第14話 「桜の花」


 休み明け、学校へ行くと悠人が髪の毛を切ったことに気が付いた。以前まで彼は髪が耳にまで掛かるさらさらマッシュルームヘアーであったが、今はさっぱりとしていて、涼しげだった。制服ともよく似合っている。

「髪切ったんだね」と僕が話しかけると「ああ、切ったというか切られたというか」彼は前髪を気にしていた。

「いいじゃん、僕なんかくせっ毛だから」

「よく言うよ。地でその髪型はうらやましい。ワックスがなしだ」

 そんな会話をして、僕らは席に着く。こうして一日が始まる。

 一時間目の授業は社会科だった。担任の原先生の授業で、農村社会学をテーマにした世界の食文化についての授業だった。パワポのスライドを使った授業だから、字が多くてノートを取るのは非常に難しかった。内容は、食文化の構造主義的側面から宗教との関わりについてアプローチするものだ。高校の授業でこのように難しいテーマを取り扱うのかと苛立ちをおぼえたが、途中で原先生の持論が展開したから耳を傾けた。

 曰くイスラムなら豚肉、ヒンドゥーなら牛肉を食べないという食文化は、もともとその土地の気候に豚や牛が適していなくて、無理に食べようとすると生態系に影響を与えるなどの悪影響があったかららしい。宗教的な思想から食のタブーが生まれたのではなく、食のタブーの種類によって宗教が決定したという理屈のようだ。

 ニューエイジ思想にどっぷり浸っている僕にとっては、そんな馬鹿なことは無いだろうと思ったが、よく考えれば合理的なように感じられた。

 二時間目の授業は数学で、三時間目と四時間目の授業は家庭科の調理実習だった。

 調理実習では、ミートソースを作る際に、豚肉が使用された。僕は、屠畜されていく豚たちのことを考えながら、ひき肉をヘラでかき混ぜた。すると「可哀そう」という感情になったため、食のタブーというのは、宗教上の理由や、先ほどの構造主義的な側面からどうのこうのという訳ではなく、単に「可哀そう」だからという理由で生まれたのではないかな、と思えてくるのであった。

 イスラム教徒のシャーリーさんが一人、豚を食べることができなかった。

 その後、六時間目まで授業が終わり、放課後の教室に生徒が数人残って、お喋りをしていた。話題の中で、シャーリーさんが豚を食べなかったことについて触れられた。

 男子生徒たち数人が、イスラム原理主義について「あの思想は危険だ」と言った。僕と悠人は耳を傾けた。「イスラム教徒は爆弾を抱えている、テロを起こすから危険だ。シャーリーさんにも近づかないほうがいい」と話していた。僕は、この学校ってそんなに偏差値の低い学校だったっけ? と感じたが、偏差値と人間性に相関関係を持たせるのは良くないと思った。が、やはりそれでもイラッとして、心無い男子生徒の間違えを正そうと思って、声を掛けた。

「それは違うよ。まず。イスラム教徒とイスラム原理主義は違う。そして、テロリストと原理主義も同じじゃない。一部の頭のおかしい奴らがテロを起こすんだ」

「お前も頭おかしい奴なんじゃないの? だってあれだろ、お前もこの前、実家は宗教法人だって言っていたじゃないか」

 確かに言った。魚地原寺の土地は、家族が管理しているというよりは宗教法人として管理していた。だから本堂を立てるときの莫大な金額は、檀家さんたちから募金という形で募った。という話を、社会科の授業の時に、発表した。

「お前、気をつけろよ。あんまり変なこと話していると、射殺されるぜ」

 と皮肉っぽく言われて、笑われた。僕はげんなりする。ため息をついて窓の外を見ると、西日が入り込んでいる。もうこんな時間なんだと思って、帰ろうとした。その時だった。

「仏教とイスラム教は違う。勘違いしていないか?」

 悠人の声だった。僕を弁護するために出現したのかもしれなかった。

「どっちも合理的じゃねえだろ?」

「どっちも危険じゃない」

 しばらく彼らは、にらみ合っていた。見かねて僕は悠人に話しかけた。

「僕のことなら大丈夫だよ」

 その声が、悲しく静かな教室に反響した。

「お前、母さんがイカれちまったんだって? もう有名な話だよ。何がクリスタルだよ! 何が前世の記憶だよ! くだらねぇな。そんな地に足がついていなようだから、社会不適合者って言われんだよな。もっと現実みろよ。地に足つけろよ」

「言い過ぎだよ、お前ら」

 僕は怒鳴る。辺りになにか嫌な空気が走る。悠人は表情ひとつ変えなかった。

「いいんだ。浩二くん」

 誰かにスピリチュアルな話をした訳ではなかった。それなのに何故か彼らに、僕たちの思想が知れ渡っているのは、きっと僕らの話に聞き耳を立てていたからだ、と思った。

「岸野に聞いたよ。お前ら、全人類を皆殺しにして、この地球の腐敗した歴史を、白紙に戻したいんだってな。そんなこと、させねぇよ」

 確かにそんな話もした。人類が腐っているという話も、いつか悠人と話した記憶がある。

 まさか、盗み聞きされていたとは知らなかった。

「聞かれていたんだね」

 悠人がうつむいた。悲しそうな声色で、話を始めた。

「……分かった。意味を話すよ。実を言うと……俺と浩二くんは、あのときオウム真理教について話をしていたんだ。教祖の麻原はどうして地下鉄サリン事件を起こしたのか、なぜあそこまで悟りを得た人が、あんな醜悪な事件を起こしたのか、ってね」

 そうだった。僕らはそれについて、教祖の麻原が途中までマトモだったことについて話したのだった。思想を調べる限り、彼らの超越瞑想の手法は遥か昔から伝わる伝統的で、しかも正当な手法といえた。なのに、なぜ、あんなことになったのか。

「エゴに囚われたんだ。きっと、麻原は途中で、自惚れた。信者から慕われて、妄信して、自分がやることは全部正しいと、そう思ってしまったんだよ」

 悠人の淡々とした話に、男子生徒は、「何が言いてぇんだよ」と吐き捨てるように言って、僕らをにらんだ。

「……つまるところさ、本当は誰にでもあるんだよ。こんな世界、消えてしまえばいいって感情はさ。世の中見れば、分かるでしょう。こういうのは倫理じゃないんだ。単なる感情なんだ、分かるかな、全人類を消して、もちろん俺らも死んでさ、地球は再び白紙になるんだ。奇麗になるんだよ。そういう夢を、俺らは抱いた。でも俺らにはそんな力はないし、もし、仮に人類を皆殺しにできるほどの力を持ったとして、そこでグッと我慢できるかが本物と偽物の違いなんだ」

「やっぱりコイツら危険だぜ」

 男子生徒のうち一人が言う。僕はガッカリした。悠人の話が彼らには通じないようだった。きっと彼らも、自分らの感覚こそが正しいのだと思っているに違いない。

 人を蔑むことに意味はない。かといって、何かを激しく妄信することにも意味はない。

 結局、世界に意味はない。

 その側面では、人々で溢れかえったこの腐った世界も、実はまだ白紙のまま変わっていないのかもしれない。腐敗もないし、かといって美しくもない。あのやりとりも、とりわけシビアなものではない。ただの生物と、生物どうしの幼稚なコミュニケーションの一つ。

 例えどれだけ不謹慎な話題を口にしたところで、結局はぜんぶ単なる音に過ぎない。その音に含まれる微かなニュアンスを人々は読み取れない。

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