第20話 久々の時間
空の向こうのマゴラに手を振る。まだ空は青かった。ぱりっと晴れた空の先にマゴラが見えなくなると、鈴子と手を繋いでつつじの群れまで走った。鈴子のあとについてつつじを抜け、玄関に向かう。重たいドアを押し開けて中に入る。
「鈴子! 凜太!」
いつも通りではなかった。玄関は明るく、その先には武がいる。
「父ちゃん!」
「お父さん!」
靴を放り出して武の腰に飛びついた。子供二人分の質量にぶつかられて武は「おっと」と声を上げてよろける。でもそれを気にすることはできなかった。胸のあたりがポカポカして、自然と笑顔がこぼれてしまうから。腕に伝わる感触は、絶対に父親のもの。
「元気にしてたか、二人とも?」
「うん!」
「父ちゃん、いつまで休み?」
「今回は一週間だぞ」
「やった!」
武は凜太と鈴子の頭を大きな手で撫でてくれる。重たくて力強いその感触は、幼いころから変わらない。
「おい、純子! ちょうどいいし外に昼食べに行こう」
「わかった。ちょっと待ってて」
双子に捕まる武はリビングに向けて声を出す。リビングからはすぐに返事が返ってきた。柔らかくて、どことなく嬉しそうな声。
「どうした、凜太?」
「えっ、なんでもないよ」
「変な顔してたからさ」
「うわ、やめろー」
武に抱き上げられ、頬同士をすり合わせてくる。短いひげがチクチクと痛い。じたばたもがいても下ろしてもらえそうにない。下から鈴子が「ずるい!」と言っている。
「鈴子も!」
「わぁっ」
すると膝裏に腕が滑り込み、あっという間に片腕抱きの状態に変わる。そして空いた手で武は鈴子を持ち上げた。
「これで喧嘩なしな」
「凜くんと喧嘩しないよう」
「仲良しだもんなー」
武の首元に抱きつく。鈴子も反対側から腕を回している。我が子に左右から抱き着かれた武は、嬉しそうに笑ってくれた。
その時リビングの引き戸が開く。
「準備できたか」
「ええ。行きましょう」
純子の顔はいつもより綺麗だった。化粧をしっかりしているのか、純子の気分の違いか。とにかく普段は見ることのできないものだ。純子は鈴子と凜太には目もくれず、武に微笑む。武は純子を見て、腕を下ろした。床に足がつく。靴下越しにひやりとした温度が伝わってくる。
鈴子を見ると、少し寂しそうな顔をしていた。その腕に軽く触れて、玄関から連れ出す。
「鈴ちゃん」
外に出たら左手を差し出す。鈴子が顔を上げ、その口元が綻ぶ。安心した瞬間に凜太の手は他の手に奪われた。
「今日は父さんと手を繋ごう」
武が右手と左手それぞれを凜太と鈴子に差し出してくれる。大きな「うん!」という返事が重なった。
武を挟んで歩き出す。純子は凜太の右に並んで歩いている。
「二人とも最近は毎日何してるんだ?」
「高台で遊んでるの」
「鈴ちゃんと追いかけっこしたりとか」
マゴラに出会う前の記憶を掘り出す。そんなに昔ではないからすぐに出てきた。マゴラとのことは三人の秘密だ。隠し事は後ろめたいが、特別感を勝手に感じている。
「幼稚園は楽しいか?」
「……行ってないよ!」
「……そうなのか」
武の声音が少し澱む。その表情は変わらず笑顔のまま。瞬時にやってしまったと悟る。
「なあ、純子」
武は純子を見た。ちょうど高台を降りる階段にさしかかり、純子が一歩先を行く。
ああ、嫌だなと思う。この先に起こることは予想できてしまう。
「仕方ないじゃない。どうごまかせばいいの」
「ごまかす必要なんてない。堂々と……」
「それで恥をかくのは私なのよ。わかる?」
「でも、親の身勝手で子供を……」
純子の声はいつものような冷たいものになった。武は二人の歩幅に合わせながら、純子を追いかける。その声は普段の優しいものでない。心臓のあたりが締め付けられる。息が苦しくなっていく。自分たちのせいで親が喧嘩している。
階段を降り切った純子がこちらを振り返った。その瞳は暗く濁り、恨みを抱えていた。
「なに? 生んだのも身勝手だって言いたい?」
「そんなこと言ってないよ。それに純子のせいじゃないっていつもっ……」
「知らないわよっ……」
純子の口から痛みの欠片が落ちてくる。ぷすりと心に刺さる。
何を知らないのだろう。こんな汚い目のことだろうか。鈴子と凜太の気持ちだろうか。こんな目の子供、いらないってことだろうか。わかっている。そんなの、ずっと。
でも、どうしようもない。こればかりは誰にも変えられないのだ。赤い目で生みたかったわけでも、赤い目で生まれたかったわけでもない。
空いた右手で服のすそを強く握って、武の体越しに鈴子を見る。鈴子もちょうどこっちを見ていた。泣いていなかった。笑っていた。その笑顔は人形みたいに整っていた。驚いてしまった。鈴子も強くなっていた。
「ねぇ、お父さん! 今日は何食べに行くの?」
「え? ……ああ、何にしようか」
武はハッとして鈴子を見下ろした。純子が歩き出す。鈴子も凜太も一歩踏み出した。剣呑な雰囲気は一掃される。
「オレ、肉がいいー!」
「元気いっぱいだな、凜太は」
「じゃあ、あたしはお魚!」
「どっちもある店あったかなぁ」
武は右を見たり左を見たり忙しそうだ。けれど表情は楽しそう。先程の焦った顔も、悲しそうな顔も、全く見えない。
右手の力を緩めて、武を見上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます