第3話 奈落

 ピピピピッという目覚ましのような音で、はっと意識が現実に戻る。

「そいでよ……おっと、もうこんな時間か」

 サゴンが椅子に座ったままキャスターを利用して移動する。つなぎから覗くうなじのほくろがよく見えた。サゴンは監視モニター前の机にある時計を止め、また椅子ごと戻ってきた。

 救世主のような目覚ましだ。サゴンに昼食の時間を知らせるための音。マゴラにとってはサゴンの長話を中断してもらえる大切な音だ。

 サゴンは受付カウンターの下から弁当箱を取り出す。自然とそれに目が行く。

「えらく長いこと喋っちまったな」

 この様子を初めて見た時は驚いたものだ。サゴンは規則正しい生活とは縁遠い人物に思える。

「飯は大事だぞ。一日の活力。生きるエネルギーだ。食べられることに感謝だな」

 サゴンは目を細めて弁当箱の蓋に指をかける。その口元には笑みが浮かび、本当に幸福に思っているのだと理解できた。

蓋が開く。弁当箱の中は茶色だらけだ。確かにエネルギーになりそうではある。健康に繋がるかは疑問だ。

「うるせぇな。食いたいもん食えばいいんだよ」

サゴンはマゴラを睨みながら、弁当の中身を一口含んだ。おかずを嚥下して、すぐにまた一口。なんとなくマゴラはその様子を眺めてしまう。サゴンはその場に立ったままのマゴラに視線を向けた。

「……マゴラ」

「はい」

 サゴンは箸を止める。まっすぐサゴンが見つめてくるので、思わず見つめ返してしまう。するとサゴンは小さく笑った。

「いや……日が暮れる前にさっさと行ってこい」

「……あ、はい。ありがとうございます……」

 サゴンはいつもの調子で言った。その言葉があながち間違ってはいないのだから何とも言えない気持ちになる。とりあえず笑顔を返し、奥の扉に向かった。

 頑丈な扉を開けると、一気に空間が開ける。その差に目が白黒する。

ここは丸いホールのような場所で、直径は何十メートルあるのかわからない。天井はかろうじて見えるほど高い。一際目を引くのは扉から数メートル先にある穴。ホールの中心部に位置していて、その深さは森林街の木を何本繋げたら床につくのかわからないほどだ。奈落という言葉がぴったりに思える。その穴の周りには落下防止用の柵が巡らされている。そしてその柵の手前にピープが等間隔で並べられている。穴に降りるためのはしごは二か所だけで、無論職員以外が下りることは禁止されている。

 マゴラは柵に近寄ると、さっそくピープレットを目に当てた。穴の中には海王星と名付けられた惑星が展示してある。その展示物は深い青色をしたものだ。写真でしか見たことはないが、海がこのような色をしているらしい。確か紹介看板の説明文の中に『海の王』とあった気がする。穏やかで澄んでいて、とても美しい惑星だ。いつ見ても見惚れてしまう。

 ピープレットを覗きながら穴に沿って歩く。よくないとわかっているがもう癖になってしまった。幸い転んだことは二、三度しかない。

そのまま大して足を止めず、入ってきた扉とは反対側の扉に着いた。扉を開けて次の展示場に入る。次も前の展示場と同じ造りだ。ただ一つ違うのは展示されているのが天王星という展示物であることだけ。

 その中を海王星ゾーンと同じ要領で進み、また反対側の扉を開ける。そうして土星、木星、火星という名の展示物のゾーンを続けて見た。

 そうして三十分ほど経ったろうか。とうとう地球の展示場に繋がる扉にたどり着いた。

「……!」

 背中に悪寒が走る。マゴラは辺りを見回した。特に人の姿は見えない。

 おそらく冷房が効きすぎているのだろう。サゴンはガタイがいいせいか暑がりで、冷房の温度を下げがちなのだ。マゴラは一つ頷くと扉の取っ手に手をかけた。そして地球ゾーンに踏み込む。遠目にもその青が見えた。

 胸が躍る。もう何回も見ているのに、これは変わらない。ピープレットを覗くのも忘れて柵に駆け寄った。後ろで扉が鈍い音を立てて閉まる。

 眩しいくらいの青色を見つめながら、今日はどこを見ようかと考えを巡らす。地球は他の展示物と異なって、スサインに似ている。土があって草があって、水があって、生き物がいて、人がいる。一つの『世界』なのだ。だから魅力は倍増する。

 無我夢中で地球を観察していると、背後から扉の開く音がした。滅多に人が来ることはないのに、と振り向く。

「……っ」

 喉が強張る。息が詰まる。そこには今朝会ったばかりのエレスたち三人がいたのだ。なぜ、と考える間もなく、走り寄ってきたバゴウに肩を押される。

「え……?」

 ずるっと体が横向きに柵を超える。片手を柵に伸ばす。届かない。貧弱な脚を意味もなく伸ばす。柵にぶつかりすらしない。奈落が口を開けてマゴラを待っている。その暗黒を視界にとらえた瞬間、既に体は重力に従っていた。

「ひっ……」

 情けないことにこんな時にすらマゴラの口からは引きつった声しか出ない。大声で叫べばいいものを、あまりの恐怖に喉はすぼまるばかり。

「あっさり落ちたな!」

「……でもおいらたちやりすぎじゃないかな?」

「え……マゴラ、死んじゃうとか……?」

「……大丈夫だ」

「そ、そうか!」

「エレスが言うなら平気だな!」

 なんだか脳内がはっきりしている。三人の会話が鮮明に聞こえる。落ちる身体にかかる負荷のせいで、腹が置き去りになりそうだ。ぬるりと舌を伸ばす暗黒は、今か今かとマゴラを見つめている。耳横を過ぎる風は冷たく、首飾りを右へ左へ揺らす。手に残るピープレットは飛ばされてしまいそうだ。

 この高さから落ちたら死ぬのだろうか。まだたった十年の人生だ。十年しか生きていないのに、いじめられて殺されてしまうのか。それほど恨まれるようなことをしただろうか。いや、子供は残酷で、世界はどこまでも冷たい。ただそれだけだ。

 それだけのことが、酷く辛い。

 失神寸前のマゴラが考えたのは、そんな小さな恨み言であった。

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