第13話 「輪廻転生」
その時、フローリングの板の隙間から、ゴーっという音がしていることに気が付いた。僕はハッとした。そうだ、この音。この音の正体は何なのだろう、と思って少女に尋ねようとしたけど、突然、何かを言わないといけないような気がして、焦燥感に駆り立てられて、僕の口からは、
「マリ……すでに到達した。そのうち僕らで、受け取ると思う。成功だ。ありがとう」
何故そんな言葉が口から出たのか、自分でも理解できなかった。初めてトーマヨと話をしたときも、どうしてか『鉄の稲妻』という言葉が口から出た。それは僕の全く意としていない言葉で、誰かが僕の体を乗っ取って、しゃべらしているみたいだった。
やがて僕の体は奇妙な高揚感に包まれ、頭の中で強く、そして騒がしく、
・輪廻のサイクルは、必ずしも前世の一人格のみで行われるものではない。
・無数の魂が、霊界で混じりあってこそ、初めて生まれ変わりが許される。
・熱力学原則と同じよう、人間の魂にも、エントロピーの増大は適用されるのだ。
「マリ、到着したんだ。あとは僕らが見つけるだけ」
僕は真剣な表情でそう彼女に伝える。ハッキリと伝える。でもそれは僕の意思ではない。
「……うれしい、よかった」
少女は安堵したようだった。ホッとして、トロンとした目つきになって、上目遣いをしながら僕に抱き着いた。四本の細い腕が、僕をギュっと抱きしめる。
驚くほどリアルな感触だった。なぜ、自分はこんな奇妙な待遇を受けているのだろうか。少女の息遣いが耳に入る。どちらかの鼓動が胸に伝わる。顔が近くてその澄んだ瞳や白い肌や整った目鼻立ちが僕の目に映り込む。
「まってね、今、チャネリングを始めるから」
抱き着いたまま、彼女は僕の額に自分の額を当ててきた。その瞬間、視界が揺らいで明晰夢が普通の夢に変わってしまった。物の輪郭がぼやけて、少女の華奢な体がぼやけて、体に布団の感覚がだんだんと戻ってきてしまったのだ。
「じゃあね。私……多分、現実の世界にもいると思うから。よかったら見つけてくれると嬉しい。待っているよ。きっと」
去り際に聞いた言葉を僕は忘れなかった。きっと見つけてやると心の底から決心した。
それは、これから、この世界で、この腐敗した現実の世界で、僕が今を生きる糧になりそうだ。たとえ幻想であっても、追い求めている瞬間こそが幸せなのだ。結果などどうでもいい。過程こそが問題だ。
僕は完全に夢から覚めて、自分の部屋へと戻っていた。でも、すぐに起き上がらずに、僕は心の中でいつまでも自問自答を繰り返していた。
金は墓場までは持って行けないというのに、なぜ資産家は金を求めるのか。
肉体はいずれ滅びるというのに、なぜボディービルダーは筋肉を鍛えるのか。
いずれ、永遠の別れが来るというのに、なぜ人々は愛し合うのだろうか。
さしずめそれは、過程を楽しむためのプロセスのはずだ。結局全部、道のりに過ぎない。結局全部、過程に過ぎないのだ。ラスボスを倒すこと、それ自体に意味はない。倒すまでの道のりを楽しみ、仲間を集め、力をつけ、そうして挑み、それから倒す。それだけなのだ。
死後の世界だってそうじゃないか。人は死という結果に向かって突き進んでいる。けれど、たぶん死後エンマ大王から評価されるのは、何を成し遂げたかではなく、どう生きたか。のはずではないか。
というような結論にまとめあげて、僕はその考えも含め、ぜんぶ夢日記に綴っておいた。少女と何を話したか、何を見たか、本に書かれた内容はどんなものだったのか、等をできるだけたくさん書いた。ので、ノートはすぐに真っ黒になった。でも、それが心地いい。
丸い掛け時計の針が六時半を示している。おおよそ三時間、夢を見たことになる。
部屋の外を確認する。母親はいない。ラインのメッセージを見ると、今夜の夕飯はないからどこか適当なところで食べておいて、とされていた。母親からだった。僕は、すぐに着替えて町へ出た。
そういえば昼寝をする前に、家系ラーメンを食べる妄想をしたかな、と思い、僕はラーメン屋に足を運ぶことに決めた。あの脂っこいスープを売りにしている店は、家から徒歩で二十分くらい歩いた場所にある。程よい距離だと思う。歩きがてら風の匂いを感じることができるし、外はいい感じに暗くなっているから星が見える。
空気が全体的に紺色だった。もしくは暗い水色か灰色。僕はこの空気の色がとても好きで、たとえば道行く人々の顔がハッキリとは見えないところとか。そうしてたぶん僕の姿も、通行人からは見えにくいところとか。いることは分かるのだけど、表情がハッキリとはしないのは、おそらく日の当たる世界にも同じことが言える。誰でも表に見せている表情というのは相手との波長を合わせるためにやや妥協した姿だ。本当は、自分の波長こそ心地が良いものだと思う。たとえば僕の目の前には自販機があって、僕は缶コーヒーを買いたくて、財布から百円玉を取り出し、一つ買う。この作業は、人と並んで歩いている時には、相手を気遣ってためらいが生じる。そういうことだ。
僕は歩きながら缶コーヒーを飲んで、次に見えてきた自販機の横に設置されたゴミ箱に捨てた。中身はあまり汚くは無かった。
夜の街に設置されたラーメン屋に一人で入って、頼んだ塩ラーメンを僕は無言で食べていた。店の窓は締め切られていて、外の空気を感じることはできない。濃厚な匂いが店内を包み込んで、むわっとした空気がぐるぐると渦巻いている。
去年、悠人と綾瀬のラーメン屋に行ったとき「体に悪そうな食べ物ほど美味しいんだよ」と話して笑ったことがある。体に悪いものほど、人間の舌に美味しく感じるようになっている。これもそうだ。まるで飽和しているんじゃないかという程の食塩の量に、廃油でも喰らっているんじゃないかという程の油の量。この毒々しい感じがとても良い。僕は、最後の一滴まで残さずに平らげて、セルフサービスのお水をがぶがぶと飲んだ。
食べ終わってからの帰路は、食べる前の道のりよりもだいぶ夜風が美味く感じた。腹が膨れていたからかもしれない。自販機を見つけて立ち止まったけど、何か飲み物を買う気にはならなかった。以前、悠人と「喉が渇いていないときに飲みたいと思うものこそ、自分が本当に飲みたいものなんだよな」と話したことも思い出した。
よく考えてみれば深い話だと思った。
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