第11話 「チャネリング」

 砂刷りの壁に、アカンサスが描かれた絵画が飾ってあった。以前、不思議な少女がいた風呂場へと足を数歩進めると、とたんに柔軟剤の匂いが鼻についた。

「同じパターンだ」

 僕は独り言を呟くと、風呂場と廊下に反響した。天井は高いようである。

 後ろを振り向く。発色の良いオレンジ色で塗られた木製の格子に磨りガラスがはまっている。このドアを開けたら、以前のようにシルクハットの男がいるのではないだろうか、と思って、勢いよくドアを開け放った。だが、そこに男はいなかった。ただ、大きな窓から青白い光が差し込んでいて、部屋の中を幻想的に照らしている。

 真ん中に、男が腰かけていた椅子だけがあった。アンティーク制の変わった形をした椅子だった。

 その後ろには、高さ二メートルほどの本棚があって、見たことのない言語で書かれたタイトルがびっしり並んでいる。

 僕は足を進めて、そのうちの一冊を手に取った。ページをめくると、まるで楔形文字のようなゴチャゴチャとした文字で書かれている。僕は「まるでアートだなぁ」

 と思いながら本を眺めているとふとあることに気が付いた。

 読めるのだ。全く知らない、どこの国の言葉なのかも分からないその本の内容が、まるでずっと昔から慣れ親しんだ日本語のように頭に入ってくるのである。

 この本の中に、何か自分自身に関する重要な言葉が綴られているかも知れないという思いに駆られて、本を読み進めてみることにした。こうして僕は、最小の一ページをめくる。


 第一章 チャネリング

 

 トーマヨが『鉄の稲妻』を開発し、現代に至るまでの十年間。どれほどの地上の民が高次元へとシフトできたのであろうか。

 科学技術の発達を重要視するあまり、地上の民は、精神的豊かさを放棄してしまっているようである。近年は、チャネリングの方法すらも分からないという若者が多い。

 『霊的精神世界』は実際に存在する。しかし、トーマヨにより『蒸気機関』が生み出され、『電気』が生み出され、『磁力』が生み出され、ついには恐るべき『鉄の稲妻』をすら生み出してしまった。

 これが若者を魅了し、自明である物体世界にのみ着目する世界を作ってしまった。

 本章は、そのように三次元的思考から逃れられなくなってしまった若者に向けたチャネリングの方法を説明するものである。


 チャネリングを始める前に、まず、私たちの意識がどこにあるのかという問題を明確にしなくてはならない。古来より私たちの意識は、「個人の脳」に存在すると考えられてきた。  

 アナタと私は別の人間で、「アナタの痛みを私が感じることができないように、私はアナタの痛みを感じることができない」というものである。また、「赤」を見たことのない人間に「赤」を説明するのは非常に難しく、言葉によって「赤」そのものを起因させるのは不可能だといえる。よって私たちが見ている、あの赤い感じ、は「クオリア」として定義される。「赤」というものが空間に存在していて、視覚野で認識して脳にたどり着くのではない。「赤」という存在は、人間の視覚野の一部と全く同じものである。

 光は外部から与えられるものではなく、自分の視覚野の一部として存在する。痛みと同様の原理で、痛みは外部に存在しており、触れると感じるのではなく、何か物にぶつかった瞬間と同時に、痛覚として感覚される。意識も然り、同様である。色や音や空間や、痛みや思考や感情は、外部に存在しているものではなく、人間の内側にそのものが存在する。では、人間の内側とは何か。人間は、肉体というフィルターを通して世界を見ている。人間にとって都合の良い価値基準で世界を判断している。何を美しいと思い、何を醜いと思うかも人間の独自の判断であり、真実ではない。

 人間というフィルターを通して世界を見ているからこそ、人々の価値観は人それぞれで異なるものであり、すれ違いがあり、争いが生じる。人間というフィルターを通して見ている世界だからこそ、この世は鬼ばかりが住む残酷な世界で、腐敗していて、血も涙もない狂気の空間である。人間というフィルターが肉体であるからこそ、痛みが生じ、苦痛が生じるのである。では、人間というフィルターを取り除けば、何が残るのであろうか。そのフィルターを通して世界を見ているのならば、見ている自分は人間ではないのである。

 それは、単なる意識の集合であり、唯一の思念体であり、世界を形作る根本である。

 それは、人間でありながら人間よりも壮大であり、人間よりも聡明である。

 人間はその存在を自らの内に秘めているのである。その存在にたどり着くことから、

 チャネリングが始まる。


 僕は、この始めの文章を読んでみて眉をひそめた。普通の人なら何かの宗教の導入の本なのかなと思うだろう。さらに言えば訳の分からない単語がときおり出現し、読みづらい。加えて作者の高圧的な態度が伺い知れ、それでいて言っていることは、どことなく既視感があるものだったからだ。

 もしかしたらその既視感の正体は、般若心経の現代訳かもしれない。と思った。僕は東京に来る前まで寺に住んでいたから、毎朝のように父親と般若心経を唱えていたのだ。

 以前、住職だった祖父にその意味を訪ねたことがある。それで祖父は言った。

「この世の中には、色も形も無い。味も匂いも無い。死も老いも無い。ぜーんぶ無い。ただ、みんなが幸せになるのが良い。世界中のみんなが幸せになるために、悟りはある」

 と。それから祖父は幼き日の僕にこう付け加えた。

「ただねぇ、羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。この最後のところはね、分からないんだ。今のお坊さんたちも、この意味だけは、分からないんだ」

 現代で、ぎゃーてーぎゃーてーといえば般若心経である。しかしこの最後の一文、ぎゃーてーぎゃーてーの意味だけが現代語訳できないのである。

 これは推測だが「人間というフィルターを取り外したときに残される、人間よりも壮大で聡明な存在」に辿り着いた境地が「羯諦羯諦」なのかもしれない。

 もちろん諸説あるが、スピリチュアル的に言えば、僕の推測は大きく的を外れたものではないはずだ。

 というような思考をして、ハッとして、ここがまだ夢の中であると気が付く。

 部屋の中を再び見回す。気分転換だ。明晰夢というのは実際に経験すると面白い。ほんとうに意識だけがその世界に行くのである。自分の足で歩いて、合理的な行動ができる。

 何が見えていて何が見えていないのかも分かる。

 本棚の横に小さなモニターが置いてあるのが見える。天井に、金のメッキで塗られたライトがいくつか設置されてあるのも見える。テーブルは見えない。絨毯も見えない。ソファーは一つある。緑色をしていて、一人掛けのと二人掛けのものが並んでいる。カバーは掛けられていない。僕はこの景色を記憶しておく。

 また、痛みとはどのようなものか、と考えて自分の腕をつねったりしてみる。痛いと感じるように感じるのである。本物の痛みではない。それが分かりもう一度つねる。結果は同じ。よし、もっと遠くへ行ってみようか。でも、遠くへ行くと、この場所には戻って来られないような気がする。だから踏みとどまる。

 もう一度、本を開く。果たして明晰夢がリアルと同じように合理的ならば、本の内容は先ほどと変わりないはずである。

 確かに書かれている内容は同じだった。不思議なくらい同じで、冒頭は、

「トーマヨが『鉄の稲妻』を開発し、現代に至るまでの十年間」

 と始まっている。冒頭から訳の分からない単語だ、という意味ではさすがに夢だ。

 けれども「チャネリング」の意味は分かった。

「チャネリング」とは要するに、霊的な周波数を切り替える能力のことである。これが低い人のことを「霊感がある」と言い、逆にこれが高いと「悟りの境地」と言う。少しでもスピリチュアルをかじったことのある人間にとっては常識だ。

 しかし「トーマヨ」と「鉄の稲妻」は本当に分からない。

 分からない、けれど不思議な明晰夢である。たとえ内容がどのように支離滅裂であっても、そのどこか一点に重要な秘密が隠されているのであれば、ぜひとも先を読み進めなくてはならない。また、いつこの夢が覚めてしまうかも分からない。

 こうして僕は、また、本を読む。

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