刺さる

流々(るる)

👓

 何だこの大事なときに。

 遠くから単調な電子音が繰り返し聞こえてくる。誰か止めて……。んっ?


 夢か。眼を開けられないまま大きく息を吸い込んだ。もやの掛かった頭はまだ動き始めない。

 それにしてもリアルな夢だった。取引先へのプレゼンを俺が担当していて……あっ!

 布団をはねのけ、アラーム音を鳴らし続けるスマホへ手を伸ばすと七時三十二分。

 ヤバイ。一気に目が覚める。

 今日のプレゼンは俺にとって初のメイン担当だ。遅れるわけにはいかないから目覚ましをセットしたのに。

 九時からが当社うちの番だ。ここからだと約一時間。マジで急がないと。

 夜遅くまで練習したのが裏目に出てしまった。とにかく急いで顔を洗い、冷蔵庫から取り出したコーヒーのパックを直飲みする。ネクタイは電車の中で締めればいい。

 靴を履く前にもう一度、カバンを開いて中を覗き込む。

 原稿も資料も入ってる。よし!


 駅までは歩いて七、八分。何とか間に合いそうだ。

 でも電車が遅れていることだってある。

 少し急ぎ足で行こう。


(今すれ違った人、俺を見ていたよな)


 ちらっと、という感じではなく注目していたような。

 何か顔についているのか?

 鏡なんか持っていないし、ウインドウに映る姿を確かめる時間さえ惜しい。


(まただ。こんどはにらんでいたぞ)


 なんだっていうんだ。俺が一体何を――。


「あっ!」


 額に手をやり、思わず声に出してしまった。

 やっちまった。慌てすぎて、一番忘れてはいけないものを忘れてしまった。


 俺は眼鏡をしていない。


 脳を破壊する未知のウイルスが蔓延し始めたのが三カ月前。

 痴呆症になる老人が急激に増えたことでこいつウイルスの存在が明らかになった。視神経を通じて脳を破壊するシステムが解明されると、花粉症用の防護眼鏡が瞬く間に品薄となった。

 感染するのは老人だけと言われていたが、受験生が感染し記憶が低下してしまった例が明らかになるころには街から人が消えていた。

 政府から配布された防護眼鏡がいきわたり、やっと自粛も解除。延期となっていたプレゼンも今日行われることになったのだけれど。


 すれ違う人たちからの視線が突き刺さる。

 でも、戻っている時間はない。




「うわー、こっちに来るなーっ!」


 突然、若者が前からぶつかってきた。

 なんだ……力が入らない。右ひざをついて道路に崩れ落ちた。

 俺の腹にはナイフが刺さっている。


「僕は今年こそ○○大学へ入るんだ!」


 そんな声を遠くに聴きながら顔を上げると、無数の眼鏡が俺を見下ろしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

刺さる 流々(るる) @ballgag

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ