第42話『遅疑逡巡②-チギシュンジュン-』
彼女は、『母』としての自分が目立たくするために、『田村八重子』を作り出した。黒い髪に長い前髪、黒い眼鏡に、服装も黒くした。
これくらいしないと、自分という人間が隠せない気がした。鏡に映る自分じゃない自分に、彼女は何処か安心した。
どう見たってその姿に『鹿嶋美須々』の姿はなかった。これなら彼と言葉を交わすことができるのではないか。
そう何処かわくわくしたのだった。
少し強い薬にしたと『彼』に言われたが、体調はかなり良かった。
意識がはっきりしていることに加えて、行動力が増したような気がする。以前の彼女なら、きっと『彼』から別人を自分の中に作り上げてみるなんて提案されても行動には移せなかったに違いない。
自分が少しずつ変わってきているように思えた。
それはとても素敵なことだった。
それからは『田村八重子』との二重生活が始まる。
自分の行動力に驚くが、姿を変えても始めの内は自分の行動にギクシャクした。その行動を不自然に思ったのか、息子の友人の女子生徒に声をかけられたが、事情を話すと彼女はそれ以上何も言わないでくれた。
あんな女の子が息子の友達で居てくれてるのは嬉しかった。
友人思いの女の子、できればこれからも息子と仲良くしていてほしい。
友人にも恵まれているようで良かった。彼女は嬉しかった。
その女の子だけではない。
先輩や後輩からも慕われているようで、授業以外でも誰かと一緒にいることは多かった。
食堂で昼食の時も誰かと談笑しながら食べていることが多く、人に囲まれている姿に安心した。
だけど、気になる生徒もいた。
見た目が派手な男子生徒が息子と話しているのを見かけた。
遠くから見ていたときは、本当に息子の交友関係の広さに驚いた。だけど話に聞き耳を立てていると、どうにもそういう様子ではないことを察する。
その男子生徒は荒瀬川という名前で、息子とは同回生だった。彼はやたら刺々しい口調と、息子に対しての皮肉を何度も口にしていた。
息子はそれを意に介していなかったが、彼女にはどうにも荒瀬川の態度が気になった。
敵意の向け方が凄まじいように感じたから。
それからも荒瀬川は時折息子の前に現れては、息子に対して刺々しい口調で話しかけていたのが気にかかった。
「あれから調子はどうですか」
二回目に処方された薬を処方されて一ヶ月、彼女は三度『彼』に会うために駅近くの喫茶店に来ていた。
今回は予め会う日程と時間を前回に決めていたので、彼女は残薬の心配をせずに毎日言われていた薬の服用を続けていた。
今回の薬も合わないということもなく、朝はすっきりと起床でき、気持ちも軽かった。
……いや、軽すぎるというべきか。以前は思い付いても中々動けないでいた彼女だったが、ここ最近、思い付いたらすぐに行動に移すほど活動的になっていた。薬の効果なのか。『彼』は前回の薬よりも効果が強いと言っていたが、こういうことなのか。
あまりに活動的な自分に、少し違和感もあったが、きっとこれは良い傾向なのだと思うようにしてきた。
そのおかげで、学内の息子を見守ることができているのだから。
『彼』は前回の助言通りの自分ではない誰か、『田村八重子』としての姿の彼女に驚き「変装というかもう別人ですね。今ここにいるのは間違いなく『田村八重子』さんなのでしょう」と感想を述べた。『彼』はその後はずっと彼女のことを、田村さん、と呼んだ。
そう呼ばれていると、何だか彼女は、本当に今自分は『田村八重子』でそれ以外の何者でもないように思えた。まるで自分の中に二つの自分がいて、本来の自分が『田村八重子』としての自分を後ろから見ているような、そんな妙な感覚なのだ。
でもそれは、こんな二重生活をしているから起こっている錯覚なのかと思って、あまり深く考えることはしなかった。
『彼』はこの一ヶ月の彼女の調子を聞いて穏やかに微笑む。
「薬は効いているみたいですね。日中の眠気は大丈夫ですか?」
「はい。寧ろ夜まで目が冴えてる気がします」
「調子が良さそうで安心しました」
『彼』は彼女の調子が良いことに嬉しそうに微笑むと、テーブルに前回も貰ったものと同じ薬の入った瓶をテーブルに置く。
「この調子なら、今は朝夜の二回の内服ですが、夜だけにできそうですね」
「……」
薬の量を減らせると言われて、彼女は不安になった。
思い出すのはやはり飲まなかった一日に起こった耳鳴や頭痛。今は一日二回で落ち着いているのに減らすとまた悪化するのではないのかという不安があった。
「あの、今回もこのまま一日二回では駄目でしょうか?」
「構いませんよ。その方が安心なのであればそうしましょう」
「ありがとうございます」
彼女が安心したように頷くと、『彼』は薬の瓶を彼女に渡す。
長く薬に頼るのが良いことなのか彼女にはわからないが、今はこの薬を飲むことで、日々感じている不安に流されずに済んでいるのかもしれない。彼女は瓶を受け取ると、大切にそれをカバンにいれる。
そんな彼女を見ていた『彼』は何かを察したように口を開く。
「……田村さん、何か、不安なことがありますか?」
流石はカウンセラーだ。
『彼』は彼女の表情から彼女の抱える悩みを読み取ったのかもしれない。
彼女は『彼』の言葉に驚くが、気にかけてもらっていることがとても嬉しかった。何より『彼』の声はとても心地良い。あまりの心地良さに穏やかな気持ちで眠れそうだと思える程に。心の内を全て話してしまいたくなる程に。
この声は何だか抗えない魔力のようなものを秘めていた。
「実は」
彼女は『彼』の声に促されるまま、荒瀬川という生徒についてのことを話した。
荒瀬川を見て、彼女は当初、いじめやいやがらせ、という言葉が過ぎったが、どうにもそんな言葉では足りないように感じてしょうがない。
でも一体どうして良いのか。自分には息子のために何ができるのか。
彼女は『彼』に打ち明ける。
この話も、『彼』は彼女が話し終えるまで静かに聞いていてくれた。
彼女が「私はどうすれば良いのでしょうか」と尋ねると『彼』はまた目尻に涙を滲ませていた。
「御子息は本当に幸せな方だ。田村さんにこれほどに思われて。そうですね。では、その荒瀬川さんに御子息をどう思っているのか訊いてみるというのはどうでしょうか」
「訊くといっても、どうやって」
「今度は、そうですね、荒瀬川さんに近づくための貴女を作るんです」
「近づくための私、ですか?」
『彼』の言いたいことはわかる。だけどそう言われても、それはどういう役柄なのか。戸惑う彼女に、『彼』は彼女から視線を外して外を見る。
二人が座っているテーブル席は、通りに面した窓の横にあり、駅と大学を行き来する学生の姿もよく見えた。
『彼』は、恐らく帰宅のため駅へ急ぐ茶髪の女子生徒を見て「例えば彼女のような」と言って微笑む。
「荒瀬川さんはとても目立つ見た目の方だという話です。『田村八重子』さんでは、彼の周囲に居る友人の中には入れません。明るい髪色、華やかな服装。そういう女性であれば、荒瀬川さんに近づき話ができるんじゃないでしょうか」
「明るい髪色、華やかな服装……」
『彼』にそう言われた瞬間、彼女の中で、更に新しい自分が出来上がる感覚に襲われる。
新しい自分に名前をつけなくては。
こうして、彼女の中で『あんり』が出来上がった。
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