しっぽ髪とバクラウァの夜
我が名はケト、
我があるじシェマ・クァタは出航するなり「海に向かって叫ぶ」という奇行をやってのけ、以降は口数少なく水平線を眺めるばかりだ。
あるじとの付き合いはそこそこだが、突発的な行動をした後しばらく静かになるのは、以前にも見たことがある。
だいたい二年ほど前の秋の終わりのことだ。あるじは白い息を吐きながら帰ってくるなり「バクラウァを作るわ」と宣言した。
私はと言えば暖房兼炊事用のコンロ台の前に陣取りぬくぬくと全力で火の番をしていたところで、あるじの気まぐれに付き合って火の前から
「あるじよ。突然に菓子をつくろうなどと、どういう風の吹き回しか」
我があるじはあまり料理を好む
下から見上げると、あるじの蜂蜜色の瞳がやけにぎらぎらとしていたので、やはり何かあったのだろうとは思った。
この日、あるじは袖にされたのだ。
想い人たる我があるじが遠く離れたとたんに、手紙の一つも寄越さなくなった男だ。どうにもそんな予感はしていた。
高貴なる
そもそも、アヴァツローの魔法協会から遠く離れたこの
二年である。
陸路を六日、船で二日かけてようやくたどり着く街へ、二年間の派遣である。
「世界で活躍する君が見たい」
とその男は言った。王族たる私から見てもなかなか見事な演説と弁舌でもって、あるじの本家の者まで納得させてみせた。
結果、あるじは晴れて派遣され(これは名誉なことであるらしい)慣れぬ街で仕事と生活に奮闘し、時には祖母上に、そしてあの男に手紙を書き、返事を待つなどしていた。
気心の知れた知り合いがいるわけでもない。最近になってようやく、髪切り娘がひとり顔なじみになったぐらいだ。
そんな日々に届いた祖母上からの手紙である。
ハッカ
「なにか、嫌な知らせでもあったのかね?」
私が問うと、あるじは「だいじょうぶ」と静かに首を振り
「少し、出かけるね。ケトは火の番してていいから」
そう私に言いつけて、すっかり冷めた蜜湯をほったらかしに重たい
そして「バクラウァを作るわ」である。
「ガザミ
そういう両手は籠を抱え、
あるじよ、だいたい手ぶらで出かけたではないか。その籠は、袋は、いったいどうしたのだ。
「いい機会だったから、古物屋さんで買ったわ。あとは、卵でしょ、胡桃、小麦粉、乳脂、お砂糖。
あるじが外套をするすると脱ぎ去って、袖を捲る。
やると言われても、猫の手で何をせよと言うのか。
あるじは料理を好む方ではない。しかし魔法使いである。
白い粉の類は
猫の手にも出番はあるようで(猫の爪は鋭いのである)
丸く形を整えた生地を
「生地、多すぎたわ」
床から伸び上がって(猫はよく伸びるのである)見てみれば、テーブルの上にはあと一回焼くぐらいの量が残っている。
あるじは麦藁色の前髪をかきあげて短く息を吐くと、
「いいわ、もう一度焼くまでよ」
と何かに挑むように言った。
して、この日の夕餉は甘ったるい菓子をたらふく喰うことになったのである。
てらてらと糖蜜で光る、堅く練りあがった
私にとっては、どうにも粉っぽく、べたべたと牙にまとわりついて食べづらい上にいまいちそそられない食物だが、あるじはこの菓子が好物だ。
「意外と上手くいったわ。いわば西部風のバクラウァね」
私が床の上で食べづらい菓子と格闘する間、
私から見えたのは、毛織りの
私はこの身体がどのようにヒトに作用するか心得ているので、あるじの膝とテーブルの隙間へこの身を踊り込ませた。
あるじが驚いて息を飲み、椅子が後ろに傾く。私の重さで持ち直させる。
私の背を時おり水滴が叩く以外は、まったく静かなものだった。
「結婚したんだって。どこかのだれかと」
あるじの手が、私の背中の毛を梳いている。
「私の西部行きを、応援してくれてるんだって思ってたのよ」
「うむ」
「私のやりたいことを熱心に後押ししてくれて、本家が勝手に決めた相手だけど、こういうこともあるんだなって、思ってた」
「うむ」
「せめて、自分で手紙を寄越しなさいよね」
「であるな」
「ほんと、ばっかみたい」
「何を言うか。愚かなのはあの男であるよ。あるじを敵に回すとは」
ややあって、ふふ、とあるじは笑ってみせた。
「──そうね。次に会ったら言ってやるわ」
「なにをかね?」
「猫の爪は鋭い」
魔法を発動させる合い言葉であった。
シェマ・クァタの使い魔としては、かける言葉は一つしかない。
「ざっくりと行き
そうして、バクラウァの夜は終わった。
翌朝、余った菓子を包んであるじは働きに出て、魔法協会支部の受付二人や、算盤担当の眼鏡の男や、魔法使いのまとめ役や、物品庫の老婆らに配ってまわった。
帰りには、髪切り娘の働く
その晩には雪が降り始め、どうにも足元が冷える夜となってあるじは、私をふと見るなり「よいしょ」と私を抱えてベッドに入った。
「あんたが使い魔に来てくれてよかった」
使い魔としては普段の働きこそ褒めてもらいたい所ではあったが、私も暖かく眠れたので、まぁ良しとしよう。
そして今。
私は、船べりに物言わずたたずむあるじの脛に私の身を擦り付ける。私は私の身がヒトにどのように作用するか、よく心得ているのである。
あるじの瞳が私をみた。
「来てよかったわ」
海に目を戻してあるじは言った。
「いろいろあったけど、これからもっと大変そうだけど、新しい人にも、懐かしい人にも会えた」
やれやれ、ようやく話をする気分になったか。
「人目を気にせず酒も飲めたわけであるしな」
「そうね。なんでアヴァツローだと私たちがお酒を飲むだけで文句が出るのかしら」
「酔った誰かが偉い人間のスネでも蹴ったのではないか?」
「……あれはアルルくんが悪いわ。真面目に話してるのに冗談で返すから」
あるじが挑発に乗ってきた。これでしばらくは退屈も紛れるだろう。
なにせ道は長いのだ。
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