第17話 父と母

 朝だというのに人民街は騒がしかった。ここは常に騒がしく活気で満ちている。マゴラはその中を一人で歩いていく。周りの騒音は耳を通り抜けていった。そっと俯くと空になったポケットが見える。それが日常のはずなのに腰のあたりが静かに感じた。

「うっ」

 その時、腰に幼い少女がぶつかってくる。腕で少女を抱き留め、左足を下げて耐えた。ちょうど鈴子と同い年くらいだろうか。茶髪の髪の毛を高い位置で二つに結んでいる。大きくて丸い目が愛らしい。

「ご、ごめんなさい……」

「サラ! あの、お怪我は……」

 目を丸くしていると、すぐに後ろから少女の母親と父親らしき人物がやってくる。腰をかがめてこちらの様子を窺ってくる母親。道のど真ん中で人々の視線がこちらに向く。どうしたって慌ててしまう。

「あっ……えっと、あの、ぼ、僕は……平気です……」

「そうですか……。よかったです」

「本当にすみませんでした」

「ごめんなさい」

 母親、父親、少女に次々声を掛けられ顔をうろうろさせてしまう。周りの人はこちらに視線を向けつつ通り過ぎていく。

「だ、大丈夫なので……」

「お気遣いありがとうございます」

 三人は最後に礼をして去っていった。マゴラはぼんやりその後ろ姿を見つめた。三人は一言二言話して、手を繋ぎ始める。少女を真ん中にした、親子の仲睦まじい様子。三人とも幸せそうだ。

 首飾りを握る。

 マゴラには縁遠いもの。首を振って歩き出す。

 右足を前に出して、左足を前に出して、右足を前に出して。青果を売る声も、はしゃぎまわる子供の声も、どの音も、遠い。世界がマゴラを置き去りにしているみたいだ。喉元から何かがせりあがってくる。この感覚は嫌いだ。大嫌いだ。

 叫びだしたくなる。

 手に力を入れる。首飾りがある。握る。握る。握る。

 角を曲がって路地に入った。大通りを外れると、喧噪も少し治まる。心臓の高ぶりも少し治まっていく。幾分か静かな道を速足で歩いていくと、黄色の屋根が見える。鍵を開けて中に入る。ぱたんとドアが閉まり、自動施錠の音が玄関に響く。

「……」

 中は薄暗く、とても静かだった。誰もいないのだから無理もない。右足を上げて踵に指を突っ込む。力を入れて靴を脱いだ。

「マゴラ!」

「……母さん?」

 脱いだ靴を落とす。目の前にはニーチェがいる。どういうことだろう。

「今日仕事休みなの!」

 マゴラの疑問に答えるようにニーチェは言い放った。嬉しそうに笑ってマゴラの手を取った。マゴラが慌ててもう片方の靴を脱ぐと、手を引かれた。少し演技めいたものを感じる。きっと昨日のマゴラを見て、休んでくれたのだろう。

 心配してくれることは嬉しいし、久々に一緒に過ごせることだって嬉しい。だが仕事を休ませてしまったのは忍びない。職場の方で何か言われたりしないといいのだが。

「朝からどこ行ってたの?」

「宇宙街だよ」

「本当に好きなのね。ランドにそっくり」

「父さんも……?」

 棚に飾ってあるランドの写真を見る。萌黄色の髪に榛色の瞳。整った顔立ち。そんな見た目の父は、かっこいいというより綺麗な人だ。写真の父は若々しく、綺麗な白い歯を見せて笑っている。亡くなったのは二十八歳らしい。その首元には現在マゴラがかけている首飾りがあった。

「ひたすら展示物を眺めるの。それが好きだったんですって」

「そうなんだ……」

 ニーチェはいつもより気分が高揚しているのか、やけに饒舌だった。ランドのことは普段あまり話したがらない。だから宇宙街好きということも初耳だった。マゴラが知っているのは、この写真の見た目と、マゴラが生まれてすぐに亡くなったこと、そして形見である首飾りだけ。亡くなった理由すら知らない。ずっと知りたいと思っていた。けれど負担にはなりたくなかった。

 ソファに座るニーチェを見る。久々の休みで羽を伸ばせる日だろう。こぶしを握る。

「母さん……」

「ん?」

 掠れた声が出た。ニーチェは変わらず綺麗な笑顔を見せる。

「……父さんって、なんで死んだの?」

 ニーチェの表情が固まる。笑顔のままで、続く言葉はなくて。その瞳には明らかな葛藤と動揺が見えて、すぐに後悔した。

「ごめ……」

「そうよね。知りたい、よね」

 マゴラを遮るニーチェに何も言えなくなる。

 きっと話しづらい亡くなり方なのだ。そもそも思い出すのも辛いのだろう。その可能性はずっと念頭にあったのに、更なる打消しの言葉を吐くことはできなかった。

 知りたい。ずっと焦がれている父のことを。熱望はいとも簡単にマゴラを打ち負かす。

 マゴラは母の瞳を見つめた。母はゆっくり瞬きをした。

「殺されたの」

「……え?」

 存外あっさりと吐かれた声に目をしばたかせる。

 殺された。父親が。誰に。なぜ?

「通り魔に、刺されたらしいの」

 その答えはすぐにニーチェが与えてくれた。無差別殺人に巻き込まれてしまったということか。マゴラの緊張が少し緩む。だがそれに反してニーチェの表情は暗かった。それを押し隠すように芯を持った声を出しているみたいだ。

「犯人は?」

「すぐに捕まった。被害者はランドだけよ」

「捕まってるんだ。なら……」

 よかった。

 その言葉は続かなかった。てっきり犯人がまだ捕まっていないから暗い表情なのかと思っていた。違う。もっと暗い何か。もっと辛い何か。それを隠して、笑っている。たった一人の被害者にランドが当たってしまったことが辛いのだろうか。否、そんな冷たい感情ではない。けれど恐ろしいくらい暗い何かだ。

「まだ何かあるんだね」

 ニーチェは喉を一回震わせた。その唇がうっすら開き、小さな吐息が漏れる。

「……おかしい、気がするの」

 自分一人で抱え込むのは耐えきれなかったのか、ニーチェは静かに絞り出す。マゴラはニーチェの隣に腰かけた。

「ランドはね、あの年齢で王城警備隊の総隊長だったの。一番強い人。そんな人が通り魔に殺されるなんて」

 ニーチェは口早に吐き出した。両手の指を絡めてぎゅっと力を込めている。目は床の一点を見つめている。豊かなまつげが瞳に影を落とす。

 考えすぎではないか。そうと言えない雰囲気だった。

「心当たりはあるの……?」

「神想教って知ってる?」

「え? ジェネンダを神格化して崇拝する宗教、だよね」

「そう。その過激派にゲルーというものがあるらしいの。私も名前しか知らないけど……。ランドは警備隊の仕事のほかに、密かにゲルーの調査もやっていたみたい」

 マゴラはある可能性を思いつく。ニーチェの方を見る。ニーチェもこちらを見ていた。その顔がゆっくり上下する。

「……ゲルーに、殺された……」

「うん。私はそうじゃないかって」

 ゲルー。父の殺害。

 宗教に過激な一派がいるのは当然と言えば当然だ。そしてその調査を国が行っていると知れば、消したくなるのもあり得る。そう考えると聞きなれない単語も、あり得ないはずの繋がりも、なぜかしっくりきてしまう。だが、もしそうなら、どうすればよいのか。誰を恨んで、誰に怯えて、誰から逃げればいいのだろう。

 ソファから手が伸びてマゴラを掴む。そのままずるずると引きずりおろされるような気分だ。

「ごめん。こんな話したら、そりゃ気になるよね」

「……母さん」

 ニーチェは申し訳なさそうに笑み、マゴラの首飾りを手に取った。大きさの異なる葉を一枚一枚、指でなぞっていく。その視線には愛情が見て取れた。

「……十年も何もないから、やっぱりただの憶測に過ぎないんだと思うわ。だから、大丈夫」

 そうなのかもしれない。そうなんだろう。でも、不安だった。とても不安だ。ニーチェの憶測もありえなくはない。可能性は十分にある。王城警備隊の総隊長だったなら、なおさら。

 ニーチェはマゴラの手を取って、首飾りを握らせた。

「きっとランドが守ってくれる」

「父さんが……?」

 手を開く。何の変哲もない首飾りだ。少し歪で塗りも雑で、逆に味を出そうとしたような作品。でも特別な品。幼い頃からつけることが当たり前だった、お守りみたいなもの。

「この首飾り、ランドが作ったの知ってるっけ?」

「……そうなの?」

「不器用なのに、毎日一生懸命作ってた。生まれてくるマゴラのために。マゴラを守ってくれるように」

「そう……だったんだ」

 ニーチェは柔らかく微笑む。そう言われると、歪なのも塗りが所々まばらなのも新鮮に見えた。見慣れたもののはずなのに、彫られた葉脈の一つ一つも、塗られた緑の一筆一筆も、とても大切なものに感じる。

「だから、大きさ違うの?」

「ああ。それはわざと。小さいものから順に、マゴラ、私、ランドを表しているんですって」

 真ん中に一番小さな葉がある。その左右にそれより大きな葉が重なっていた。まるで真ん中の葉を守るかのように。

 目の端が熱くなる。

 だからだ。だから、ずっと温かい。この首飾りはずっと守ってくれていたのだ。マゴラの知らない時から、知らないところで。

「暗い話しちゃったね! 待ってて、美味しいお昼作ってあげる!」

 ニーチェはポンッとマゴラの肩を叩くと立ち上がる。マゴラの顔は見ないでくれていた。キッチンに向かうニーチェを確認して、目元をごしごし擦る。

 たとえ体は離れていても、思いはすぐそばにある。

 そんなありふれた幸福が、マゴラの胸に落ちた。


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