第7話 それが自分であるならば
「ふー。やっぱり風呂はいいもんだ」
湯気が立ちのぼる浴槽に肩まで浸かり、修行による疲れを癒していた。
今日は四の月の十四日。修行開始からちょうど一ヶ月。
湯船に浸かっている自分の体は引き締まっていて、修行の成果が如実に出ていることを感じさせる。
「明日はいよいよ試験かー」
入学試験を明日に控えた俺の気持ちは、自信半分、不安半分といった感じだった。
この一ヶ月の修行を疑っているわけではない。師匠は俺の実力を上げるために手を尽くしてくれたし、俺も自分ができる精一杯のことをやってきたつもりだ。
不安なのは試験を受けるライバルたちのことだった。
彼らがどれほどの実力を持っているのかわからない。俺を襲ったメレスザードや師匠ほどの実力者はいないだろうが、それに近しいものがいる可能性はある。
異世界人は才能があるといってもそれだけで勝てるような世界でないのは、この一ヶ月ので痛いほどわかっていた。
願わくば、入学試験がそんな強者と戦うような内容でないことを祈るばかりだ。
「さて、と」
体が十分に温まったので浴槽から上がり、寝巻きに着替える。
話があるようなので居間に移動すると、師匠は腕組みをしながら神妙な面持ちで椅子に座っていた。
「話って明日の入学試験のことですか師匠」
「違う……いや、少し関係があるかな。君のこれからについて一つ重大なことを決め忘れていてね」
「重大なこと?」
頭の中を探ってみるが師匠の言う重大なことが何なのか見当がつかない。
「
「俺の……名前?」
家入瞳時。
元の世界では別段おかしい名前ではないが、この魔術世界では奇妙な名なのだろうか。
「君の名前は漢字で表されたものだろう。そうすると少し困ったことがある」
「ん?漢字ってこの世界で使われてるから、大丈夫だと思ってたんですけど」
事実。修行中に魔術に関する書物を読み漁ったが、この世界の書物には漢字が一般的に使用されていた。そのことから、文字の文明的には元の世界と大差ないだろうと考えていたのだが、違うのだろうか。
「もしかして人名には漢字使われてないんですか」
「いや、使われてはいる。いるのだが……その数は少ないんだ」
「でも実際にはいるなら問題ないのでは?」
彼の言わんとすることがいまいち見えてこない。
名前が漢字で表されているのが俺だけだったら、注目を浴びるだろうが、他に例が存在するのならそこまでではないはずだ。せいぜい少し珍しがられて終わりだろう。
「かつて異世界人が慕われる存在だったことは話したよね。その中でも特に魔術に貢献した人物は歴史に名を残し、多くの人々に知られている。その名前のほとんどは漢字名なんだ」
「……はあ」
なるほど、わかったぞ。師匠は俺が漢字名を使うことによって異世界人であることがバレていることを恐れているのか。
俺がこの世界で出会った人物は数えるほどしかいない。
師匠の反応を見るに、俺が異世界人であることはまだ他の人には知られていないのだろう。
魔術の世界の統治系統は知らないが、異世界人がきたことを知らせないのは決まりのようなものなのだろうか。
「でも漢字名って魔術世界にも普通にいますよね。だったら漢字名だけで決めつけられるようなことなないのでは」
「確かに漢字名は人口の一割ほどだが……」
一割。この世界の総人口は知らないので、仮に十億人としよう。その中で一割は一億人ほどだ。
実際にはもっと少ない可能性もあるだろう、しかし人口における一割はそれほど小さい数字ではない。
異世界人として疑われる理由にはまだ弱い。だとすると——
「まだ理由があるんですね」
「その通り。疑われる要素はいくつかあるがその中で最も厄介なのが君のプロフィールだ」
師匠は困り顔で言った。
確かに学園に入った際、自分のことについてどう話すかについては考えていなかった。
異世界人が恐れられているこの世界で俺の素性をバカ正直に明かしたらどうなる。周囲から奇異の視線で見られ、距離を置かれるのは避けようがないだろう。それだけならまだしも、メレスザードのように俺を殺そうとするものが現れる可能性だってある。
あらかじめ、設定のようなものを決めておいて、俺の正体がバレないようにしなければならない。
そこからはお互いに知恵を絞って、どんな設定にするかを話し合った。
「俺、なるべく自分に近しい設定の方がいいです。変な設定だとうっかり矛盾したこと喋っちゃいそうで」
「うーん。記憶喪失とかどうかなと思ったんだがなー」
記憶喪失ということにすれば、この世界について無知であることを不思議には思われないだろうが、注意を怠ると無意識に本当のことを喋ってしまいそうだ。
仕方ないとはいえ、他者に偽りの名と事実を話すことに抵抗を覚える。
元より、嘘をつくのはあまり好きではない。できることなら自分を偽らずに他人と接したい。
しかし——
異世界人は災いを引き起こす存在
メレスザードに言われた言葉が脳裏に蘇る。
周りから腫れ物のように扱われ、陰口を叩かれるようなことになったら俺は耐えられない。
これ以上悲しみを背負うのは無理なのだ。
俺は親友や家族と離れ離れになっている事実をなるべく考えないようにしていた。事実を胸の奥にひっそり隠して見て見ぬ振りをしている。
隠さなければ、俺は何もできなくなってしまうから。
学園に入るのは魔術師として強くなるためだ。だが、その目的にだけ一直線に向かえるほど俺の心は強くない。
全ての人間に好かれたいわけじゃない。せめて隣で共に歩む友達が欲しい。
「家入、そんな落ち込んだ顔をするな。僕も君のフォローはするから。ほら明るく明るく」
俺の心情を察したのか、師匠が励ましてくれた。
そうだ。明日は入学試験なのだ。落ち込んでいては悪影響が出でしまう。
「じゃあ、一緒に考えようか」
「はい!」
それから俺と師匠は時間が許す限りでどんな名前にするかを話し合った。
※※※※ ※※※※※※※※ ※※※※
一夜が明け、待ちに待った入学試験の日がやってきた。
特別な日は窓から差し込む日差しがいつも以上に輝いて見える。
体調は万全。適度な緊張感と自信が心を包み、精神も安定そのものだ。
軽く手足の筋肉をほぐしたら、師匠が用意してくれた試験者用の服に着替える。
服は藍色と黒色であしらわれたシンプルだが丈夫そうな服だった。どこか軍服に似たデザインが、魔術師がどういう存在なのかを想像させる。
「考えるより、実際に見に行った方がいい」
この世界のことをまだ俺は全然知らない。だから見に行くのだ。
今日、入学試験に受かって。
服を着替え終えたら体の中の魔力が正常であることを確認し、左腰に魔導具の木剣を差す。
準備を終え居間の扉を開くと、師匠が椅子に座っていた。
「似合ってるよ。
「 ——はい」
イェーリ・ドージ。
昨日の夜、散々考えて考え抜いて決めた、この魔術世界で生きていくための俺のもう一つの名前。
と言っても、元から大きく変えてはいない。イェーリは家入の呼びをカタカナに変えてアレンジしたもの。ドージは元の世界で呼ばれていたあだ名の一つをそのまま引用したもの。
元の名前を使わないことにまだ納得し切れていないが、それでも今は進むしかない。せめてできるのはこの名前を使うことに責任を持つことだけだろう。
「さて、行くか。調子はどうだ?」
「万全です!」
今日、俺はイェーリ・ドージとして新たなターニングポイントを迎えようとしていた。
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