の一つと言える。しかも視覚障害者の転落事故の七割が、普段よく使っている最寄り駅で起こっているというデータもあるそうだ。

 使用する頻度も高いから確率も上がるとも言えるが、やはり慣れから来る油断やうっかりと言ったケースが多いらしい。

 巧もそうだが千夏という障害者の近くにいても、日頃から相当意識していないと健常者には判らず、見落としてしまう注意点が多々あることを思い知らされた。

 障害者と接していない限り、健常者である巧達は一生知らずにいることがどれだけ多いことか。無知の恐ろしさは色んなところに潜んでいるのだと巧は実感し、怖くなった。

 正男さんはかなり慣れた様子で数々の障害を上手く取り除き、時には歩いている前の人などに声をかけながら歩いていた。慣れない巧は後ろに気を配りながらも、それ以上に前方での障害物の多さに気を揉みながら歩いていた。

 そのおかげで知らない間に気疲れしてしまったらしい。そうこうしている間に、巧達は施設の最寄り駅の集合場所に着くと、選手やアテンドをする関係者が乗り込み、施設まで移動する一台の大型バスがそこに待っていた。

 駅に着いて少し安心したことは、バスの近くにマスコミらしき人達の姿が見当たらなかったことだ。乗り込んでしまえば、しばらくは安心できる。それならば次はバスの目的地である施設周辺で降りる時に注意すればいい。

 マスコミが施設入口近くに陣取り、バスから降りてくる千夏を取り囲むようなら、その人達を遠ざけて無事施設の入口へと導かなければならない。その時こそ自分の出番だと、巧は気合を入れ直した。

 代表関係者達が乗るバスの乗車口の前を見ると、女性スタッフが三人、男性の関係者らしき人が四人並んでいて、集まった選手やアテンドの人達と挨拶を交わしていた。

 巧はバスに乗り込む際、ブラサカ協会のスタッフらしき男性の一人に思い切って、初めまして、里山千夏のアテンド役で飯岡と言います、という挨拶をすませ、早速心配事を尋ねた。

「あの、今回マスコミの取材陣は施設の方で集まっているんですか? どれくらい来ているか判りますか?」

 相手は一瞬、巧が何を言っているのか判らなかったようで、ポカンとした顔をしていたが、しばらくして意味が通じたらしく、うんと頷いた後で首を横に振った。

「今回はほとんど来ていませんよ。ニュースリリースした時に少し反応はあったんですが、前回の騒ぎでもう飽きられちゃたんですかね。本当はもっと関心を持ってもらいたいところなんですけど、騒がれ過ぎても困りますし、こちらとしてもなかなか悩ましいところです。でも今のところはご安心ください。こちらの協会でも、前回の教訓を生かして過度な取材には気をつけるように、とスタッフ達には伝えてありますから」

 そう聞いて今度は巧がポカンとしてしまった。いや心配事が減ったことは喜ぶべきことなのだろう。だが肩透かしにあったようで、気合いを入れ過ぎていた自分が恥ずかしい。 

 しかも協会の人の口ぶりから、今回の募集で千夏が選ばれたのはマスコミ宣伝用の客寄せでは無く、しっかり取材対応のことも考えてくれていると知って心強く感じた。

「大丈夫ですよ。里山さんを気遣って、今回は飯岡さんがアテンドに加わったという話は伺っております。それより飯岡さんって八千草のフットサルチームのキーパーをやられているあの飯岡巧選手、ご本人ですよね? 棚田さんからは飯岡選手と里山さんはご近所で、幼馴染だと伺っておりますが」

 予想していなかった逆質問に、今度は巧が戸惑ってしまった。しかも事前に正男さんから、そのような情報まで先方に伝えていたとは聞いていなかったので驚いた。

「は、はい、そうです」

 なんとかそう答えて頭を下げると、相手もまた頭を下げ握手を求めてきた。

「申し遅れました。私、ブラインドサッカー協会の代表コーチをしております村沢むらさわ、と申します。嬉しいです。今回は参加していただき、ありがとうございます。もしよければですけど、飯岡選手には是非合宿でキーパーとして、練習に参加していただければありがたいと思っているんですけど、いかがでしょうか?」

「え? 練習にですか? いえ、僕が参加なんてしたらかえって御迷惑でしょう」

 千夏のアテンドを決めた時に冗談でそんな話をしていたが、あの時彼女が言っていたように、部外者がいきなり参加するなんて失礼だろうと巧も考えていた。だから今回、協会側からそんな話をされても社交辞令程度だと思い断ったのだ。しかし違っていたようだ。 

 村沢と名乗ったコーチは、真剣な顔で巧の言葉を否定した。

「迷惑なんてとんでもない。飯岡選手のような、強豪フットサルチームのキーパーをやられている方から指導を受ける機会はそうそうありません。是非お願いしたいです。いや、今飯岡選手は、シーズンを終えてオフに入ったばかりなのは承知しております。ですから無理の無いほんの軽く、で結構です。聞くところによると、普段から里山さんの練習相手にもなっていらっしゃるそうじゃないですか。それならブラサカのことは、よくご存じでしょう」

 かなり真面目な説得に、巧は思わず了解してしまっていた。

「いいですよ。僕がお役に立てるのなら喜んで。最初から千夏のアテンドだけだと迷惑だろうから、ボランティアの方と一緒に何かできることがあれば、とは思っていたんです」

 マスコミと距離をおくことができる練習の間は、巧は本気で他のスタッフに交じってお手伝いするつもりだった。

「ありがとうございます! 外でお手伝いしていただくのもありがたいことですが、やはり飯岡選手のような現役のフットサルキーパーがいらっしゃるんです。中に入っていただいた方が助かります。なんて言っても今回は育成強化合宿ですから、少しでも選手達に力が付くよう努めるのが一番の目的です。これは棚田さんから飯岡選手が同行されると聞いた時、うちの協会のスタッフ内でも事前に話し合っていたんですよ。いえ、無理強いする訳ではないんです。棚田さんにも事前に相談した時に言われましたが、そういうことは本人から直接了承を取って下さい、と言われていたものですから。いやあ、助かります」

 村沢さんは何度も強く、巧の手を握りしめて喜んでいた。そこまでされると悪い気はしない。障害者スポーツといっても、今回は東京パラリンピックを見据えた将来の日本代表候補の集まりだ。

 教えるどころか、強豪フットサルチームといっても第二キーパーくらいだとその程度かと笑われてしまっては巧も恥ずかしい。日本トップレベルの選手が放つ強烈なシュートから、巧はゴールを守っているとの自負もあった。

「では詳しいことは施設についてからご説明しますので、バスの方にお乗り下さい。棚田さん達も待っていると思いますので」

 気付けば千夏達はとっくに乗り込んで席に座り、真ん中辺りの窓際にいる千夏の姿が見えた。またバスの乗り口では他の選手達が巧の後ろを通り過ぎ、次々と乗り込んでいく。

「あっ、判りました。申し訳ございません」

 慌てて乗り込んだ巧は、通路側に座っている正男さんの姿を見つけて近寄った。そして彼のすぐ後ろの空いていた席に座らせてもらう。すると巧が席に着くや否や、正男さんの方から先ほどの話題に触れてきた。

「協会の人に何か頼まれなかったかい? 村沢コーチと長い間喋っていたみたいだけど」

「そうなんですよ。おじさんも人が悪いなあ。僕がアテンドするって申請した時でしょうけど、事前に色々と協会の人と話をしていたようですね。僕がフットサルチームのキーパーだとか、千夏の幼馴染みで練習にも付き合っているとか」

「そうなの、お爺ちゃん?」

 千夏もその話は初耳だったようだ。正男さんの隣で他人事のような口調で尋ねていた。

「いや、申し訳ない。事前に私の口からお願いするのも筋が違うと思ったから、言うのなら直接言ってくれと伝えてはいたんだけど、結局どうした?」

「了解しましたよ。すごく真剣な顔でお願いされましたから。元々何かしらのお手伝いはするつもりでしたけど、まさか練習に参加することになるとは」

「え? 何? 巧も練習に参加すんの?」

 千夏が大きな声を出したため、バスに乗っている人達が一斉に巧達の方へ顔を向けた。特にここへ呼ばれた選手達は視覚に障害がある分、聴覚にはとても優れている人達が多い。

 しかも自分達の練習に参加する人がいると聞けば、関心を持つのは当然だ。未成年も多く参加しているため、保護者らしき方達も同行していた。だがまさしくそこにいる全員が、聞き耳を立てて巧達の話の続きを聞こうとしている。

 だったらここで内緒にしていても後で判ることだと思い、小声は止めて普通に彼女の質問に答えた。

「いやね。おじさんが同行するメンバーに僕が加わることを先方に伝えた時、協会でも僕が八千草のフットサルチームのキーパーだって判ったみたいでさ。それなら練習に参加してもらえないだろうかって、さっきお願いされたんだよ。断る理由も無かったからいいよって了解したんだけど。あれ? 断った方が良かったかな」

「え? ううん。そう言う訳やないけど驚いただけ。でもええの? 巧、シーズンが終わったばっかりやん。体を休めんとあかん時期やないの?」

「それはあっちのコーチも知っていて、無理はしない軽い程度でいいですって言われた。最初はただマスコミがたくさん集まっているか聞きたくて僕から声をかけたんだけど、話が全く別の方へ進んじゃって」

「マスコミの方はどうだって?」

 正男さんが心配そうに尋ねてきた。

「今回は思ったよりも反応が鈍くて、余り集まっていないみたいです。本当はもっと注目して欲しかったけど、関心が薄れたんじゃないかって。でも協会の方も前回の騒ぎを反省して、対応する準備は考えていたみたいでしたよ。それを聞いてちょっと安心しました」

「なんで?」

 千夏が再び呑気に聞いてきたので、巧は言ってやった。

「今回の選抜メンバーに千夏が選ばれたのも、またマスコミを集める目的じゃないかって心配していたからさ。まあ正直、協会も少しは注目を浴びたかったのは事実みたいだけど。さっき話していた村沢さんというコーチも、それは認めていたし」

「え? 村沢コーチがそんな事まで?」

「ああ。でも前回の過熱ぶりは、さすがに酷いと協会でも思ったらしい。千夏を今回呼ぶことに決めた時も、その対応をどうするかは協議したようだから。でも今回は用心するほどマスコミが動かなくて、少し残念な気持ちもあって複雑な心境だってさ。僕は僕で覚悟していた分、拍子抜けした感じだよ。だから今回マスコミの方は心配なさそうだ」

「そうなんや。まあ、どっちでもええけどね」

 口では強がっていたが、内心は違うだろう。再度自分を売り込んで、将来の為のスポンサーを獲得したいと考えていたはずだ。しかし正男さんは明らかに安堵していた。

「よかったよ。それなら巧君に来てもらうまでも無かったかな。申し訳ない。しかも思っていたこととは違う、別の仕事まで引き受けさせることになっちゃって」

「それはいいですよ。僕も将来の日本代表を目指す若手の練習には興味がありますし、千夏と一緒にブラサカの練習場に入る機会もそうは無いですから」

 実際、巧と千夏との間で行われているブラサカの練習は、いつも公園でばかりやっていた。彼女が所属するチーム練習に加わったことすら一度も無いため、以前から正式なブラサカのグラウンドに興味があったことは確かだ。

「そう言ってくれるとありがたい。協会の方から最初、巧君に練習参加して欲しいと打診された時は困ったんだよ。無下に断る訳にも行かなくてさ。直接交渉してくれって言ったら今度は事前には伝えないで欲しい、って口止めされちゃって。もし事前に知って同行自体を辞められると困るし。だから黙っていて申し訳ない」

「なるほど、そうだったんですか」

「そう、こういうのってボランティアの人達あってのことやから、アテンドの人達にも協力して貰えたら助かるんよ。さすがに合宿練習自体に参加してくれって言われるのは巧ぐらいやろうけど。普通はコート周辺での球拾いとか、設備の移動とか声かけとかぐらいやから」

 千夏が正男さんとの会話に入ってきたところで、バスの前方ではスタッフが人数を数え始めていた。数え終わったスタッフは全員が乗り込んでいることを確認したようで、出発しますという簡単な挨拶の後、バスは静かに動き出した。

 その頃には周りに座っている選手や同行している人達も、巧達の話に聞き耳を立てるのをやめたのか、各々がそこかしこで会話をしだしていた。

 巧は他の人達の邪魔にならない程度に声を押さえ、後部座席から前にいる千夏達の座る座席シートの間に顔を出して正男さんに尋ねた。

「そういえば、さっきもバスの前に女性スタッフが三人ほどいて、他にも出迎えの人が並んでいましたけど、あれって全員協会関係者の人達ですか?」

「確かそうだよ。女性三人はマネージャーで、他にコーチ陣が沢村さんを含めて三人いたね。あとはドクターとそのスタッフ達だったと思うけど。部長や監督さんや他のコーチは先に施設で待っているんじゃないかな」

「ドクター? 万が一のこともあるから、そういう方も常時必要になるんですね」

「これは日本代表の場合のケースだけど、基本的に代表スタッフは強化部長、監督の他に、コーチが沢村さんを含めて四人、GKコーチ、フィジカルコーチ、メンタルコーチが一人ずついるから、その人達を含めるとコーチは七人になるのかな。後はさっき言っていた女性マネージャー三名とドクター一名、メディカルスタッフ二名つくことになっていて、総勢十五名が協会側のスタッフだよ。後はボランティアだから」

「なるほど。必要最小限は揃えているって感じですね」

 千夏が正男さんとの話に割り込んできた。

「それはそうや。フットサルの日本代表とか、まして男子サッカーとか女子サッカーの日本代表スタッフなんかと比べたら、少ないのはしょうがあらへん」

「多ければいいって訳じゃないけどね。選手人数とのバランスもあるし」

「今回募集された選手の人数は十名やけど、代表の場合はFPが八人、GKが二人で合計十名が、最終的な日本代表選手として登録されることが多いらしいで。そしたら選手より、スタッフの方がちょっと多いくらいの人数がいるってことになるんかな。あと今回は二日間やし、若手の全盲選手のFPを中心に強化するからキーパーは呼ばれてへん。試合形式の練習でキーパーが足らなくなるかもしれんから、巧に声がかかったんかも」

「なんだよ。僕に練習参加して欲しいって言うのは、そういうことか。それにしてはあの八千草の飯岡巧選手ですよね、とかすごく大げさに握手されたけど」

 すると小声で話していたつもりだが、それが漏れ聞こえたらしい。少し前の方に座っていた男性がいきなり立ち上がって振り向き、巧の言葉を強く否定した。

「そんなことは無いですよ。今回は飯岡選手が来ていただいているんだから、しっかりコーチして貰おうと事前に話をしていますから、決していい加減な気持ちでお声をかけたんじゃないです。今回選手としてのキーパーは招集していませんが、呼んでいればそちらのコーチもお願いしたかった位です」

「あれがGKコーチの竹中高雄たけなかたかおさんだ。女子ブラサカ練習会にも来ていたことがあるし、たしか男子の代表コーチも兼ねている方だと聞いたよ」

 突然のことで驚く巧に、正男さんが小声でそう耳打ちしてくれた。

「あ、ああすいません。別に本気でそう思っていたわけじゃなくて、里山さんと冗談で言い合っていただけですから」

 巧は立ちあがって謝った。千夏も悪いと思ったのか、席から腰を浮かして軽く頭を下げ標準語で謝った。

「竹中コーチ、ごめんなさい。飯岡さんが調子に乗るといけないからって、ちょっとからかっていただけですから」

「いやいや、冗談だったらいいけど。僕はフットサルの試合も見ることが多いから、飯岡選手の活躍はよく知っているよ。今は同じチームに日本代表の田上選手が正GKとしているから、なかなか試合には出る機会には恵まれないけど、田上選手が怪我で出られなかった時に、飯岡選手が何試合か出られましたよね。僕はその時、大宮に来られた試合を実際観戦していたんです。あの時は凄かった。大宮も強いチームですけどことごとくファインセーブしていて、味方のミスで入った一点以外は全部止めていたじゃないですか。あの試合で八千草が勝った一番の要因は、飯岡選手だったと思いますよ」

 立ったまま興奮して喋り出した竹中さんだったが、近くにいた女性マネージャーの一人に、

「バスは移動中で走っていますから、シートベルトもせず立ち上がるのは止めてください。危ないですから。注意するべきコーチ自身がそれじゃ困ります」

と叱られ、しゅんとなって慌てて座っていた。その様子がおかしく、周りではクスクスと笑い声が起こる。巧も千夏も苦笑するしかなかった。

 だが竹中コーチの暴走はそれで終わらない。まだ喋り足りなかったのか、今度は信号待ちでバスが止まったのを見計らい、席から素早く移動してきた。巧の隣の席が空いていることが判ると、ここいいですか? と尋ねながら、頷く前にもうすでに腰を下ろしていた。

「それでですね。もちろん未来のフットサル日本代表候補である飯岡選手に僕が言うのもなんでしょうけど、特に近距離から打たれたシュートに対する反応というのは天性のものですよ。あれはうちの代表選抜キーパー達にも、是非教えていただきたい。いや教えられるものでもないから目の前で反応の早さ、的確なポジション取りを見せて貰えるだけで、彼らの勉強になると思います」

 鼻息を荒くする竹中コーチの話に圧倒され、褒められて嬉しいというより巧は困惑した。ただただ、はあ、ありがとうございますとしか言えなかった。すると近くでコーチの熱弁を聞いていた、障害者の若い高校生くらいの選手の一人が尋ねてきた。

「大変申し訳ないんですが僕は目が見えないし、フットサルの試合を観戦したことがないので知らないのですが、コーチがそれだけ褒めるほど飯岡選手はすごいんですか?」

 そんな発言に待ってました、とばかりに彼はさらに熱く語り出した。

「すごいんだよ。まず彼は身長が百八十㎝近くあって、さらに手足が長いという体格がフットサルのGKとして適している。特に足元や手の届く範囲内に飛んでくるボールのほとんどは、どれだけ速くても近くから打たれても弾き飛ばすんだ。基本的に動体視力と反射神経が優れているんだろうね。それに加えてゴールに近づいてきた選手に対し、ゴールを背にした位置取りが素晴らしい。シュートを打つ選手にとってとても嫌な、コースを消す動作が素晴らしいんだ」

「でもブラサカのキーパーには、余り必要ないですよね。シュートを打つ選手はキーパーが見えないから、コースを消す動きをされても惑わされることは無いですから」

 この選手はブラサカの選手としての誇りがあり、普段から晴眼者のキーパーからゴールを奪っているとの自負と自信があるようで、竹中コーチの発言に反論していた。巧は小声で竹中コーチにだけに聞こえるように、

「あの人はなんて言う選手ですか? ご存知ですか?」

と呟いたが、聴力が発達しているその選手は聞き逃さなかったようで自ら名乗った。

「失礼しました。僕は松岡孝之まつおかたかゆきといいます。高校二年生です。気を悪くさせてしまったのならすいません。でもやはりブラサカとフットサルは、似て非なるスポーツですから」

 気が強い選手らしく口では謝っていたが、発言に間違いは無いとの態度を取っている。

「松岡君は代表強化選手に選ばれたことがある期待のホープで、飯岡選手でもブラサカでは、彼のシュートを全部止めるのは難しいかもしれません。それくらい良い選手です」

 竹中コーチが小声では無く、周りにも聞こえる声でそう教えてくれた。

「そうなんですか。それはすごいですね」

 巧は内心ではムカッとしていたが、相手は未成年の子供だ。その為適当に話を合わせ口先だけで彼を誉めた。

「でもね、松岡君。飯岡選手の一番の武器は、一対一の強さなんだよ。そこはフットサルより、ブラサカのキーパーとしての方が向いていると思う位だ。だってフットサルよりブラサカの方が、キーパーの動ける範囲は狭い。だから自ずと相手と至近距離で、一対一になるケースが多くなる。一対一になった時の飯岡選手から点を取るのは難しいんだよ。そこが彼のすごさなんだ」

 竹中コーチがまだその話を続けそうだったので、巧は話を遮った。

「ここでコーチが色々説明するより、まずは実際に僕が皆さんのシュートを受けてみないと判らないと思いますよ。スポーツは言葉だけで通じるものではないですから。体験して実感するのが一番です。だから松岡君も、練習場で僕を相手にシュートを打ってみて評価してくれればいい。コーチの言う通りなのかたいしたことがないのか、それで判るよ」

「ちょっと、巧、そんな言い方せんでも。高校生相手におとなげない。松岡君、ごめんなさいね。まだこいつも二十歳の若造で気が強くて、つい言い過ぎてしまうんや」

 巧の言葉があまりにも挑戦的だったのか、千夏が慌ててそう謝った。でも彼は先ほどまでの硬い表情とは打って変わって、笑いながら首を横に振った。

「いえ、飯岡さんって面白そうな方ですね。続きは練習場でしましょう。期待しています。里山さんとの練習も楽しみですね。よろしくお願いします」

 竹中コーチは、自分が余計な火種を作ってしまったと気づいたのか、

「すみません。それではそういうことで、飯岡さんとは後ほど打ち合わせしましょう」

 そう言い残して、前方にある自分の席に戻っていった。松岡は巧達より少し前の席にいてすでに前を向いてしまったため、その後の表情はよく判らない。一緒にいた保護者らしき女性がこちらを向いて頭を下げていたので、巧も反省して謝罪の意味で頭を下げた。

「もう、何もあんなムキにならんでも。喧嘩腰になっとるよ。いつもの巧らしくない」

 千夏が後ろを向いて、巧に向かって怒りだした。

「いや、そんなムキになってないよ。ただ僕のプレーを見たことがない選手に、口で説明して理解しろと言うのが無理だろ。逆に僕だって、知らない選手のことをすごいっていくら言われても、自分で見たり対戦してみたりしないと判らないと思うから同じさ」

「それはそうやけど、なんか口調がいつもより好戦的に聞こえたで」

「それは誤解だよ。でもさっきまで練習に参加してくださいって言われても正直ピンときてなかったけど、おかげでちょっと心のギアが入った感じかな」

「まあ、それやったらええけど。確かにさっきまでは巧ってちょっと調子に乗りかけとったからね。ブラサカを舐めてもろても困るし。良かったんちゃう? 松岡君に気合を入れてもろて。わざとかもよ。巧のぼんやりとした空気が相手に伝わったんかもしれへんわ」

 千夏はわざと周りに聞こえてもいいようなトーンで話し続ける。おそらく先ほどの巧の呟きさえ聞き取っていた松岡君なのだから、二人の会話が聞こえていないはずがない。

「ああ、そうかもね。有難いよ。気合いを入れてやるから」

「でもあんまり本気出しすぎて、怪我はせんといてよ。シーズンが終わったばっかりなんやし、もしものことがあったら巧の会社にもチームにも迷惑をかけてしまうから。協会の責任問題にもなるよ。表面的にはあくまで巧は、私に同行してくれるお爺ちゃんの補佐として参加しているんやからね。それは忘れんといて」

「判っているよ。それは気をつける。ちゃんとストレッチもするし、チームでの自主連を休んだ分、こっちでしっかりとやるから」

「そういえば、自分のグローブとかシューズとか持ってきてんの?」

「ちゃんと持ってるよ。千夏がチーム練習した後に、居残り練習とかしたいと言い出すかもしれないと思って、道具一式持参してきているから。ご安心くださいませ」

「それは、それは巧様、いつもありがとうございます。よく私の性分をお判りのようで。もし持ってきてへんかったら、使えん奴っていうたろと思とったけど、残念やわ」

「なんだよ、それ。でもこんな形で使うことになるとは思ってなかったけどな」

「そうやね。私もびっくり。でもほんと、怪我には気いつけや。洒落にならんから」

「大丈夫だって。もうガキじゃないんだから。これでも社会人として働いてんだよ」

「何それ、私が働いてへんって言う嫌み?」

「いやいや、そうじゃなくて」

 いつもの憎まれ口の叩き合いをしている巧らを心配したのか、正男さんが仲裁に入った。

「おいおい、もうそれぐらいにしなさい。あんまり煩くしていると、周りの人に迷惑だよ」

 確かに気付けば、普通のトーンで喋っているのは巧達二人で、後の方々は静かにしているか、小声でぼそぼそと話している方ばかりだった。

「すいません。もう静かにします」

 巧が正男さんに謝ると、先ほどの松岡がまた声をかけてきた。

「いいですよ。二人の会話が漫才みたいでなかなか面白くて、みんな楽しんでいますから」

 すると一斉に周りの選手達やアテンドしている人達がそうそう、と相槌を打つ。

「え? そんなに面白いですか?」

 千夏が驚いて誰とは言わずそう聞き返すと、松岡とは違う別の若い女性選手が口を開いた。年齢は巧達と同じ二十歳くらいだろうか。女子の参加者は千夏とその人の二人だけらしい。あとの五、六人は中学から高校生くらいの男子達で、二十歳を過ぎている成人男性らしき人が二人いた。

「面白いですよ。以前、里山さんと一緒の女子の練習会に参加した時は、こんなに喋る面白い人だって知らなかったから」

「そうそう。あんまり喋んなかったよね。だから私もびっくりした」

 相槌を打っていたのは、隣に座っていた保護者らしき女性だ。

「里山さんは関西のチーム練習に参加しているって聞いていたから、もっとノリがいい人だと想像していたんですよ。でも前に私達と話す言葉は、基本的に標準語でしたよね。でも今の飯岡選手との話を聞いていると、普段はやっぱり関西弁なんですね。前の印象とは違っていたから、なんか安心しました」

 そこで一斉に車内に笑いが起こった。他の男子の選手だけでなくコーチやスタッフまでが、それぞれ千夏に対する今まで持っていた印象を言い出した。どうも聞いていると、千夏は千夏でマスコミから必要以上に注目を浴びてしまったために、女子の練習会でも他の選手に気を遣っていたらしく、チーム内では猫を被っていたようだ。

 それで周りの人達も、千夏のことはマスコミに注目されているすごい選手だし、テレビや雑誌などで聞く限りでは美人で大人しいと思っていたようだ。しかもコミュニケーションが取りづらい人かと誤解していたという。

 それがバリバリの関西弁で話していたのだから、彼らが驚くのも無理はない。

「全くそんなことないですよ。千夏は小学校の時から男子に交じってサッカーをやっていたから、すごく負けん気が強いです。男っぽいし、ノリは完全に関西です。マスコミが盲目のなでしことか持ち上げていましたけど、中身は完全な男ですからね。まあ皆さんはその取り繕った外面が見えないから、もっと長く接してみたら言っていることが本当だと判ると思いますよ。幼馴染の僕が言うんですから間違いないです」

「ちょっと巧、それ言いすぎ。あんたやって、私とずっと一緒におったわけやないやん」

「それはそうだけど、千夏がブラサカを始めてから、どれだけ練習に付き合わされていると思ってんだよ。小学校の時もクラブの練習が終わった後とか早朝の学校へ行く前とか、毎日のようにサッカーの練習に付き合わされていたけど、あの時とあんまり変わんないよ、言っとくけど」

「なんやて? 巧は無理して練習に付き合ってたって言う訳? 小学校の時は巧が苛められとったから、少しでも上手くなれるようにって一緒に練習してあげとったんやないの。おかげで今はフットサルチームのキーパーで活躍できとるんとちゃうの? あれ? 小さい時に私と練習していたおかげで、今の自分があるって言っとったけど、あれは嘘なわけ?」

「い、いやそれは嘘じゃないけど、」

「それに今のブラサカの練習かて、ええトレーニングになるって巧が言うからやっとるんやないの。嫌ならもうやめようか?」

「こら、千夏、止めなさい。それは言いすぎだぞ。昔はどうであれ、いまは巧君が千夏の練習に付き合ってくれている意味が判らないお前じゃないだろ。皆さん、すいません、こんな気の強い子で申し訳ありません」

 最初はいいテンポで会話をしているのを、周囲は好意的に受け取っていた。だが後半の方で少し緊張した空気が流れ始めたところを、正男さんが間に入ったことで和らいだ。おかげでまた小さな笑いが起き始めた。千夏もそのことに気づいたらしく、

「すいません、こんな中身が男のような私ですけど、よろしくお願いします」

と自虐的な笑いを取りに行ったので、さらに雰囲気は軽くなったようだ。

「でも大変だね。飯岡選手は昔から多分、里山さんの子分みたいに扱われていたんだろうなあって、今の話を聞いていても判るもんな。ご愁傷さま」

 松岡がさらに混ぜ返すので、さらに車内の笑いが大きくなった。

「そうなんだよ。判ってくれる? 僕も千夏って呼び捨てしているけど、学年は一個上の先輩だし、小学校からの力関係は同じなんだよね。小学校で一つ上っていうと大きいだろ。体だって今はずっと僕の方が大きいのに、そんなの全く関係ないからね」

「そりゃそうやろ。昔は巧も私と同じチビやったし、私より大きくなったのは、目が見えなくなってからやから知らんわ」

「だから、そう言うブラックな自虐ネタを言うんじゃないよ」

 巧がそう突っ込むと、思った以上に車内ではウケた。視覚障害者達の前では晴眼者の巧達にとってかなり微妙な話題に思えるのだが、本人達にとってはあるあるのネタらしい。

「そうそう、目が見えていた時のことをなまじ覚えていると、その印象が強くてそのギャップに困る時ってあるよね」

「俺なんかも視力があった小学校の頃は痩せていて格好良かった友達が、今ではすごく太ったらしくて周りからデブデブ言われて辛いって愚痴を聞かされてもこっちは見えないし、細くて女子からモテていた頃のお前しか知らねえ、って言ったらすごく喜ばれたことがあるな。見えなくていいこともあるんだって。なんだそれ、意味が違うだろって言ってやったけど」

 他の選手もその話題に乗っかり、バスの中は様々な視覚障害者あるあるの話題に切り替わり、笑い声が絶えないバス移動となっていた。

 

 二日間の強化合宿はあっという間に過ぎた。巧はこの時、ブラインドサッカーの正式なコートの中に初めて入った。広さはフットサルコートとほぼ同じで、背負うゴールの大きさも同じであることが実感できた。

 ただ違和感を持った点がいくつかある。一つはサイドライン沿いにあるフェンスだ。高さ一m程のパネルが、コートを囲むように立っていた。

 事前知識は持っていたし、動画でもコートの様子を観たことはある。だが実際に中に入ると圧迫感はさほど無いけれど、フェンスのせいなのかコート自体が狭く感じられた。

 ブラサカの場合、ボールがサイドラインを越えたらサッカーのように手で投げいれるスローイングや、フットサルのようにキックインするルールがない。

 サイドライン沿いに立ちはだかるフェンスの跳ね返りを利用して味方にパスを出したり、相手選手をフェンスに追い込んで取り囲むようにしてボールを奪いあったりするのだ。

 ゴールライン側にそれはなく、ラインを割ればボールはGKに戻されスローイングでコートに投げ入れる。その際キーパーによるキックは禁止だ。

 他にはフットサルよりキーパーの手が使えるゴールエリアが横五m、縦二mと極端に狭いという違いがあった。

 ただしばらくすれば、細かいルールの違いにはすぐ慣れた。試合形式の練習をやった際にキーパーを務める機会も頂いたが、守るゴール幅は同じだ。それにトップレベルのフットサル選手と比べれば、やはりシュートスピードが違う。

 その為守備自体は難しいとは感じず、二日間の練習中に巧はPK等も含めて一本も決められることなくゴールを死守できたのだ。

 これにはさすがの松岡も相当悔しがり、千夏のシュートもまた公園での練習とは違う巧の本気度の前には通用しなかった。さらに合宿にはブラサカ日本代表の青山あおやまという、松岡と同じチームに所属するベテラン選手も参加して指導に加わっていた。その彼からも点を取られずに済んだことは、フットサルで活躍している巧自身の面目を保つことができたはずだ。

 しかし今までの経験を生かせず最も苦労したのは、ブラサカ独自のルールであるキーパーの声出しだった。フットサルでも、キーパーから指示を飛ばすことは多々あるが、ブラサカとは全く勝手が違った。

 まず声をかけられるのは、コートの約三分の一にあたる守備エリアにボールがある時に限られるからだ。フットサルではそのような制限はない。味方が攻撃している時でも声をだせるが、それだと反則になってしまう。

 実際ルールに慣れない巧は、練習試合で何度も繰り返し反則を取られてしまった。頭では理解していても、反射的に出てしまう衝動にはなかなか勝てない。

 さらに守備についている味方選手に対しての指示も、晴眼者を相手にするようにはいかなかった。普段から慣れているキーパーならば、“二時の方向に”とか“ゴールから六m”などと選手に指示を飛ばすのだろう。

 しかし声をかけての守備に関して言えば、二日間経験した程度では最後まで身につけることはできなかった。それがとても悔しくて、外からコーチなど他のキーパーの声出しや、後は中盤エリアで監督が指示している方法、さらに攻撃時にガイドと呼ばれるゴール裏にいるコーチの声の出し方もしばらく見学させてもらった。

 けれどもそれがエリア毎で、三者三様に異なっていた点が巧をさらに混乱させた。中盤エリアで指示する監督は一人だから一定だ。しかしキーパーやガイドは、人によって指示の仕方も微妙に異なっていたのだ。

 その為どれが正解か、どの指示が選手によって判りやすいのかは、ほとんど理解できなかったというのが本音だ。

 千夏や他の選手にも聞いてみても、どのガイド、どのキーパーの声出しが判りやすいかは、選手によって取り方が違った。全員がこの指示が判りやすいという明確な答えは得られなかったのである。

 また所属するチームによっても異なるらしいが、フィールドを細分化してその位置を数値化し味方や相手選手の位置を知らせ、右四十五度とか左に三mと細かくかつ的確で素早く判りやすい指示が求められる。

 主役である選手達はその声を頼りに動く為、指示は重要な位置を占めると思われる。それなのに声の捉え方が選手によって微妙に異なるというのは、指示する側としてもかなり厄介な問題だと感じた。

 声を出す側のガイドやキーパーや監督も、より判りやすいように心がけているらしい。各自にそれぞれコツのようなものを持っていたが、選手によって異なりまたゲーム展開によっても変わってくるため、これというものを見つけるのはやはり難しいようだ。

 その為声や音は、確かに大きな要素であることは間違いないが、あくまで情報の一つに過ぎないことも理解できた。実際のゲームでは、相手の気配を感じながら選手自身がイメージして想像し、俯瞰ふかんする視点を持つことがブラサカには最も大切だという。 

 それらのことを加味して総合的に判断しながら、長く携わっているコーチや監督、キーパー達も手探りで代表としての最善策を模索しているとのことらしい。ならばブラサカ初心者の巧が、たったの二日間で習得できなかったのも当然だ。

「守りはともかく、声出しは全くあかんかったね」

と、千夏にも思いっきり駄目出しをくらった。ただ彼女の言葉は、合宿中にシュートを全て止めたことへの巧に対する報復にも取れたのだが、それは気のせいだろうか。

 しかし収穫はあった。練習中に巧がキーパーとして、千夏と同じチームになった時だ。これまで繰り返し練習していたキーパーからのスローイングをトラップして、振り向きざまにシュートする技が何度となく成功し、点を決められた。

 これにはコーチや監督も、二人の呼吸の良さを絶賛してくれた。また実戦でも大きな武器として通用すると、太鼓判を押されたのだ。

 千夏の後ろ向きドリブルからの、振り向きざまのシュートも何度か成功していた。さらに無音パスも、周りで見ていた監督やコーチ陣からなかなか好評だったという。  

 ただ危惧していた通り、パスに関しては受け手がそのことを理解して呼吸が合わないと全く試合では使えない。よって二日間という短い合宿期間中に、実際のゲームで試すことは出来なかった。

 それでも特訓の成果の一端を見せることができ、代表スタッフにもアピールできたと思ったのだろう。合宿を終えた頃には、千夏自身がかなり満足していたことに巧は喜んだ。 

 これで少しでも将来代表に選抜される道が開かれれば良い、という思いがあったし、千夏独自の特殊な武器を持つことで、日本国内ですら体格では劣る彼女が実力では国際的にも通用するところを、やはり見せつけたかったからである。

 その点では今回の合宿は贔屓目でなくても、彼女は及第点を取れていたのではないかと思う。

 ただ想定外で申し訳なかったことは、この合宿で千夏以上に巧が高く評価されてしまったことだ。全てのシュートを止めている様子を見て、竹中コーチがさも自分の手柄のように興奮して周りに吹聴していたのには、正直有難迷惑に感じたほどだ。

「ほら、言っただろ。飯岡選手の動体視力と反射神経、ゴールを背にした時の相手選手との位置取りなんかも見事だったじゃないか。すごく狙い難いってことは、見えない選手にとってもゴールに立つ彼の気配で判ったはずだ。どうだ、松岡君」

 話を振られた彼も、自身が放った全てのシュートが止められた手前、そのことは認めざるを得なかったようだ。

「確かに実際、巧さんが守っている時のゴールは打ちにくかったですよ」

と、しぶしぶ答えていたのが面白くて印象的だった。

 ちなみにスタッフも含め、他の選手達も最初は飯岡さんとか飯岡選手と呼んでくれていたが、千夏が巧、巧と呼び捨てで呼び、正男さんが巧君と呼んでいるのを何度も聞いていたからだろう。合宿の後半には年下から巧さん、年上の人だと巧君と呼ばれるようになっていた。

「しかし巧君のゲーム中の反応の良さは、フットサルと比べれば当然なんだろうけど、PKのセーブは完ぺきだったよね。フットサルと違って、別の意味でタイミングとか読みづらいでしょ。それでも初めてで一本も決められなかったというのは、やはり凄いな」

 竹中コーチはそう絶賛していたが、ブラサカのPKを受けるのは千夏を相手に何度か経験していたので実は初めてでは無い。

 確かにブラサカのPKは独特の間がある。蹴る選手は当然ボールが見えないので、サッカーやフットサルのように、大きく助走して蹴るようなことはできない。

 だからボールをPKの打つ場所に両手、または片手でセットした状態で、ほとんどの選手がノーステップ、または一歩だけ下がってワンステップで打ってくる。それも中には方向が判りにくい、トゥキックでボールを蹴る選手がいるから厄介だ。

 キーパーにとっては、蹴る選手の予備動作がほとんどない状態でボールが飛んでくる。その為どっちに飛んでくるか予測できない分、守りづらいのは確かだ。しかもつま先で蹴るトォキックは、キックの中でもどっちに飛んでくるか判りづらい。

 その分蹴る側もコントロールが難しいキックであり、またボールの中にある音のなる金属部分がつま先に当たると相当痛いため、蹴る側にも大きなリスクがある。

 それでも巧は千夏相手に、何度も繰り返し経験していた。よって要は軸足の向く方向から予測しても、ボールに当たる場所がずれていれば逆に飛ぶことを知っていた。

 だから予測して反応するより、長い手足を使ってどれだけ早く反応できるかに絞って集中した方が止めやすいことを、経験上学んでいたのだ。

 結局キーパーの反射神経と反応速度、動体視力が鍵を握るのだが、その点は幼い時から鍛えられた巧の得意分野であり、千夏にさえ練習でも決められることは少なかった。

 ブラサカではサッカーとは違い、二種類のPKがある。そこはフットサルも同じだ。第一PKというサッカー等と同じ反則により得るPKは、フットサルと同じくゴールから六m離れた場所から蹴られる。

 その他にチームとして前後半で反則が累積したことにより得られる、第二PKというものがあり、これはゴールから八m離れた場所から蹴られる。フットサルの場合は第二PKの位置が、ゴールから十mともう少し距離があった。

 累積の反則とは例えば選手が、守備の時にボイと声をかけないことで取られるノースピーキングや、今回巧が良く取られたような決められたエリア以外でキーパーや監督、ガイドが声を出すことによる反則などだ。

 巧にとって第二PKは、八mとフットサルで慣れている距離より近かったが、予備動作がないとはいえやはりボールスピードが普段経験しているフットサルよりは遅い。なのでまず千夏との練習でも、決められることはほとんどなかった。

 ただ第一PKは、飛んだコースや蹴った時のスピードやタイミングにより止められないこともある。それでもゴール死守率は高い方だ。

「巧君の動きなんか、キーパーは当然として他の選手達にもすごく参考になったと思うよ。でもPKの守り方だけは、教えられるものでもないようだね。反応スピードを上げる練習を繰り返すしかないだろうし、蹴る側もその反応に負けない速度で、ぎりぎりのコースに蹴る練習を繰り返すしかない。巧君の守り方を見ていたらそれしかないと思ったよ」

 竹中コーチが言うには、他の強豪国のキーパーもまた同じだそうだ。読みというより反応速度、動体視力が優れているという。またキッカーもすごい。

 巧も動画で強豪国の選手のシュートを見させてもらったが、確かに速かった。実際に目の前で見て体験してみないと、本当のすごさは判らないのかもしれない。

 それでも画面から見るスピード感は、目の前でプレーしていたブラサカの日本代表選手達のそれとは、申し訳ないけれど格が違うと言わざるを得なかった。

「サッカーやフットサルでもそうですが、ブラジル選手のボールタッチを見ていると、素晴らしいとしか言いようがないですね。特にブラサカで本当に目の見えない人が、あのスピードでドリブルしているのかと思うと信じられないです。あとボールへの寄りも早いし、なにより衝突することを全く怖がってない。こんなことを言ってはいけないのかもしれないですけど、千夏のような女性が世界であの当たりをされたらと思うと見ているこっちがハラハラします。世界の女子選手は、体だって大きい人が多いんじゃないですか」

 竹中コーチから各国の選手達の動画を見せてもらっている時、巧はそんな本音を口に出さずにはいられなかった。しかし彼は意外なことを教えてくれた。

「でも里山選手は背が低いでしょ。あれだけ重心を低く構えられてドリブルされたり走り回られたりすると、相手選手にとっては結構嫌な存在なんです。ぶつかろうとしても高さが違うので、一番危険な頭同士が衝突する可能性は低い。また相手が無理に止めようとすると、反則を取ってもらいやすくなる利点もあります。あとは里山選手が世界の強豪選手と実際に対戦した時、恐怖心を持たずにその中を走り回ることができるかどうかでしょうね。技術やスピードは問題ないと思います。後はメンタルですね。これはどの選手にも、共通して言えることですが」

 確かにフットサルでも、メンタル面をフォローするコーチがいる。その仕事は選手の持っている力をいかにして試合で出せるようにするかだが、ブラサカの場合はそれに加えて健常者では考えられない、暗闇の中で動く恐怖心と闘うことが必要とされる。

 その上限られた音や気配などの情報を元に、どうやって動き、どうやってパスを繋げ、どうやって攻撃、または守備をするかを考えなければならない。

 見えない相手とぶつかり、見えない相手に攻撃を止められ、またボールを奪えず抜き去られるのだ。これは口で言い表せないじれったさや、健常者以上のストレスを感じるのではないだろうか。

 そう考えると障害者スポーツは、巧達のやっている健常者の競技よりもずっと心が強くないとやっていけないのかもしれないと思えた。

 その心の強さが、ただでさえ生き難いこの社会で障害者が生きていくためには、必要不可欠なのかもしれない。千夏達はこの競技を通してメンタルを鍛え、生き続けることの糧としているのだと改めて感じた。

 ところで当初心配していたマスコミの件だが、少数だったけれども複数のメディアが取り上げたことで、再び千夏は注目されることになった。

 おかげで多少ブラサカ協会にとっては宣伝の役割が果たされたという。その点ではマイナースポーツの底上げに協力できたのかもしれない。

 ネット上では再び嫉妬からなのか誹謗中傷する書き込みはあったものの、千夏は完全に無視していたし巧も気にすることを止めた。殺人予告など、相当悪質なものでなければ気にしないのが一番だと判ったからだ。

 そんなことより巧にとって大きな収穫は、今回同行したことでブラサカ協会側のコーチの一員のような立ち位置で参加できたことだった。

 そんな想定外の出来事や竹中コーチを含めた協会スタッフ達の言葉により、以前から考えていたことを実行に移す時が来たのではないかとの思いが強くなっていたのである。

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