再会

 結局巧は母、弘美の反対を押し切り、無事高校を卒業して声をかけてくれた企業への就職を決めたと、棚田正男は聞いた。

 その時正直良かったのではないかと、弘美に声をかけた。彼女もまた、そうですよね、と笑って頷いていたから間違いでは無かったと思う。

 いよいよ春から社会人として働きだそうとしていた時期に、彼は卒業旅行に行く同級生達とは距離を置き、日々フットサルの練習に時間を割いていたという。

 家の前の公園で体力作りや反復横飛びを繰り返し、倒れるように横へ何度も飛び、少しでもボールへの反応を早くする練習に取り組むなど、クラブ練習がない時も自主練に精を出していると弘美は苦笑していた。

 だが時には体を休めることも、アスリートにとっては重要な仕事らしい。そこで彼は自らの判断で休養日と決めたある日、午前中は部屋でゴロゴロと過ごして母親に作ってもらった昼食を食べ終わると、暇を持て余しフットサル用のボールを持っていつもの公園へと足を伸ばしていたようだ。

 平日の午後、その日はよく晴れた日で日差しが暖かかったためか、小さな子供連れの親子が数組いて、ブランコや滑り台、砂場などでそれぞれ遊んでいた。公園の周りにある数本の桜の木の枝にはいくつかつぼみが膨らみかけている。

 テレビの天気予報で言っていた通り、あと数日もすればこの地域にも開花宣言が出るだろう。そんな時、正男は隅にあるベンチの一つに腰かけ、足元に置いたボールを足裏で転がしながらぼんやりとしていた彼を見つけたのだ。

 そこで家の前で自動車を停め、ドアが開けて彼に手を振った。彼もまた、こちらを何気なく見ていたために気づいたようだ。表情からすると正男のことを誰だか判っていない様子だったが、構わず何度も手を振った。

 正男が車を下りたために後部座席のドアが開き、後ろに乗っていた千夏が白杖を持ってゆっくりと降りてきた。そこで声を出して呼びかけた。

「お~い、巧君じゃないか? 久しぶりだね。そこで何しているんだい?」

 突然のことで心の準備ができていなかった様子の彼は、千夏の姿を見て軽いパニックに陥っているようだった。

 だがこれはいい機会だと思った正男は、自分の右腕の肘に左腕を廻した千夏を連れてゆっくりと彼に向って歩いた。彼女は右手に杖を持って黙って横を一緒に付いてきた。だが視線の先は巧のいる前方を見ているようだが目線は合っていない。

 途中で正男達が誰なのか理解したらしい彼は、近くまで辿り着くとベンチから立ち上がり、

「ご無沙汰しています」

と動揺を隠しながら頭を下げて挨拶してくれた。

 彼と面と向かって話をしたのは、千夏が東京へ引っ越す前以来である。彼も少し緊張していたのかわずかに声が震えていた。それまではお互い近所で何度か姿を見かけたことはあったが、こんな近距離で言葉を交わしたのは四年ぶりのことだ。

 ただそれ以上に彼は千夏とも同じ位会っていなかっただろうし、喋ったこともなかったはずだ。視力を失ってからの彼女と、これだけ近づいたのも今回が初めてだったと思う。 

 滑稽なくらい体が硬くなっていて、態度もぎこちなくなっているのが可笑しい位判った。視線が合わない彼女の顔をまともに見ることもできず、彼の目は泳いでいた。それでも正男は何気ない素振りで声をかけた。

「ちょっと、ここ、一緒に坐らしてもらっていいかい?」

 彼がどうぞと席を開けてくれたので、大人がちょうど三人腰掛けられるベンチの真ん中に正男が坐り、その右横に千夏が座った。彼は空いている正男の左隣りに坐った。

「しかし大きくなったね。巧君のことはちょこちょこ見かけてはいたんだが、いま身長はどれくらいあるんだい?」

 正男が彼の方を向いて尋ねた。右横に座っている千夏はまっすぐ前を向いていたが、耳だけは二人の話を聞いているようだ。やはり彼女も興味があるのだろう。

「百七十八㎝あります」

 そう答えたので正直本当に驚き、おおと声を出していた。横で千夏も軽く頭を後ろに反らし、吃驚びっくりした反応を見せていた。

 それもそのはず、彼女と彼がこの公園で一緒にサッカーをやり始めていた頃は、二人とも背は同じ位低かった。今も彼女の身長はそれほど高くなく百五十㎝ない程で昔と変わらず小柄なままだ。

 一方彼の身長は弘美さんから聞いた話によれば、千夏と疎遠になり始めた中学の頃から伸び始めたらしい。ここまで大きくなった姿を彼女はおそらく見たことが無く、会話も交わしていないはずだ。

 おそらく目が見えない千夏の頭の中には、同じチビだった頃の印象の方が強く残っているだろう。そんな彼女に今は自分の身長より三十㎝近く高い、と聞いた彼の姿を想像するのは難しいのかもしれない。

 しかも近くで良く見れば顔立ちも精悍になり、以前の気弱な彼とは思えない風貌をしていた。ただ目だけは昔と変わらず純粋に輝き、愛嬌のある眼差しをしている。

「おお、大きいね。確か巧君はまだサッカーは続けているらしいね。君のお母さんから話は聞いたよ。この四月から社会人として働きながらサッカーをするって」

「はい、そうです。ただ正確にいえば、サッカーでは無く、フットサルなんですけどね。あんまり勉強は得意じゃなかったものですから、働きながらそこの会社がスポンサーになっているフットサルチームの練習に参加する予定です。そのチームには、高二の頃からお世話になっているので」

 彼がそう説明しだすと、突然横にいた千夏が口を開いた。言葉使いは丁寧な標準語だ。

「フットサルではやっぱりキーパーなの?」

 彼女の顔は巧の方を向いていた。正男を挟んではいるが、久しぶりに間近で見る彼女の顔を見ていた彼は少し照れているようだ。

 当然だろう。以前の男勝りだった少女の頃とは違い、我が孫ながら今の千夏はとても愛嬌があり可愛らしい。テレビや雑誌などでも期待の美人アスリートとして何度か紹介される姿を見て誇らしく思っていた自慢の孫だ。彼が見惚みほれたとしてもしょうがないだろう。

「うん。ずっとキーパー。僕はそこしかできないからね」 

 彼はぎくしゃくとした様子で答えると、千夏は首を強く横に振った。

「巧はキーパーしかできないんじゃない。キーパーのポジションが、一番巧に合っているんだよ。反射神経の良さは、私もよく知っているから。」

 彼はそう言われて嬉しかったのだろう。顔を赤くし、目に涙が少し滲ませていた。だが彼は思わず照れ隠しだろうか、昔のような口調を使って憎まれ口を叩いた。

「小学生の頃からこの公園で、誰かさんに散々鍛えられたからね。おかげさまで近距離から顔面めがけて、思いっきりボールを蹴られるのも怖くなくなったよ」

 おもわず正男は驚いたが、千夏は声を上げて笑った。

「そんなこともあったわね。でもあれは最初、軽く蹴っても簡単にゴールできていたのが段々巧の反応が良くなってきて、なかなか入らなくなったからだよ。思いっきり蹴るようになったのは巧の実力が上がったからだし、顔面に飛んだのは狙ったんじゃなく、たまたまそこに飛んだだけ。人聞きの悪いこと言わないでよ」

「そうだよね。僕が苛められているのを、千夏先輩には何度も助けてもらったし。でもそのおかげで苛め以上に厳しい地獄の特訓を、この公園で毎日のように受けることにはなったんだけどね」

「何よ、巧は嫌々やってたわけ?」

 ふくれ面をした千夏に向かって、彼はおどけて言い返した。話しているうちに二人はだんだん昔の調子に戻ってきたようだ。

「とんでもございません。天才少女と呼ばれていた千夏先輩から、直接有難いご指導を受けられて、大変光栄でございました」

「全然、光栄だったって聞こえてこないんだけど」

「そんなこと、ございません」

「何その言い方。巧ってそんな口調で喋る子だったっけ」

「いえいえ、久しぶりにお話しさせていただくので、わたくし、少し緊張しているだけでございますことよ」

「何でおかま口調になんのよ。もしかして本当にそっちの道に目覚めたんとちゃう?」

 今度は千夏が昔のような、関西弁の口調で反撃しだした。

「目覚めてないよ。こんな浅黒い、外人顔したでっかい奴のおかまって怖すぎるだろ」

 それまで高い声を出してからかう様に喋っていた口調が、急に低い声でツッコミ返していた。千夏は余りの変わりようにきょとんとしていたが、二人の間で聞いていた正男は思わず吹き出してしまった。

「巧君はなかなか面白いことを言う子になったね。昔は大人しい、静かな子だったイメージが強かったから驚いたよ。一時期は少し荒れていた時があったと聞いたけど、今はすっかりいい青年になった感じだね」

 恥ずかしく思っている過去のことを触れたためか、彼は黙って頭を掻いていた。悪い事を言ったと後悔したが時すでに遅く、少しの間沈黙があり彼は足元にあったボールを所在なさげに足と足との間で蹴っていた。そこで話題を変えようと正男が質問した。

「ああ、このボールは君のやっているフットなんとかというサッカーボールなのかい?」

「そうです。フットサル用のボールです。今日はクラブの練習も休みで休息日にするつもりだったんですが、つい持ってきちゃいました。いつもはこことか別のグランドで自主連をしたりはしているんですけどね」

 この公園は有難いことに千夏達が幼い頃遊んでいた時と変わらず、制限付きだがボール遊び自体は禁止されていない。最近はいたるところでボールを使って遊ぶこと自体が出来なくなっている。

 とても窮屈で寂しい思いもするが、遊んでいる他の子達にボールが当たって怪我をさせてしまうリスクもあるため、しょうがないことだと諦めるしかない。

 弘美さんによれば、彼はこの公園で良く自主連をしていて、そうした危険性を考えてボールを蹴らずにいるという。公園の隅でもっぱらボールを使ったストレッチや、自分で投げてキャッチングするなど、子供達に危険が及ばない練習しかしていないらしい。

 だが正男の関心は別の所にあった。

「ちょっと、そのボールを貸してもらってもいいかな」

 彼は足元から拾い上げて、ついた土を軽く払ってから渡してくれた。正男はボールを軽く振ったり、大きさや柔らかさを確かめたりした後に感想を言った。

「これって、やはり音はならないんだね。でもブラインドサッカーのボールと大きさや触り心地は似ているね。触ってみるかい」

 横にいる千夏に声をかけ、彼女の手元にボールを運んだ。すると彼女は頷き、座っていたベンチに右手で握っていた白杖を慎重な手つきで斜めに立て掛け、両方の手のひらを上にしてボールを受け取る仕草をした。

 正男が彼女の動きを確認してから、ボールをそっと優しく手の上に置く。ボールを受け取り、撫でるような仕草で丁寧にその形を確かめている。彼女もやはり正男と同じように耳を傾け、ボールを軽く振って音がしないこと確認していた。巧はその行動を奇妙な顔をして見ていた。

「やっぱり大きさはほぼ一緒だ。高校でサッカーをやっていた時も、フットサルのボールを使う練習があったから蹴ったことはあるんだけどね。こうやって改めて触ってみると、微妙な違いが判る。もちろんこっちは音が出ないし」

 千夏が正男に向かって喋っていたが、今度は巧が質問してきた。

「ブラインドサッカーのボールを触ったことがあるの? ち、千夏先輩は」

「昔みたいに千夏でいいよ。うん、実はちょっと前から福祉センターの人から教わってブラインドサッカーをやり始めたの。まだ八千草にはブラインドサッカーのチームはないんだけど、関東とか関西にはいくつか協会が認めたクラブがあるんだって。そう言う人達が今、全国をまわってブラインドサッカーという競技を広めているの。わたしもその講習に参加したんだけど、そしたら面白くなっちゃって」

 話す口調を丁寧な標準語に戻した千夏は、彼の方を向いて笑いながら教えていた。その顔にまた照れたのか、赤くなった顔を見られないように伏せ、そうなんだと小さく呟いていた。

 正男はそれに気づかない振りをする。そこで彼が昔は千夏と、名前を呼び捨てにしていた懐かしい思い出が蘇った。二人でこの公園で練習していた時、千夏は彼より一つ上の先輩だったが呼び捨てで良いと本人が言ったらしい。

 彼は周りに他の子がいる時は気を使って先輩とつけていたが、それ以外は“ちか”と呼んでいたことを思い出しながら、彼に尋ねてみた。

「巧君はブラインドサッカーって知っているかい? 私は最近まで全く知らなかったんだけどね」

「なんとなく。ルールとかはよく知らないですけど、以前夜のニュースで特集していたのを見たことがあります」

 昨年開かれたロンドンオリンピックの一年前に、パラリンピックのことも特集していたらしい。日本代表チームが初めての出場切符を手に入れるための挑戦と題して、男性アイドルがキャスターをしている番組で見た、と彼は説明してくれた。

 特集の内容を何となく覚えていたらしく、言った。

「目の見えない人がアイマスクをして、フットサルと同じような広さのグラウンドでボールを蹴るんですよね。その時の解説では目が見えない選手の為にボールの中に、シャカシャカと音が鳴るものが入っていると言っていました。その音を頼りに、選手達はドリブルしたりシュートしたりすると聞きました。または相手からボールを奪ったりするとも説明していたはずです」

 すると今度は千夏が、それこそ目を輝かせてブラインドサッカーについて語り出した。正式な名称はフィールドプレイヤー、通称FPが四人、そしてキーパー一人の計五人で行われる視覚障害者五人制サッカーと呼ぶんだ、と彼に教えていた。

「そう、そうなのよ。目が見えなくたって音が聞こえれば、ドリブルだってシュートだってできるの。最初はすごく難しかったし、相手とぶつかることもあったりして怖いとも思っていたけど、慣れてくるとそれも楽しいのよ。それにキーパーは弱視の人もいるけど、基本的に目の見える人がやっているケースが多くて、晴眼者の人からゴールを奪えたりしたらすごく気持ちいいの」

 それから千夏は、コートの広さやゴールの大きさ、ボールのサイズもほぼフットサルと同じで、違うのはボールの音が鳴ることと、コートの周りには高さ一mくらいのサイドフェンスと呼ばれる壁で囲われていること等を説明した。

 さらに守備の選手はボールを持っている選手に近づく時、衝突の危険性もあるから“ボイ”と言いながら近づかなければならないこと、“ボイ”とはスペイン語で「行くぞ!」という意味で、それを言わないとノースピーキングという反則を取られてしまうことなどを彼に教えていた。

 ちなみにブラインドサッカー、略してブラサカとも言うが、これはNPO法人日本ブラインドサッカー協会において商標登録されている言葉だ。

 巧には初めて聞くこともあったようで、へぇと何度も言いながらも一生懸命話す千夏の熱に圧倒されていた。

 正男は目が見えなくなってから家に引き籠りがちだった彼女が、最近やっと元気になってきたことが嬉しかった。それこそサッカーが大好きで毎日そのことしか考えていない、かつてのサッカー少女に戻ったかのような錯覚に陥る。

 うんうん、と千夏の話に相槌を打ちながら聞いていたが、気付くと目に涙が一杯溜っていて今にもこぼれ落ちそうになっていた。

「どうしたんですか?」

 驚いたのだろう。巧が思わず小声でそう尋ねてきたが、正男は静かに首を横に振って、大丈夫と小声で答え、まだ嬉しそうに話し続ける千夏の話に耳を傾けた。

 ブラインドサッカーの説明を一通り終えた千夏は、自分ばかりが喋り過ぎたと気づいたらしい。取ってつけたような横柄な態度の関西弁に切り替え、彼に質問した。

「巧の方はどうなん。フットサルのチームでは上手くやれてんの?」

 先ほど正男が口にしたことから、千夏も一時期彼が荒れていたことを耳にしていたと気づいたのだろう。しばらく会っていない間、彼女なりに彼のことを心配しているようだと感じたのか、彼は千夏がここから離れていった後のことを順序立てて話してくれた。

 クラブチームでサッカーを続けることが嫌になったこと。高校入学を機にクラブを辞めてから、不良仲間と付き合って荒れていた時期もあったこと。

 だけど結局サッカーのことは大好きだった為真壁コーチに相談して、フットサルの方が向いているだろうと今のチームを紹介して貰ったこと。今はクラブのU-十九では正GKとしてチームにはそれなりに貢献していること。Aチームでも第二、第三GKの位置でやっていけるようになったおかげで、春から就職できた経緯も教えてくれた。

 さらにフットサルのキーパーとして、今自分がそれなりの活躍ができているのは、千夏が昔この公園で鍛えてくれたおかげだということを、彼はふざけた口調にならないよう気をつけて照れず正直に話してくれた。

 その誠実な態度に正男はとても好感が持てた。今日ここで彼に話しかけたことは、やはり間違っていなかったと心の中で喜んだ。

「何言うてんの。巧の身長と手足が伸びたのは、私に関係ないやん。そういう身体的な特徴もそうやけど、元々巧は動体視力と反射神経が良かったんよ。その能力を活かしてこれまで真面目に練習してきたから、今の活躍があるんとちゃうの。もっと自分に自信を持ちいや。なんたってあんたはブラジル人の血が流れている、やればできる子なんやから。なんてね」

 そう茶化して照れ隠しをしていが、千夏はそのついでにと思わぬことを言い出した。

「久しぶりに私と一対一の勝負をしてみいへん?」

 彼は最初何を言っているのか判らなかったようだ。彼女はブラインドサッカーをやり始めたとは言ったが、目が見えないのだからここにあるフットサルのボールを蹴ることはできない。でもその答えは彼女の次の言葉で理解できたようだ。

「お爺ちゃん、車の中からブラサカ用のボール、持ってきてくれない? それと公園に線を引いて、キーパーしてくれる彼の後ろでガイド役をやってくれると助かるんだけど」

 正男は頷いて答えた。

「ああ、ボールを持ってくるのはいいけど、ガイドか。あのゴールの後ろでこっちだ、あっちだって、指示する人のことだろ。上手くできるかな」

「だいたいでいいから。ちょっとした遊びなんだし。いいでしょ?」

「判った。巧君、ちょっと千夏の相手をしてやってくれないかな」

 正男がこの流れでそう頼めば、彼も断れるはずもなく当然のように頷いた。彼の了解を確認した正男は、小走りで公園の脇に停めた車まで戻り、中からボールを取り出してまた戻った。実物を初めて見るのだろう彼は、興味深げにじっと見て言った。

「ちょっと触らしてもらってもいいですか?」

 正男は頷き渡した。彼はボールを受取り軽く振った。するとシャカシャカという、鈴とは違う、いくつかの金属の塊がぶつかって転がる音がした。

「中には銅の球がいくつか入っとって、それが転がったりするとぶつかって音が鳴るようになっとるんよ」

 千夏がそう説明していた。少し触り心地とボールの固さを確かめてから、じゃあといって彼が千夏の肩を軽く叩いてから手渡す。そこで彼女は一旦ボールを受け取った後、自分の足元に落して右足のインサイドで軽く蹴った。次に左足のインサイドで蹴るといった繰り返しをしながら、少しずつ前に進む。

 その後を慌てて正男が追いかけ、周りの遊んでいる子達とぶつからないよう彼女のすぐ近くに立ち警戒態勢に入った。しばらくそんなドリブルを続けてボールの感触を掴んだ千夏は、顔はあさっての方向を向きながら彼に声をかけた。

「じゃあ、巧、やろう。昔より短めに線を引いてそこを守って頂戴。私がドリブルしてシュートするから」

「ああ、判った」

 彼は千夏の側に近寄ってそこから少し離れ、周りの子達が寄ってこない場所を選んで横に三mほどの線を引いた。その幅さはフットサルやブラサカのゴールの横幅と同じだという。

 実際のゴールは高さが二mほど加わるのだが、千夏達が子供の頃にやっていたルールでは、せいぜい胸の高さ位までをゴールとみなしていたようで、今回もそうしようと彼らは話していた。

 彼が引いた線の後ろに正男が立ち、隅から隅に移動しながら

「ここがゴールの右端、そしてここがゴールの左端。判ったか。もう一度言うぞ。ここが左端。で、ここが右端」

 正男の呼びかけにおおよその距離感を把握したのか、千夏は頷いて指示を出した。

「判った。じゃあお爺ちゃんは巧の後ろから見て、ゴールからだいたいどのくらい離れているか、どの方向にいるか声を出して教えてね」

「ああ、難しそうだけど何とかやってみるよ。その辺りだと六mいや五mか、やや右か。」

 と声を出して線の後ろに立ち構える。が、ルールをまだ完全に掴めてない様子である彼が疑問を持ったようで、千夏に尋ねた。

「僕は声を出さなくていいのかい?」

「今は出さなくてええよ。代わりに後ろのガイド役のお爺ちゃんが教えてくれるから」

 そう聞いて頷いた彼は再度構えて、よし、こいと千夏に声をかけた。そこで背後から見ていて気付いたが、彼の手にはキーパー用のグローブは無く素手のままだ。しかも靴は運動靴でサッカー用のスパイクではない。

 ただ素人ではないし、遊び程度で無理しなければ彼も怪我はしないだろうと正男は思い、何も言わないでおいた。

 しばらくすると少し離れた距離にいた千夏がゆっくりとボールを足の間で細かく動かし、ドリブルしだした。そこでまた背後から

「四m、右、そう、そこから真っすぐ、」

と正男が声を出す。その光景を不思議に思ったのか、公園にいた何人かの親子がこちらに注目しているのが判った。

 ギャラリーがいることで彼も少し真剣になったのか、それとも後ろから聞こえる正男の声が耳触りに感じて集中力が定まらないのか、顔を軽く叩いて構え直している。

 そこで正男はゆったりと細かく右へ左へと移動する彼女の動きを見ながら、昔のような素早いドリブルをしていた彼女とは違う今の姿は見て、彼はどう思っているのだろうと考えた。

 そう思った瞬間、千夏が素早く右足を振りぬいてボールを蹴った。ボールは巧の右の足元近くを通り過ぎようとしている。左足で地面を蹴って右に横飛びした彼は右手を伸ばし、なんとかボールを手の平で押し出すように弾いた。

 ボールはゴールラインを割ることなく、転がっていく。見ていた子供や大人達から、軽くわっと騒ぐ声が聞こえた。

 素手だったためか衝撃が走ったのだろう。彼は軽く手を振っていたが見た様子では痛めるほどの強さでは無かったようだ。それでも飛んできたボールの早さと、彼女の蹴る瞬間まで察知させない動きには舌を巻いたらしく驚いた顔をしていた。

「ああ、惜しい。止められたか」

 正男が思わず声を出した。シュートした千夏も、悔しそうな顔をして言った。

「もう一回!」

 彼は転がったボールを拾い彼女のいる場所まで渡しに行こうとすると、察知したのか

「こっちへそこから軽く投げてくれてええよ」

と指示されたため、彼はゆっくりと下手投げで山なりにボールを投げた。ちょうどボールは彼女の足元辺りにバウンドし、それを難なくトラップして再びボールの感触を確かめるように左右の足の間でボールを蹴り、千夏はドリブルをしだした。

 あまりにも自然な動きに戸惑った様子を見せた彼は、元のゴール位置に戻り構える。再び後ろから正男が声を響かせた。

「五m、右、そう、四m、巧君はここ、ここ。やや左」

 絶えず彼の背後から出される正男の声に惑いながらも、彼は彼女の動きを観察しながらボールに集中しているようだ。先ほどは止められたけれど、決して余裕があった訳ではない。もう少し彼の反応が遅れていたら入っていただろう。

 彼自身もそのことを理解しているようで、集中、集中と小さく呟きながら、ゆっくりと左右にドリブルする千夏の動きを目で追っていた。すると先ほどよりも少し前に近づいてきたかと思うと、今度は逆の左足で彼女は打った。コースも逆で彼の左の足元に向かっている。

 だがすでにシュートしてくるタイミングを掴んでいたらしい彼は、右足で地面を蹴って左に動き、両手を伸ばし横跳びして、今度はボールを弾かずキャッチした。再び公園にいるギャラリーから、おおっ、という声が聞こえる。彼はふふん、と自慢げに立ち上がった。

「ああ、今度は両手で取られちゃったか。しかし巧君はすごいな。後ろから見ていても反応が早いよ。さすがだね」

 正男は千夏の動きに順応した、彼の素早い動きは褒めざるを得なかった。しかし彼女は変わらず悔しがっている。すると今度は彼から声をかけてくれ、

「ナイスシュート。じゃあもう一丁」

と再び彼女の足元に向かって山なりのボールを投げ返した。先ほどと同様に見事なトラップをした彼女は、少しだけ後ろに下がってまた足元でドリブルを始める。

「さあ、こんどこそ。五m、やや右、四m、こっち、こっち」

 正男の声に少しは慣れてきたようで、彼は気にする様子も無く、

「さあ、来い!」

 と彼女に向かって声をかけて構えた。カチンと来たのだろう、千夏は先ほどまでよりも素早く左右にドリブルしながら近づいて来て、今度は勢いをつけて右足を振りぬいた。

 シュートは先ほどよりは高め左の腰辺りに飛んできた。彼はまた同じように横飛びして今度はボールを胸で掴んだ。今度は公園のギャラリーからの声は聞こえなかった。彼が全て止めるので、早くも興味を失ったのかもしれない。

「がっしり胸で取られたか。さすがクラブチームでやっているほどのことはあるね」

 正男は悔しがることを諦め、彼のことを再び褒めた。すると千夏は幼い頃によく見せていた見た負けず嫌いの顔に変わり、どんどんと不機嫌になっていき、督促した。

「もう一回!」

 彼は言われるがまま、ボールを彼女の元に投げ返す。すると彼女は下がってトラップしたかと思うと、ドリブルをしながらこちらにどんどんと近づいてくる。先ほどシュートを打った場所を通り過ぎ、キーパーを抜き去ろうとするほどの勢いで突っ込んできた。

「三m、そこ、打て! シュート、シュート!」

 正男は先ほどより大きな声をかけた。不意を突かれた奇襲作戦に彼は戸惑った様子で、大きく長い手を広げゴールを塞ぐように構える。彼女とボールの動きに集中していた。

 しかしなかなか千夏は打たない。かなり近距離まで接近したため、ゴールへの死角を広げるように彼が前に出て立ちはだかる。

「前に出た!」

 思わず正男が声を出した時、彼はもう飛び込めばボールに手が届く距離まで接近していた。その瞬間、彼女は細かく左右にドリブルしていた動きから一瞬ボールを右足でまたぎ、左足のアウトサイドに触れながらつま先でボールを蹴り込んだ。いわゆるトゥキックと呼ばれる蹴り方だ。

 完全に意表を突かれた彼は止めようと腰を落としたが間に合わず、ボールは彼の股の間を転がって通りすぎ、ゴールラインを割った。

「おおっ、すげえ!」

「わあ!」

 今度は公園にいたギャラリー達の感嘆の声が、あちこちから聞こえた。

「ナイスゴール! やったな、千夏! いいシュートだったぞ!」

 正男は興奮して声を裏返しながら、前にいた巧を追い越し、千夏に抱きついた。彼女は驚いて固まっている。彼はその様子を見ながら、

「いやあ、やられたよ。ナイスシュート。あのまたぎからのトゥキックは読めなかったな。さすが日本代表に選ばれただけのことはあるよ」

 そう言ってお手上げとばかりに両手を上げた。千夏は興奮する正男に戸惑いながらも、ゴールできた嬉しさもあったのだろう、顔を赤くして微笑んでいた。

「じゃあ、もうちょっとやるか」

 彼らは小学生の頃よくやっていたこのやり取りを思い出したのか、楽しみだしていた。あの時と違うのは、二人の側に正男がいることくらいだ。昔は公園の外からこっそり二人の姿を眺めていたことが思い出された。

 彼は後ろに転がっていったボールを追いかけて手に取り、またゴールラインへと戻って彼女にパスした。そんなやりとりを、その日は三人で日が暮れるまでやっていた。

 それはまるで昔のように、彼らが時間を忘れて大好きなサッカーに明け暮れていた日々のようである。正男は再び訪れたこの幸せな時間を、いつまでも味わっていたかった。


 四月に入って巧は社会人として働きながら、平日の夕方に週三日と土日の午前中に行われるフットサルクラブのチーム練習に参加していた。その上で仕事や練習の無い日、または終わった後や仕事前などの空いている時間を使って、いつもの公園で千夏の練習相手をしてくれるようになった。

 初めて千夏とブラサカのボールを使って対決した時の彼は、キーパーグローブ無しに加えて普通の運動靴だった。その為さすがに最後の方は、手も痛くなったようだ。足も滑って踏ん張りが効かなくなっていたという。

 怪我の防止対策もあるので、と次から彼はちゃんと手にグローブを嵌めて、踏ん張りが効く土のグラウンド用スパイクを履いていた。実はあの時の千夏は、最初からグラウンド用のスパイクを履いていたのだ。

 あの日の彼女はちょうど福祉センターでブラインドサッカーをやってきた帰りで、靴もはき替えずにそのままでいた。しかし彼との公園での二回目からの練習する時には、彼女はアイマスクも嵌めて、しっかりとブラインドサッカー用の格好に着替えるようになった。

 アイマスクを嵌めないとぼんやりとだが光が見える分、彼の姿も近づけば影となっておおまかな立ち位置が判るらしい。それだと本当の意味でのブラサカの練習にはならないから、と千夏は彼に教えていた。

 二人の練習時間はだいたい一時間、長くて三時間程度だった。平日は毎日早朝に、土日は休むこともあったが、時間がある時には夕方近くに行っていた。その他に千夏は八千草にブラサカのチームが無いため、時々関西に遠征してブラサカチームの練習に参加している。 

 もっとブラサカに取り組みたいという彼女の希望を聞いて年男がネットで探し、割と熱心にやっていて実績のあるチームと交渉して実現したのだ。

 それでも練習は参加しているメンバーが普通に働いている人達が中心だった。その為今のところ週一回、土曜か日曜のどちらかに行われる程度である。それではまだ蹴り足りないという彼女の我儘に、巧は付き合ってくれているのだ。

 正男が調べていて驚いたことは、千夏が通っているチームの設立は障害者ではなく健常者の人達が集まって始めたということだった。目の見える人がアイマスクを嵌めて、視覚障害者と同じ条件の元でプレーをしているのだ。

 その後視覚障害者の方も参加しだしたが、まだ少ない状況だという。国内リーグの参加資格は二名以上が視覚障害者であるという条件が付くらしい。逆を言えばFPの四名の内、二名は健常者であってもいいことになる。障害者の為のスポーツという印象があったのだが、必ずしもそうでないことを正男は始めて知った。

 ただ千夏も毎週のように、関西まで移動するのは大変だし交通費もかかる。また千夏一人で行かせるには危険なので、付き添う正男にとって都合のよい日を選ばなければならない。

 そうなると参加できるのはせいぜい月二回程度だ。正男もすでに民生委員は辞めたとはいえ、昔ながらの色々な近所付合いもあり、毎回付き合う訳にも行かなかった。

 それに普段の生活もずっと一緒にいることは、彼女にとって良くないと考えてもいた。一人で過ごす時間を作るように、と妻の朝子とも相談して千夏にはそう伝えてある。

 それでもブラサカの練習がしたい千夏は、巧を頼るようになった。まさしく昔のような、ボールを通じた彼との付き合いが始まったのだ。

 たいてい彼がキーパーとしてシュートする側との一対一をやっていたが、正男や時には朝子だって毎回千夏の練習に付き添ってはいられない。そういう時は巧と事前にメールで連絡し合い、彼もアイマスクをして二人でボールを奪い合う練習をやったりしているという。

 だが正男も千夏に付き合い、初めてアイマスクを嵌めてボールを蹴ろうとした時は、真っ暗で見えない状態でボールを蹴ること自体が信じられなかった。

 まずは見えないということに恐怖心が湧く。そして立っているだけでも平衡感覚を失い、さらにそこから歩いたり走ったりするようになるにも時間がかかった。彼もそうだったらしい。

 実は正男も若い頃、サッカーをやっていた経験者がある。ちなみに息子の司も高校まではやっていた。あの頃はプロチームが無かった時代であるため、それで生計を立てることなど考えられなかった。

 それに司もそれほど真剣に打ち込んでいなかったけれど、もしあの時代Jリーグがあれば正男や司だってプロを目指していたかもしれない。それほど正男達親子はサッカーが好きだった。その血が孫娘の千夏に流れたのだと思う。

 年は取ったが決してサッカーの素人ではない正男でさえ、目隠しの状態で体のバランスが何とかとれるようになっても、次にボールの音を聞き分けることは相当難しいことだと理解できた。

 それに公園は早朝だと比較的静かだが、夕方になると周辺には子供達の騒ぐ声や一緒にいる親達の話し声などが邪魔をして、ボールの音が聞き取りづらくなる。それに早朝に比べて周りに人がいるため、正男や朝子がいない時には千夏達二人ともがアイマスクをして練習するのは危険だから止めるようになったという。

 彼もまた恐怖心やバランス、音の問題をクリアできたとしても、今度は見えないボールを蹴り、コントロールすることの難しさは想像以上ですと言っていた。もともと目が見えている時でさえ、ドリブルやシュートが下手だったという彼にはハードルが高い行為だそうだ。

 その為一対一でボールを奪い合う練習の時は千夏だけがアイマスクをして、彼ははずしてドリブルしたり、逆にボールを奪いに行ったりする練習に変えたらしい。もちろん千夏にとってはとても不公平な条件だ。だがそのほうが上達するための練習には最適だと彼女が言い、また別の理由もあって、アイマスクを嵌めての練習は止めたという。

 というのも、彼がアイマスクを嵌めると千夏の練習相手には不足過ぎるというのが理由の一つだ。もう一つ大きな問題となった理由は、見えないことで彼と千夏がよく衝突や接触してしまうことだったという。

 さすがに体格が大きく違う彼とぶつかれば、千夏の方が吹っ飛ばされ怪我をする危険性がある。それだけでは無い。不可抗力で彼の手が千夏の胸などに当たったり、逆に千夏の手が彼の股間に触れてしまったりする場合もあったらしい。

「でも練習やゲーム中でも、そういうことはよくあるんよ。ブラサカをやっている選手の中には、女性も少数おるけどほとんど男性やから、お互い見えない同士、接触して触られたり、触ったりしてしまうことはしゃあないんじゃないの」

 千夏は彼にそう言っていたが、だからと言って二人きりでいる間に危険な行為をわざわざすることもない。それにブラサカの特徴は、正式な試合でもキーパーは晴眼者が多いことだ。

 その点巧と彼女がシュート対決する方が本番用の練習には打って付けだと気付き、その練習に二人は重点を置き始めた。ただ正男などガイドがいない時のシュート練習は、彼が声を出すので本番とは勝手が違うと、千夏がぼやいているのを聞いたことがある。

 ガイド役、特にそれが正男だった場合、千夏は本領を発揮できたようだ。ある時からホームセンターで買ってきた、工事現場や駐車場などにある赤い三角コーンを右と左のゴール隅に置くようになった。

 正男は巧の後ろに立って千夏の白杖を使い、右、左のコーンを叩くことで彼女にゴールの位置を教えるのだ。すると途端に彼女の頭の中にはイメージがしやすくなるのか、シュートが際どいコースに飛ぶようになったと喜んだ。

 とは言ってもゴールを守っているのは、ただの晴眼者ではない。国内のフットサルクラブの中でも、トップクラスのチームに所属する第二、第三GKの巧が相手なのだ。

 千夏がいくら天才サッカー少女だったとはいえ、目の見えない状態で繰り出すシュートは、やはりフットサルでの男子が打つ強烈なシュートと比較すると、スピードも威力もどうしたって劣る。

 それでも十数本に一本は、とんでもないコースに決まることもあった。これがさらに高さが二m加わったゴールであれば、もっと高い確率で決まるかもしれない。

 それに千夏自身もブラサカを始めて、まだ一年も経っていないのだ。それで彼相手に互角以上のゴールが決められるはずもなかった。

 しかし彼女にとっては、その高いハードルが負けん気を刺激したらしい。よりブラサカに嵌る要因になったのは確かなようだ。彼と練習をする度に、メキメキと上達して行くのが判った。

 初めて対決した時よりもずっとスムーズにボールタッチができるようになっていたし、シュートも力強くなっていた。初めは彼が千夏にボールを返す時、ゆっくりと山なりに投げていたが、彼女の要望で徐々に強めで投げ返すようにもしたらしい。そのおかげで彼女のトラップする技術も、目に見えて上手くなっていくのが正男にも判った。

 二人がそんな練習を重ねている間に、嬉しい知らせが舞い込んだ。この年の十月に、八千草でブラサカチームが設立され練習を始めるという。

 このチームも関西のクラブと同様に健常者が始めたようだ。しかもブラサカを経験した女性達が、このスポーツは面白いと言い出して八千草にチームが無いことを知り、自分達で作ろうと働きかけて実現したらしい。

 もちろん千夏も、すぐにチームへ参加することを決めた。ただまだ立ち上げ時期であり参加人数も少ないため、練習も月一回から二回程度から始めるという。

 それでも地元チームができたというのは、彼女にとっても喜ばしいことだ。さらに八千草で練習が無い日は、関西へ顔を出して練習参加するという形態は変わらず続けていた。

 ただ八千草のチームができてこれまでと違ってきたのは、千夏だけでなく他の選手も一緒に関西に行きたいという人が出始めたことだ。その為正男が同行しなくても、彼女は他の健常者の選手と一緒に遠征できるようになったのである。

 千夏がブラサカを通じて多くの人と知り合うことができ、交流の幅が巧以外にもますます広がっていくことを、正男はとても有難いことだと感謝した。

 それだけではない。九月にIOCが発表した二〇二〇年のオリンピック・パラリンピックの開催都市が東京に決まった影響からか、この年の十二月二十四日、日本ブラサカ協会主催による女子ブラサカ練習会なるものが初めて開催されたのだ。

 全国からブラサカをやる女子選手達を集め、将来的に女子だけのチームを作り、日本代表チームを形成したいという動きの一つだという。さらにその女子練習会は翌年一月の開催も決まっていた。

 当然のことながら、千夏は関東で開催されるその練習会へ参加することを決めていた。その頃から彼女の心の中では、ブラサカに対する目標がどんどんと高まっていたようだ。

 正男はブラサカが、パラリンピックの競技種目であることは調べて知っていた。しかしオリンピックでも男子サッカーや女子サッカーがあるように、またパラリンピックでもそれぞれの種目には男女別に行われているのが普通だと思っていた。

 だがパラリンピックの中には競技人口の少なさからか、男子しか正式種目になっていないものが多数あることを後になって知った。その中の一つがブラサカだった。

 しかもBー1と呼ばれる全盲クラスしか参加できず、その下のBー2、Bー3という弱視クラスが行うロービジョンフットサルは、まだパラリンピック種目に選ばれていない。

 ちなみに千夏は障害の度合いから言えば、Bー1の全盲クラスに入る。けれどもまだ女子の種目が無いのだ。

 しかし日本のブラサカ界では、女子だけのチームを作ろうと動きだしていた。女子選手が徐々に増えていけば、いずれは女子だけの国内リーグ戦が開催できるまで選手の底上げを図りたいと画策しており、今はまだその道半ばだという。

 そこで今ある日本国内のチームは、競技人口が多くないため男女混合で試合をすることを可能としており、女子はそこでしか活躍の場が無いのが現状だった。さらにブラサカの男子日本代表ですら世界から見ればレベルは高くなく、今までパラリンピックに出場したことさえ無いという。

 日本のブラサカ界がそんな状況にもかかわらず、千夏がパラリンピックの日本代表になることを目指していると正男が初めて聞いた時には、余りにも遠い夢を見ていると思ったし、とても信じられなかった。

 それでも彼女は逆転の発想で、女子リーグ、または代表ができる前に国内リーグでより質が高い男子に交じってプレーし、自らの実力を高めようと考えていた。既存にある国内リーグは女性も参加できるという点に目をつけたのが千夏らしい。

いずれ女子の日本代表チームができる時に備え、発足すれば第一号の代表選手になりたい。決して遠くない未来にやがて行われるだろう女子ブラサカがパラリンピック種目となれば、そこで日本初の出場切符を手に入れたい、というとんでもない高い目標を彼女は掲げたのだ。

 やはり視力に障害があっても、自分は日本代表にまで選ばれたという自負があったのだろう。障害者になってからは家に引きこもり塞ぎがちであった千夏が、積極的に外へ出られるようになり、周りの人達と積極的にコミュニケーションを取ることができるようになったきっかけがブラインドサッカーである。そこで彼女は多くを学んだようだ。

 障害者となった千夏は、健常者だった頃と違って自分一人ではできないことが多い。自分が何かしようとするならば、何かしら他の人の力を借りなければならなかった。

 そのことで周りに迷惑をかけてしまっている、という気持ちと母の真希子への遠慮も手伝ってか、視力を失った当初は全ての行動を委縮させてしまっていた。

 だが真希子が入院し、正男と朝子の手を借りて生活するようになってからの千夏は、周りの手を借りないとやっていけないのだという現実を、真正面から受け入れはじめた。

 だからといって甘えることなく、自分自身で出来ることは自分でやる。その分できないことはできません、とはっきりと周りに意思表示をして助けて貰う。その方が生活する上には自分にとっても、補助する人にとっても必要なことだと彼女は少しずつ思い直したという。

 障害者としての心得を習得して行く中で千夏はブラサカに出会い、そこでさらに声を出して周りとコミュニケーションを取っていった。しかも健常者の声に助けられながらボールの音を聞き分け、周りの選手の動きを察知しながら障害者である自分が健常者の守るゴールを破る、というスポーツに快感を覚えたという。

 幸い視力を失っても千夏は元々ボール捌きには定評があった。ブラサカという独特なスポーツに慣れてしまえば、あとは彼女の負けん気を持って努力し、相手が男であろうが突っ込んでいくだけだった。

 その精神は並いる男子を押しのけてレギュラーを獲得し、活躍していた小学生の頃と全く変わらない。

 それでも当初は相手選手との接触も多く、恐怖心が取れるには相当な時間がかかったようだ。しかし千夏は自分の低い身長を長所として利用し、重心を低くして男性選手の足元をするすると素早く動いて抜き去る術を学んだという。

 関西遠征時に正男が撮影した動画を、巧と一緒に見たりした。そこでは相手選手の気配を察知してスペースを見つけ、走り込んだりする彼女の姿からはやはり天性のセンスが感じられると、彼は言っていた。

 また彼女は味方のパスを絶妙なトラップで受けたり、逆に味方へパスを通したり、鋭いシュートでゴールを狙った。現在練習に参加させてもらっている関西のチームにおいても、一躍トップクラスの選手へと上り詰めるまでには、実際あまり時間はかからなかったようだ。

 残念なのは、まだ日本におけるブラサカの競技人口が多くなかったことである。その為多くのチームが東京を中心とする東日本リーグ、大阪を中心とする西日本リーグ、そこに福岡を中心とする九州・四国リーグや、東北北信越リーグが最近加わった程度だった。

 八千草のチームも、まだリーグ戦に出られるほどの体制が整っていない。つまりブラサカを本格的にやろうとするならば、今住んでいる地域は環境的にハンデがあったのだ。

 もしもっと上手く強くなろうとするならば、トップリーグの選手達としのぎを削る機会を増やさなければならない。本気で将来の日本代表に選ばれる存在になり、世界と戦っていくためには、少なくとも男子も含めた国内チームで認められなければならなかった。

 近い将来パラリンピックの切符を手に入れようとするならば、今の内にできる限り恵まれた環境でいた方が望ましいことは明らかだ。

 だからこそ初めて千夏の壮大な夢を聞かされた正男は、今の日本のブラサカを取り巻く環境を調べた時、彼女に恐る恐る尋ねた。

「本当に日本代表レベルを目指しているのか? もしかして千夏は、東京か大阪の方へ引っ越すことを考えているのか?」

 実際にブラサカ男子日本代表に選ばれる選手達の中では、環境のいい場所に移り住む人も少なからずいるようだ。土曜日の夕方、巧を含めた公園での練習の合間の休憩で、ベンチに座っていた千夏はその質問に少し首を傾げながら答えた。

「考えんことも無いけど、今の生活環境からしてそれは難しいかな。だってここから引っ越すんなら、さすがにお爺ちゃんやお婆ちゃんは連れていけんやろ。それだと一人暮らしになるやん。まだ私はそこまでできる勇気はあらへん」

 それを聞いて胸を撫で下ろした。横にいた巧も同様だったらしい。ホッとした顔をして聞いていた。彼もまた、千夏が再び遠く離れてしまうのではないかと心配していたようだ。

 しかし彼女は続けて言った。

「行くとしても東京は無いな。良い思い出は無いし。そしたら大阪がええかも」

 ギョッとした正男は、もう一度確認した。

「おいおい、本当に行くつもりじゃないよな」

「行くとしたら、やて。今は無理。でもずっとここでおるかと言われたら、将来的にはそういう選択肢もありかなとは考えるよ。だって私もお爺ちゃんやお婆ちゃんに、いつまでも甘える訳にはいかへん。それにお母さんにはもう頼られんと思うから、いつかは一人で生活できるようにならんといかんし、それなりの覚悟はしとかんとね」

 千夏は努めて明るくそう言ったが、正男は思わず俯いてしまった。一緒に聞いていた巧も悲しそうな表情をしている。確かにそうだ。まだ夫婦で元気な間はいい。だが遠くない将来、正男達自身が介護される立場に変わるのも時間の問題だ。

 そうなれば、千夏が正男達の面倒を看ることはできない。経済的に余裕がある今の正男達なら、どこかの介護付き老人ホームに夫婦で入居することが現実的だろう。

「そうなる時まで、千夏が少しでも一人でやっていけるよう準備するのが、私達の役割だからな。それまでは今まで通り、やりたいことをやっていればいい」

 寂しさに堪えながらもそう言った。こうした問題は、正男達に限ったことでは無い。世界中の障害者や病気を持った子を持つ親や保護者達なら、皆が抱えていることだ。自分達が死んだり、面倒を見られなくなったりした後のことを考えると、心配でならないだろう。

 千夏の場合は、経済的に恵まれていることが何よりの安心材料ではある。正男達も基本的には、自分達が必要なお金は最小限手元に置いておくつもりだ。しかしもし自分達に万が一のことが起こったら、遺産は彼女の為に少しでも多く残したかった。

 お金の問題は決して小さくない。障害者に対する国からの補助はあっても、全てが無償である訳もない。必ず自己負担というものが出てくる。その為サービスを受けたくても、自己負担分のお金を支払う余裕が無いので断念せざるを得ない人達は少なくないらしい。 

 ただでさえ今は少子化と高齢化により、社会福祉費に国が多く負担している。自己負担という制度は将来的にみて、割合が多くなることはあっても無くなることは難しいと覚悟した方がいい。そうした厳しい社会の現実に対し、思わずいきどおり妻にぼやいたことがあった。

 今のところ、千夏は自分でお金を稼ぐ行為自体をせずに済んでいる。しかし資産があるといってもいずれは自分で働き、少しでも蓄えを持って万が一に備えておいた方がいいことは確かだ。

 そこで正男は話の流れで聞いてみた。

「将来的には一人になった時のために、何かやりたい仕事はあるのか?」

 するとその時は、はっきりとした答えを教えてくれなかった。だが後になって考えた時、千夏はその頃からあるビジョンを持っていたと思われる。その考えが途方もなく、また後に大きな問題を引き起こすことになったのだ。



 喜多川望きたがわのぞみが、初めて飯岡巧に出会ったのは高校一年の終わり、桜が咲き始めた頃のことだ。学校が春休みに入ったため、友達と夜な夜な繁華街を歩く日が続いていた。目的はもちろんお金を稼ぐためである。

 望達のように決して可愛く無くても、化粧で誤魔化せばJKと言うだけでスケベ心を持って近づいてくる馬鹿なおじさん達がいたからだ。また女子から相手にされたことがない、冴えないオタク臭漂う若い男達も金に物を言わせて寄ってきた。

 最後の一線だけは越えないようにしながら、適当に相手をする。時には多くお金を出しそうな相手にだけ、嫌々ながら鳥肌を立てつつも我慢して足や腕などを触れさせることはあった。

 ただ八千草の繁華街にはJKビジネスの店が多いと、マスコミが取り上げ騒ぎ出してから警察や補導員等の監視も厳しくなった。さらに望が所属していた店舗も摘発を受けたため、一時期仕事が無くなったのだ。

 そのため中学時代からの友人である南沢絵里みなみざわえりと二人で、別の店を探していた。探すと言っても契約する店選びは重要だ。

 下手な所と関われば、売春まがいのことまで強制的にやらされる。または仲介手数料として、客が支払う金のほとんどを持っていかれる場合もあった。よって悪質な店との取引は、絶対に避けなければならない。

「あそこはやっと見つけたいい店だったのに。良心的で客質も悪くなかったよね」

「そう、際どいことをやらずに済んだからね。その分、貰えるお金も少なかったけど安全だったし」

「もっと危ないことをやっている店とか他にいくらでもあるのに、どうしてそういう店は捕まんないのかな。完全に売りをやっている子達が出入りしている所って、いっぱいあるよね」

「そうだよ。裏で警察と暴力団とが繋がってたりして。ウチらの店は手軽にJKと遊べるって評判だったし、儲かっていたでしょ。だから逆に目をつけられて潰された、とか」

「それあるかも。あとあの店は、バックに危ない連中がいるようにも見えなかったしね。だからかも。そう言うところの方が警察も捕まえやすいし、取り締まりはしっかりやっていますよ、って世間にもアピールできるじゃない。でも本当にやばい店ほど、上手く残っているんだよね。店の名前や場所とかサービス内容をコロコロ変えたりして」

「だからって、私達がそんなやばい店と関わったら何されるか判んないもんね」

「お金は欲しいけど、危ないことまでして稼ぎたくはないから」

「でもそろそろやばくない? 私、この春休み中はそれなりに稼いで置きたかったんだよね。学年が上がったら、また色々お金がかるじゃない。あれやこれやと買わなきゃいけないし、修学旅行費の積立だってあるからさ」

「ほんと勘弁してほしいよ。私立でもないのに、高校へ通っているだけでやたらお金がかかるのって。でもお金持っている奴らは全く平気だし、休み中に家族で海外旅行に行くとか話している奴らを見ていると、ほんとぶっ飛ばしたくなるよね」

 望も絵里も両親は共働きをしているが稼ぎは少なく、古いアパート暮らしでその日その日を食べて生きていくのに精一杯だ。高校生活をするのにも、教科書に加えて参考書が必要だったり、制服や体操着、室内靴等その他諸々に払ったりするお金は馬鹿にならなかった。

 お金持ちでなくても、それなりに収入がある家庭なら問題ないのかもしれない。だが望達のような低所得層からすれば、高校なんかにいくよりも働いた方がどれだけ家の為になるかといつも思う。

 それでも望も絵里も、両親からは中卒である自分達のようになって欲しくないと説得された。その為少なくとも高校は卒業してほしいとの要望を叶えるため、受験勉強をしてなんとか近くの公立高校に入ることができたのだ。

 しかし望も絵里も下に弟と妹がいるため、放課後も土日もバイト、バイトの毎日だ。なんとか日頃の生活費と、将来における彼らの学費を稼ぐために必死で、勉強など授業時間以外にやっている余裕なんかなかった。

 両親には悪いけれど、折角入った高校だがこんな生活を送って高卒という名ばかりの学歴を手に入れても、貧しい生活から脱却できる就職などできるとは思えない。それが一年通って見て判ったことだ。

 しかも同級生で中流と呼ばれる程度の生活をしている子達のほとんどが、一人っ子または子供が二人という家庭が多い。親の学歴はほとんど大卒ばかりだ。

 裕福な家庭であればある程その傾向は強いと思う。貧乏なのに子供が多い望や絵里のような家庭は、自らの首を絞めているのかもしれない。

「世の中は少子化だ、なんだと騒いでいるみたいだけど、結局子供を多く産んだ方が損だと思うから当たり前じゃん。金持ちの家ほど子供を産まないし、子供の教育にお金をかけて、裕福な生活を送らせて大学に行かせて、その子が大きくなればまた裕福な家庭を築くんでしょ。その繰り返しだからね」

 絵里はそうぼやいていた。だからといって、絵里も望も自分達の下に弟妹がいることが嫌だとは思わない。望の弟は中二で妹は小四、絵里のところは妹が中一で弟が小五だ。

 望が中学に入学するのをきっかけに今住むアパートに引っ越し、先に入居していた絵里の家族と家族ぐるみの付き合いをしていた。子供達の年齢がそれぞれ近かったからだろう。

 生活水準も境遇も似通っている望と絵里はすぐに仲良くなり、貧しくてもお互い家庭はうまくいっている。忙しく働く両親の代わりに望も弟や妹の面倒を看てきたため、時折生意気で喧嘩もするが基本的には可愛くて仕方がない。

 絵里の家もそうだという。妹や弟は自分の子供のようにも思えると、二人で笑って話し合ったことがあった。

 だからこそ二人は、彼らの為にもお金を稼がなくてはいけなかったのだ。しかも学校が休みに入ったこの時期は、一日中働くことできる貴重な期間であり稼ぎ時である。それなのに肝心の雇い主が閉店に追い込まれたため、望達は焦っていた。

 そこで慎重に次の店を探す繋ぎとして、二人は夜の繁華街を歩きながら今まで相手をしてきた客を見つけると、直接声をかけて交渉をすることで自ら仕事を取り始めた。

 そうすると今までと違い仲介料を取られなくなった分、直接自分達に入るお金が増える。そこで味をしめて、調子に乗ったのがいけなかった。

 かつての常連客だった男性との軽いデートを終えた望は、絵里と落ち合ういつもの待ち合わせ場所に向かっていた時だ。先に他の客との仕事から戻っていた彼女が四、五人の男達に囲まれている姿が遠目に見えた。

 この繁華街におけるルールを破ったことがばれ、やばい連中に見つかったのだとすぐに判った。望は立ち止まり、向こうからは見えない路地に隠れて様子を伺うことにした。

 距離があるため会話は聞こえなかったが、明らかに絵里は男達から脅されている。何度か首を横に振ったり、謝っているのか頭を下げたりしている絵里に対して、男達は執拗に何かを迫っていた。

 警察に通報する訳にはいかない。といって望が出て行っても、何の力にならないことは判っている。だからと言って、見捨てる訳にもいかない。

 それに今逃げたとしても、いずれ望のことは奴らに知れる。そうなれば必ず後で追いかけてくるだろう。どうすればいいだろうと考えていた矢先、望のスマホに電話が入った。画面を見ると絵里からだ。

 マナーモードにしていた為、着信音が彼女達のいる所までは聞こえることはなかった。しかし見つからないように待ち合わせ場所の方を覗くと、絵里から取り上げたのだろう彼女のスマホを耳に充てている一人の男が見えた。

 絵里は返してくれと抵抗している様子だったが、他の男達に囲まれて動きを封じられている。電話に出るべきかどうか、一瞬迷った。それでも路地の奥に体を潜めた望は、勇気を振り絞り通話ボタンを押して耳に当てた。

「おう、出たな。喜多川望ちゃん。今どこにいるのかな。あなたのお友達の南沢絵里ちゃんが、ずっとあなたを待っているよ。いつもの集合場所にいるから早くおいで」

 軽い感じで話す男の声に答えず黙って聞いていると、急に口調が変わった。

「おい、おかしなことは考えんじゃねえぞ。警察なんか呼んだら、この絵里って女がどんな目に会うか判ってんな。さっさと来い。仕事中だったらさっさと金もらって途中で切り上げてでも来るんだぞ。それと今日稼いだ分はもちろん、今までの分の金もしっかり払ってもらうからな。おい、聞いてんのか」

 絶体絶命な状況に追い込まれた望は、何か話そうとしたが恐怖で手足が震え言葉が出てこない。スマホからはまだ男の怒鳴り声と、絵里が止めてと叫ぶ声が聞こえる。

 通話を切ることもできずその場にしゃがみこんだ時、後ろから声をかけられた。

「おい、何してんの。あれ、もしかして喜多川?」

 振り向くと、数人の男達が路地の向こうから歩いて来た。相手からは街灯の明かりで望の顔が見えたのだろうが、こちらからは暗くて顔が見えない。

 だが聞き覚えのある声だと思い、じっと見つめている間に相手が近づいてきた。近くまで来て、中学時代の同級生だった男子の一人であることが判かった。しかし名前は思い出せない。

「俺だよ、ジュンだよ。なんだ、覚えてないのか」

 思い出した。望と同じキタガワだが、向こうは東西南北の北に三本線の川で北川だ。その為出席番号は望の前で、クラスでは同じキタガワだと面倒だと彼は下の名前で、望は喜多川と呼ばれていた。彼の名は確か純粋の純一文字で、ジュンだったとそこで思い出す。

「ああ、ジュン君」   

 スマホを手で押さえ、声が向こうに聞こえないようにして小声で答えた。だがしゃがみ込んだままで様子が変だったからか、心配そうに望の顔を覗きこんできた。

 彼も絵里と同じく貧しい家の育ちで、確か母子家庭だったはずだ。よって中学を卒業する時も、高校には進学せずに働くと言っていたことを思い出す。

 それでも明るく、クラスではムードメーカーで人気者だった。望とは姓の読み方が同じだった為、彼から話しかけてくることはあったが、望の方から話しかけることはなかったはずだ。

 クラスのカーストから言えば、彼は上位で取り巻く男子や女子達もクラスの中心になるような子達が多かった。対して望や絵里達は、隅の方にいる地味で貧乏な女子だった為、近づくことが許されない空気だったからだ。

 いつの間にか、彼とその友達らしき七、八人に囲まれていた。望の手に持つスマホからは、怒鳴り声が漏れ続けている。その声は、同時に路地の向こうからも直接聞こえた。

 そこで何かが起こっていると勘づいた彼達の仲間の一人が、こっそり路地の向こうにいる絵里達の方を覗きこんだ。そうやってしばらく向こうの話す内容を聞き取ることで、状況を把握したようだ。

 ジュンは望にじっとしていろとジェスチャーで合図し、友人達と小声で話し出した。

「おい、あれ、どうする? どっかの組の奴らかな?」

「いや本職だったらあんな露骨な脅しはかけてこないし、騒いだりしないはずだ。おそらく雇われた下端だろう。捕まっても切り捨てられる程度の奴らだから、たいしたことはないと思うよ。巧のハッタリでいけんじゃないの? 人数はこっちの方が多いし。」

「そんなに上手くいくかな」

「敵に自分を大きく見せてゴールを守るのがキーパーだろ? いつもの巧ならできるさ。」

「あ、ああ、じゃあやってみるよ」

 冷静に話す男達と対照的に、怖じ気づきながら頷いている男を望はしゃがんだ状態から見上げて驚いた。気弱そうな声からは想像できない、大きな体をした黒人がとても流暢な日本語を喋っているではないか。

 タクミと呼ばれていた彼の逞しい体は、薄暗い中でも判った。しっかりとした筋肉がついている黒い肌をした腕は、一見して只者には見えない。

 ジュンにこんな友人がいたなんて知らなかった。そう思っていたら、その黒人とジュンが周りの男達を近くに集め、何やら打ち合わせをし始めた。

 ジュンの他にも同じ高校生らしい子もいたが、中には明らかに成人と思われる男達も混じっている。それでもグループの中では黒人の男の体が一番大きく、彼がリーダー格のように見えた。

「じゃあ行こうか。喜多川はここにじっとしていて。電話も切らないでそのままでね」

 ジュンの言葉に頷いた望を確認すると、黒人は先程までとは違った強面の表情に切り替えた。やがて先頭を切り、ジョン達と共に路地から出て絵里達に向かって行ったのだ。怖くて覗き込むこともできずにいる望の耳に、手に握ったスマホから男の声が聞こえた。

「ん? 何やお前ら」

 望を電話の向こうで脅していた男を中心に、なんだ、なんだと騒ぐ声がする。おそらくジュン達に向かって叫んでいるのだろう。だが彼らの声は聞こえてこない。

「あ? なんだ?」

 ドスを利かした声がする。おそらくスマホを持ったまま、向こうのリーダー格がすごんでいるようだ。しかし僅かに先程までの迫力より、トーンダウンしている気がした。

 少して、黒人らしき男の声が聞こえた。ジュン達の声は一切聞こえない。

「その女を離せ。こっちにも用があるんだ」

「なんだ、てめぇ。日本語が喋れるのかよ」

「は、な、せ、と言っているんだ。ここで誰かが警察を呼んだら、困るのはお宅らとその子だけだ。俺達には何の損もない。よく考えろ。どっちが得か。」

 黒人の男の迫力とジュン達の人数が勝っていたからか、絵里の拘束が弱まったようだ。彼女はジュン達の元に駆け寄ったらしい。黒人の男は怖いだろうが、絵里がジュンの顔を覚えていたら、自分を助けてくれると判ったはずだ。

「こら、てめえ、逃げるな」

 向こうの男達の声がした。けれど無言を貫くジュン達に守られているらしい。しばらく集団同士での睨み合いが続き、沈黙の時間が流れた。

「私のスマホを返して」

 絵里がそう言ったため、向こうの男が握っている携帯が彼女のものだと判ったのだろう。

「返せ。人のものを勝手に使うんじゃない。それだけで犯罪だ」

 黒人の迫力のある低い声が響く。それでも相手がなかなか渡さないのか、しばらく時間がかかった。だが結局向こうも諦めたらしく、スマホを返したようだ。

「最初からそうしてくれたら良かったんだ。じゃあな。あんたの上の方には、逃げられたとでも言っておけばいい」

 そう言い残した黒人は彼らから遠ざかり、望のいる方へと戻ってくるようだ。その様子は黒人がスマホを手にしても通話を切らずにいたため、手に取るように判った。

 後ろで絵里達に絡んで来ていた男達が、くそっと悔しそうにしながら行くぞと誰かがいい、遠ざかって行く声も拾っていた。

 しばらくして望のいる路地の近くまで辿り着き、後ろを振り向いて大丈夫だと確認した黒人とジュン達は、素早く望のいる場所まで駆け寄ってきた。

 絵里は望の姿を見つけ、驚いた顔をしていた。口に人差し指を当てて静かにするよう合図をした後、望は無事だった彼女に抱きついた。ホッとしてそこでやっと安心できたのだろう。彼女は静かに泣きじゃくり始めた。

「感動の再会もいいが、ここから早く離れた方がいい。サジの家に戻ろう」

 黒人が先程までの威勢は消え慌てた調子で言うと、ジュンが他の仲間に声をかけた。

「じゃあ、サジと俺と彼女達は先に戻るから。ああ巧も目立つから一緒にいた方がいいな。お前らはさっき言っていた買いだしを頼む。急いで来いよ。あいつ等の仲間が追いかけてきたら、すぐバラバラになって逃げろ。最悪、戻ってこなくてもいい」

「判った。行ってくるよ」

 他の男の人達は駆けだして路地を曲がり、反対方向へ走って行った。

「じゃあ、こっちだから」

 ジュンが路地の奥の方を指さす。望が坐りこんでいた時に、黒人達が歩いてきた方向へ戻るようだ。黙ってその後ろについて行き、着いた先のオートロック付きのマンションの一室へと望達は入った。

 そこがサジという男の家だという。今日は彼の両親がいないからという理由で彼の部屋に仲間が集まり、ゲームなどをして遊んでいたらしい。その途中でお腹が空いたから何かお菓子や飲み物を買い出しに行こう、と全員で外に出たところで望の姿を見つけたという。

 サジはあだ名で、名前を佐藤次郎さとうじろう、略してサジと呼んでいると教えられた。また黒人と思っていた人は飯岡巧という名の、日本人とブラジル人のハーフの父を持つ日本生まれ日本育ちの日本人らしい。

 ただお爺さんがブラジル人だから、厳密に言うとクオーターだ。隔世遺伝でこんな黒人のような顔をしているという。

「芸人でもそう言う奴がいるだろ。俺も英語なんか全く喋られないからね。というかブラジルの言葉は英語じゃないけど。それに見た目は怖いけど俺、本当は超ビビリだから」

 これは鉄板ネタらしく、流暢りゅうちょうに話す日本語に望と絵里も笑った。その後は無事買い出しに行った他の友人達が戻り、自己紹介をしながら楽しく時を過ごすことができた。

 ただ望と絵里がしていた話題になった時、きつく叱ってくれたのが巧だった。この日の出来事があってから、二人はその後危ないバイトを辞めた。これが彼との出会いである。

 しばらくは別の真面目なバイトをしながら、望達はジュンを介して巧達のグループと一緒に遊ぶようになった。その後ジュンは中学を卒業し、車の整備工場で働きながら夜間の定時制高校へ通っていたことを知る。

 あの時いた中には、同じ定時制に通う成人の社会人もいたようだ。ただサジや巧などはジュン達とは同じ高校でも、昼間の普通科に通う高校生と聞かされ驚いた。巧の風格から、望と同い年の高校生だとは思いもよらなかったからだ。

 絵里はその仲間達と仲良くなる内に、夏前にはジュンと付き合うようになった。しかし望が巧に好意を寄せるようになった高二の夏、彼は突然ジュン達と付き合うことを辞め、望達の前から消えたのだ。

 ジュンに聞くと、元々巧は幼い頃からキーパー一筋のサッカー少年だったらしい。しかし自分の限界を知り、高校入学と同時にサッカーから離れてサジのような帰宅部とつるんで遊ぶようになったという。そこでジュン達と知り合い、見た目の印象を利用して少しばかりやんちゃな遊びを覚えたそうだ。

 それでも彼はサッカーが忘れられなかったのか、今度はフットサルのクラブチームに参加し、そこで再びキーパーをやるようになったらしい。ジュン達はそんな巧を陰ながら応援しているという。

 そこで望はジュンに巧が所属するチームを教えて貰い、その練習や試合を見に行き始めてからフットサルというスポーツに嵌ったのだ。

 八千草にあるフットサルチームはとても強かった。国内のリーグ戦で何連覇かしている強豪であり、まだ若手の巧がレギュラーの試合に出ることはまずなかった。

 それでもチームのサポーターとして応援し続けたのは、いずれ彼がこのチームの正GKとして活躍し、やがて日本代表に選ばれるほどの逸材になるのではないかという希望があったからだ。

 巧は高校を卒業してもそのままクラブに在籍し、スポンサーである企業に就職した。望も高校を卒業して、彼と同じ企業の就職試験も受けたが採用されなかったが、別の企業への就職が決まった。

 そこで社会人として働きながら、家計を助けつつ彼のクラブを応援し続けていた。望はずっと巧の背中を追いかけてきた。やがて彼は強豪チームである八千草のクラブで第二GKの位置を獲得し、時折公式戦に出るようになった。

 彼の所属するチームの正GKは、日本代表選手でもあった。その為このまま頑張れば若い彼なら将来日本代表になる日も近く、W杯に出て活躍することも夢ではないとまで言われる選手に成長していったのだ。

 そんな彼を追いかけ続けていた望は、自分にはできない大きな夢を彼に託し、応援することで自分の夢を叶えようとしていた。もちろんそれだけでは無い。一人の男性として、好意を抱いていたことは間違いなかった。

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