第41話『遅疑逡巡①-チギシュンジュン-』

 頭が割れるように痛い。身体もあちらこちらで痛み続ける。

 何処か暗く、人気のない場所を探して、いつの間に辿り着いた場所は生臭いゴミの臭いがしていた。

 でも今の自分には此処がお似合いだと彼女は漠然と思っていた。


 彼女は地面に横になりながら、あの夜のことを思い出す。

 彼女が荒瀬川達を鉄パイプで襲撃した日。

 そして『彼』に『鵺』へと作りかえられた日だ。


『彼』は、とても不思議な人だった。

 密かに大学に通っては息子をただ眺めるだけの日々。何の解決には至らず、日に日に状況が悪化していくことは彼女もわかっていた。

 だけど彼に自分が母だと名乗り出るのが怖かった。小学生だった彼をお金のために祖母に引き渡した最低な母親、もしそんな風に思われていたらどうしようとずっと悩んでいた。

 そんな時、大学から駅へ向かう道で『彼』に声をかけられた。


「こういう者です」

 駅の近くにある喫茶店に入って、『彼』は名前が書かれた名刺を差し出し、心療カウンセラーだと名乗った。彼女があまり思いつめたような表情をしていたのが気になって、自殺でもしやしないかと声をかけたと話した。

 彼女は思い切って自分の置かれている状況を『彼』に話した。

『彼』はただ彼女が抱えている問題を、悩みを、苦しみを受け止めるように黙って聞いてくれた。

 誰にも言えずに腹に溜め込んでいた心の内を誰かに話せるということはこれ程までに気持ちを軽くすることだとは彼女は知らなかった。

 一人で寂しく暮らしていた彼女に友と呼べる人間はおらず、当然悩みを打ち明けられる人間なんていなかった。だから、話すという行為がこれほど心を落ち着かせるなんて彼女は知らなかったのだ。


『彼』は彼女の話にただ相槌を打ち、余計なことは言わずにただ耳を傾けていた。

 彼女が話を終わると悲しげに目を伏せて「貴女はこれまで大変なご苦労させてきたんですね」と涙まで浮かべていた。

 その涙を見て、彼女は、やっぱり自分は苦労していたのだと自覚した。

 大変な日々だったが、それは他の人だって同じなのだ、だから自分だけが泣き言をなんて言ってはいけない、そういう風に考えていた。だけどそうじゃないのだ。

 彼女は『彼』の言葉に思わず涙を流した。嗚咽を殺して、彼女は涙を流し続けた。

『彼』は「大変でしたね」と柔らかな声色で語る。その声の何と心地よいことか。

 彼女はこれまで塞き止めていた涙を全て使い切るように暫く泣き続けた。


「貴女の悩みはとても大きく難しいものです。それは誰でも抱えていることではないし、当然のことながらすぐに解決することではない」

 彼女の涙が引き始めると、『彼』はその優しい声でそう話し出す。その声は、彼女のぐちゃぐちゃに煮崩れているような精神に染みる。

 優しい声。その声を聞いていると、これまで厳しい日々が報われていくような錯覚を受ける。


「今は貴女の心を健康に戻すことから始めるべきでしょう」

「心を健康に……なりますか?」

「これも大変なことです。今、貴女にとって心が安らぐのはどういうときですか」

『彼』にそう聞かれて、真っ先に思い浮かぶのは当然のことながら息子の顔だった。

 まだ小学生だった、身体も随分小さなかった息子のことを思い出す。それがあんなにも大きくなった姿を見れたときの感動と衝撃は凄まじいものだった。


「息子に会いたいです。話せなくても良いから、遠くでただ見ているだけで私は嬉しいんです」

 そう彼女がぼそぼそと呟くと、『彼』は微笑む。

「でも暫く大学に通われてはどうですか? 部外者が学内を出入りするのは褒められたことではありませんが、今の貴女にはそれが一番の薬のようです。あと、こちらもどうぞ」

『彼』はそう言うと、手の平に収まるほどの小さな瓶をテーブルに置いて彼女の方へと押し出す。中には黒と白のカプセルが何錠か入っていた。


「精神安定剤です。一日寝る前に一錠飲んでください。精神安定剤は眠気が出たりしますが、日中に眠気が出るようであれば中止してください」

「お薬……、でもお金」

「あぁ、実はその薬は僕と懇意にしている製薬会社が作っているもので、来年流通予定でまだ市場に出ていないものなんです。試供品としていくつか頂いているものなのです。成分としては認可が下りているものなので大丈夫です。よければ飲んで効き目がどうだったかを聞かせていただいても良いですか?」

「はい、そういうことであれば」

 温和に微笑む『彼』に彼女は頷いてその瓶を受け取る。

 それにしても、精神安定剤とは。自分はこういう類の薬が必要なるほど病んでいるのか。そう思いながら、その夜、彼女は早速薬を内服した。


 薬は全部で十錠入っていた。毎日飲めば十日でなくなる。

 そんなにも早く効果は現れるのだろうかと、少し疑いながら夜に内服したが、次の日は驚く程意識がすっきりしていた。

 起床時も倦怠感や億劫さはなく、ここ何年かで一番清々しい朝を迎えられた。

 朝がすっきりするとその日の予定を決めるのも嫌ではなくなる。彼女はいつもよりも明るい気持ちで、その日も息子の通う大学に向かった。これまでは数日に一回程度だった。連続して行くことなんて今までなかったのだが、『彼』に心の健康を取り戻すことが大事だと言われたためか、息子の顔が見たいと思ってしまった。

 会いたいという気持ちが熱膨張するように彼女の精神を埋めていく。

 それから気が付けば、彼女は毎日大学に通うようになってしまった。

 息子の後をこっそりと追いかけて時間割を調べたり、仲の良い人との様子を眺めたり。それは彼女にとってとても充実した日々だった。


 しかし五日が経って、瓶に入っていた薬が半分になり、彼女は不安になる。今は気分が凄く良いけれど、無くなったらまたあの陰鬱とした重々しい日々に戻ってしまうのか。

『彼』は薬の効き目について聞かせてほしいと言っていたが、これと言って次の約束をしていたわけではなかった。それなら次に『彼』と会うまで少しでも薬を残しておいて本当に辛い時に使おう。そう思ってその夜は飲まなかった。

 すると夜になると耳鳴や幻聴が五月蝿く騒ぎ立て何度も寝ている彼女を起こした。その内に頭が割れるような頭痛まで出てきて彼女は薬を結局飲んだ。内服してから少しずつ頭痛や耳鳴は治まっていき、明け方には全ての症状が無くなり漸く眠れた。

 この薬の効果を思い知った彼女は、内服を止めることが心配になった。でも後数日で無くなってしまう。

 どうすれば……。

 悩みながらも彼女はその日も大学へと向かった。

 駅を出て、大学へ向かう道に足を向けると、不意に後ろから呼び止められて彼女は振り返った。呼び止めたのは『彼』だった。

『彼』の姿を見て彼女はどれだけ安堵したか。


「今日和、あれから調子はどうですか?」

 そう穏やかな声色で尋ねてくれる『彼』の優しさが彼女には心強かった。

『彼』に前回に会った時に貰った薬での自分の調子の良さ、止めてしまった機能がどれから辛かったかを、先日話を聞いてもらった喫茶店で再び話した。

『彼』は前回同様、彼女の話を黙ってじっくりと聞いてくれた。


「困りましたね。貴女の症状はかなり重症なのですね」

『彼』は彼女の調子に心を痛めるかのように悲痛な表情をする。

「そうですね、ではこちらを」

『彼』はそう言いながら、前回に出した瓶よりも一回り大きいな瓶をテーブルに置いた。中にはカプセルではなくオレンジ色の錠剤が入っている。


「前回の薬で日中の眠気は大丈夫でしか?」

「はい、寧ろ朝はすっきり起きることができました」

「それは良かった。これは前回のものよりも少し効果が強めです。一日朝と夜に一錠ずつ内服してください」

「朝と夜ですね、わかりました」

「これで大体一ヶ月分程入っています。これを飲み切る頃にはかなり症状は落ち着くはずです。そしたら少し弱めのものに移行して、調子が良ければ投薬終了という流れで行きたいと思います。まずは一ヶ月頑張ってください」

「ありがとうございます、先生」

 彼女は『彼』に心底感謝をして薬を受け取った。


「それで最近、お悩みの方はどうですか? この治療にはそちらの解決も重要ですので」

「解決……」

 そう言われて彼女は考える。

 そもそも解決なんてできるのか。このまま息子が大学を卒業と同時に、きっと自分は彼の祖母に促されて言われるがまま遠くへ引っ越すことになるのだろう。何も変えることができずに、きっとその日を迎えるのだとわかっていた。

 だけど離れてしまうにしても、許されるなら息子と言葉を交わしたい。でも、とても母だなんて名乗れるはずがないのだ。

『彼』に自分の気持ちを吐露すると、『彼』は何かを思いついたように微笑む。


「それなら変装するというのはどうでしょう? 御子息と話すのに、『大学に通っている生徒』を装うんです。髪型や服装を変えて、変装した貴女に名前をつけて、役としてのその人物を演じるんです」

「別人になりきるということですか?」

「貴女も自分でなければきっと彼と話せるんじゃないですか? 話してみて、今の彼がどういう成長を遂げているか知ることができれば、あるいは『母』として貴女をどう思っているか知ることもできるかもしれません」

 朗らかに『彼』はそう提案する。

 目から鱗が落ちるとはまさにこのこと。

 それなら確かに息子と話ができるかもしれない。

 私ではない誰かなら、此処までにできた息子との溝を越えていけるような気がした。


 その日、彼女の中で『田村八重子』が出来上がった。

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