第16話 一日ぶりの帰宅

 空のマゴラに手を振って、つつじを抜けていく。体についた葉を落として、玄関の前に立った。

 息が苦しい。怒られるのだろうか。無視されるだろうか。帰らなかったことは初めてで予想がつかない。けれど進まなければどうにもならない。

 腕を伸ばしドアノブに触れる。ドアを引く。鍵はかかっていない。細い隙間を作る。その隙間から家の中に入る。

 玄関は薄暗かった。鈴子と目を合わせ、音を立てずに靴を脱ぎ始める。

 心配されていないことへの淋しさと、このままばれなければこれ以上嫌われないことへの安堵。きゅっと口元を引き締めた。

 その時、リビングに通じる引き戸が開いた。そこから出てくるのは当然純子だ。純子は冷めた視線を二人に向けた。その場に緊張が走る。

 何を言われるのだろう。文句か。それとも冷たい言葉か。

 心臓がうるさい。胸元に手を当て、服をぎゅっと握る。漏れた息は熱い。

「……今日は家の中にいなさい」

 予想に反して純子が放った言葉はそれだけだった。そして入ってくるなというように引き戸が閉められる。

 心臓が鷲掴みにされるようだ。

 突き放されることの方が、怒られることよりよっぽど辛い。五年という短い人生でもう既にわかってしまったこと。

「鈴ちゃん」

 でも強くあらねばならない。

鈴子の右手を取り、二階に導く。二階には父である武の部屋、純子の部屋、子供部屋がある。子供部屋ではなく、武の部屋に入った。壁一面に本棚が並べられ、一つ一つに本がぎっしり詰まっている。子供向け、大人向け問わず、ジャンルも様々だ。

 鈴子の手を離す。鈴子は動かない。その様子を見てから、部屋の椅子を本棚の前に移動させる。そして一冊の分厚い本を引き抜いた。ニコニコ笑ってその本を鈴子に差し出す。

「おひめさま……」

「鈴ちゃんの好きな本!」

 それは海外の小説で、姫の挿絵がたくさん描かれているものだった。内容はまだ難しいが、綺麗な絵でなんとなく理解できる。鈴子が大好きな本だった。

「ありがとう、凜くん」

「へへっ。早く読めるようになりたいな」

「漢字、勉強する?」

「そうしよう」

 鈴子が立ち上がって別の本棚から漢字辞典を取り出す。小学校低学年向けのものだった。並んで床に座り、辞書を開く。

「この間ここまでやったから、今日はここ?」

「うん!」

 小さな指で重い辞書の行をたどる。

 武の部屋で漢字を学ぶことが、最近の家での過ごし方だ。本は色々なことを教えてくれる。小さい頃からこの部屋で様々な本を読んだ。外の世界を知らない分、ここから吸収した。

「漢字って難しいよね」

「よくわかんないよなぁ。でもいっぱい勉強しようよ。そしたら」

「ママにも、パパにも、迷惑かけない……」

 出来損ないの目。出来損ないの双子。冷たい母。遠い場所にいる父。

 優しい父の面影を感じるこの部屋で、双子は懸命に文字を追う。漢字ができるようになったら、また他の本も読める。そうしたら、新しいことを学べる。

 唇を噛む。昨日見た光景が浮かぶ。

「羨ましいね……」

 耐えきれなくなって呟いた。鈴子は辞書から凜太に視線を移す。そして小さく微笑んだ。鈴子には凜太の考えることがわかっているみたいだ。

「……だね」

 ニーチェの優しい声が脳内に響いていた。


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