姉が恋をしたようだが。

そうま

姉が恋をしたようだが。

「それでね、伊藤君普段は物静かなかんじなんだけど、話してみたら意外とよく笑うし、その笑顔がすごくよくて、体育の時間とか、いつもはおとなしいのにバスケとか上手でシュートも決めちゃうし、華奢にみえて実は背中おおきくてそれから」

 そうなんだ、と母はさっきからずっと同じトーンで相槌をうっている。父はとっくの前に自分の取り分の青椒肉絲を平らげて、むこうのソファに横たわり野球中継を見ながらぶつぶつひとりごとを呟いている。

 ぼくは食べるのが遅いせいで、姉のこの「伊藤君かっこいいトーク」を毎日夕食の間ずっと、聞くはめになっている。

 姉の言う伊藤君のかっこいいところは毎回似たようなことばかりで、それを2週間くらい延々としゃべり続けている。

 はじめは熱心に耳をかたむけていた母も、さすがにこのところ辟易しているようで、姉が「今日伊藤君が」と口を開いた瞬間から顔のしわが3割増になっている気がする。

 それでも、母がちゃんと話を聞いてあげている甲斐あって、ぼくや父にそこまで被害はない。しかし、夕食の席に着くのがだんだんおっくうになってきているのは確かだ。

「ごちそうさまでした」

 苦手なピーマンをなんとか胃に押しこんだぼくは、食器を片付け、母のじっとりした視線を背中に感じながら、食卓をあとにした。




あずま、お前最近変だぞ」

 2時限目で使った古典の教科書を鞄に詰め込んでいると、隣の高井が話しかけてきた。

「何が」

「さっき田中に問題あてられて、何も答えられなかったじゃん」

 高井の言うように、先生の話は全く聞いていなかった。

「心ここにあらずって感じだな」

「そうかな」

 ノートをとろうと黒板を眺めていたけど、脳内では姉の伊藤君トークが延々と木霊していたせいだ。

「ノイローゼなのかもしれない」

「なんだそれ」

 そういえば、高井はあの伊藤君と同じ中学に通っていたはず。

「伊藤さんなら、バスケ部の先輩だったぜ」

 高井はスマホを取り出し、指を踊らせる。画面には、男女の2ショットが映された。

「これが伊藤さん」

 高井が指をさす。色白で、優しい目元をした、顔の輪郭が整ったイケメンだった。

「大人しいけど、面倒見のいい先輩だった。俺も色々世話になったし」

「隣の人は?」

「伊藤さんの中学の時の彼女」

 伊藤君にお似合いの、可愛い女の子だった。

 しかし、なぜ高井が彼らの2ショットを持っているのだろう。

「細かいことは気にすんな」

 高井はスマホをポケットの中へ無造作に突っ込んだ。

「急に伊藤さんのこと聞いてくるなんて、何かあるのか」

「それが、ぼくの――」

「ぼくの?」

「ぼくの知り合いが、気になってるらしくて」

 嘘は、ついていない。

「ああ、そういうことね」

 高井の顔がすこし曇る。と、そこで予鈴が鳴った。数学担当の角刈りメガネが鼻息荒く教室に入場してくる。

「伊藤さんはやめといたほうがいいよ」

 授業の準備をしながら、高井が呟いた。




「今日もね、伊藤君笑顔がすごくよくて、話してみたら意外とよく笑うし、普段は物静かなかんじなんだけどね、華奢にみえて実は背中おおきくて、体育の時間とか、いつもはおとなしいのにバスケとか上手でシュートも決めちゃうしそれから」

 相槌をうつ母はすっかり上の空だ。箸をくるくる回しながらぼーっとしている。

僕の取り皿の上の麻婆豆腐は、まだ半分以上残っていた。姉の饒舌な語りも、あまり耳に入ってこない。

 今日の、高井のあの一言が気になっていた。

『伊藤さんはやめといたほうがいいよ』

 同じ部活に所属していたのだから、伊藤君の人となりを分かったうえでの発言だったはず。それはぼくには忠告のように聞こえた。

 なぜだろう。伊藤君に、何か問題でもあるのだろうか。

 姉を見る。だらしなく口元を緩めて、うっとりしながら心行くまで伊藤君を愛で語っている。

 元バスケ部だとも知らずに、彼のシュートに惚れ惚れしているような人だ。伊藤君とは親しい関係のような口ぶりだったが、彼のことがくっきりと見えているようで、実際まだ何も知らない状態なのだろう。

『やめておいたほうがいい』

 豆腐と肉をタレにからめ、スプーンですくい口へ運ぶ。高井の言葉が、頭から離れなかった。




 翌日。伊藤君のことが気がかりで、何一つ授業に集中できなかった。完全に一日を棒に振ったといえる。いやな気分だ。

 靴箱に上履きを入れ、ローファーを取り出す。靴に足を押しこむ時、かかとのまわりはもう軟らかくなっていて履きやすかった。

 生徒玄関をくぐると、空はすっかり夕暮れ時だった。

 秋風が少し肌寒い。走り込みをする運動部に紛れて、正門へ。のんびり歩く男女ペアの中に、見覚えのある人がいた。

 色白で、優しい目元をした、顔の輪郭が整ったイケメン。

 伊藤君だ。正門に肩を預け、女の子と何やら話していた。

 隣を通り過ぎる時に、横目で見てみた。相手は姉ではない。すこし気の早い赤チェックのマフラーに、茶色の髪がのっかっていた。メイクばっちりの、なかなか派手な風貌だ。おそらく、2ショットに写っていたあの彼女とも違うだろう。

 二人の関係性は分からないが、お互い楽しそうな表情をしていた。正門からしばらく歩き、信号につかまる。じっと青信号を待つ間、食卓で楽しそうに話す姉の姿が脳裏に浮かんだ。




 さらに翌日。正門には、伊藤君の姿。昨日とは違う女の子と談笑していた。

 そのまた次の日。正門には伊藤君と、女の子が二人。前の日までとは違う、見たことのない二人だった。

 僕の中で、伊藤君への不信感が日に日に増していった。毎日のように、違う女の子と二人で仲良く話している男ってどうなんだろうか。もちろん、彼の行動を四六時中観察しているわけじゃないから、それだけで彼の性格を評価するなんて、間違ってるとは思うけど。

 女の子と話す彼の優しい目元に、だんだんと影が落ちているように見え始めた。




「それでね、高子にも聞いてみたんだけどやっぱり伊藤君いい人らしくて、話してみたら意外とよく笑うし、普段は物静かなかんじなんだけど、その笑顔がすごくギャップがあって、華奢にみえるんだけど実は背中おおきくて、体育の時間とかバスケで」

 母は目をつぶり、定期的に頷くだけのマシーンと化していた。

 姉のいう高子さんは、彼女の小学校来の親友で、勉強の得意な優等生だった。昔はよく家に遊びに来ていたが、最近はすっかり姿を見ていない。

 今日も姉のトークは止まらないが、僕はそれどころではなかった。晩御飯のビビンバ丼には手をつけられず、米粒はもう固くなっている。

 姉に、伊藤君のことを話すべきだろうか。彼女はいつものように満面の笑みで伊藤君へ思いを馳せている。言えない。ぼくは、ビビンバ丼の上の、てかてかの卵の黄身を見つめる。

「それでね、私、明日、伊藤君に告白しちゃおうと思って」


 母はようやく訪れた話題の新展開に、目の輝きを取り戻した。「そうなの」と姉の次の言葉を待っている。

 いや、それどころではない。告白?ちょっと待って。本気で言ってるのだろうか。本気で言っているのだろう。

『伊藤さんはやめといたほうがいいよ』

 どうすればいいのだろう。伊藤君への不信感は拭えないが、姉の想いを邪魔するわけにもいかないし。

 盛り上がる二人の横で、ぼくはじっとしてる他なかった。




 翌朝。学校へ向かう足取りは重かった。

 姉は今日の放課後16時、校舎の屋上に伊藤君を呼び出し、告白するらしい。

「うまくいくといいね」

 と、母は言っていた。たしかに、上手くいってほしい。しかし、成功したらそれはそれでそのさきも不安だらけなことに変わりはなかった。

 足元に落ちていた目線を上げると、遠めに伊藤君の姿が見えた。となりには、赤チェックのマフラーを巻いた茶髪の女の子。見覚えがある。先日、伊藤君と正門前にいた人だ。

 彼女は鞄から何か取り出し、伊藤君に手渡した。足を止める伊藤君。女の子の方は先へ走って行ってしまった。

 すれ違い際に、彼の手元をみた。彼の右手には、白い封筒が握られていた。




 あっという間に放課後になった。朝見た光景とあの封筒が、脳にこびりついて離れない。

 あれは一体どういうことだろう。わざわざ手紙を手渡しするなんて。目的は?まさか、告白?そんな間の悪いことなんてあるのだろうか。

 教室に残っているのはぼく1人。時計を見る。15時55分。予定の時刻まであと5分。

 姉さん。それ、片思いじゃない?

 ずっと口にしたかった言葉がつい漏れそうになる。

 ぼくは立ち上がり、教室を出た。屋上へ通じる階段の方へと向かう。頭の中はぐちゃぐちゃにこんがらがっていたが、体は勝手に動いた。

「あれ、東くん?」

 早足で廊下を進んでいると、後ろからそう聞こえた。振り向くと、あの茶髪の女の子が立っていた。

「やっぱりそうだよね、久しぶり!私のこと覚えてる?」

 ぱっと見のいで立ちに似つかわしくない、整然とした口調だった。混乱が加速する。誰だろう。こういう感じの知り合いはいた覚えがない。

「すみません、あなた誰ですか?」

 赤いマフラーに隠れた口元は、やさしい笑みを浮かべていた。




「それでね、伊藤君とマックに行ったんだけど、すごく楽しくて、ちょうど期間限定の月見バーガーがあったから食べたかったんだけどやっぱりダブルチーズバーガーも食べたくてどうしようか迷ってたらじゃあ僕が月見バーガー頼むから半分ずつ食べ」

 そうなのか、と父が慣れない相槌をうっている。今日は母が出かけているので、姉の伊藤君かっこいいトークもとい彼氏とののろけ話の餌食になったのは父だ。皿によそわれた本日の主役である油淋鶏も、もうすっかり冷めきっている。

 あの茶髪の女の子は、姉の親友・高子さんだった。風貌はすっかり変わっていたが、話してみると、当時の落ち着いた優等生の雰囲気は健在だった。

 朝、伊藤君に渡した封筒は、姉から伊藤君へ宛てた放課後の呼び出し文だったらしい。自分で渡すことを躊躇した姉に、高子から渡してくれ、と頼み込まれたと明かされた。

 伊藤君と正門で代わる代わる話していた女の子たちは全員姉の友達で、伊藤君の交友・恋愛関係や姉への気持ちなどを、あらかじめ本人から聞き出していたらしい。

 つけあわせのキャベツを頬張りつつ、姉を見る。告白が成功し、とても幸せそうな笑顔。油淋鶏などそっちのけで伊藤君のことを話している。

「あれ、もうこんな時間か。すまん、野球中継が始まるから、その話はまた今度聞かせてくれ」

 冷めた油淋鶏を一気にかきこみ、そそくさと食器を片付けた父は、姉の制止を振りきり、食卓をあとにした。

「あ、ちょっとお父さん!もう、せっかくいいところだったのに」

 テーブルにはぼくと姉の二人だけが残る。彼女はぼくに向き直って身を乗り出した。

「今日はお母さんもいないからさ。あんた、私の話聞いてくれない?」

 満面の笑みを浮かべて迫る姉。ぼくは目を逸らす。リビングの父と目が合った。父は慌ててTVに視線を戻し、わざとらしくチャンネルをこねくり回し始めた。

「今日、実は伊藤君に告白したんだけど――、」

「……うるさい」

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姉が恋をしたようだが。 そうま @soma21

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