第20話 「鉄の稲妻」
脈拍が上昇する。どうしようもない胸のトキメキが、僕の体を壊すような気がする。
今、父親は法事で出かけている。僕は、あまりにも懐かしすぎるこの部屋から出ていくのには少し気が引けたが、立ち上がらない訳にはいかなかった。
震える指で、真理に電話を掛ける。
数回のコール音のあと、彼女は出た。
「もしもし? どうしたの? 急に」
「ごめん……迷惑かなって思ったけど、今、このチャンスを逃したら、後がないんだ」
「……うん。そういう、ここぞ! って時ってあるよね」
「……今がその時なんだ。何でか分からないけど、そういう気がする」
「うん。それで?」
僕も相当焦っていたけれども、彼女の方も何故か楽しそうだった。これから何か行動しなくてはならない。大切なのは、今この瞬間なのだから。今この瞬間を放棄してはいけない。
部屋の壁に掛けられている、昔からある古くて懐かしい鳩時計が、鳴った。その鳩の力ない声を聞いているうちに、僕の目からは、自然と大粒の涙が溢れ出してきた。
僕は最近、泣いていない。
どんなに感動する映画を見ても、僕は響かない。でも、今、この瞬間、色々なものが混ざった涙が溢れて止まらなかった。
けれども、ぐしゃぐしゃになった顔のまま、声色には出さないで、真理に伝える。
「今、実は群馬に居るんだ。父親のお寺の用事で、こっちへ来ているんだけど、会える?」
唐突すぎる、と自分でも分かっていた。
もしも……もしも自分が、幸せという物を掴んでも良いのなら、僕は今日、真理と出会うことを選ぶだろう。真理と出会って、終焉の音が鳴り響き、空が裂け、血の雨が降り注ぎ、鬼が『鉄の稲妻』を振り下ろし、鳥たちが死んで、音が死んで、人間どもが虫のように息絶えても、僕たちは……僕たちが築き上げたあの懐かしい青白い部屋で、一緒に外を眺めて、微笑むのだ。
僕は、必ずそうしなければならないのだ。
「……いいよ。なんか楽しくなってきた」
電話の向こうから、彼女の嬉しそうな声が聞こえてきた。
僕の胸の鼓動は、さらに高まり、
実の父親に迷惑をかけてでも、自分自身の幸せを勝ち取りたかった。
現実のしがらみを全て放棄して、元居た場所へと帰還するのだ。
この道は帰り道なのだ。
「……真理。今、どこにいるの?」
「……家だよ。前橋」
「……遠いね。僕は高崎だ」
「……微妙に距離があるね」
「……でも、距離の問題じゃない。大切なのは、会えるか会えないか」
「うん。会える。駅で待っていればいい?」
「僕は、今から、前橋駅に行こうと思う。でも、ここからだと、かなり時間がかかりそうだ」
「時間も、あまり関係ないでしょ?」
「ああ。そうだね」
僕は走った。走って、走って、息を切らしながら、途中で休んだり、歩いたり、靴を脱いで、足の裏を手でマッサージしたりした。
そうしてバス乗り場まで着くころには、一時間近く掛かってしまった。僕にはこの一時間が永遠に感じた。
今まで、過ごしてきた、どんな時間より濃厚だった。風の匂いの中に、ふと血の匂いが混じっているような感じがしたが、それすら神秘的だった。
コンクリートに咲いた小さな菫の花が、今まで見てきたどんな花よりも可憐で健気に見えた。
気が付くと、僕はバスに乗車していた。
そのバスは、高崎駅行きを告げると、ゆっくりと、発車した。景色が移り変わっていく。
僕は、前橋駅にちゃんと到着しなければならない。バスで移動している間、何度も、何度も、携帯が鳴り響いた。
真理からではなく、実の父親からの着信だった。でも、僕はそれを無視した。きっと僕が何も言わずに、家を出て行ってしまったことを心配しているのだろう。
面会中に行方不明ともなれば、警察へ捜索願を出されるかもしれなかったが、それでもかまわなかった。
今、あの実の父親とは会話をしたくない。
高崎駅から、両毛線に乗り換えて、移動している間、外がオレンジ色に染まっていることに気が付いた。
僕は人生の中で、こんなにも赤い夕焼けを見たことが無かった。何よりも赤い赤だと思った。その赤は、電車の中に、僕の黒い影を作り出していた。
涙で視界がぼやけた。車内を蒸気が包み込んでいるみたいだった。この電車は、凄まじい懐かしさへ向かっているのだと、僕は思った。
今まで、夕日が赤いなんて思ったことは人生の中で一度も無かったけど、たった今、それを鮮明に感じている。
ふと、僕が幼稚園児だった頃を思い出した。僕は皆と一緒に遊んでいる。しかし、なぜか分からないけれど、誰かとケンカになってしまった。殴り合いのケンカになった。
僕は悲しくて、悲しくて泣き続けた。
家に帰ったら、母親がいたので、今日起きた嫌な出来事を報告すると、やさしく抱きしめてくれた。そんなことも、あったよなぁ。
この頃の母親は人だった。
そうして、再婚を期に、母は人を脱いだ。
「人」は、時として鬼に変貌するのではない。
「人」を脱いだ時に初めて鬼と化すのだ。しかし僕は、人の脱ぎ方を知らない。鬼が「人」という服を着ている限り、世界はこんなにも醜悪になんてならない。
鬼よ。脱ぐなよ、人を。
鬼よ。なぜ最初の一匹が「人」を着たのか考えろ。今一度、思い出せ。
鬼よ。いまこそ、自分が「鬼」であると自覚しろ。「人」の脱ぎ方を覚えるな。
鬼よ。お願いだから、僕に関わらないでくれ。
辺りは、もうすっかり暗くなってしまった。前橋に着いたとき、僕は少し疲れていた。けれども、もしかしたら真理が……いや、ほぼ確実に真理がいるのだと思うと、僕は嬉しかった。
そう言えば、僕は彼女の顔を知らない。そうして彼女も、僕の顔を知らないはずだ。
会えるのか?
という疑問が僕の心に浮かんだ。
ひんやりとした空気が、僕の頬に当たって、少し不安になった。その不安を抱えたまま、僕は改札を抜けた。けれども、その不安は、すぐに払拭された。
同い年くらいの少女が僕をジッと見つめている。まるで何かを確かめるように。
その眼差しを目にしたとき、僕は、あの夢で出会った四本腕の少女のことを思い出していた。彼女は確かにあの少女に似ている。
「……あ、あの、もしかして」
と、僕が緊張の声色で声を発すると、彼女は嬉しそうな表情をした。
「……ごめん、自分勝手なことして、わざわざ来てもらって」
僕が言うと、彼女は感極まって泣き出した。
「……どうして分かっちゃうんだろうね。どうして、今、世界で起きている色々なことが、こんなにも私たちには分かっちゃって。それで、私たちがどんな風に過ごしてきたのか。それも、もう、ぜんぶ思い出したの」
僕は静かにうなずいた。
彼女は、静かに僕に抱き着いた。
「……真理、回収は難しそうだ。ごめん。だって、僕たちが打ち上げた、あの石板は、どうやら、エジプトに落ちて、今はエリア51に回収されちゃっているらしい。もう、僕たちじゃ受け取ることはできない」
「だいじょうぶ。だって、頭で覚えているでしょ。世界の構造、今まで過ごしてきた時代に何があったかって」
「ああ、覚えている。でも、失敗かな」
「うまく人を着こなせない鬼さんが、たくさん、今もいるみたいだね」
「鬼であることは、いけないことじゃない」
「人を着ることが、大切なんだよね」
僕は静かに頷いた。そうして、次にしなければならないことを思い出し、行動に移す。
僕は悠人に電話を掛けた。
「……はぁい、どうしたん?」
という眠そうな声が電話口から聞こえた。
「悠人。落ち着いて聞いてくれるか?」
「うん」
「何を言っても信じる?」
「場合によるけどね」
「……じゃあ、話すよ」
「はぁやぁく」
「……近いうち、世界が終わるんだよ」
「えっ」
「やっぱり信じない?」
「いいや、そう言われると、信じない訳にはいかないなぁ」
彼は思いのほか楽しそうだった。彼は、もしかしたら、自分の死というものを、もう受け入れているのかも知れなかった。
「まあ、厳密には今日じゃないかもしれない。でも僕たち、いつか話し合ったね。、全人類を皆殺しにして、この地球の腐敗した歴史を、白紙に戻したい。とかって」
「ああ、話した」
「それが、起こりそうなんだよなぁ」
「へぇ。なんかちょっと、怖くなってきた」
「正直だなぁ。悠人は。まあいいや、最後に声が聴けて良かったよ」
「ちょっと待てよ。俺はまだ何も聞いていないよ。どうしてその結論に至ったのか」
と、悠人が言う。確かに教えていなかった。僕と真理は、ついさっき、思い出したのだ。
悠人は、生まれた時から前世の記憶があったと言うが、僕らは違う。僕らは、たった今、思い出したばかりなのだ。
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