輪廻の梯

@mayusaito

第1話 明暗を分ける


 夜遅く、だと曖昧かもしれない。

 午後10時56分34秒、だと少々細かすぎる。

 近所にある自営スーパーが閉まった頃合い、と称するのが適確だろう。


 そんな時間帯に少女―――夏野薪は遊歩道を歩いていた。等間隔に設置された電灯が頼りなく足元を照らす。

 薄い学生服に身を包む薪は、丈の短いスカートを皺が出来る程、強く握りしめていた。早急に藁だと心細いので防犯ベルあたりの縋るものが欲しい。

 塾帰り。持ち物はバックと中に入った勉強道具、充電の切れた携帯のみ。普段なら親の送迎付きで通っている塾だが、今日は残業が入ったとかで、一人で帰宅している途中だった。

 真夏とはいえ夜は冷える。首筋もだが、特にスカートと靴下の間の素足部分が辛い。ジャージズボンさえあれば周囲の目を気にせず履くのだが、運悪く今日は持っていない。

 今朝の晴天を恨んだ。ついでに爽やかな笑顔が評判のお天気お姉さんも恨みそうになって、それが空しい八つ当たりだと思い直す。


「はや……早く、帰りたい……」


 普段ならぺらぺらと回る舌も、今は語彙力崩壊したように身の丈を並べることしかできない。空を見上げても数分前に見た星空が広がっているばかり。


 ふと。

 思い出した。


 思い出してはいけないことを、思い出した。


 人間が退屈と恐怖を持て余した時、余計なことを思い出す生き物だということを失念していた。

 頭をよぎったのは今日、気の合う友人がぽろっと漏らした噂話だ。


『学校近くの遊歩道“出た”らしいよ』

『出たって、不審者が?』


『“幽霊”だよ―――長い髪を前に垂らした隙間から見える青白い顔の女性が錆びた包丁を握って夜遅く遊歩道を歩いている人を鬼の形相で追いかけるんだって』


 古典的な幽霊と東北地方の伝承が混じっているような、やけに具体的な説明をした友人のタイミングの悪さに心の中で中指を立てた後、薪は悪寒に身を震わせた。

 決して、寒さから来た震えではない。


 居る。

 “何か”の視線を背中が感じた。


 例えるなら、風呂場でシャワーを浴びる際によく感じる「あ、いるんじゃね」という得も言われぬ違和感。それに似た感情が薪の心を瞬時に占める。


―――うわぁぁああああぁぁぁああ!?


 ホラー映画や怪談話を見ない聞かない、とどのつまり恐怖に対する耐性が皆無な薪は、今にも走りだしてしまいたかった。

 否、全速力で駆けだしていた。

 もし背後にいたのが深夜徘徊を日課とする老人だったら彼女を奇異な目で見たかもしれない。

 それはない、と心の中で否定をする。

 理由は明白である。

 薪が走り出した途端、背後の“何か”も同時に動きを速めたのだ。明らかに“何か”は薪を狙っている。


―――ひいぃぃいいいいぃぃいい!?


 遊歩道は『遊』び『歩』く『道』ではなかったのか。スキップしながら帰れば追いかけられるはめにならずに済んだのか、なんて屁理屈を並べてもどうしようもない。

 恐怖に笑う膝を懸命に動かし、悴む両足を必死に鞭打つ。

 道脇に並ぶ柳が、夜風に吹かれ、薪の視界を遮らんとばかりに靡く。

 普段はけたたましく鳴き喚く虫も息を潜め、哀れな少女の末路を笑う準備を済ませている。

 薪はこの空間のすべてが、敵になったように思えた。視界の先には遊歩道の終わりが見える。

 あの信号さえ渡ってしまえば此方のものだ。


 不意に。

 足がもつれた。


「っ、あ」


 前につんのめる形で倒れる。抱えていたバックのお陰で腹部への衝撃はなかったが、微かな膝小僧の痛み。擦りむいた。少し火傷してるかもしれない。

 そんなこと、いまはいい。

 問題なのは倒れ込んだせいで、背後に居た“何か”が彼女に追いついてしまったことだ。

 既に“何か”が頭上から見下ろすような“視線”を感じている。

 今はコルクの敷き詰められた赤い道しか見えないが、少しでも上を向けば否が応でもその“何か”は視界に飛び込んでくるだろう。

 薪が上を向かずとも、“何か”がアクションを起こせば、それでお終い。

 何処からともなく鼻を衝く抹香。通夜で死者に手向ける線香の匂いに似ている。つられて短い人生が走馬灯のように脳内を流れていった。


 何の前触れなく。

 “視線”が消えた。


 代わりに耳に飛び込んで来たのは頭上からの「おりゃあ!」という勇ましい声。スニーカーが道を擦る音と、それから薪を飛び越えるように流れた風。


「大丈夫か?」


 久しぶりに自分以外の声を聞いた気がする。顔を上げれば、雪原の白兎を思い浮かべるような白髪の青年が居た。年は同じくらいか、やや上。青年は大量のブレスレットを付けた腕を差し伸べた。

 じゃらじゃら、と過度な装飾物同士がぶつかる音。


「どんくさいな、お前」


 青年は一向に動かない薪を見て、その視線の先を見て、理解したように「ああ」と声を漏らした。


「もしかしなくても“あれ”が気になってんのか?」


 青年が指差したのは透けている、浮いている、白装束着ているの三大幽霊的特徴を満たした青白く光る“何か”。 右手には錆びた包丁。切れかかった電灯の下、目を血走らせて此方を睨みつけている。

 幽霊だ。幽霊である。


「あれは悪霊じゃない」


 はい?

 首を傾げる。声に出さずとも、薪の言いたいことが分かったようで、面倒くさそうに頭を掻いた。


「この遊歩道で殺傷事件は起こったことがない。問題は遊歩道の先、飛び出した子どもが車で引かれた事件だ。お前、あのまま道路に飛び出してたら死んでたぞ?」


 青年の言葉を裏付けるように、遠くの方からけたたましいクラクションの音が鳴り響いた。


「あれはその子供の母親の霊だよ。自分の子どもと同じように車に引かれる人を見たくなくて、夜中に現れては忠告するんだ。方法は間違えてるけどな」


 圧倒的に間違えている。これでは追いかけられる側は逆に追い詰められて道路に飛び出してしまうのも仕方がない。

 天使が死神の鎌を持って登場並みの過ちだ。


「ちなみに東北出身」


 納得した。

 青年はゆっくりと“母親の霊”に近付く。危害を加える素振りは見せず、善意で包丁を持って追いかけまわしたのなら……やはり悪意はあると思う。

 青年は装飾過多な右手を“母親の霊”の眼前に突き出した。



「来世では、未練なく死んでくれ」



 微かに聞き取れる音量で、青年が呟く。あまりにも悲しそうな声を出すものだから、辛辣な横顔と相まって余計印象に残った。

 青年が手を振り下ろしたと同時に、夜風が青年の髪を揺らし、その風は“母親の霊”も靄のように消した。

 薪は遊歩道に自分が倒れ込んだままなのも忘れて呆然と見つめていることしか出来なかった。


「さぁて……となぁ」


 一仕事を終えたとばかりに青年が薪に近付いてくる。果たして青年を信じていいのか。薪の脳内で葛藤が始まる。


「何を、やっているの?」


 この場に居る薪と青年以外の、第三者の声が薪の後方から聞こえる。「げっ」と洩らした青年は薪に駆け寄って腕を持ち上げ、彼女を無理やり立たせた。強く引っ張られた腕が痛い。

 青年が慌てたように、薪の身体を確認する。


「大丈夫だな、怪我無いな。なら問題ないな」

「吽助」


 凛と、玲瓏の如く響く声が青年を咎めるように遊歩道に響く。振り返れば立っていたのは青年と似た白髪を腰辺りまで伸ばした女性。現代美術の結晶のように整った体系は同性の薪ですら息を飲んだ。美しい、その一言に尽きる。

 平安映画に出てくる陰陽師のような恰好の女性は、青年の事を吽助と呼んだ。ということは知り合いなのだろうか。


「吽助、先にたどり着いていながら、か弱い少女を道に寝かせて、手の一つも差し出さないとは。何時から心無い阿呆になったのかしら?」

「いや、あとでちゃんと起こすつもりだったし、現にほら?」

「帰ったら説教しなくてはね」

「……はぁ」

「あ、あの」


 空気を読まず、というより読んでいたらこのまま謎の二人組が悠々と帰ってしまいそうだったため、薪は恐る恐る手を挙げた。

 二つの切目が薪の姿を射抜く。


「あまりお喋りは得意ではないけど……なにかしら?」


 女性の威圧する声。暗に何も聞くなと告げている。だがここで引くほど、薪の肝は小さくない。

 聞きたいことは山ほどあるが、これだけでも尋ねるべきという問答は一つ。


「お二人の名前を、聞いてもいいですか?」


 二人は顔を見合わせ、薪に視線を向け、得意げに告げる。


「月下阿弥。14歳」

「月下吽助。同じく14歳」

「「よろしく」」


 月下で笑みを深める二対の白は、どこか遠い真夏の夢を嘲笑った気がした。

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