第4話 抗いがたい欲
「……かはっ」
体にかかった衝撃でマゴラは目覚める。目を見開き、ゆっくり視線を巡らせる。見えるのはそびえる壁と、壁に設置された弱い光の電灯だけだ。
何が起きたのか理解できないまま上体を起こす。途端、節々が痛んだ。打ち身というやつだろう。死んでいないことは確からしい。
不思議に思って床を見ると、分厚いクッション素材でできていることがわかった。衝撃吸収機能がだいぶ優れているみたいだ。
マゴラはやおら立ち上がった。いつまでもここにいるわけにはいかない。あちこち体が痛むが、動けないほどの傷はない。これで帰れると思いつつ、近くに落ちていたピープレットを拾った。壊れていなかった。丁寧に折りたたんで尻ポケットに入れた。そして壁に向かう。あとは梯子を上るだけだ。
壁に近づく。壁面を見つめる。目の前の光景に思考が鮮明になる。
梯子がない。
つまり下に下りていない。それは当然だ。普段下に下りる者などいないのだから。それに先程、上に上がったままの梯子を見た。
見上げる。真っ暗だ。暗黒が重くのしかかる。天井は見えない。首が痛いのですぐやめる。
首飾りを強く握った。現実が急に押し寄せる。つま先からじわじわと恐怖が登ってくるようだった。たとえ大声を上げたとしても誰にも聞こえない。ここにマゴラは一人だ。深い深い奈落の底で、マゴラは、一人きりだ。孤独だ。誰もマゴラを助けてくれやしない。
嫌だ、怖い。死にたくない。いや、死んだ方がましだったのだろうか。孤独に消えゆくより、気づかぬうちに死んでしまった方が。
吸っても吸っても入ってこない空気。目の前がまた霞む。それでも懸命に体を動かして振り返る。何か策があるはずだと……。
「……」
だらんと腕が落ちる。浅い呼吸はとうとう止まった。まばたきすらも忘れて目の前の景色を見つめる。
鮮やかな青だった。地球だった。今までで一番近く、大きく、見える。
海があって、雲があって、大陸がある。地球人がいる。大好きな世界が、ほんの十歩ほどの距離にあるのだ。
マゴラはふらふらと地球に近づく。目の前の美しさを目に焼き付けながら、静かに周りを歩く。そして惹かれた一か所の前で足を止めた。どうやらそこは地球の日本の前らしい。
マゴラは手を伸ばす。垂れた腕を持ち上げて、指先を緑色に近づけて。マゴラの瞳に緑の光が閃く。
手に言いようのない感覚が走る。空間が一瞬歪む。慌てて手を引っ込めた。
「僕……何を……」
呆然として呟く。目の前の緑色が目を刺す。
今何をしようとしていたのだろう。なぜ決まりを破ろうとしてしまったのだろう。地球が大好きだ。だがそれは決まりを破る言い訳にはならない。
マゴラは一歩、二歩後退して地球から離れる。首を回して目を逸らすと、代わりに直方体の機械が見えた。欲望から逃れるためにその機械に駆け寄る。色々なボタンやレバーがついている。
これはアジャスト設定機だろう。そしてさっきの空間を歪ませたものがアジャストループ。アジャストループは惑星の周りを覆う透明の膜のようなものらしい。人が中に入る時に、体のサイズを調整するためのもの。アジャスト設定機はその大きさの倍率を調整するための機械だ。
前にサゴンがマゴラに教え込んだのだ。雑談の話題程度だったのだが、自分の仕事を誰かに知ってもらいたいという欲求もあったのかもしれない。
マゴラはアジャスト設定機を食い入るように見つめる。そして背後に感じる偉大な気配を忘れようとした。絶対に地球に触れてはいけない。決まりを破るようなことはしてはならないのだ。パソノルで教わるまでもなく自明のことである。
振り返りたい。近づきたい。触れたい。柔らかく頬を撫で、こちらへおいでと、楽しいよと、マゴラを呼んでいる。
青色の手が、緑色の手が、マゴラを手招きしている。
目を閉じ、深呼吸を繰り返す。そして欲を振り払おうとする。ひたすらに苦痛だった。ここから抜け出す方法もないのに、抗いがたい欲にまで耐えなければならない。脂汗が頬を伝う。異常なくらいに強く惹かれることがいっそ怖かった。こんなに我慢の効かない人間だったろうか。
吐く息の熱と音が奈落に響く。
あと何時間。あと何日。耐えればいい。そもそも助かるのだろうか。ああ、わからない。それなのに、欲を抑える意味は何だろう。
そうだ、その通りだ。そんな声が聞こえる。
意味ないよ。我慢なんて必要ない。
声は内から外から響く。反響する。
マゴラは、振り返る。
声の通りだ。誰にも見つからずに死ぬかもしれないのに、好きなものを我慢する必要なんてない。誰にもばれない。
言い訳が脳内を回る。足は地球に近づく。
日本の目の前に辿り着く。手は尻ポケットに伸びて、ピープレットを取り出す。目に当てて、手を地球内に伸ばす。
手がアジャストループを通り抜けて、空を進む。手に合わせてピープレットの倍率も調整していく。そうして最終的に手が向かったのは、地球の日本の、ある場所の高台だった。手の大きさは高木の幹を掴めるくらいに設定されていた。
風が吹いて、高台の雑草を揺らす。初めて感じる地球の空気。見るだけの時と大違いだった。臨場感とでも言おうか。これは想像でなく、現実なのだ。本物だ。ぶわりと興奮が胸を埋めていく。嬉しくて、罪悪感は心から締め出された。
生唾を飲み込む。手前で止まっていた手を、いざ地面に伸ばした。
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