サルディスの離宮

しーの

サルディスの離宮

 無論、王子とて最初から呪われていたわけではない。

 彼が此世このよに生を受けた時には、五体に何ら欠ける所のない玉のように健やかな御子であったし、赤児から少年へと変化しゆく様は瑞々しい若木が成長するかの如くであった。繁栄を極めるサルディスの都を治める王太子と妃の初めての子であった王子は、神話のアドニスもかくやという美貌の持ち主であり、両親はもとより祖父母である王と王妃の愛情を一身に受ける身であったゆえ。

 しかし、王子がよわい五つを迎えた頃、離宮に住まう〝王子〟が亡くなり、王家の呪いが幼い王子を蝕み始めた……。


 サルディス。

 緑深き溪谷と豊饒なる川の恵みゆえ、太古の時代から途切れることなく栄え続ける都市。  

 銀の弓引く光輝なる男神が未だ訪れぬ地において、浅き眠りに微睡まどろむ大いなる蛇神が夢見るままに人々に託宣たくせんを授ける時代に、その際立った爛熟と退廃と堕落を知らぬ者はなく、時として西のサイス東のバビロンを越えるとさえ云われる悦楽の都。

 されども、この魔都とも神都ともいうべき地を治める一族は、当然といえば当然のごとく呪われていた。

 その始まりを知る者はもはやなく、ただ往古の霧の彼方から連綿と続く血の鎖こそが、傲慢と冷酷でもって知られる彼らを懊悩させる所以であった。

 なにしろ先代が亡くなれば、呪いは即座に次代に引き継がれる。齢三十を越えることなく死す運命は、老人や壮年であれば当人は免れても息子や孫には等しく皆に降りかかり、しばしば男子は王と生まれたばかりの王子のみという事態も少なくはなかったからだ。

 余命幾許いくばくもなかった者の多くは、忌まわしくもおぞましい己の変化に耐えきれず、ほどなく発狂してしまったのだという。

 御身を蝕む呪いがゆえに、幼き王子には美しい瀟洒しょうしゃな離宮が与えられた。

 其処そこは代々の〝呪われし王子〟が住まいし宮で、たとえ死せれども出ることは許されぬ豪奢な檻であり、また彼を守護する絶対の防壁かつ砦でもあった。

 離宮に住まう者が何者なのかは秘されてはいたものの、サルディスに住む者であれば誰しもが知る半ば公然の秘密でしかなかったゆえ。

 父である王太子の苦渋や母妃の嘆き悲しむ声を背に、居を移した王子を迎え入れたのは歴代の王子に仕えてきた離宮の人びとだった。先代の記憶も生々しく残るがゆえに、よりいっそう彼らはこの幼き王子を哀れみ慈しんだ。

 中でもいっとう側近くで甲斐甲斐しく王子に仕えたのは、まだ若いラウィーニアという名の侍女である。最初こそ見知らぬ者らの間で戸惑っていた王子も、乳母役を務めるこの侍女には顔を合わせた時から懐き、次第次第に離宮での暮らしに馴染んでいった。

 幼年ゆえと言ってしまえばそれまでだが、周囲が思っていたよりも早く王子が適応できたのは、この侍女の──正確には彼女の娘のおかげであった。

 ラウィーニアには自身と同じ名の生まれて間もない娘があり、己よりも小さくか弱い存在に初めて接した王子は、この赤児は自分が庇護してやらねばならぬとの思いを強く抱いたのである。母と同じ白子アルピノの赤児はたいそう愛らしく、その淡紅色の瞳は珍しい宝石のようだった。王子は小さなラウィーニアを可愛がり、離宮に仕える人びとは彼らをじつに微笑ましい思いで見守った。

 母娘との穏やかな生活は続いたが、十年目、性質タチの悪い風邪が都に流行し、乳母であるラウィーニアが儚くなってしまう。王子と小さなラウィーニアの悲嘆は一入であったけれども、残された二人は互いの存在に慰められゆっくりと悲しみを癒していった。




 やがて王子の祖父である王が崩御し、父の王太子が位を継いだ。

 粛々と先王への礼を尽くした葬儀を終えた王宮で、古来よりの慣例に従い新王の即位は厳かに執り行われた。

 この時、王子はすでに二十歳を超えていたが、呪いはさほど進行してはいなかったゆえ、傍目には凛々しくも見目麗しい青年でしかなかった。

 王子が離宮から出ることは決して許されていなかったが、王宮から使者が寄越されるのは珍しいことではなく、また、年に一度だけは両親が揃って彼の元を訪れた。

 あまりにも不憫で痛ましい宿命を課された息子の成長を、王夫妻は幾許かの罪悪感と諦念、そして多大なる愛惜をもって見守ってきたのである。

 父王の即位にあたっての式典に参加こそしなかったが、心を込めた王子からの贈物に王はいたく心動かされた。王子は今も昔も自慢の愛する息子であり、本来であれば己の跡を継いで王位に就くべき者であったから。

 わずかに余韻を残しつつも都中が落ち着きを取り戻した頃、王の言伝をたずさえた王妃がひっそりと離宮を訪った。その日、愛する息子を見舞う王妃の随伴のなかに、一人の年若い姫君がいた。

 王妃の姪にあたるこの高貴な姫君は、離宮に住まう王子をひと目見た途端、奇しくも愛慾の神の矢に心の臓を射抜かれてしまったのだった。

 じつに憐れなことである。

 ところで王子の母である王妃はサルディスの出ではなく、港湾都市スミルナを治める大貴族の出であった。それゆえに件の姫君も王家の呪いについて詳しいことは知らされていなかったと云えよう。たとえ、それがサルディスでは半ば公然と囁かれる秘事であったとしても。

 王子に恋い焦がれるようになった姫君は、少しでも彼の姿を目にしたいと王妃のもとに身を寄せ、しばしば王妃の名代として離宮を訪うようになった。

 王妃の姪であるということは、王子自身にとっては従妹にあたる。離宮での静穏な暮らしに満足していた王子は、この従妹姫の来訪を内心では歓迎していなかったものの、母王妃の手前そう無碍むげにすることもできず、王子に仕える者らも対応に苦慮することとなった。

 なにしろかの姫はスミルナ領主の子女のなかでも唯一の嫡女とあって、父親や年長の兄たちがこぞって溺愛してきた娘だ。取り扱いには慎重を要する。スミルナ領主自身、このような娘の行動に頭を痛めていたのだが。

 良くも悪くもこの姫君の存在と行動は、波ひとつなかった湖面に落とされた小石のごとく次々と波紋を拡げてゆき、後にサルディスを襲った厄災の火種となるのである。

 さて、かくのごとき離宮での日々の変化において、最も顕著に影響を受けたのがラウィーニアだった。

 いとけない幼女の頃から王子の側近くにあった若い侍女の存在を、姫君は当然のことながらこころよく思うわけもなく、何かと風当たりが強くなるのは致し方のないことではある。

 そのラウィーニアの見るところ、王子は明らかに従妹姫が苦手であった。

 王子自身にも同腹異腹を問わず妹はいるのだが、すべて彼が離宮に住まうようになって以降の生まれである。顔を合わせたこと自体が数えるほどしかない。

 恋に恋する年若い少女は、静謐を好む離宮において明らかな異分子であった。

 この離宮はいわば代々の〝呪われし王子〟のための墓標である。王子にとっては生きながら埋葬されている事実に変わりはなく、いかに典雅に快適に整えられていたとしても、ここは死にゆく彼のための霊廟だ。

 ──死者は喧騒を好まない。



 ゆるゆると、しかし確実に日は流れる。

 王子を蝕む呪いは日毎月毎に進行してゆき、やがて彼が宮の奥から姿を見せることがなくなると、人びとは来るその時が近づきつつあることに不安を隠せないでいた。

 とは言えど、王子の世話をする者は必要である。やはりと言うべきか、唯一、ラウィーニアだけは側近くあることを許され、閉ざされた宮の奥へと出入りすることができた。

 王子を慰めるために奏でているであろうラウィーニアの箜篌くごの音が漏れ聞こえてくるにつれ、古くから離宮に勤めてきた者は王子の運命に心を痛め、あるいは同様であった先代の最後を思い出して涙した。

 そのなかで大いに不満を抱いていたのが、かのスミルナの姫君である。恋い慕う王子を見ることもできず、見舞いを申し込んでも断られることにひどく腹を立てていた。大貴族の姫君らしく無碍にされることに慣れていないのである。

 従妹姫である自分は会えないのに、あのラウィーニアは王子に会えるのだ。納得がいかない姫君は王妃に向かって切々と訴えたものの、さすがの王妃も事ここにおいては王子の希望を優先させた。

 王も王妃も愛する息子の心の安寧が第一であったし、王宮の人びとからしても王子を煩わせるのは本意ではなかったからだ。

 姫君は王家の呪いがどのようなモノなのか理解していなかった。

 呪われているならば、呪った者がいるはずだ。昔から離宮には魔女が棲んでいるという噂がある。ラウィーニアは離宮の人間だ。ならば、魔女はラウィーニアに違いない。そう考えたのである。

 実際、白子特有の白髪赤目に真白い肌というラウィーニアの特異な容姿は、黒髪に黒い瞳、明るい肌の者が大半を占める地ではひどく目立つ。そして、彼女も、彼女の母も、そのまた母も白子アルピノであり、何代にもわたって常に同じ名で呼ばれてきた。ゆえに、事情を知らぬ者がそう噂するのも無理はなかった。

 それにしてもおかしなことに皆が皆、彼女らの父については口の端に乗せることすらしなかった。いないはずがないのに。

 誰もが知っていて、誰もが口を閉ざす。

 自身が高貴なる身分にあることを疑いもせぬ姫君ゆえ、たかが端女はしためとラウィーニアの出自に目を向けることもなかった。周囲の者も話さなかった。

 姫君は疑問を持つべきだった。持つべきだったのだ。



 その昔、いまだサルディスの都が小さく人口も多くはなかった時代、離宮は多数の王族が暮らす王宮であった。都が繁栄し規模を大きくしてゆくにつれ、手狭になったがゆえに新しく建てられたのが現在の王宮だ。

 この時代この国において、王とは神の代理人である。

 本来、神を祀る神殿こそが中心にあり、隣接する王宮はそこから派生したものに過ぎない。もちろん宮廷が肥大するにつれ大きくなった王宮同様、神殿もまたサルディスの栄華を象徴するものとして新たに建設された。

 巨大な柱が無数に立ち並ぶ聖殿、精緻を極めた人面獣身の有翼獅子の浮彫が守護する門の威容は、仰ぎ見る者のことごとくを驚嘆させずにはおかなかった。

 建物の中では聖別された火が途切れることなく燃やされ続け、祭壇には花や酒に麵麭パンや鳥獣の肉といった供物が常に捧げられる。儀式の度に祝詞のりとを挙げる神官たちの唱和する声は荘厳に響き合い、伶人がくじんらの奏する楽の音は妙なる旋律と拍子を紡ぎ出し、花冠を被った若く美しい神女らは手平金シンバルや鈴を鳴らして華麗に舞い踊った。

 虚なる神像の前で。

 彼らの父祖が崇め奉った〝神〟の真の姿から目を逸らすがごとく。

 ゆえに目を眩まされた姫君が愚かな振る舞いを為したところで、大いなる古き神々からすれば驚くには当たらない。神々の冷笑にすら値しないことは確かだ。

 人も蟻も似たようなものゆえ。

 しかし、暗闇の彼方の影に潜む何かが微笑んだのもまた確か。多分に嘲笑じみてはいたが。

 予兆はすでにあった。

 この日がそうであったというだけの話。そう、それだけのこと。

 先触れもなく離宮にやって来た姫君は、随分と思いつめたような顔をしていた。ひどく青ざめているものの頬は紅潮し、内心の昂りを表した黒い眸の輝きは異様なほど。その姿を目にした奴婢らが皆一様に恐れ怯えたのも無理はなかった。

 王夫妻の許可を得ぬ訪問は認められぬこととして、やんわりと押し留めようとする宮人の声を黙殺し、衛士えじを連れた姫君は強引に奥津城おくつきへと通じる黄金で飾られた黒檀の扉の前に立った。

 恋しい王子を呪いから解き放つべく。

 離宮に棲む魔女を殺してしまえば、王子を蝕む呪いなど消えてなくなる。そうすれば彼と会うのに何の障害もなくなるし、結婚することだってできるだろう。きっと国中から祝福されるはずだ。

 そのためには一刻も早く、あの魔女を捕らえねばならぬ。

 ふつり。

 切れ切れに漏れ聞こえていた箜篌くごの音が止んだ。

 姫君の紅で彩られた美しい唇が弧を描く。声を上げようとする老いた侍従を、衛士の一人が押さえつけ、無言で殴りつけた。

 そっと扉が開かれる。

 瞬間。

 姫君の意を受けた衛士の剣の切っ先が、ラウィーニアの心の臓を真っ直ぐに貫いた。

「魔女め!」

 侍従が悲鳴を上げる。

「お前が死ねば、あの御方は解放される!」

 この姫君はいったい何を言っているのか。

 気が触れたとしか思えぬ暴挙に、侍従は枯れ木のような身を震わせた。

 終わりだ。

 いま、この時、サルディスは滅びる。



 ───ずるり、と音がした。



 扉の向こう。

 暗闇に閉ざされた奥津城の内側で蠢く気配に、侍従ばかりか姫君の衛士らも我知らず総毛だった。

「ラウィーニア?」

 蜜のごとく甘く麗しい声が響く。

 それは確かに王子の声に他ならなかったが、毒を孕んで尚甘い美酒を思わせる禍々しさに満ちていた。

「どうした、ラウィーニア」

 彼の声に反応したのは、当然というべきかスミルナの姫君だった。

「王子」

「……従妹どのか」

「お久しぶりでございます、王子。ようやくお声が聞けましたわ」

 嬉しげに会話を始めた姫君は、足元に横たわる娘のむくろなど気にも止めない。たかだか端女にすぎぬ女など処分してしまったところで何の問題があろう。

 第一、この娘は王子を呪う魔女なのだ。

 あまりにも近くにあったせいで、少しばかり情を移してしまっているかもしれないが、そもそもの原因が娘であったことを知れば、いかに優しい王子といえど魔女との記憶など厭わしく思うに違いない。

 姫君は満面の笑みを浮かべた。

「お側に寄っても?」

「よかろう」

 喜び勇んで姫君は扉の奥へと消えた。



 直後、この世のものとも思えぬ悍ましさに満ちた悲鳴が谺した。



 一度は閉じたはずの扉が開く。

 足元を縫い付けられたように動けなくなっていた衛士らの身に、扉の奥から飛び出た数限りない小さな黒い影の塊が次々と襲いかかってゆく。

 男たちの間から断末魔の絶叫が上がる。

 その塊は鼠に似ていたが、似て非なるモノであることは明白であった。膚を、肉を齧られる度に、黒い黴のごときシミが全身に拡がって腐り果ててゆく。

 酸鼻を極める光景を、老いた侍従は戦慄しながら見守るしかなかった。

 王子の住まう離宮の奥津城は、元々は名を秘された神を祀る神殿であった。様々な添え名をもって呼ばれる異形の神は、太古の昔、こことは異なる次元、異なる星々の彼方から降り立ったものの一柱であるという。

「ラウィーニア」

 深淵よりも尚深く、暗黒よりも尚暗い闇に潜みしものの声。

「ラウィーニア」

 光り輝く闇に彩られた眩い時空と次元の狭間の玉座に坐すものは、善にして悪、悪にして善なる虚無に他ならぬ。

「ラウィーニア」

 三度、同じ呼びかけを繰り返した後、扉の奥から姿を現した王子は周囲の光景には目もくれず、事切れている娘の骸の傍らに膝をついた。

「目醒めよ」

 王子の唇が色を失った娘の唇に触れる。

 ゆるゆると真白い娘の頬に血の気が戻ってゆく。傷つけられた心臓は瞬く間のうちに修復され、身につけていた衣服に綻びすらも見つけられなくなった。

 閉じていた瞼が震え、ラウィーニアは目を開く。

「我が母、我が妻、我が娘。尊貴なる我が姉にして愛おしき妹よ」

 ラウィーニアが微笑む。

「吾が父、吾がつま、吾が息子。唯一にして至高なる吾が兄、愛すべき弟よ」

 たおやかな白い腕を伸ばし、そっと王子の額に口づけた。

「愛しき吾が背の君」

 人のかたちはしていたものの、いまや両者は明らかに人ではない何かであった。

 片隅で平伏していた侍従はヒトならざるものの交歓を、目を閉じ、耳を塞ぎ、五感の全てを閉ざすことでやり過ごした。

「さて……この成形なりでいられるのも僅かの間だけだが」

「致し方ありませぬ。御身は強大に過ぎますゆえ」

「したが、まぁ、少しばかり余裕はあろう。其方と一緒に新たな種子たねを蒔いてやれば、しばらくは退屈せずにすむというもの」

「この地は如何なさいます?」

「飽いた」

 ぞろりと王子の足元の影から何頭もの巨大な狼にも似た獣が這い出し、大鴉を思わせる漆黒の鳥の群れが飛び出す。

 鼠の形をした何かと共に大挙して離宮の外へと流れ出てゆく様は、永年の栄華を誇ったサルディスの滅亡を告げる使者であった。


 これこそがサルディスを襲った厄災の顛末てんまつである。

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サルディスの離宮 しーの @fujimineizm

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