第17話 「学校と鳩」
しかしいくら胸が躍っていても、次の日には学校がある。
教室に着くと、とたんに体がだるくなる。
つくづく教室は監獄だと思うし、この狭い鳥籠のような密室に詰め込まれて、一律に決まった水準の教育を受けなければならないと、そう考えると、昨日まで高鳴っていた僕の胸はたちどころに覇気を失った。やる気が失せるのを感じる。
三十人には、三十人のバッググラウンドがある、にもかかわらず、だ。
例えば、今、前の席で落ち込んでいる高橋君について言えば、一週間前に祖父を亡くしたばかりだった。彼の両親は共働きで、思春期は祖父母の家でお世話になったそうである。だから、祖父を六十五歳という年齢で、突然、心筋梗塞で亡くしたのは、高橋君にとって非常にショックだったらしく、まだ立ち直っていない様子がうかがえる。
例えば、鈴木さんについて言えば、女友達から嫌がらせを受けている。
机の上に落書きを見つけた彼女は、激怒し「誰だよ! こんなことをした奴!」と言って机を蹴り飛ばした。衝撃音に、教室にいた人たちが静かになって、鈴木さんを見た。
机の上にあった筆箱は、ふたが開いていたので、中身のペン類が飛び出した。
「最悪!」と彼女は言う。
転がったシャーペンや、消しゴムたちが高橋君のところまで転がってきた。彼は、焦った様子で、彼女のペン類を拾う。鈴木さんは、高橋君から、それを受け取った。お礼も言わず、むしり取るようにして取り上げたから、高橋君は「チッ」っと舌打ちした。
「俺の心境も知らないで」小声で彼は言う。
「はあぁ」大きく彼女はため息をつく。「私のこと、誰も理解してくれないんだ」続けて彼女は言った。彼女にどんな背景があるのかは僕も知らないが、相当、頭にきていることがあるらしい。
ガラリ、と扉が開いて、担任が入ってきた。
担任の稲村先生は、五十代後半の女性教師で、国語を担当している。「教員というのは、事務仕事ですから」と「我々も、給料をもらっているので」がいつもの口癖だった。でも仕事ができるわけではない。
扉が開いたので、空気の循環があり、窓から暖かい風が吹いてきた。
窓は開いていた訳ではなく、割られていた。
割ったのは、木村君だ。木村君は父親が、自衛隊だったから、自衛隊を尊敬していて、自らも目指している。ところがある日、社会科の授業の時に、柿本くんと意見が食い違った。集団的自衛権の行使容認について、賛否が分かれたのだ。柿本くんは、両親が日本共産党員だった。最初はただの口論であったが、いつしかヒートアップして、つかみ合いの喧嘩になった。
お互いが目に涙を浮かべながら、罵りあっていた。また、罵倒は苛烈を極め、
「自衛隊は人殺しなんだよ!」
「チョンばかりの反日無能集団めが!」
となり、つかみ合いの喧嘩になった末、柿本くんの頭が窓ガラスに叩きつけられたのだ。
豪快な音と、悲鳴が交じり合ったのを見て、僕と悠人は、
「いやぁー、今日も荒れていますなぁ」
「浩二くん。あれが所詮、人間だよ。飛行機は、両翼が無いと飛べないのに。そのことを分からない人類は、やはり無能だったんだ」
という話をしたのを覚えている。
今やその窓から、清々しい風が吹いてくるから、あの二人は、現代の封建的な学校制度に突破口を切り開いてくれたのだと、僕は勝手にそう思っている。皮肉なことに。
いつの日か、その窓からハトが侵入してきたことがある。
「平和の象徴だ」とか悠人が言って、笑っていたが、そのハトは教室にフンを残した。
「見ろよ、柿本、ハトはフンを残すんだぜ」と誰かが彼に言って、柿本君がうつむいたから、僕は黙っていられなかった。柿本君に近寄って、耳元で、
「大丈夫、タカもフンは残すよ」と助言したが、彼は聞いていないようだった。
また岸野君は、幼い頃に両親から虐待を受けていて、孤児院に入っていたし、シャーリーさんに至っては、親戚が紛争で死んでいる。
そうして誰も、そのような自分のことについて語ろうとはしないから、はた目から見れば、このクラスは『普通』のクラスなのだ。木村君と柿本君のケンカは非常に稀なものだったし、だいたい偏差値の低い高校というのは、そういう大小の問題があるのは当然と言えば当然である。
僕はそのように多くのバックグラウンドがあるのにも関わらず、生徒を一括りにして教育する制度に半ば憤りを感じていた。そのことを悠人に相談したことがある。彼は、
「アッハッハッハ。まあ、所詮、人間だし、教育だし、そんな怒るようなことじゃない。人間っていうのは、もちろん俺や浩二くんも含めて、そんなに賢い生き物ではないからね。まあ、俺は、このクラスの奴らを内心では、サルより下等な生き物だと思っているから、いや、このクラスだけじゃなくて、世界中の科学者や、宗教家たちもサルより下等だよ。自分たちが滅びることしか考えないんだ。自分たちでも知らない間に、お互いが、お互いを自滅に追いやっている。それを前提にして考えな。だいぶ気楽になるから」
と、そんなことを言っていた。僕は、それを聞いて「お互いが、お互いを自滅に追いやっている具体例」を聞いてみた。
「科学者は核兵器を作ったし、宗教はたびたび殺し合いの戦争に発展する。右と左はケンカばかりだし、豊かな日本でもイジメや虐待が無くならないのは、人類は、互いに滅亡させあう遺伝子が組み込まれているのかもしれない」
と回答が来た。僕はその話にただ頷いた。半分、僕は悠人の信者かもしれなかった。それから彼は、また続きを話始める。
「仏陀はなかなか悟りを開けずに、弟子に見放されたし、キリストに至ってはユダに裏切られて、十字架に張り付けられた。アインシュタインは騙されて、サインを書かされて、それで、自分の理論が原爆に使われた。それに……あとは、手塚治虫が若い頃は、原稿をトイレの紙に使われたことすらあるらしいな。ああいう人たちだって、それくらいの苦労はあったんだ。俺たちが人生を嘆くのは、ある意味当然なのかもしれない」
悠人は、薄い笑みを浮かべている。波に乗ってきたのか、それから呟くように話を続けた。
「つくづく世界が醜悪に見える。俺たちが、ゴキブリを見るのと同じように、神様も含めた人間以外の生き物は、俺たちをゴキブリみたいな存在だと思っているのかもしれない。でもそれは全然ネガティブな意味じゃなくてさ、当たり前なんだよ。そう思うと、世界を生きるのが、本当に……本当にだいぶ楽になるな」
ネガティブな意味では無い、と言いながら彼は少し寂しそうな表情をしていたのを覚えている。いったい何が、僕たちをこのような思想に染め上げたのか、僕たちは当然、どこかの宗教の信者ではなかったし、教祖らしい教祖もいなかった。にも関わらず、まるで教典でもあるかのような思想を、知らず知らずのうちに確立させてしまっていたのだ。
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