第2話 ピープレット
痛くて涙が止まらない。血がにじむ箇所がひりひりする。鼻をすすると予想以上に大きな音が鳴ってしまった。薄暗い廊下にその音が響く。マゴラは思わず肩をすくめた。
「よっ、マゴラ」
無論マゴラに気づいているサゴンが、監視モニターのところから椅子ごと移動してきた。受付カウンターに肘をつきながら、マゴラの姿を眺める。
「お前さ、泣きながら来てばっかだな」
サゴンが苦笑する。もう遅いけれど慌てて目を強く擦って涙を隠す。サゴンには涙を見られてばかりだ。
「強く擦り過ぎると、目ぇ痛くなんぞ」
サゴンは言いながら、受付カウンターの下をごそごそと探る。
「あった、これだ。これやるから泣き止めよ」
「……?」
そして見つけたものを放り投げるサゴン。あたふたしながら受け取る。受け取れたことへの安堵が胸に登る。その感情は目の前の不思議な機械への興味ですぐに消えた。返事も忘れてしげしげと眺めた。
五角形のレンズを横にくっつけたような機械だ。折りたたんで持ち運べる。
変な見た目だ。初めて見る。
貴族しか持てないような高価なものなのだろうか。サゴンの身なりや様子、ここで働いていることからして平民のはずだから、その可能性は低い。
「それ、ピープレットっつーんだ」
「ピープ……レット……」
ピープレットは小さくて軽く、持ち運びに便利そうだ。厚みもそこまでないのでポケットに入れることも可能だ。二つの五角形のレンズをメガネの要領で目にあてがうと、目の前の世界が全て拡大される。右目側の五角形の側面には、調節ねじのようなものがついていて、それを回すと倍率が変わる。
「何に使うかわかるか?」
「……オペラグラスのようなもの、ですよね……」
宇宙街関係のもので、しかも望遠機能付きとなると、展示物を見る際に使うものだろう。宇宙街では建物だけでなく、展示物も全て巨大だ。宇宙街にあるものでピープレットと同じ機能を持つものが一つある。
「これって……ピープの、小型版……ですか……?」
ピープは地球のもので言う望遠鏡と似たものだ。ピープレットが持ち運び可能な拡大鏡なら、ピープは固定式の拡大鏡と言える。有料で時間制限付きだからあまり使ったことはない。
脳でぐるぐる考えながら目の前のサゴンを見る。
「正解。さすがだな」
するとサゴンはまるで正解を言うとわかっていたかのように笑った。
二つの名前はほぼ同じだから、一回でもピープを見たことがあれば誰でも正解できる。さすがと言われるほどのことではない。
それより今はピープレットだ。これさえあれば今まで苦労していた、というより不可能だった地球の細部も観察できる。宇宙街専用となると他の機能もついていそうだ。地球オタクの身としてはあっという間に気分が高揚していくもので。
だがその一方で素直に喜べない自分もいる。なぜならピープレットは一般向けに販売されていない。少なくとも人民街では手に入らない。すなわち職員に支給された物の可能性が高い。おそらく巡回の時などに使うためのものだろう。
サゴンとはかなり長い付き合いだ。その中で何かを貰うのは初めてだから、その事実だけで嬉しい。きっと色々考えた末に渡そうと思ってくれたのだろう。その気持ちも嬉しい。
マゴラの胸の内で光と闇が反発しあう。
「……いいん、ですか? これ……その……」
サゴンの顔を恐る恐るうかがう。
これが上の人に発覚したらサゴンに迷惑がかかる。下手すれば解雇だ。そして働き手が消え、人気もないと、宇宙街はそのまま終了ということもある。これほどの二重苦はない。
「いいんだよ。こんな施設で起こったことなんて取り沙汰されるわけねぇし」
「そう……かもしれない、です、けど……」
確かにサゴンの言葉は一理ある。影の薄い施設に視線を向けるよりも深刻なことは世の中に蔓延っている。だが本当にいいのだろうか。魅力がありすぎるくらいのものだし、使えるなら使いたい。しかしそれで迷惑をかけるくらいなら、いらない。
宇宙街もサゴンも、どちらも同じくらい大好きだ。
「いいから、ほら。貰ってくれた方が嬉しい」
「……そう、でも……」
「いいから」
「わっ……」
まだ渋るマゴラの肩をサゴンが乱暴に押す。マゴラはよろけて転びかける。なんとか持ちこたえる。
手の中のピープレットを見る。サゴンに押された肩は少し熱い。
これ以上渋ると、今ここでサゴンに迷惑をかけることになる。ピープレットは見つからないよう管理すれば済むことだし、サゴン側に探りが入っても、サゴンならいくらでもごまかすことはできるだろう。
振り返った。
「……ありがとう、ございます…………」
頭を下げて扉に向かう。いつのまにか涙は止まっていた。
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