2話:ドルチェ・エ・ポーコ・リテヌート


「本日は、この辺にしておきましょうか」

「はい!ミハエル先生、ありがとうございます」

「シャロンさんは、覚えが早いですね。天国にいらっしゃるお母様も喜んでおられるでしょう」


 ミハエル先生は、ピアノを教えてくれるおばあちゃん先生。母さんのレッスンも、見ていたらしい。

 彼女は、毎回褒める度に母さんの名前を口にする。しかし、会ったことのない人の名前を言われてもピンとこない。


「……次の発表会、この曲を弾きたいです」

「おやおや、良いですとも。シャロンさんの実力でしたら、今からしっかり練習をすれば間に合いますよ」

「頑張ります!」


 あと1月ひとつきほどで、ミハエル先生が受け持つ生徒を集めたピアノのコンサートが予定されている。

 選ばれた人しか出れないのだが、僕は一昨年から欠かさず選ばれていた。

 今年も、どうやら出演OKらしい。先生は、こうやってこっちから聞かないと教えてくれない。

 今年もちゃんと出られること、早くロゼに伝えたいな。


「今年は、アーロンさんも弾きますよ」

「……へえ」

「ほほ。なんだか歓迎されていないですね」

「だって、あいつ……。ロゼのこと誘惑するんですもん」


 そうなのだ。

 父さん同士の仲が良くたまに家に来るアーロンそいつは、すぐロゼの前に跪いて甲にキスをしてくる。元々キザったらしいやつなんだけど、だからって普通そこまでするか?

 あいつは、「英国紳士の嗜み」なんてそれっぽいこと言ってはいるけどどうせ口だけ。僕と名前が似てるからって周りは面白がるけど、ちっとも笑えないよ!

 ロゼが良いなら僕も口出ししないが、なんて言ってもあいつはいろんな人に同じことをするんだ!「浮気」って言うんだろう?そんなの許せない!


「ほほ。可愛らしいではないですか」

「……」


 ミハエル先生は僕の顔を笑いながら、いつも持っている古びた革鞄に教本を詰め込み始める。

 あーあ、早く大人になりたいなあ。


「では、今回の宿題はハノン82から83ページの50番をスタッカートで。使う指は、譜面通りで。特に、左手小指を意識してくださいね」

「はあい、ミハエル先生」

「上達への近道は、毎日の努力です。いくら才能が合っても、それを無駄にするようなことはいけませんよ」


 僕の生返事を聞いたからか、釘をさしてくる。今日くらいはサボりたい、と思ったことがバレてしまったようだ。

 危ない危ない。しっかりやらないと。だって、僕はアルバート家を継ぐ者!


「では、また来週」

「ありがとうございました!」


 ミハエル先生が部屋からいなくなると、少しだけそこが広く感じる。

 ここは、グランドピアノ1台、ソファテーブルが1セットに壁に沿って楽譜が詰め込まれている棚だけが置かれた部屋。いわゆる、音楽室だ。

 防音壁で窓も二重という、完全防音の部屋。以前は、母さんが使っていたらしい。僕がピアノを習いたいと言った時は、父さん泣いて喜んだっけ。


「……」


 今使っていた楽譜を棚に戻すと、そこからは古臭い変な匂いが漂ってくる。

 湿気かな?棚の扉を全部開けっ放しにすれば、少しは違うかな?

 僕は、そう思って今開けた扉の隣から開け始める。そろそろ、あの人が来るんだ……。


「たまには、換気させないと……」

「坊ちゃん!それは私のお仕事です!」


 ほら来た。もう、すぐだよ。

 バーンと扉をあけ放ち、いつものメイド姿をしたロゼが予想通り入ってきたので、僕は思わず笑ってしまう。


「ロゼ!聞いて、今年もミハエル先生のコンサートに出られることになったんだ!」

「まあ!それはそれは。おめでとうございます、旦那様もお喜びになります」

「ロゼは?」

「私も、嬉しゅうございます。坊ちゃんのご活躍が、今から目に浮かんできます」

「それは早すぎる!また1ヵ月も先だよ!アーロンも出るんだって。……ね、ロゼ」

「はい」

「……今年も、来てくれる?」


 今もらった情報を話すと、ロゼの表情が一段と明るくなった気がした。無表情な顔は変わらないのだが、雰囲気といえばいいのかな。とても優しく柔らかいんだ。僕は、この瞬間が好き。

 僕は子どもだから、こういうところでしか恩返しができない。


「……ロゼ?」


 しかし、ロゼはいつものように即答をしない。


「ロゼ、どうしたの?」

「いえ、失礼しました。是非、坊ちゃんの音を私に聴かせてください」

「……うん!任せて」


 今のはなんだったのだろう?けど、すぐいつも通りの返答をしてくれる。

 ロゼが来るんだ。手抜きはできなくなったぞ!とりあえず、アーロンよりも可憐で優雅な音を……。


「さあ!坊ちゃんが頑張るのなら、私はこのお部屋の掃除に取り掛かります。坊ちゃんは、午後の剣術に備えてお部屋でお休みになられてください」

「うん、そうする。父さんからもらった本を読んで勉強しないと」

「ふふふ。坊ちゃんは向上心がお強くて素敵な方ですわ」

「まだまだ!僕は、父さんに追いつく……いや、追い越すまで止まらないぞ!」

「ええ。坊ちゃんなら出来ます」


 ロゼは、いつも「坊ちゃんなら出来ます」と言ってくれる。どんなに無謀なことでも。

 それが、僕にとってどれだけ救いになっているのか。彼女は知っているのだろうか。


「じゃあ、この部屋お願いね。僕は、勉強してくる」

「はい、お任せください。壁も床も舐められるほど綺麗に仕上げて見せます!」

「あ、いや。そこまでは……」


 と、本当にやりかねない。

 ロゼは、「では、後ほど」と言って腕まくりをするとズイズイと奥へ入っていく。

 それを見た僕は、やりすぎを心配しつつも自室へと戻った。


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