第8話

 権限があるってことは、こんなところで私に構ってたら駄目だよね?


「あのね、もう大丈夫だよ。だから――」


 私が全部言い終える前に、ライナス様に抱き込まれてしまった。視界が真っ暗になる。ちょうど彼の胸に頬が当たる。少し急ぎ足の心音が聞こえる。


 顔は汚れていなかったかな。また服を汚してしまったかも。


 感じる温もりにホッとしてしまう。


「もう少しだけ」


 彼の優しい声は私を勘違いさせるのには十分だった。親同士が決めた婚約者以上の関係みたいなんだもん。


 きっと、私を安心させるためのものなのだろう。今だけは勘違いしていても良いよね。


 私は自身に言い聞かせながら、彼の背に手を回した。


 でもね、幸せな時間って長くは続かないものなのよ。


 トントントン。


 馬車の扉を叩く音がする。


 ほらね。


 現実に引き戻されるような音。私は慌てて彼から離れようとした。だけど、ライナス様は違ったようで、腕に力がこもる。


 えっと……どうしたら良いんだろう?


 もがけばもがくほど力が加わっていくことに困惑した。誰か用事があるんだよね? このまま無視するわけにはいかないんじゃないかな? 私は嬉しいよ? でもでも、彼は王太子殿下の剣を下げてここに来てるわけだし……。


 しかし、ライナス様のそれを許さないとばかりに、馬車の扉が開かれた。


「ライナス。そろそろ良いだろう?」


 聞き覚えのある声だった。その声に従って、彼の腕が緩められる。それはもう、渋々といった感じだ。


 私はなんとなく恥ずかしくて俯いたままだったのだけれど、頭に落ちた強い衝撃に思わず声を上げた。


「いっ……たぁ……」


 顔を上げると、お兄様の顔があった。しかも、怒ってる。普段へらへら笑っているお兄様が怒っているのだ。正確には笑顔なんだけど、目が笑っていない。


 頭を押さえながら、後ずさった。


 現状、怒らない方がおかしいのだけれど、あまりにも滲み出る感情に心臓が止まるかと思ったわ。わざわざ迎えに来てくれたのだろうか。


 お兄様はライナス様みたいに王宮で働いていないから、用事があるとしたら私だろう。


「エレナは私が連れて帰るから、ライナスは存分に仕事をしてくるといい」


 ライナス様はなかなか返事をしない。それが、「いやだ」という返事のような気がして、顔が緩みそうになる。いけない。真顔、真顔。


 なんとなく口出ししてはいけない気がして、口をつぐむ。


「ライナス」


 お兄様の本気の苛立ちがたった一言から伝わる。相手は次期公爵様だというのに、いつもお兄様の方が強いのだ。なんでだろう? 歳だって殆ど変わらないじゃない?


「……分かりました。あとはよろしくお願いします。詳しくは明日――」


 ライナス様は言い切る前に、言葉を止めた。そして、私の方を向くと少し不安そうに眉根を寄せる。


 何が何だか分からず、目を瞬かせていると、再び彼が口を開いた。


「明日、会いに行っていい?」

「うん……。明日待っているね」


 ライナス様は私の頭をひと撫でする。そして、名残惜しむこともなく去って行ってしまった。途端、不安でお腹がぎゅっとなる。明日、会いに来てそれからどんな話をするのだろうか。


「さーて、エレナ。ようやく二人きりになれたな。帰りながら、全部話して貰おうかな?」


 一難去ってまた一難。いや、ライナス様と一緒にいれたのはご褒美だから一難ではないか。だけど、これが飴と鞭だとしたら、鞭が怖すぎます……。


 馬車に揺られながら、お兄様に洗いざらい喋らされた。やっぱりお兄様には何も秘密にできない。お茶会でネックレスを踏みつけれたことすら喋っちゃった。ライナス様には秘密にできたのに……。


 昨日お兄様とライナス様の話を盗み聞きしたことは、なんとしても隠したい。ライナス様に盗み聞きしたことがバレてしまうのは嫌だった。


 でも、嘘をつくとすぐにバレるのは経験上分かっているから、ありのままを話した上で『蛇の巣を見つけようと思って着いて行った』という事実だけを言わないことにする。


「なるほどね。マノンに連れられて……ね」

「……うん」

「ふーん。そうか。エレナは怪しいところに軽率に着いて行くようなお馬鹿さんだったか」

「もう! お馬鹿じゃないもん! あれお兄様――」

「ん? 足が長くてかっこいいお兄様がなんだって?」

「……なんでもない。私がお馬鹿さんだっただけ」


 まずい。うっかり言うところだった。


「何を隠しているのかな? 私の可愛い妹は」


 お兄様は私の頰を掴むと、横に引く。ほっぺたが伸びちゃう! これは拷問だ!


「にゃにも! 何も隠してないよ!」

「今回は良いことを教えてあげよう。エレナは隠し事をする時、唇を尖らせる癖があるんだ」


 お兄様は口角を上げると、私の唇に人差し指を置く。慌てて唇を噛み締めたが、時すでに遅し。


「ほら、エレナ。ライナスには秘密にしてあげるから、お兄様に言ってみな? ん?」

「何も……隠してないもん」

「良いのか? このままだと当分外出禁止になるぞ?」

「……嘘っ?!」

「そりゃあ、嫁入り前の危なっかしい娘を好きに外出させられないだろう? 父上と母上ならそう判断するだろうさ」

「そんな……」


 今まで好き勝手に出歩く方ではなかった。なんなら引きこもりだ。だから、あまり痛手ではない。だけど、好んで家にいるのと、外に出られないのは別物なの。


「今、ちゃんと話してくれたら、父上と母上には私から話しておいてあげよう。私だって可愛い妹が不自由なのは見ていられないからね」

「……本当?」

「ああ、本当だ」

「怒らない?」

「ああ、何を聞いても怒らないさ」


 沈黙が馬車の中に広がる。お兄様は笑顔のまま私を見据えた。


 ライナス様には秘密な上に、お父様とお母様に口添えまでしてくれる。破格な対応じゃない?


「あのね……昨日、聞いちゃったの」

「ん? 何を?」

「お兄様とライナス様がお話してるとこ。蛇の巣を探してるって。蛇ってナンシーのところの侯爵の紋章のことでしょ?」

「……お前、盗み聞きしてたのか?」

「違うよ!  ライナス様と話をしようと思って様子を見に行ったの! だけど、真剣に話してたから、声かけられなかっただけ!」


 お兄様の大きなため息が広がる。幸せが逃げちゃうよ。お説教の一つや二つ聞かされるかと思ったのに、お兄様は肩を落としてあからさまに意気消沈気味だ。


「どうしたの?」

「いや、妹の気配に気づけないとは……。いや、お前もノーベンの娘だもんな」

「意味分かんない。お兄様、変」


 お兄様は乱暴に私の頭を撫でると、思いっきり叩いた。


「いったぁ……」


 叩かれるのは二度目だ。そんなに叩かれたら馬鹿になっちゃうよ。


「良いか? それがライナスのためだったとしても、怪しい場所には行くな。お前は女の子なんだから」

「……うん。それは反省してる」


 ちょっと軽率だった。反省しても反省したりない。お兄様はまたぐしゃぐしゃと頭を撫でた。


「エレナ、ライナスとの婚約解消しようか?」


 突然のお兄様の言葉に、私は目を見開くくらいしかできなかった。

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