第19話 「旅行」
当日になってから僕は簡単に荷物をまとめて、実の父親の家へと出発した。法律上では、面会ということになっているらしい。僕は離婚してすぐの頃、母と一緒に元々住んでいた家を訪ねに行った日のことを思い出していた。あの日はよく晴れたいい天気だった。安いアパートでの母子家庭生活にも慣れ始めてきた頃で、何かの用事で、前住んでいた家を訪ねたのだ。幼い日の僕は、長い間慣れ親しんだ家に一日だけでも帰れるのだという期待と緊張に包まれた気持ちで、玄関の前に立った。けれども、鍵が変えられてしまっていて、すごく残念な気持ちになったのを覚えている。きっと父親が、母と僕を勝手に家に上げないために鍵を交換していたのだ。僕はとてもガッカリし、母は非常に取り乱していた。
けれども今回は、あの日、あの時入れなかった玄関のその向こう側に、僕は招待されているのである、ふんわりとした期待と数ミリの不安感。あとそれと……母親に対する優越感のようなものが心にあった。そういった感覚を抱えて、僕は湘南新宿ラインに乗った。
一人での帰路は本当に心地よかった。
車窓から流れる景色が、だんだんと田園風景に変わっていくのを見て、ほとんど瞑想状態とも呼べる感覚になっていた。ぼうっと風景を眺めて、電車の揺れを感じると、こうして一人で旅をするというのも、まあ悪くはないな、と感じる。
改めて自分の人生にとって「孤独」というものが、いかに重要であるかを再確認する。
つかのまの孤独は人生を豊かにしてくれる。
孤独は、群れて街を行きかう人々の雑踏に汚された心を、みごとに洗ってくれる。涙のようでもあったし、清らかな真水のようにも思えた。
もはや団体種目と変り果てた人生の中で、個性は刃物でしかないんだ、と悲しくなる夜がある。それで、みんなその刃物を隠そうとしている。
他者を傷つけないためではなく、自分を傷つけないために、みんな自分の刃にあった鞘を必死にみつけようとしている。
僕のように、個性が他者を傷つけ、そうして自分を傷つけ、刃が血で錆びつき、鞘も見つからない。そんな状況を洗い流してくれる唯一の涙が、孤独だった。
僕は、どこまでも透き通った広い青空を見つめ、近くをビュンビュンと高速で過ぎ去る草木をぼうっと眺めながらそんなことを考えていた。
もう戻れない懐かしい幼少期と、その日々を過ごしたあの家に、あのお寺に、思いを馳せながら、揺れ、目を閉じた。
終点の高崎駅で、僕はやっと目を覚ました。乗客が荷物をまとめて、わやわやと降車を始めている。僕はその流れを見つめて、人が引いてきた頃に降車した。駅のホームはシジミの貝殻のような濃い灰色をしていて、僕はこの色を見ると、高崎駅に着いたんだなという実感がわくのである。
それから、ああ、このホームを歩く人の中に、真理ちゃんがいてくれたらなあ、と思ってみる。彼女が住んでいるのは群馬県ということだったから、もしかしたら高崎駅も使っているんじゃないか、それで、偶然バッタリ出会って……みたいな安いメロドラマのようなことは起こらないか。そんなことを考えていた。
高崎駅のバスターミナル近くで、父親が待っていた。僕はその姿に気が付いて近づいた。僕は、父親が新しい車に変えていたことに気が付いた。
「久しぶり」
と、父親は言った。その口調からは、まるで友達に話しかけるように軽いものを感じた。
またそれと同時に、ほんの少しの緊張を感じさせるものだった。
「車、変えたんだね」
と僕は言った。
「まあ。プレートも高崎ナンバーで」
ロゴを確認する。ベンツだ。なんて高級な車なんだろう。と僕は思う。僕は父親の車に乗る。扉を閉めると心地の良い重量感と繊細で静かな音がした。
車の中は、しばらく無言が続いている。ミラーにはっきりと映った父親の瞳。その目の中の表情から、なぜだか罪悪感に満ちた視線を感じる。
「学校、どうなん」
と、父親が問いかけた。
「まあまあかな。成績も、そんなに悪くはないよ」
「進路は順調?」
「実はまだ考えていない。四年制の大学に行けたら一番いいんだけど」
「頑張りなね」
「うん」
街並みが一層、田舎になってきた。車が進むたびに、なつかしい景色が窓の外を流れて、昔の思い出がよみがえってくるようだった。僕は頬杖をつきながら、車に揺られているうちに真理ちゃんの声がよみがえってきた。
そのうち会えたらいいね。
顔は知らなかったが、彼女のことを想像すると、なぜかいつも四本腕なのである。その、四本の美しい腕のことを考えているうちに、脈拍が上がってきた。すごく楽しい気分になって、全身の血が躍るような気持ちだった。
車の匂いを嗅いでいるうちに、そのトキメキはどんどんと色を増してくる。父親は昔、家族の前で、タバコを止めると宣言していたのだが、高級車の中に張り付いて取れないメンソールの匂いがあった。タバコの空き箱がある。十ミリのきつい匂い。
嫌悪感は全くなかった。
今の父親の、本質的な考え方の違いに比べれば、まったく嫌悪感は、ないものだった。
家に着いた。昔の家だ。ベンツが、砂利道を通って敷地の中に入ると、立派な本堂が見えた。以前見た時よりも、それは大きく感じた。
扉を開けて、外の空気を感じる。
僕は東京の荒んだ匂いもけっこう好きだったが、やはり田舎は断然に空気がいい。のどかな感じがするし、心地いい。今日はいい天気だから星が奇麗に見えるだろう。春の夜の匂いを感じながら、星を見たいと思う。欲を言えば、隣に真理ちゃんがいてくれればもっと良いと心底思う。
そんなことを考えつつ、僕は荷物を取り出して、昔の家に入る。胸が躍る。以前、合鍵を使っても開かなかった扉がいとも簡単に開き、その中に僕は今入ることができる。
懐かしい匂いがした。
壁は砂刷りで、以前よりもやや変色し黄土色が濃くなっている。そこには銀色のワイヤーで吊るされた絵画がいくつか飾られてある。昔は体が小さかったから、いろんなものが大きく感じられたけれど、実際はそうでもないみたいだ。
飾られている絵画はほとんど抽象画で、B4サイズくらいだ。家の匂いとその抽象画から漂う独特な雰囲気を感じているうちに僕は恍惚状態ともいうべき感覚になっていた。
父親は、このあと法事があるからと言って、僕は昔の家に一人で残された。ソファーに腰を掛けてしばらくゆったりとした時間を過ごしていた。
窓の外が、まるで時が止まっているかのように見える。青白い幻想的な光が僕の眼球の中に染み込んできて、それと同時に、ソファーの感覚と自分の体の輪郭の感覚があいまいになってきて揺らいできた。目を瞑って時間の流れの匂いを嗅いでみたり、昔の記憶をたどってみたりする。こんな静かな時は、隣にマリちゃんがいてくれたらと思う。そういう願望が湧き上がってくる。マリちゃんが隣にいて、スピリチュアルのことを話しながら、一緒に飲み物を飲むのだ。それはたぶんモンスターエナジーなんだろう。乾杯して、それで桜の花びらを見ながら、うっとりとしてこの腐敗した時代を忘れるだろう。
例えば今、外に巨大な鬼が現れて、金棒を振り下ろし、鳥たちは死んで、音が死んで、終焉の音が流れたとしても、僕らがいるこの部屋の世界だけは無事なのだ。僕らはそういう運命をたどる定なのだ。
そう思うと、どうしても、何か行動を起こさない訳にはいかなかった。
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